朝霧家へ嫁いでから、七日が過ぎた。
その七日の間、一と景は、驚くほど静かな夫婦であった。
朝、景は夜明けとともに起き、朝食の席では必要なことだけを告げ、軍務へ向かう。帰宅は夜遅く、大抵は書斎へ籠もり、時折女中を通じて一の体調を気遣う言葉だけを寄越した。
契約の時に交わした通り、必要以上に踏み込んでくることはなく、一もまた、妻としての務め以外では景の前へ出すぎないよう努めていた。
それは、望んだ距離だった。自分が求めた約束だった。
それなのに、廊下の向こうから軍靴の音が聞こえるたび、一は無意識に顔を上げてしまう。食事の席で景が箸を置く音に、疲労の濃さを測ってしまう。女中が「少将閣下は今夜も遅くお戻りになります」と告げれば、胸の奥で、かつて副官として報告を待っていた頃と同じ緊張が目を覚ます。
香坂伊吹は死んだ。何度そう言い聞かせても、十年という歳月は、簡単には身体から抜け落ちてくれなかった。
その日の夕刻、一は女中から、今夜は軍府関係者の夜会へ同行するようにと告げられた。
「夜会、ですか」
思わず聞き返すと、女中は衣桁へかけられた薄紅色の訪問着を整えながら、丁寧に頭を下げた。
「はい。朝霧家の奥方様として、一度はお顔をお見せになった方がよろしいとのことでございます。少将閣下も、今宵はお連れになると」
景が自分を連れていく。ただそれだけのことなのに、一の胸は知らず息を潜めるように強張った。
軍府の関係者が集まる場であるなら、かつて伊吹を知っていた者もいるかもしれない。たとえ女の姿をしていたとしても、所作や言葉の癖を見咎められれば、疑いは生まれる。まして景のそばに立つなど、昔と同じ場所へ戻るようなものだった。
けれど断ることはできない。朝霧家の妻として嫁いだ以上、いずれは避けて通れぬ場であり、何より景がそう決めたのなら、そこには必ず理由があるのだろう。
女中の手で髪を結われながら、一は鏡の中の自分を見つめていた。
男としての伊吹なら、軍服をまとい、軍刀を帯び、景の左後ろ半歩の位置に立てばよかった。誰に視線を向け、誰の言葉を聞き流し、どの扉から退出するのが最短か、何も考えずとも身体が知っていた。
けれど今夜の一は、朝霧景の妻としてそこへ向かう。
軍刀はない。軍服もない。頼れるのは、薄い着物の裾と、笑みを崩さぬための覚悟だけだった。
支度を終え、玄関へ向かうと、景はすでに待っていた。
濃紺の軍服に身を包み、肩章の金糸が灯りを受けて静かに光っている。色素の薄い長い髪は後ろでひとつに束ねられ、白い手袋を嵌めた指先は軍刀の柄へ添えられていた。
戦場で見る姿とは違う。夜会のために整えられたその姿は、隙がなく、近寄りがたく、けれど息を呑むほど美しかった。
景は一の姿を見ると、ほんの一瞬だけ目を止めた。
「体調はどうだ」
「問題ありません」
「人の多い場だ。気分が悪くなったらすぐに言え」
「はい」
返事をすると、景はそれ以上何も言わず、外套を羽織る。その素っ気なさに少し安堵しながらも、一は胸のどこかで、ほんの小さな寂しさを覚えた。
関わらないでほしいと、そう願ったのは自分なのに。
車が夜の帝都を走り出す。
窓の外には、瓦屋根と洋館の影が交互に流れていく。街灯が濡れた石畳を照らし、遠くには朝廷の尖塔が薄い霧の向こうに白く浮かんでいた。
帝都の夜は華やかでありながら、どこか底冷えがする。人々の笑い声や車輪の音の奥に、不吉なものが静かに潜んでいるような気配があった。
「近頃、帝都では花嫁が消えている」
ふいに景が口を開いた。その声に促されるように、一はそっと顔を上げる。
「花嫁、ですか」
「軍関係者へ嫁ぐ予定だった女ばかりだ。婚礼前、あるいは婚礼後間もなく姿を消している。今夜の夜会にも、同じ立場の令嬢が何人か出る」
だから連れていくのだと、一は悟った。屋敷に置いておくより、自分の目の届く場所へ置く方が安全だと景は判断したのだろう。
「私は、囮になるのでしょうか」
思わずそう尋ねると、景は眉を寄せ、しばらく一を見つめていた。
「……違う」
「ですが」
「お前を危険に晒すつもりはない」
低く断ち切るような声だった。一は返す言葉を失い、景は窓の外へ視線を向けたまま、静かに言葉を続ける。
「ただ、朝霧家の者になった以上、お前が狙われる可能性もある。屋敷に閉じ込めるより、同伴させた方がいいと判断したまでだ」
それは、妻への説明というより、かつて副官に作戦の概要を伝えていた時の口調に似ていた。
一は懐かしさに胸を締めつけられながら、静かに頷く。
「承知いたしました」
その返答に、景が一瞬だけこちらを見た。
何かを思い出しかけたような目だった。けれどすぐに、彼は視線を戻す。
「俺のそばを離れるな」
「はい」
かつてなら、了解しました、と答えていた。
今はただ、妻として小さく頭を下げることしかできなかった。
夜会は、軍府にほど近い華族会館で開かれていた。
古い和館を改装した建物に西洋の広間が継ぎ足され、天井からは硝子の灯が幾つも下がっている。磨き上げられた床には着物の裾と洋装の靴音が入り混じり、軍服姿の男たちと華やかな令嬢たちが、穏やかな笑みの裏で互いの家柄や立場を測り合っていた。
景が姿を現すと、広間の空気が微かに変わった。
——軍神、と誰かが囁き、幾つもの視線が集まる。
畏れと憧れと好奇心が、薄い絹のように一の肌へまとわりついた。景はそれらを意に介さず、淡々と挨拶を受け、必要な言葉だけを返していく。その隣に立つ一へも、多くの視線が注がれた。
——亡き香坂伊吹の妹。
——病弱で本家から離れて育った長女。
——朝霧家へ嫁いだ、名も知られぬ花嫁。
