偽りの花嫁ー帝都婚姻録ー

 夜会の騒ぎから、幾日かが過ぎた。
 帝都を密かに揺らしていた花嫁失踪事件は、陰陽寮との共同捜査によって表向きには沈静化へ向かい、篠宮千鶴もまた命に別状はなく、数日の静養ののちに実家へ戻されたと聞いた。
 怨霊に取り憑かれていた若い軍人は、陰陽寮で処置を受けているらしい。詳しいことを一が知る立場にはなかったが、景の帰宅時間が少しだけ早くなったことだけで、事件の山は越えたのだろうと察することができた。
 朝霧家の屋敷にも、ようやく静けさが戻り始めていた。
 とはいえ、その静けさは以前のものとは少し違っている。
 景は相変わらず多くを語らず、朝食の席でも軍務のことをほとんど話さなかったが、帰宅すれば一度は一の部屋の前を通り、庭に出ていれば足を止めるようになった。女中を通じて伝えられていた体調への気遣いも、いつの間にか景自身の口から落ちるようになり、一はそのたびに、胸の奥で小さく波立つものを静かに押し殺さなければならなかった。
 関わらないでほしいと、そう願ったのは自分だ。契約が終われば忘れてほしいと告げたのも自分で。それなのに、景がほんの少しこちらへ歩み寄るたび、死んだはずの伊吹が目を覚ましてしまうのだった。

 その日、一は自室の前にある小さな庭へ出ていた。
 朝霧家の庭は広く、手入れも行き届いていたが、屋敷の奥にあるこの一角だけは人目につきにくく、低い木塀に囲まれた静かな場所だった。昼下がりの光は柔らかく、雨のあとの土はほのかに湿り、指先で触れると黒く冷たい匂いが立ちのぼる。
 一は袖をたくし上げ、小さな苗をひとつずつ土へ移していた。
 その花はまだ咲いていない。細い茎と葉ばかりの苗は、華やかな庭木の中では頼りなく見えたが、一にはその姿がひどく懐かしかった。
 伊吹として軍府にいた頃、景の執務室によくこの花を飾っていた。
 景は特に花へ関心を示す人ではなかった。忙しければ花瓶が変わっていることにも気づかず、気づいたところで「またそれか」と言うだけだった。それでも一は、秋が来るたびに必ずこの花を選んだ。書類と軍刀と地図ばかりの部屋に、その淡い紫があるだけで、ほんの少し息ができるような気がしたからだ。
 あの頃は、ただ黙って飾ることだけが、伊吹に許されたささやかな祈りだった。
「何をしている」
 背後から落ちた声に、一は指先についた土を慌てて払った。
 振り返ると、廊下に景が立っていた。軍務から戻ったばかりなのか、軍服の上着はまだ脱いでおらず、白い手袋だけを外した姿でこちらを見下ろしている。
「お帰りなさいませ」
「土をいじっていたのか」
「はい。少しだけ、庭をお借りしてもよろしいでしょうか」
「構わない。お前の部屋の前だ」
 景はそう答えると、庭に視線を落とした。
「……その花は?」
「紫苑です」
「紫苑」
 景がその名を口にすると、庭を渡る風が紫苑の細い茎をそっと揺らした。
 一は返事もできないまま、その横顔を見つめる。
 景は何も言わず、紫苑の苗へ静かに視線を落とした。
「好きなのか」
「……はい」
 それだけを答えるので精一杯だった。
 紫苑を見るたび思い出すものがある。
 朝霧家の執務室へ、季節が巡るたびに飾っていた一輪。書類に目を落とす景の横顔も、夜更けまで灯りの消えない部屋も、その花の向こうにあった。
 だから好きなのだ。
 けれど、その理由だけは口にできない。
 言葉にした瞬間、一という女は消え、香坂伊吹だけが残ってしまう気がして。
 景は静かに頷き、もう一度、紫苑の苗へ目を向けた。
「咲くのか」
「うまく根づけば、いずれ」
「そうか」
 それだけ言って去るのかと思ったが、景はなぜかしばらくそこに立っていた。
 風が庭木を揺らし、紫苑の細い葉がかすかに震える。一は膝をついたまま動けずにいた。景が見ている。それだけで、土を押さえる指先に余計な力が入ってしまう。
「肩は」
