偽りの花嫁ー帝都婚姻録ー

 朝霧家との顔合わせを終え、香坂家の屋敷へ戻った時には、帝都の空に薄く夕映えが差していた。
 雨上がりの庭はしっとりと濡れ、踏み石の縁に溜まった雫が、暮れかけた光を受けて小さく瞬いている。女中に導かれるまま奥の離れへ戻った(いち)は、襖が閉じられた瞬間、ようやく肺の奥に詰めていた息を静かに吐き出した。
 畳の上へ膝をついたまま、しばらく動けなかった。
 ——朝霧景。十年ものあいだ、背中を預け続けた人。
 誰よりも冷静で、誰よりも厳しく、けれど戦場では必ず部下を生かす道を選ぶ男。帝都軍の者たちは彼を軍神と呼び、敵はその名だけで怯え、味方でさえ近寄りがたい存在として遠巻きにしたが、伊吹だけは知っていた。彼が決して神などではなく、痛みも迷いも胸の奥へ押し込め、ただ誰よりも多くのものを背負って立ち続けている、一人の人間であることを。
 その人の前で、今日、自分は名もない女として頭を下げた。
 彼は気づかなかった。気づかれてはいけなかったのだから、それでよかったはずなのに、胸の奥には、安堵とも寂しさともつかないものが静かに沈んでいた。
「お一様、お召し替えを」
 控えていた女中が遠慮がちに声をかける。
 一は小さく頷き、結い上げられた髪へ手を伸ばした。女中の手で簪が抜かれ、黒髪が肩へ落ちていく。その重みすら、まだ自分のものではないようだった。
 香坂伊吹として生きていた頃、髪はいつも短く整えていた。
 軍帽の下に収まりやすいように。男として疑われぬように。任務の邪魔にならぬように。幼い頃からずっとそう教えられ、そうすることに疑問を持ったこともなかった。
 香坂家に男子が生まれなかったため、自分は嫡男として育てられた。
 女として生まれたことは、家の中でさえ不都合な事実だった。物心ついた頃にはすでに男児の装いを与えられ、剣を握り、軍学を学び、香坂家の跡継ぎとして振る舞うことだけを求められていた。泣けば弱いと言われ、笑えば軽いと言われ、痛みを訴えれば香坂の嫡男に相応しくないと叱責された。
 それでも、伊吹という名だけはあった。
 男として生きるための名。香坂家の跡継ぎとして与えられた、役割のための名。
 その名を呼ばれるたび、少なくとも自分はそこに存在していた。朝霧景の副官として戦場に立ち、命令を聞き、時に進言し、時に叱責され、時に隣で夜明けを迎えた。名を呼ばれれば振り返ることができ、呼ぶ者が景であれば、その声だけで次に必要なことが分かった。
 だが、その伊吹はもう死んだ。継母が男子を産んだ日から、香坂家に伊吹は不要となった。
 正式な跡継ぎが生まれた以上、女である自分を男として置いておく理由はない。まして帝国軍で景の副官を務めていた事実など、露見すれば香坂家の名に傷がつく。
 父は怒りもしなかった。ただ当然のことのように、明日から軍へは戻らなくてよいと言い、数日後には香坂伊吹が病で死んだことになった。
 棺の中には、誰が入っていたのだろう。
 一は知らない。知ることも許されなかった。
 女中が帯を解く。藤鼠の着物が肩から滑り落ち、白い襦袢の下で、長く隠してきた身体が鏡に映る。男として生きるために鍛えられた肩、剣を握り続けた指、戦場でついた細かな傷。どれも、病弱で人目を避けて育った令嬢には不似合いなものばかりだった。
「一様」
 その呼び名に、一は鏡の中で目を伏せた。
 嫁ぐにあたり、香坂家は新たな筋書きを用意した。
 香坂家には病弱ゆえ幼い頃から本家を離れ、遠方の別邸で静養していた長女がいた。その長女が、朝霧家へ嫁ぐ。名はない。病弱で表に出ることもなかった娘に、名など必要ないということなのか、家の者は昔から彼女を一の姫と呼んでいたことにした。
 一。
 番号のような呼び名。
 姫という言葉を添えられても、それは名ではなかった。
 けれど今の自分に許されたものは、それだけだった。
 香坂伊吹は死んだ。香坂家の娘には名がない。ならば、今ここにいる自分は、一と呼ばれるしかない。