人々の囁きは丁寧な微笑みの陰に隠されていたが、一には十分すぎるほど伝わっていた。
「朝霧様の奥方様でいらっしゃいますのね」
柔らかな声に振り向くと、淡い青の着物をまとった令嬢が微笑んでいた。まだ若く、どこか不安げな目をしている。
「はい。先日、朝霧家へ参りました」
「私、篠宮家の千鶴と申します。来月、軍府にお勤めの方へ嫁ぐ予定なのです」
その言葉に、一は景の話を思い出した。
軍関係者へ嫁ぐ予定だった女ばかりが消えている。
千鶴は自分の身に迫るものを知っているのだろうか。笑顔は整っていたが、指先は扇子を握ったままわずかに震えていた。
「ご不安なのですね」
気づけばそう口にしていた。千鶴は目を見開き、それから泣きそうな顔で微笑む。
「……分かってしまいますか」
「ええ」
「家の者は、噂に怯えるなどみっともないと言います。けれど、皆さま急にいなくなってしまって……次は自分かもしれないと思うと、夜も眠れなくて」
一は何も言えなかった。
怖いのは当然だ。それなのに、花嫁となる女たちは、怖いと声に出すことさえ許されない。家のため、婚姻のため、体面のため、黙って微笑むことだけを求められる。
どこか、自分と似ていると思った。
「今夜は、人の多い場所にいらしてください。決して、お一人にならないように」
一の言葉に千鶴が頷いた、その時だった。
「へえ。君が朝霧の花嫁さんか」
甘い声が、横から割って入った。
一は振り向き、思わず息を呑む。
そこに立っていたのは、黒い軍服に似た陰陽寮の制服を纏った青年だった。男とも女ともつかない中性的な美貌。夜を溶かしたような黒髪。眠たげな目元には、笑みが浮かんでいるのに、少しも温かさがない。
南雲宵。陰陽寮を束ねる南雲家の当主であり、帝都の穢れを祓う者。
伊吹として軍にいた頃、一は何度か遠目に見たことがあった。軍府の者でさえ彼の前では声を潜める。美しいが、口が悪く、性格も悪く、笑いながら相手を追い詰める悪鬼のような男だと噂されていた。
宵は一を上から下まで眺めると、にこりと笑った。
「随分と静かな花嫁さんだね。朝霧の隣にいると、普通はもう少し怯えるものだけど」
「南雲」
景の声が低く落ちる。
「余計なことを言うな」
「まだ挨拶しかしてないよ。君は相変わらず心が狭いね」
「お前の挨拶は、大抵失礼だ」
「自覚はあるから安心して」
宵はくすりと笑い、一の顔を覗き込むように首を傾げる。その距離感に、一は反射的に一歩退きそうになったが、どうにか踏みとどまった。ここで軍人のように間合いを取れば、かえって怪しまれるからだ。
「花嫁さん、お名前は?」
一は一瞬、答えに詰まる。
名はない。そう言うわけにもいかず、静かに頭を下げた。
「香坂家の、いち、と申します」
「いち」
宵はその響きを口の中で転がすように繰り返した。
「名前というより番号みたいだね」
景の眉がふと動く。その小さな変化を見つけて、一は微笑んだ。
「家では、そう呼ばれておりましたので」
「ふうん」
宵の目が、ほんの少しだけ細くなる。その視線は肌の下へ滑り込むようだった。身分や装いではなく、もっと奥にあるものを見ようとしている。
陰陽師の目だ。呪いや穢れを見抜く者の、逃げ場のない目。
一の背筋に冷たいものが走った。
宵は何かに気づいたのかもしれない。けれど彼はすぐに、退屈そうな笑みを浮かべ直す。
「まあ、朝霧にはちょうどいいんじゃない。名前が短くて覚えやすい」
「南雲」
「冗談だよ。半分は」
景が無言で睨むと、宵は愉快そうに肩をすくめ、それから一へ視線を戻した。
「近頃、花嫁がよく消える。知ってる?」
「存じております」
「なら気をつけて。軍人の花嫁さんばかり狙われてるから、君もなかなか危ない立場だよ」
軽い口調だったが、その言葉の裏には明らかな警告があった。
「陰陽寮の見立ては」
「怨霊か、呪術の類いだと思ってる」
宵は卓上の飲み物には手もつけず、広間の奥へ視線を流した。
「現場に瘴気が残っていた。人間の欲だけでは、ああいう澱み方はしない。たぶん、誰かが花嫁という形に執着してる。生きた女を攫っているというより、婚姻に向かう女を選んでる感じだね」
「目的は」
「さあ」
宵は笑った。
「僕が犯人なら、もっと趣味よくやる」
「真面目に話せ」
「真面目だよ。性格が悪いだけで」
景は小さく息を吐いた。
この二人は、親しいというより、互いの力量を認めざるを得ない相手なのだろう。言葉は刺々しいが、会話は不思議なほど滞らない。
宵はふいに一を見た。
「大事なら、目を離さない方がいいよ」
その言葉は景に向けられていた。
「君は失ってから気づくのが得意そうだから」
広間の騒めきが、ほんの一瞬、遠のいた気がした。
景の表情は変わらなかった。だが、その横顔に影が差したことを、一は見逃さなかった。
宵はそれ以上何も言わず、ひらりと手を振って人波の向こうへ消えていく。
景はしばらくその背を見ていたが、やがて一へ視線を戻した。
「離れるな」
「はい」
返事をした、その時だった。広間の奥で小さな悲鳴が上がり、一は反射的にそちらへ目を向けた。
人垣の向こう、磨き上げられた床へ扇子がひとつ落ちている。つい先ほどまで千鶴が手にしていたものだ。その持ち主の姿だけが、まるで最初からそこにいなかったかのように見当たらない。
周囲の者たちは、誰かがぶつかって落としたのだろうと笑い合っている。けれど一には、その場の空気が確かに変わったことが分かった。人の気配がひとつ、不自然なほどきれいに途切れている。
「篠宮様が……」
思わず漏れた呟きより早く、景はすでに動き出していた。
「ここにいろ」
短く言い残すと、兵たちへ矢継ぎ早に指示を飛ばし、そのまま広間の奥へ向かっていく。