 ふいに問われ、一は少し遅れて左肩のことだと気づいた。
「大丈夫です。もう痛みはありません」
「お前の大丈夫は、あまり信用できない」
 静かな声だ。そこに咎める響きはない。
 伊吹として生きていた頃も、景は同じことを口にした。
 傷は浅い。問題ありません。作戦に支障はありません。
 そう言って一が前へ出ようとするたび、景はただこちらを見て、「次は申告しろ」とだけ告げてきた。無理に引き止めることもなければ、問い詰めることもしてこなかったが、彼の目だけは決して誤魔化せなかった。
 だから最後には、いつもこちらが折れるしかなかったのだ。
「……気をつけます」
 一が静かに応じると、景はそっと息を吐いた。
 景は相変わらず表情を変えていない。それでも、その声音だけはどこか穏やかで、不思議なくらい昔と変わらなかった。
 あの頃は気づかなかった。
 毎日のように隣で聞いていたはずなのに、その声がこんなにも優しいものだったなんて。
 胸の奥がふわりと温かくなる。
 いけない、と思う。
 こんな小さな変化を嬉しいと思ってはいけない。契約で結ばれた妻に過ぎない自分が、その声の柔らかさを宝物のように受け取ってはいけない。
「水を運ばせる」
「いえ、このくらいは自分でできます」
「だが、左肩を庇っているだろう」
 一は息を呑んだ。
 景はやはり見ていたのだ。自分でも気づかないほど、土へ手を伸ばす時、左肩の動きが浅くなっていたことを。
「無理をするな」
 景はそれだけ言うと、廊下の向こうへ女中を呼んだ。
 一は庭に膝をついたまま、その横顔を見上げていた。軍神と呼ばれる男は、こういう時ほど無駄な優しさを言葉にしない。ただ必要なものを見て、必要な手を打つ。それだけなのに、その何気なさが胸に沁みた。
 やがて水桶が運ばれ、景はそれを一のそばへ置かせたあと、何事もなかったように書斎へ向かっていった。
 一はしばらく動けなかった。
 紫苑の葉先に、小さな雫が光っている。
 まだ咲いてもいない花を見つめながら、一はそっと土に指を触れた。
 根づいてほしい。自分がいなくなったあとも、この庭で咲いてほしい。この家のどこかに、自分が確かにいたのだと、言葉にできないまま残ってほしい。
 そう願ってしまうことが、ひどく身勝手なことだと分かっていた。
 それでも、この花を植えずにはいられなかった。
 
 季節は、静かに進んでいった。
 景は相変わらず軍務で忙しく、帰宅が深夜になることもあったが、一の部屋の前に植えられた紫苑の苗を見るたび、ほんの一瞬だけ足を止めるようになった。
 そのことに気づいたのは、女中だった。
「旦那様、近頃よく庭をご覧になりますね」
 ある朝、茶を運んできた女中が小さく笑う。
 一は湯呑みを受け取りながら、何でもないふりで答えた。
「紫苑が珍しいのではないでしょうか」
「それだけでしょうか」
 女中は意味ありげに微笑んだ。
 一は返事をせず、庭へ目を向ける。
 紫苑の苗は、初めよりも少し背を伸ばしていた。まだ花は遠い。けれど小さな葉はしっかりと日を受け、風に揺れるたび、ここで生きているのだと告げているようだった。
 その日の午後、南雲宵が朝霧家を訪ねてきた。
 陰陽寮からの報告を携えてきたらしく、景の書斎へ通される途中、庭へ水をやっていた一を見るなり、相変わらず退屈そうな笑みを浮かべた。
「花嫁さん、生きてる?」
「……おかげさまで」
「そっか。つまらないね」
「南雲」
 背後から景の低い声が落ちる。
「帰れ」
「来たばかりなんだけど。君、客人へのもてなしがなってないね」
「お前を客人だと思ったことはない」
「ひどいなあ」
 宵は愉快そうに笑い、それから一の足元に植えられた紫苑へ視線を落とした。
「へえ。紫苑」
 一の指先が、ほんの微かに強張る。
 宵はそれに気づいたのか、気づかなかったのか、眠たげな目を細めた。
「いい花を植えるね、花嫁さん」
「……お好きなのですか」