 女中が去ったあと、一は畳の上に置かれた古い木箱を開けた。そこには、香坂家の者たちに見つからぬよう隠しておいた、帝国軍時代の古い手袋が入っている。軍服も軍刀も取り上げられたが、これだけは処分される前に密かに残したものだった。
 革はすでに少し硬くなり、指先には細かな傷が残っている。
 景の副官として最後に使った手袋だ。それはもう二度と身につけることはない。
 一はそれを両手で包み、額へそっと押し当てた。
 ——忘れてください。今日、景にそう告げたが、あれは景を困らせるための言葉ではない。伊吹という男を死者のままにするための、そして一という女が朝霧家から去ったあと、景の人生に余計な影を落とさぬための言葉だった。
 景は伊吹を忘れていない。顔合わせの席で彼と目が合った瞬間、それが分かった。あの人はいつも通り冷静な顔をしていたけれど、ほんの一瞬、目の奥に戦場でさえ見せたことのない痛みを浮かべていた。
 それは自分が与えたのだ。生きているのに死んだことにされ、目の前にいるのに名乗ることもできない自分が。
 だからせめて、これ以上景の中に残りたくなかった。

 朝霧家へ嫁ぐ日は、思っていたよりも早く訪れた。
 白無垢をまとった自分の姿を鏡で見た時、一はそこに誰がいるのか分からなかった。男として軍服をまとっていた頃よりも柔らかく、香坂家の娘として恥じぬよう整えられた姿は、たしかに女のものだったが、それは自分自身というより、誰かが丹念に作り上げた人形のようだった。
 朝霧家の屋敷は、軍人の家らしく質実で、しかし華族の本邸としての品格も備えていた。
 婚礼の儀は滞りなく終わり、祝言の席で景は一度も余計なことを言わなかった。ただ必要な時に杯を取り、必要な時に一へ目を向ける。その無駄のない所作があまりにも懐かしく、一は何度も、隣に座る自分の手が軍服の袖を探しそうになるのを堪えた。
 夜が深まり、夫婦の寝室へ通された時、屋敷の中は不思議なほど静かだった。
 行灯の明かりが、畳の上へ淡い金色を落としている。遠くで庭木が風に揺れる音がした。
 初夜という言葉が持つ生々しさに、一は怯えていないつもりだった。契約は理解している。妻として果たすべき役目も、これから自分が何を求められるのかも分かっている。
 けれど、相手が景であることだけが、一の心を静かに乱した。
 十年、誰より近くにいた。けれどそれは、戦友としての距離だ。
 隣に立ち、背中を預け、公私を共にしてきた相手に、女として触れられる日が来るなど、誰が想像できるだろうか。
 襖の向こうで足音が止まる。
 一は自然と背筋を伸ばした。
「入るぞ」
「はい」
 景は軍服ではなく、簡素な着流し姿だった。色素の薄い長い髪を緩く後ろで束ね、昼間よりも幾分か柔らかな佇まいをしている。それでも、部屋へ入ってくるだけで空気が静かに張り詰めるような存在感は変わらなかった。
 景は一を見ると、しばらく黙っていた。
「顔色が悪い」
「……緊張しているだけです」
「無理をする必要はない。契約とはいえ、今日でなければならない理由はない」
 その言葉に、一は思わず顔を上げた。
 景は冷たい人ではない。誰よりもそれを知っている。
 だからこそ困った。
 突き放される方が、きっと楽だった。契約だと言い切り、後継ぎだけが必要だと告げた男が、それでも目の前の女の体調を案じる。その小さな優しさに触れるたび、自分の中の伊吹が、景のそばへ戻ろうとしてしまう。
「大丈夫です」
 一は静かに答えた。
「私は、朝霧様と交わした契約を果たすために参りました」
 景の目がそっと細められる。
「……そうか」
 それ以上、景は何も言わなかった。
 明かりが揺れ、衣擦れの音だけが部屋に満ちる。景の手が一の襟元へ触れた時、その指先は思っていたよりも慎重だった。戦場で軍刀を握る手とは違う、壊れ物を扱うような触れ方に、一は息を詰める。
 白い襦袢が肩から落ちる。
 その瞬間、景の手が止まった。
「……その傷は」
 一の身体が、反射的に強張った。
 景の視線は、左肩から背へかけて斜めに走る古い刀傷へ向けられていた。それは戦場で負ったものだ。しかし、女として生まれた身体に、この傷はあまりにも目立つ。