一は遠ざかる背中を見つめた。
――ここにいろ。それは夫としてではなく、指揮官として下された命令だった。
妻であるなら従うべきなのだろう。けれど、その言葉を聞いた瞬間にはもう、伊吹として積み重ねてきた十年が、身体の奥で静かに目を覚ましていた。
千鶴が扇子を落とした場所。わずかに開いた硝子扉。その先へ続く薄暗い廊下。視線を巡らせるだけで、頭の中ではいくつもの可能性が組み上がっていく。
逃走経路ではない。誘導だ。人目を避け、物音を立てず、夜会のざわめきへ紛れるのなら、庭の東側にある旧棟へ抜けるのが最も早い。
一は静かに息を吸い込み、誰にも気づかれぬよう着物の裾を押さえた。
走り慣れない着物も、足に馴染まない草履も、今はどうでもよかった。
身体はまだ覚えている。人を追う時の呼吸を。危険の気配を読むための静けさを。そして、守るべきものへ誰より早く辿り着くための足運びを。
廊下へ踏み出した瞬間、夜気がひやりと肌を撫で、その冷たさが眠っていた感覚を呼び覚ますように胸の奥へ染み渡った。
庭の木々は月明かりに濡れ、石灯籠の影が地面へ長く伸びている。遠くから夜会の音楽が聞こえるが、こちら側はひどく静かだった。静かすぎるほどに。
夜気は冷たいのに、その一角だけ空気が重かった。目には映らないはずの穢れが、墨を水へ落としたようにじわりと広がり、庭を包む気配を静かに侵している。息を吸うたび、喉の奥へざらりとした違和感が残り、一は思わず足を止めた。
陰陽師でなくとも分かるほど、湿った嫌な気配が漂っている。
旧棟へ続く渡り廊下の先で、千鶴の小さな声が聞こえた。
「いや……離して……」
そこにいたのは、軍服姿の若い男だった。
目は虚ろで、口元だけが歪んで笑っている。千鶴の腕を掴み、暗い部屋の中へ引きずり込もうとしていた。彼の背後には黒い霞のようなものが纏わりつき、まるで誰かの未練が人の身体を借りて動いているようだった。
「お離しください」
一は静かに言った。男はゆっくりと振り返り、その視線が一を捉えた途端、瞳の奥にぞっとするような光が宿った。
「……花嫁」
ぞっとするような声だった。
男のものではない。喉の奥から、別の何かが話している。
「花嫁、花嫁、花嫁……」
千鶴が泣きながら首を振る姿を見て、一は一歩踏み出した。
「篠宮様、こちらへ」
「来るな」
男が唸る。その腕が不自然な速さで動いた。
千鶴へ向けて振り下ろされる手を見た瞬間、一の身体は考えるより先に動いていた。
令嬢らしく、病弱な姫らしく。そんな制約は、悲鳴を上げる誰かの前では何の意味もなかった。
一は千鶴を突き飛ばすように庇い、男の手首を取る。力任せではない。関節の向きに逆らわせ、相手の重心を崩す。軍時代、何度も訓練で繰り返した動きだった。
男の身体が畳へ傾く。しかし次の瞬間、黒い霞が膨れ上がり、男は人の力とは思えぬ勢いで一を弾き飛ばした。
背中が柱へ打ちつけられ、息が詰まる。
それでも一は倒れなかった。倒れれば千鶴が捕まってしまう。それだけは駄目だ。
「逃げてください」
「でも」
「早く」
その声音に、千鶴ははっとしたように立ち上がり、泣きながら廊下へ走る。
一は男と向き合った。
武器はない。軍刀もない。けれど、まだ動ける。
男が再び襲いかかってくる。今度は正面から受けず、半歩だけ身を引き、袖を翻しながら足を払う。着物の裾が乱れ、結い上げた髪がほどけかける。それでも構わなかった。
ただ一つ、誤算があった。
男の背に纏わりつくものは、人の動きではなかった。
崩したはずの体勢が、黒い霞に支えられるように持ち直される。男の手が伸び、一の肩を掴む。左肩の古傷に痛みが走り、視界が白く弾けた。
「っ……」
その時、背後から低い声が落ちた。
「——俺の妻に何をしている」
一が振り向く間もなく、銀の閃きが走る。
景の軍刀が男の腕を弾き、同時に後方から飛んできた札が黒い霞へ貼りついた。じゅ、と濡れた火が消えるような音がして、男の身体から瘴気が引き剥がされる。
「雑だね、朝霧」
廊下の向こうから、宵が面倒そうに歩いてくる。
「僕がいなかったら、その人ごと斬ってたよ」
「お前の札が遅い」
「怖い怖い」
宵は笑いながら指を鳴らした。札から白い炎が上がり、黒い霞が悲鳴のような音を立てて縮んでいく。男は糸が切れたように畳へ崩れ落ちた。
すべては、一瞬の出来事だった。
一は壁へ手をつき、息を整えながら顔を上げる。
景はいつの間にかこちらを見ていた。その眼差しとぶつかった瞬間、一は思わず息を呑む。
怒っている。声はない。表情もほとんど動いていない。それでも、その静かな瞳の奥には、戦場でさえほとんど見たことのない激しい感情が、深く沈んでいた。
「言ったはずだ。ここにいろと」
「申し訳ありません」
「謝罪を求めているんじゃない」
低く抑えた声だった。
一は唇を結び、その声の奥に滲むものを静かに受け止める。
少し離れたところでは、宵が口を挟むこともなく、面白そうに二人を眺めていた。
「なぜ動いた」
景はただ、それだけを問う。
責めるためではない。あの場で一が何を見て、何を考え、命令に背いてまで駆け出したのか。その理由を知ろうとしているようだった。
一は乱れた髪を押さえ、小さく息を整える。
「目の前で助けを求める人を、見捨てることはできませんでした」
景は口を閉ざした。一を見つめる眼差しだけが静かに残り、言葉の途切れた座敷には、重たい沈黙が落ちる。
一は息を詰めた。
(——まずい)
今の答えは、伊吹の口癖と言っていいものだった。
