冷たい月と星天のクロノグラフ

短大を卒業後、就職を機にずっとお世話になっていた木嶋さんと里穂さんのマンションを出て一人暮らしを始めた。

あいつはまだ刑務所の中で、わたしを恨んでいるから養子縁組の解除に同意してくれない。
弁護士費用は安くないから、もうあきらめかけている。



勤務先は小さな造園会社で、事務員はわたしともうひとりパートの主婦で並木さんという女性だけ。仕事は総務から人事から受付からいろいろ。並木さんは車の免許を持っていたから社長が病院へ行く時の送迎もやったりしていた。

社員さんは朝早くに出社してくるとすぐに全員が出て行ってしまうから、基本事務所の中では並木さんとふたりきりになる。
並木さんは仕事が長いだけあって、話しながらも正確に仕事をこなす。
わたしの方は並木さんが作って印刷した見積書をきれいに製本する作業だったから、なんとか会話ができる。

「今年の社長は年末年始をハワイで過ごすんだって」

社長には娘さんが2人いて、上の方の娘さんがハワイ、下の方の娘さんはアメリカに住んでいる。
それで年末年始はアメリカとハワイで毎年交互に過ごしていると聞いていた。

「去年もハワイへ行かれてませんでした?」

「アメリカの冬が寒すぎるから、年末年始に行くのはやめたんだって。どっちにしたって海外で過ごすんだもん、すごいよねぇ」

「そうですね。わたしなんて英語が話せないから絶対に無理です」

「社長だって話せないよはずだよ。『孫が英語で話すから何言ってるのかわからない』って、ぼやいてたもん」

並木さんとは10歳近く歳が離れていたから、友達というよりはお姉さんのような存在だった。

「ねぇ、月埜さんは彼氏出来た?」

「残念ながら縁がないみたいです」

「私に言わないだけで実はいたりする?」

「そんなわけないじゃないですか」

「本当に? でも月埜さんがこの会社に入って2年経つけど、一回もいたって話聞いたことないよね? 若いんだからもっと遊ばないとぉ。結婚したらもう遊べないよ? まぁ、遊んでる人もいるけど。ハウスメーカーの是枝くんは? 電話番号とか聞かれたことない?」

ついに並木さんの手が止まった。
今は体ごとこちらに向けて話している。

「ないですよぉ。並木さんの思い過ごしですって」

「絶対!星埜さんに気があると思うんだけどなぁ。だって大した用があるわけでもないんだから、メールで済ませばいいのに、いっつも事務所までわざわざ来るじゃない」

「たまたまですよ」

「彼は好青年だと思うよ? 顔だって悪くない」

好青年という言い方に笑ってしまった。

「忘れらない人でもいるの? 元カレとか?」

「そんなひといませんよ」


忘れらない人ではなく、忘れなければいけないひとがいるだけ。