「僕は花に興味ないよ。花言葉を勝手にありがたがる人間を見るのは、まあ嫌いじゃないけど」
 相変わらずの物言いだ。
 景が無言で宵を見ると、宵は肩をすくめる。
「報告だけ済ませるよ。失踪事件は表向きには片づいた。核になっていた怨霊は祓ったし、花嫁を攫う呪術の筋も潰した。しばらくは静かになる」
「しばらく、か」
「完全に綺麗なものなんて、この帝都にはないからね。君も軍人なら分かるでしょ」
 宵はそう言って、もう一度だけ紫苑を見た。
「枯らさないようにね、花嫁さん」
 それだけを残し、宵は景に促されるまま書斎へ向かった。
 一はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
 枯らさないように。
 ただの花の話だったのか、それとも別の意味があったのかは分からない。
 けれどその言葉は、不思議なほど胸に残った。

 月が替わる頃、一は体調を崩した。
 最初は疲れだと思った。朝の食事に箸が進まず、庭へ出ると少し眩暈がする。女中たちは心配したが、一は大丈夫だと笑っていた。戦場で熱を出した時でさえ、景に隠して報告書を書いていた身である。少しの不調で騒がれることに慣れていなかった。
 だが、景はすぐに医師を呼んだ。
「大げさです」
 一が困ったように言うと、景は書斎へ向かう途中だった足を止め、静かにこちらを見た。
「お前の大丈夫は信用できないと言ったはずだ」
「……覚えていらしたのですか」
「忘れるほど昔ではない」
 それだけの言葉に、一は胸を衝かれる。
 景は何気なく言っただけなのだろう。けれど、その響きは一にとって大きすぎた。
 医師が来たのは、その日の昼過ぎだった。
 脈を診られ、幾つかの問いに答え、女中たちがそわそわと襖の向こうで気配を殺して待つ中、一は畳の上で背筋を伸ばしていた。
 医師はやがて穏やかに笑う。
「おめでとうございます」
 一は瞬きをした。言葉の意味が、すぐに分からなかったからだ。
「お子を授かっておいでです」
 部屋の中の音が、すっと遠のいた。
 お子。自分の中に、景の子がいる。
 契約のために望まれた子。朝霧家の後継ぎ。けれど、それだけではなかった。この身の内に宿った小さな命は、一が景と過ごした夜の確かな証であり、偽りだらけの婚姻の中で、ただひとつ偽りではないものだった。
 気づけば、一は両手をお腹へ添えていた。
 まだ何のふくらみもない。それでも、そこに命がある。
 そう思った瞬間、目の奥が熱くなった。
 景が部屋へ入ってきたのは、それから少ししてのことだった。
 医師から話を聞いたのだろう。いつもと変わらぬ表情でありながら、その足取りは僅かに乱れていた。
 一が立ち上がろうとすると、景が手で制した。
「そのままでいい」
「旦那様」
 景は一の前へ腰を下ろすと、すぐには何も言わず、ただその顔を静かに見つめていた。何かを確かめるような眼差しがゆっくりと一の表情を辿り、その沈黙のあとに落ちてきた言葉は、思いのほか穏やかだった。
「苦しくはないか」
 一は目を瞬く。
 子を授かったことでも、朝霧家に後継ぎができたことでもなく、景が最初に案じたのは自分の身体だった。
「大丈夫です」
 そう答えると、景は困ったように眉を寄せた。
「またそれか」
 その口ぶりが懐かしく感じられて、一は思わず笑みをこぼす。
「本当に、今は大丈夫です」
 景は返事をせず、一を見つめたまま視線を腹部へ移した。
 そこには確かに意識が向いているのに、手だけは伸びてこない。
 触れたいのに、触れてよいものか分からず迷っているのだと気づいた瞬間、一の胸は愛おしいもので満たされた。
 戦場では誰よりも迷わず決断を下してきた人が、まだ姿も見えない小さな命を前にして、こんなふうにためらうことがある。
「……触れますか」
 一がそっと声をかけると、景はゆっくりと顔を上げた。
「いいのか」
「はい」