軍服を着ていた頃、景に何度も叱責され、そのたびに飲み込めなかった言葉がある。目の前で助けを求める人を見捨てられませんでした。あの頃の自分なら、迷いなくそう答えていただろう。
けれど今の一は、朝霧景の妻であって、香坂伊吹ではない。それなのに、身体だけでなく言葉まで、かつての自分を覚えている。
景が何かを言いかける。
「……お前は」
一の心臓が、嫌な音を立てた。
景は何かを言いかけ、けれど最後まで口にはしなかった。代わりに、一の乱れた袖を見て、左肩へ目を留める。
「怪我は」
「大事ありません」
「本当にか」
「はい」
昔なら、問題ありません、と答えていた。
一はその言葉を飲み込み、できるだけ妻らしく微笑む。
だが景の目は、そのわずかな違いすら拾おうとしているようだった。
宵がくすりと笑う。
「朝霧」
「何だ」
「君の花嫁さん、なかなか面白いね」
「黙れ」
「嫌だね。僕は面白いものを見るために生きているんだ」
宵は畳に倒れた男を陰陽寮の者たちへ任せながら、一へ視線を向けた。その目はやはり、何かを見透かすようだった。
「花嫁さん」
「……はい」
「君、病弱だと聞いてたけど、足腰がしっかりしてるね」
一の背筋を冷たいものが走る。景も宵へ視線を向けたが、当の宵は何事もなかったかのように、にこりと笑った。
「いいことだよ。健康第一だからね」
絶対に、それだけの意味ではない。けれど宵はそれ以上追及せず、ひらりと手を振る。
「今夜は帰った方がいい。花嫁が二人も倒れたら、僕の仕事が増えるからね」
景は一へ向き直った。
「帰るぞ」
「ですが、篠宮様は」
「保護された。命に別状はない」
「……よかった」
思わず零れた言葉に、景の瞳が微かに揺れる。
一はそれに気づかないふりをした。
帰りの車の中、景はほとんど口を開かなかった。
帝都の夜景が窓の外を流れていく。石畳に落ちる街灯、遠くに響く馬車の音、すれ違う軍用車の影。そのすべてが、ひどく遠く感じられた。
一は膝の上で指を重ね、乱れた呼吸を整える。
左肩が痛む。けれどそれ以上に、景の沈黙が痛かった。
「一」
低く呼ばれ、一は静かに顔を上げた。景は窓の外へ視線を向けたまま、振り返ることなく口を開く。
「次に同じことをすれば、屋敷から出さない」
「……はい」
「助けたいと思うことを責めているわけではない」
景の声は静かだった。
「だが、お前が死ねば意味がない」
一は息を呑んだ。
その言葉を、かつて何度聞いただろう。
伊吹として、無茶をした時。民を助けるために敵陣へ踏み込んだ時。負傷を隠して作戦に戻ろうとした時。
景はいつも、同じように言っていた。お前が死ねば意味がない、と。
「……申し訳ありません」
「謝るな」
景はようやく一を見た。淡い瞳が、夜の車内で静かに光っている。
「自分のことを後回しにしてまで、誰かを守ろうとするな」
一は答えられなかった。
それは、一へ向けられた言葉なのか。
それとも、伊吹の面影へ向けられた言葉なのか。
分からなかった。ただ、景の声の奥にある痛みだけが、まっすぐ胸へ届いてしまう。
「……気をつけます」
ようやくそう答えると、景はそれ以上何も言わなかった。
朝霧家へ戻る頃には、夜はすっかり更けていた。
女中たちが慌てて出迎え、一の乱れた髪や袖を見て息を呑む。景は短く医師を呼ぶよう命じ、それから一を自室まで送った。
廊下の途中、景がふいに足を止めたので、一も立ち止まった。
「今夜の動き」
景は窓の外へ視線を向けたまま、静かに口を開いた。
「誰に習った」
一の胸が大きく脈を打つ。
返事を待つように、辺りには静かな沈黙だけが満ちていた。行灯の灯が柱へ淡い影を落とし、その揺らめきだけが、張りつめた空気をゆっくりと揺らしている。
一は乾いた喉をひとつ飲み込み、胸の奥へ押し込めていた答えを、静かに手繰り寄せた。
「幼い頃、人攫いに遭った後、護身のために習ったのです」
「……護身のため、か」
「はい」
一は静かに頷いた。
景はそれ以上何も言わず、一を見つめたまま沈黙を重ねている。その静けさは思いのほか長く続き、やがて胸の内で何かを飲み込むように、小さく息を吐いた。
「……そうか」
納得したわけではない。それでも今は問いただすつもりはないのだと、その短い一言だけで一には伝わった。
「もう休め」
「はい」
一が深く頭を下げると、景は静かに踵を返し、そのまま部屋をあとにする。
遠ざかっていく背中を見送りながら、一はようやく詰めていた息をそっと吐き出した。
今夜は危うかった。
目の前で人が攫われた瞬間、考えるより先に身体が動き、染みついた癖のまま危険を追ってしまった。口にした言葉も、立ち回りも、景の前で副官として生きてきた十年を隠し切れてはいなかった。
景はまだ気づいていない。
けれど、疑いの芽が生まれてしまえば、この先いつまで隠し通せるか分からない。
一はゆっくりと目を閉じる。
もう二度と、同じ過ちは繰り返してはいけない。
これ以上近づいてはいけない。
これ以上、景の中に伊吹を呼び戻してはいけない。
そう思うのに、景が自分を叱った声も、心配した目も、守るように立った背中も、全部が胸に残って消えない。
部屋へ戻り、襖を閉めたあと、一はそっと左肩へ手を当てた。
古傷が熱を持っている。けれどその痛みよりも、景の言葉の方がずっと深く胸へ刺さっていた。
――お前が死ねば意味がない。
まさかもう一度聞けるとは思っていなかった。
伊吹としてではなく、一として。嘘でできた花嫁として。
一は行灯の灯の前で、しばらく動けなかった。
夜会で乱れた髪が肩へ落ち、薄い影が畳の上に揺れている。
外では風が若葉を鳴らしていた。
もう戻れないはずの十年が、またひとつ、今の自分の中へ戻ってきてしまったような気がした。
その七日の間、一と景は、驚くほど静かな夫婦であった。
朝、景は夜明けとともに起き、朝食の席では必要なことだけを告げ、軍務へ向かう。帰宅は夜遅く、大抵は書斎へ籠もり、時折女中を通じて一の体調を気遣う言葉だけを寄越した。
契約の時に交わした通り、必要以上に踏み込んでくることはなく、一もまた、妻としての務め以外では景の前へ出すぎないよう努めていた。
それは、望んだ距離だった。自分が求めた約束だった。
それなのに、廊下の向こうから軍靴の音が聞こえるたび、一は無意識に顔を上げてしまう。食事の席で景が箸を置く音に、疲労の濃さを測ってしまう。女中が「少将閣下は今夜も遅くお戻りになります」と告げれば、胸の奥で、かつて副官として報告を待っていた頃と同じ緊張が目を覚ます。
香坂伊吹は死んだ。何度そう言い聞かせても、十年という歳月は、簡単には身体から抜け落ちてくれなかった。
その日の夕刻、一は女中から、今夜は軍府関係者の夜会へ同行するようにと告げられた。
「夜会、ですか」
思わず聞き返すと、女中は衣桁へかけられた薄紅色の訪問着を整えながら、丁寧に頭を下げた。
「はい。朝霧家の奥方様として、一度はお顔をお見せになった方がよろしいとのことでございます。少将閣下も、今宵はお連れになると」
景が自分を連れていく。ただそれだけのことなのに、一の胸は知らず息を潜めるように強張った。
軍府の関係者が集まる場であるなら、かつて伊吹を知っていた者もいるかもしれない。たとえ女の姿をしていたとしても、所作や言葉の癖を見咎められれば、疑いは生まれる。まして景のそばに立つなど、昔と同じ場所へ戻るようなものだった。
けれど断ることはできない。朝霧家の妻として嫁いだ以上、いずれは避けて通れぬ場であり、何より景がそう決めたのなら、そこには必ず理由があるのだろう。
女中の手で髪を結われながら、一は鏡の中の自分を見つめていた。
男としての伊吹なら、軍服をまとい、軍刀を帯び、景の左後ろ半歩の位置に立てばよかった。誰に視線を向け、誰の言葉を聞き流し、どの扉から退出するのが最短か、何も考えずとも身体が知っていた。
けれど今夜の一は、朝霧景の妻としてそこへ向かう。
軍刀はない。軍服もない。頼れるのは、薄い着物の裾と、笑みを崩さぬための覚悟だけだった。
支度を終え、玄関へ向かうと、景はすでに待っていた。
濃紺の軍服に身を包み、肩章の金糸が灯りを受けて静かに光っている。色素の薄い長い髪は後ろでひとつに束ねられ、白い手袋を嵌めた指先は軍刀の柄へ添えられていた。
戦場で見る姿とは違う。夜会のために整えられたその姿は、隙がなく、近寄りがたく、けれど息を呑むほど美しかった。
景は一の姿を見ると、ほんの一瞬だけ目を止めた。
「体調はどうだ」
「問題ありません」
「人の多い場だ。気分が悪くなったらすぐに言え」
「はい」
返事をすると、景はそれ以上何も言わず、外套を羽織る。その素っ気なさに少し安堵しながらも、一は胸のどこかで、ほんの小さな寂しさを覚えた。
関わらないでほしいと、そう願ったのは自分なのに。
車が夜の帝都を走り出す。
窓の外には、瓦屋根と洋館の影が交互に流れていく。街灯が濡れた石畳を照らし、遠くには朝廷の尖塔が薄い霧の向こうに白く浮かんでいた。
帝都の夜は華やかでありながら、どこか底冷えがする。人々の笑い声や車輪の音の奥に、不吉なものが静かに潜んでいるような気配があった。
「近頃、帝都では花嫁が消えている」
ふいに景が口を開いた。その声に促されるように、一はそっと顔を上げる。
「花嫁、ですか」
「軍関係者へ嫁ぐ予定だった女ばかりだ。婚礼前、あるいは婚礼後間もなく姿を消している。今夜の夜会にも、同じ立場の令嬢が何人か出る」
だから連れていくのだと、一は悟った。屋敷に置いておくより、自分の目の届く場所へ置く方が安全だと景は判断したのだろう。
「私は、囮になるのでしょうか」
思わずそう尋ねると、景は眉を寄せ、しばらく一を見つめていた。
「……違う」
「ですが」
「お前を危険に晒すつもりはない」
低く断ち切るような声だった。一は返す言葉を失い、景は窓の外へ視線を向けたまま、静かに言葉を続ける。
「ただ、朝霧家の者になった以上、お前が狙われる可能性もある。屋敷に閉じ込めるより、同伴させた方がいいと判断したまでだ」
それは、妻への説明というより、かつて副官に作戦の概要を伝えていた時の口調に似ていた。
一は懐かしさに胸を締めつけられながら、静かに頷く。
「承知いたしました」
その返答に、景が一瞬だけこちらを見た。
何かを思い出しかけたような目だった。けれどすぐに、彼は視線を戻す。
「俺のそばを離れるな」
「はい」
かつてなら、了解しました、と答えていた。
今はただ、妻として小さく頭を下げることしかできなかった。
夜会は、軍府にほど近い華族会館で開かれていた。
古い和館を改装した建物に西洋の広間が継ぎ足され、天井からは硝子の灯が幾つも下がっている。磨き上げられた床には着物の裾と洋装の靴音が入り混じり、軍服姿の男たちと華やかな令嬢たちが、穏やかな笑みの裏で互いの家柄や立場を測り合っていた。
景が姿を現すと、広間の空気が微かに変わった。
——軍神、と誰かが囁き、幾つもの視線が集まる。
畏れと憧れと好奇心が、薄い絹のように一の肌へまとわりついた。景はそれらを意に介さず、淡々と挨拶を受け、必要な言葉だけを返していく。その隣に立つ一へも、多くの視線が注がれた。
——亡き香坂伊吹の妹。
——病弱で本家から離れて育った長女。
——朝霧家へ嫁いだ、名も知られぬ花嫁。
人々の囁きは丁寧な微笑みの陰に隠されていたが、一には十分すぎるほど伝わっていた。