 頷きを見届けてから、景はようやく手を伸ばす。
 軍刀を握り、数え切れないほど命のやり取りを重ねてきたその手は、壊れものへ触れるような慎重さで、一の腹へ静かに添えられた。まだ命の鼓動が伝わるほどの時期ではない。それでも景は、そこに確かに宿り始めた小さな存在へ敬意を払うように、指先ひとつ動かさなかった。
 一はその手を見つめながら、小さく微笑む。
「この子を、どうか大切にしてください」
 景は一へ視線を戻した。
「当然だ」
 その返事に迷いはない。
 一は安堵したように息をつき、そっと目を細める。
「……よかった」
「なぜ、そんなことを言う」
 問われても、一は微笑みを崩さなかった。
「聞いておきたかっただけです」
 景はしばらく一を見つめていた。
 何か言葉を探していることは伝わってくる。それでも最後まで口を開くことはなく、腹へ添えた手をそっと見つめるその横顔だけが、言葉にならない想いを静かに物語っていた。
 
 それから季節は、ゆっくりと過ぎていった。
 庭の草木が少しずつ伸びるのに合わせるように、一の腹もまた、目に見えて丸みを帯びていった。朝霧家の女中たちは以前にも増して一を気遣い、景は何も言わぬまま、廊下を歩く時の速度をほんの少し落とすようになった。
 重いものへ手を伸ばせば、先に景の手がそれを取る。
 庭へ出ようとすれば、「長くはいるな」と低い声が落ちる。
 夜更けに戻った景が、眠っているはずの一の部屋の前で一度足を止める気配にも、いつしか一は気づくようになっていた。
 幸せだった。
 だからこそ、苦しかった。
 腹の中で小さな命が動くたび、一はその愛しさに息を詰め、同時に、契約の終わりが近づいていることを思い知らされた。
 文机の引き出しには、今も契約書がしまわれている。
 子が生まれた時点で離縁。離縁後の生活は保障する。互いに愛は求めない。
 墨で記された文字は、初めて見た時と何も変わっていない。それなのに、一の心だけが変わってしまった。
 最初は、契約が終われば景の前から消えるだけだと思っていた。
 景の人生から一という女が消え、伊吹は死者のまま眠り続ける。それでよかった。自分は役目を果たし、朝霧家に後継ぎを残し、あとは誰にも知られぬ場所で静かに生きればいい。
 けれど今は、その未来を想像するだけで、胸が裂けそうだった。
 景の隣を離れること。生まれてくる子を、この腕から手放すこと。自分を知らないまま育つ我が子の顔を、遠くから想うだけになること。
 すべて分かっていたはずなのに、命が宿った今になって、その重さが初めて身体へ降りてきた。
 一はそっとお腹へ手を添える。
「ごめんなさい」
 まだ顔も知らぬ小さな命へ、囁く。
「あなたを置いていく母で、ごめんなさい」
 言葉にした瞬間、涙が零れた。
 声を立てて泣くことはできなかった。軍人として生きた癖なのか、香坂家で泣くことを許されなかった記憶のせいなのか、自分でも分からない。ただ涙だけが静かに頬を伝い、膝の上へ落ちていく。
 それでも、一は泣きながら笑った。
「でも、あなたのお父様は、とても強くて、とても優しい方です」
 誰よりも信じている人。
 誰よりも、忘れたくない人。
「だから、きっと大丈夫」
 それは子へ向けた言葉であり、自分へ言い聞かせる言葉でもあった。

 それから季節がひとつ息をつく頃の朝、一は庭へ出ていた。
 紫苑を植えた花壇の前へしゃがみ込み、柄杓からゆっくりと水を注ぐ。懐妊が分かってからというもの、女中たちは何かにつけて身体を案じ、庭へ出ることさえ止めようとした。それでも、水をやるくらいなら大丈夫ですと何度も頼み込み、ようやく許しをもらったのだった。
 濡れた土が静かに水を吸い込み、小さな苗が朝の光を受けて揺れる。
 その時、背後から足音が近づいた。
「また庭か」
 振り返ると、景がこちらを見下ろしていた。