「朝霧様の奥方様でいらっしゃいますのね」
柔らかな声に振り向くと、淡い青の着物をまとった令嬢が微笑んでいた。まだ若く、どこか不安げな目をしている。
「はい。先日、朝霧家へ参りました」
「私、篠宮家の千鶴と申します。来月、軍府にお勤めの方へ嫁ぐ予定なのです」
その言葉に、一は景の話を思い出した。
軍関係者へ嫁ぐ予定だった女ばかりが消えている。
千鶴は自分の身に迫るものを知っているのだろうか。笑顔は整っていたが、指先は扇子を握ったままわずかに震えていた。
「ご不安なのですね」
気づけばそう口にしていた。千鶴は目を見開き、それから泣きそうな顔で微笑む。
「……分かってしまいますか」
「ええ」
「家の者は、噂に怯えるなどみっともないと言います。けれど、皆さま急にいなくなってしまって……次は自分かもしれないと思うと、夜も眠れなくて」
一は何も言えなかった。
怖いのは当然だ。それなのに、花嫁となる女たちは、怖いと声に出すことさえ許されない。家のため、婚姻のため、体面のため、黙って微笑むことだけを求められる。
どこか、自分と似ていると思った。
「今夜は、人の多い場所にいらしてください。決して、お一人にならないように」
一の言葉に千鶴が頷いた、その時だった。
「へえ。君が朝霧の花嫁さんか」
甘い声が、横から割って入った。
一は振り向き、思わず息を呑む。
そこに立っていたのは、黒い軍服に似た陰陽寮の制服を纏った青年だった。男とも女ともつかない中性的な美貌。夜を溶かしたような黒髪。眠たげな目元には、笑みが浮かんでいるのに、少しも温かさがない。
南雲宵。陰陽寮を束ねる南雲家の当主であり、帝都の穢れを祓う者。
伊吹として軍にいた頃、一は何度か遠目に見たことがあった。軍府の者でさえ彼の前では声を潜める。美しいが、口が悪く、性格も悪く、笑いながら相手を追い詰める悪鬼のような男だと噂されていた。
宵は一を上から下まで眺めると、にこりと笑った。
「随分と静かな花嫁さんだね。朝霧の隣にいると、普通はもう少し怯えるものだけど」
「南雲」
景の声が低く落ちる。
「余計なことを言うな」
「まだ挨拶しかしてないよ。君は相変わらず心が狭いね」
「お前の挨拶は、大抵失礼だ」
「自覚はあるから安心して」
宵はくすりと笑い、一の顔を覗き込むように首を傾げる。その距離感に、一は反射的に一歩退きそうになったが、どうにか踏みとどまった。ここで軍人のように間合いを取れば、かえって怪しまれるからだ。
「花嫁さん、お名前は?」
一は一瞬、答えに詰まる。
名はない。そう言うわけにもいかず、静かに頭を下げた。
「香坂家の、いち、と申します」
「いち」
宵はその響きを口の中で転がすように繰り返した。
「名前というより番号みたいだね」
景の眉がふと動く。その小さな変化を見つけて、一は微笑んだ。
「家では、そう呼ばれておりましたので」
「ふうん」
宵の目が、ほんの少しだけ細くなる。その視線は肌の下へ滑り込むようだった。身分や装いではなく、もっと奥にあるものを見ようとしている。
陰陽師の目だ。呪いや穢れを見抜く者の、逃げ場のない目。
一の背筋に冷たいものが走った。
宵は何かに気づいたのかもしれない。けれど彼はすぐに、退屈そうな笑みを浮かべ直す。
「まあ、朝霧にはちょうどいいんじゃない。名前が短くて覚えやすい」
「南雲」
「冗談だよ。半分は」
景が無言で睨むと、宵は愉快そうに肩をすくめ、それから一へ視線を戻した。
「近頃、花嫁がよく消える。知ってる?」
「存じております」
「なら気をつけて。軍人の花嫁さんばかり狙われてるから、君もなかなか危ない立場だよ」
軽い口調だったが、その言葉の裏には明らかな警告があった。
「陰陽寮の見立ては」
「怨霊か、呪術の類いだと思ってる」
宵は卓上の飲み物には手もつけず、広間の奥へ視線を流した。
「現場に瘴気が残っていた。人間の欲だけでは、ああいう澱み方はしない。たぶん、誰かが花嫁という形に執着してる。生きた女を攫っているというより、婚姻に向かう女を選んでる感じだね」
「目的は」
「さあ」
宵は笑った。
「僕が犯人なら、もっと趣味よくやる」
「真面目に話せ」
「真面目だよ。性格が悪いだけで」
景は小さく息を吐いた。
この二人は、親しいというより、互いの力量を認めざるを得ない相手なのだろう。言葉は刺々しいが、会話は不思議なほど滞らない。
宵はふいに一を見た。
「大事なら、目を離さない方がいいよ」
その言葉は景に向けられていた。
「君は失ってから気づくのが得意そうだから」
広間の騒めきが、ほんの一瞬、遠のいた気がした。
景の表情は変わらなかった。だが、その横顔に影が差したことを、一は見逃さなかった。
宵はそれ以上何も言わず、ひらりと手を振って人波の向こうへ消えていく。
景はしばらくその背を見ていたが、やがて一へ視線を戻した。
「離れるな」
「はい」
返事をした、その時だった。広間の奥で小さな悲鳴が上がり、一は反射的にそちらへ目を向けた。
人垣の向こう、磨き上げられた床へ扇子がひとつ落ちている。つい先ほどまで千鶴が手にしていたものだ。その持ち主の姿だけが、まるで最初からそこにいなかったかのように見当たらない。
周囲の者たちは、誰かがぶつかって落としたのだろうと笑い合っている。けれど一には、その場の空気が確かに変わったことが分かった。人の気配がひとつ、不自然なほどきれいに途切れている。
「篠宮様が……」
思わず漏れた呟きより早く、景はすでに動き出していた。
「ここにいろ」
短く言い残すと、兵たちへ矢継ぎ早に指示を飛ばし、そのまま広間の奥へ向かっていく。