 どこか呆れたように息をつきながらも、その足は自然と一の隣まで歩み寄る。
 一は立ち上がり、小さく頭を下げた。
「おはようございます、旦那様」
 景は短く頷き、まだ花をつけていない紫苑の苗へ静かに視線を落とした。
「毎日世話をしているな」
「はい」
「そんなに好きか」
 一は柄杓を置き、紫苑の葉先に残る雫を見つめた。
「大好きです」
 景がこちらを見た気配がした。
 けれど一は顔を上げなかった。
 この花が好きだと言うことは、過去の自分を肯定することに似ていた。伊吹として景の執務室へ飾り続けた日々も、一としてこの庭へ植えた今も、どちらも嘘ではない。言葉にできなかった想いだけが、紫苑という形を借りて、ずっと自分のそばにあった。
「咲くのが楽しみだ」
 景が静かに言った。
 一は胸の奥を小さく刺されたような気がした。
 咲く頃には、自分はここにいるのだろうか。この人と並んで、紫苑の花を見ることができるのだろうか。
 分からなかった。けれど、先のことは分からない。それでも今は、この声を聞いていたかった。
 一は微笑む。
「私も、楽しみです」
 嘘ではなかった。
 紫苑が咲くのを見たい。景と一緒に見たい。生まれてくる子にも、いつか見せたい。そんなありふれた願いが、胸の内にひとつずつ灯っていく。
 景は今一度目を向け、それから静かに言った。
「咲いたら見せてくれ」
 一は柄杓を握る指に、ほんの少しだけ力を込めた。
「はい」
 穏やかに微笑む。
 その約束を、自分が果たせないかもしれないことだけを知りながら。

 紫苑が咲き始めた頃、一は子を産んだ。
 それからひと月、朝霧家には小さな産声が満ちるようになった。景は不器用ながらもよく子を抱き、一はその横顔を見るたび、この人なら大丈夫だと自分に言い聞かせていた。
 庭の紫苑が咲き揃った朝、一は眠る我が子を腕に抱いた。
「……ごめんね」
 頬を寄せると、赤子は眠たげに身じろぎをする。そのぬくもりを抱きしめた瞬間、一は、自分がこの子を置いていくのだという事実に、胸の奥を静かに裂かれた。
「お父様は、きっとあなたを大切にしてくださるわ」
 声は掠れていた。
「だから、どうか幸せに」
 額へそっと唇を寄せる。涙が一粒、赤子の産着へ落ちた。
 朝霧家には跡継ぎが生まれた。
 契約は、果たされたのだ。

 その朝、景が部屋へ入ってきたのは、赤子がようやく眠りについた後のことだった。
 彼は赤子を見ると、しばらく何も言わなかった。ただ信じられないものを見るように瞳を揺らし、恐る恐るその小さな頬へ指を伸ばした。軍刀を握る手が、今は壊れやすい花へ触れるように震えている。
 一はその横顔を見て、静かに微笑んだ。
 この人なら大丈夫だ。この人なら、きっと。
「旦那様」
 景が顔を上げる。
「お約束の通り、私はお暇いたします」
 その一言で、部屋の空気が止まった。
「……何を言っている」
「子が生まれた時点で離縁する。そういう契約でしたでしょう」
 景の瞳が険しくなる。
「今、その話をする必要はない」
「ございます」
 一は枕元に置いていた小さな風呂敷包みを手に取った。嫁いできた時も、持ち物はほとんどなかった。だから去る時も同じでいい。
「契約が終わりましたら、私のことはお忘れください」
 景は動かなかった。けれどその手が、赤子の産着を握りしめるように強張ったのが分かった。
「忘れろと……本気で言っているのか」
 一は答えられなかった。
 本気だった。そうしなければならないと思っていた。けれど、本当に忘れてほしかったのかと問われれば、もう頷けない。
 障子の外では、紫苑が揺れていた。
 薄紫の花が、秋の光を受けて静かに咲いている。
 一はその花を一度だけ見つめ、立ち上がった。
「どうか、お元気で」
 それだけを残し、一は朝霧家を去った。

 橋のたもとまで来たところで、一は足を止めた。