一は遠ざかる背中を見つめた。
――ここにいろ。それは夫としてではなく、指揮官として下された命令だった。
妻であるなら従うべきなのだろう。けれど、その言葉を聞いた瞬間にはもう、伊吹として積み重ねてきた十年が、身体の奥で静かに目を覚ましていた。
千鶴が扇子を落とした場所。わずかに開いた硝子扉。その先へ続く薄暗い廊下。視線を巡らせるだけで、頭の中ではいくつもの可能性が組み上がっていく。
逃走経路ではない。誘導だ。人目を避け、物音を立てず、夜会のざわめきへ紛れるのなら、庭の東側にある旧棟へ抜けるのが最も早い。
一は静かに息を吸い込み、誰にも気づかれぬよう着物の裾を押さえた。
走り慣れない着物も、足に馴染まない草履も、今はどうでもよかった。
身体はまだ覚えている。人を追う時の呼吸を。危険の気配を読むための静けさを。そして、守るべきものへ誰より早く辿り着くための足運びを。
廊下へ踏み出した瞬間、夜気がひやりと肌を撫で、その冷たさが眠っていた感覚を呼び覚ますように胸の奥へ染み渡った。
庭の木々は月明かりに濡れ、石灯籠の影が地面へ長く伸びている。遠くから夜会の音楽が聞こえるが、こちら側はひどく静かだった。静かすぎるほどに。
夜気は冷たいのに、その一角だけ空気が重かった。目には映らないはずの穢れが、墨を水へ落としたようにじわりと広がり、庭を包む気配を静かに侵している。息を吸うたび、喉の奥へざらりとした違和感が残り、一は思わず足を止めた。
陰陽師でなくとも分かるほど、湿った嫌な気配が漂っている。
旧棟へ続く渡り廊下の先で、千鶴の小さな声が聞こえた。
「いや……離して……」
そこにいたのは、軍服姿の若い男だった。
目は虚ろで、口元だけが歪んで笑っている。千鶴の腕を掴み、暗い部屋の中へ引きずり込もうとしていた。彼の背後には黒い霞のようなものが纏わりつき、まるで誰かの未練が人の身体を借りて動いているようだった。
「お離しください」
一は静かに言った。男はゆっくりと振り返り、その視線が一を捉えた途端、瞳の奥にぞっとするような光が宿った。
「……花嫁」
ぞっとするような声だった。
男のものではない。喉の奥から、別の何かが話している。
「花嫁、花嫁、花嫁……」
千鶴が泣きながら首を振る姿を見て、一は一歩踏み出した。
「篠宮様、こちらへ」
「来るな」
男が唸る。その腕が不自然な速さで動いた。
千鶴へ向けて振り下ろされる手を見た瞬間、一の身体は考えるより先に動いていた。
令嬢らしく、病弱な姫らしく。そんな制約は、悲鳴を上げる誰かの前では何の意味もなかった。
一は千鶴を突き飛ばすように庇い、男の手首を取る。力任せではない。関節の向きに逆らわせ、相手の重心を崩す。軍時代、何度も訓練で繰り返した動きだった。
男の身体が畳へ傾く。しかし次の瞬間、黒い霞が膨れ上がり、男は人の力とは思えぬ勢いで一を弾き飛ばした。
背中が柱へ打ちつけられ、息が詰まる。
それでも一は倒れなかった。倒れれば千鶴が捕まってしまう。それだけは駄目だ。
「逃げてください」
「でも」
「早く」
その声音に、千鶴ははっとしたように立ち上がり、泣きながら廊下へ走る。
一は男と向き合った。
武器はない。軍刀もない。けれど、まだ動ける。
男が再び襲いかかってくる。今度は正面から受けず、半歩だけ身を引き、袖を翻しながら足を払う。着物の裾が乱れ、結い上げた髪がほどけかける。それでも構わなかった。
ただ一つ、誤算があった。
男の背に纏わりつくものは、人の動きではなかった。
崩したはずの体勢が、黒い霞に支えられるように持ち直される。男の手が伸び、一の肩を掴む。左肩の古傷に痛みが走り、視界が白く弾けた。
「っ……」
その時、背後から低い声が落ちた。
「——俺の妻に何をしている」
一が振り向く間もなく、銀の閃きが走る。
景の軍刀が男の腕を弾き、同時に後方から飛んできた札が黒い霞へ貼りついた。じゅ、と濡れた火が消えるような音がして、男の身体から瘴気が引き剥がされる。
「雑だね、朝霧」
廊下の向こうから、宵が面倒そうに歩いてくる。
「僕がいなかったら、その人ごと斬ってたよ」
「お前の札が遅い」
「怖い怖い」
宵は笑いながら指を鳴らした。札から白い炎が上がり、黒い霞が悲鳴のような音を立てて縮んでいく。男は糸が切れたように畳へ崩れ落ちた。
すべては、一瞬の出来事だった。
一は壁へ手をつき、息を整えながら顔を上げる。
景はいつの間にかこちらを見ていた。その眼差しとぶつかった瞬間、一は思わず息を呑む。
怒っている。声はない。表情もほとんど動いていない。それでも、その静かな瞳の奥には、戦場でさえほとんど見たことのない激しい感情が、深く沈んでいた。
「言ったはずだ。ここにいろと」
「申し訳ありません」
「謝罪を求めているんじゃない」
低く抑えた声だった。
一は唇を結び、その声の奥に滲むものを静かに受け止める。
少し離れたところでは、宵が口を挟むこともなく、面白そうに二人を眺めていた。
「なぜ動いた」
景はただ、それだけを問う。
責めるためではない。あの場で一が何を見て、何を考え、命令に背いてまで駆け出したのか。その理由を知ろうとしているようだった。
一は乱れた髪を押さえ、小さく息を整える。
「目の前で助けを求める人を、見捨てることはできませんでした」
景は口を閉ざした。一を見つめる眼差しだけが静かに残り、言葉の途切れた座敷には、重たい沈黙が落ちる。
一は息を詰めた。
(——まずい)
今の答えは、伊吹の口癖と言っていいものだった。
軍服を着ていた頃、景に何度も叱責され、そのたびに飲み込めなかった言葉がある。目の前で助けを求める人を見捨てられませんでした。あの頃の自分なら、迷いなくそう答えていただろう。
けれど今の一は、朝霧景の妻であって、香坂伊吹ではない。それなのに、身体だけでなく言葉まで、かつての自分を覚えている。
景が何かを言いかける。
「……お前は」
一の心臓が、嫌な音を立てた。
景は何かを言いかけ、けれど最後まで口にはしなかった。代わりに、一の乱れた袖を見て、左肩へ目を留める。
「怪我は」
「大事ありません」
「本当にか」
「はい」
昔なら、問題ありません、と答えていた。
一はその言葉を飲み込み、できるだけ妻らしく微笑む。
だが景の目は、そのわずかな違いすら拾おうとしているようだった。
宵がくすりと笑う。
「朝霧」
「何だ」
「君の花嫁さん、なかなか面白いね」
「黙れ」
「嫌だね。僕は面白いものを見るために生きているんだ」
宵は畳に倒れた男を陰陽寮の者たちへ任せながら、一へ視線を向けた。その目はやはり、何かを見透かすようだった。
「花嫁さん」
「……はい」
「君、病弱だと聞いてたけど、足腰がしっかりしてるね」
一の背筋を冷たいものが走る。景も宵へ視線を向けたが、当の宵は何事もなかったかのように、にこりと笑った。
「いいことだよ。健康第一だからね」
絶対に、それだけの意味ではない。けれど宵はそれ以上追及せず、ひらりと手を振る。
「今夜は帰った方がいい。花嫁が二人も倒れたら、僕の仕事が増えるからね」
景は一へ向き直った。
「帰るぞ」
「ですが、篠宮様は」
「保護された。命に別状はない」
「……よかった」
思わず零れた言葉に、景の瞳が微かに揺れる。
一はそれに気づかないふりをした。
帰りの車の中、景はほとんど口を開かなかった。
帝都の夜景が窓の外を流れていく。石畳に落ちる街灯、遠くに響く馬車の音、すれ違う軍用車の影。そのすべてが、ひどく遠く感じられた。
一は膝の上で指を重ね、乱れた呼吸を整える。
左肩が痛む。けれどそれ以上に、景の沈黙が痛かった。
「一」
低く呼ばれ、一は静かに顔を上げた。景は窓の外へ視線を向けたまま、振り返ることなく口を開く。
「次に同じことをすれば、屋敷から出さない」
「……はい」
「助けたいと思うことを責めているわけではない」
景の声は静かだった。
「だが、お前が死ねば意味がない」
一は息を呑んだ。
その言葉を、かつて何度聞いただろう。
伊吹として、無茶をした時。民を助けるために敵陣へ踏み込んだ時。負傷を隠して作戦に戻ろうとした時。
景はいつも、同じように言っていた。お前が死ねば意味がない、と。
「……申し訳ありません」
「謝るな」
景はようやく一を見た。淡い瞳が、夜の車内で静かに光っている。
「自分のことを後回しにしてまで、誰かを守ろうとするな」
一は答えられなかった。
それは、一へ向けられた言葉なのか。
それとも、伊吹の面影へ向けられた言葉なのか。
分からなかった。ただ、景の声の奥にある痛みだけが、まっすぐ胸へ届いてしまう。
「……気をつけます」
ようやくそう答えると、景はそれ以上何も言わなかった。
朝霧家へ戻る頃には、夜はすっかり更けていた。
女中たちが慌てて出迎え、一の乱れた髪や袖を見て息を呑む。景は短く医師を呼ぶよう命じ、それから一を自室まで送った。
廊下の途中、景がふいに足を止めたので、一も立ち止まった。
「今夜の動き」
景は窓の外へ視線を向けたまま、静かに口を開いた。
「誰に習った」
一の胸が大きく脈を打つ。
返事を待つように、辺りには静かな沈黙だけが満ちていた。行灯の灯が柱へ淡い影を落とし、その揺らめきだけが、張りつめた空気をゆっくりと揺らしている。
一は乾いた喉をひとつ飲み込み、胸の奥へ押し込めていた答えを、静かに手繰り寄せた。
「幼い頃、人攫いに遭った後、護身のために習ったのです」
「……護身のため、か」
「はい」
一は静かに頷いた。
景はそれ以上何も言わず、一を見つめたまま沈黙を重ねている。その静けさは思いのほか長く続き、やがて胸の内で何かを飲み込むように、小さく息を吐いた。
「……そうか」
納得したわけではない。それでも今は問いただすつもりはないのだと、その短い一言だけで一には伝わった。
「もう休め」
「はい」
一が深く頭を下げると、景は静かに踵を返し、そのまま部屋をあとにする。
遠ざかっていく背中を見送りながら、一はようやく詰めていた息をそっと吐き出した。
今夜は危うかった。
目の前で人が攫われた瞬間、考えるより先に身体が動き、染みついた癖のまま危険を追ってしまった。口にした言葉も、立ち回りも、景の前で副官として生きてきた十年を隠し切れてはいなかった。
景はまだ気づいていない。
けれど、疑いの芽が生まれてしまえば、この先いつまで隠し通せるか分からない。
一はゆっくりと目を閉じる。
もう二度と、同じ過ちは繰り返してはいけない。
これ以上近づいてはいけない。
これ以上、景の中に伊吹を呼び戻してはいけない。
そう思うのに、景が自分を叱った声も、心配した目も、守るように立った背中も、全部が胸に残って消えない。
部屋へ戻り、襖を閉めたあと、一はそっと左肩へ手を当てた。
古傷が熱を持っている。けれどその痛みよりも、景の言葉の方がずっと深く胸へ刺さっていた。
――お前が死ねば意味がない。
まさかもう一度聞けるとは思っていなかった。
伊吹としてではなく、一として。嘘でできた花嫁として。
一は行灯の灯の前で、しばらく動けなかった。
夜会で乱れた髪が肩へ落ち、薄い影が畳の上に揺れている。
外では風が若葉を鳴らしていた。
もう戻れないはずの十年が、またひとつ、今の自分の中へ戻ってきてしまったような気がした。