 朝霧家を出てから、どれほど歩いただろうか。胸に抱いた風呂敷包みは軽く、つい先ほどまで腕の中にあった我が子の温もりだけが、幻のように身体の奥へ残っている。
 秋の空気は冷たく、咲き揃った紫苑を残してきた屋敷の方角を振り返ることはできなかった。
 振り返ってしまえば、もう歩けなくなる。そう思った時、背後から足音が聞こえた。
「——いち」
 呼ばれた瞬間、息が止まった。
 聞き間違えるはずがなかった。十年もの間命令を受け、叱責され、時に名を呼ばれてきた声であり、契約の夫として自分を案じてくれた声でもあった。一は風呂敷包みを抱く指に力を込め、逃げるように目を伏せたが、どうしてもそのまま歩き出すことはできなかった。
「旦那様……どうして」
 振り返った先に、景がいた。
 外套もまとわず、こちらを見つめるその姿に、一は何を言えばいいのか分からなくなった。契約は終わったのだと告げなければならない。戻ることはできないのだと、もう一度突き放さなければならない。けれど景の目を見た瞬間、喉の奥にあった言葉は音もなく崩れていった。
「──お前は、伊吹なのだな」
 静かな声だった。
 一は目を見開いたまま、呼吸の仕方を忘れていた。違います、と答えればいい。私は香坂家の長女ですと、今までと同じ嘘を重ねれば、まだ何かを守れるのかもしれない。
 けれど声が出なかった。
 気づかれてしまったという恐ろしさと、気づいてくれたのだという救いが胸の内で絡まり合い、何を言えばいいのか、どんな顔をしてこの人の前に立てばいいのか、何ひとつ分からなくなる。
 景は懐から紫苑の花を取り出した。
 朝霧家の庭に咲いていた花だった。一が植え、毎日水をやり、咲いたら見せてくれと景が言った、あの薄紫の花。
「……お前のことを忘れた日など、一日たりともない」
 その一言に、一の瞳から涙が零れた。
「……私を追いかけてきたのは、なぜですか?」
 聞いてはいけない問いだと分かっていた。それでも聞かずにはいられなかった。景が追ってきたのは、一という妻を惜しんだからなのか、それとも死んだはずの副官の影を見つけたからなのか。
「腹が立っているからだ」
 景の声は低く、けれど一を責めるものではなかった。
「お前という存在を、道具のように扱った香坂家の連中と、俺自身に」
「旦那様が、なぜ」
「十年も隣にいた。なのに、お前が何を背負っていたのか、何ひとつ気づけなかった」
「違います。わたしが、偽っていたのです」
 女の身でありながら男と偽り、十年もの間誰よりも近くにいて。そして何一つ伝えることが赦されないまま、別人に成り代わって嫁ぎ、今度も黙って去ろうとしていたというのに。
 景は、長い間探していたものをようやく見つけたような表情で、一を見つめている。
「行くな、一」
 その声に、胸の奥が震えた。
「それは、わたしがかつて貴方の部下だった香坂伊吹だからですか?」
「違う。俺がお前と生きたいからだ」
 ほろりと涙が落ちた。
 一粒で終わるはずだったものは、降り出した雨のようにあとからあとから溢れてくる。泣いてはいけないと、何度も思った。伊吹としても、一としても、最後まで静かに去らなければならないと思っていた。
「……わたしは、十年も自分を偽り、貴方を欺いていたのに」
「十年もの間、お前が女であると気づきもしなかった俺が悪い」
「わたしは貴方に、いくつもの嘘を……」
「お前の嘘は誰のことも不幸にしていないだろう」
 景の手が、一の手を掴んだ。
 軍刀を握り、幾度も死地を抜けてきた手だった。けれど今は、一人の女を引き止めるためだけにそこにあり、その温もりに触れた瞬間、一はもう二度と離れたくないと思ってしまった。
「俺と一緒に生きると言ってくれ」
「……旦那様」
「あの子と三人で、共に生きていこう」
 一は涙を溢しながら、咲き誇るような笑みで応えた。
 気恥ずかしそうに差し出された手に、かつて剣を握っていた右手を重ねる。
 硬く握り返したのは、どちらが先だっただろうか。