 景は指先で触れはしなかった。
 ただ、静かな眼差しで見ていた。
 景は傷の形を読む男だ。どの角度から刃が入ったか、相手がどの位置にいたか、どの程度の深さだったか、見ただけでおおよそのことは分かってしまう。下手な嘘をつけば疑われる。
 一は一度だけ唇を結び、顔を伏せた。
「幼い頃、人攫いに遭ったことがございます」
 景は何も言わない。
「その時に、抵抗して……斬られました」
「人攫い」
「はい」
 声が震えぬよう、ゆっくりと言葉を選んだ。
「病弱だったから人前へ出なかったのではありません。傷物であることを知られぬよう、家が隠していたのです」
 景は何も言わなかった。怒りでも同情でもない。ただ目の前のものを静かに見極めようとする眼差しだけが、一へ向けられていた。
「……誰がお前にそんなことを」
「……事実ですので」
「傷があることと、傷物であることは違うだろう」
 一は息を呑んだ。
 景の声音は低く、不快感が滲んでいた。自分に向けられたものではない。傷を持つ女を傷物と呼ぶ、その価値観そのものへ向けられたものだと分かった瞬間、一の胸の奥がどうしようもなく熱くなる。
 この人は、そういう人だった。戦場でも、傷を負った兵を役立たずとは言わなかった。生きて戻ったならそれでいい、次に必要な場所を探せとだけ告げる人だった。
 何も変わっていない。景は景のままだ。だからこそ、一はますます、自分の名を呼びそうになる。
「……旦那様」
 かろうじてそれだけを口にすると、景は静かに一の瞳を見つめ返した。
 その眼差しには、女として値踏みする色も、契約だからと義務を急ぐ焦りもない。ただ目の前にいる一人の人間の心を確かめようとするような、静かな温度だけがあった。
「……すまない」
 思いがけない謝罪に、一は小さく首を振る。
「謝らないでください」
「傷に気づいてしまった」
「隠していたわけではありません」
「それでも、お前には思い出したくないことだったかもしれない」
 その言葉に、一は思わず目を伏せた。
 景は昔からそうだった。傷を負った兵に対しても、「痛いか」とは尋ねない。無理はするな、とだけ告げる。相手が口にしたくないことを無理に聞き出さず、必要以上に踏み込まない。だから兵たちは彼を恐れながらも信じたのだ。
 そして伊吹もまた、その一人だった。
「……大丈夫です」
 一は静かに答えた。
「この傷も、今の私の一部ですから」
 景は何も言わず、小さく頷く。
 そして、一の肩へ掛かっていた襦袢を乱さぬよう指先で整え直した。その所作は驚くほど穏やかで、まるで傷そのものを労わるようだった。
 一はその手を見つめる。幾度となく軍刀を握り、帝都を守ってきた手を。血に濡れた兵を抱き起こし、倒れた部下を助け、戦場では誰よりも迷いなく命令を下してきた手を。
 その手が今、自分へ触れるたびに、これまで知らなかった優しさを伝えてくる。
「……怖いか」
 再び問われ、一は少しだけ微笑んだ。
「いいえ」
 その答えは先ほどとは違っていた。
「少し、不思議なだけです」
「何が」
「旦那様が……こんなにも、お優しい方だったことが」
「優しくした覚えはないが」
「ございます」
 一はそっと笑みを零した。
「だから、皆様は旦那様についていくのです」
 景は返す言葉を失ったように黙り込む。
 軍神と呼ばれ、誰からも畏れられる男は、自分が誰かにそんなふうに見られているとは思ってもいないのだろう。
 その沈黙がどこか可笑しくて、一は胸の奥に温かなものが灯るのを感じた。
 景はゆっくりと一へ近づき、その距離を確かめるように頬へ触れる。
 白く長い指先が頬をなぞり、そのまま肩へ流れ落ちる黒髪へ静かに触れた。
 絹糸のような髪が、さらりと指の間を滑り落ちていく。
 景はその感触を確かめるように、しばらく何も言わなかった。
「……どうかなさいましたか」
 一がおそるおそる尋ねると、景は我に返ったように手を離す。
「いや」
 短く答え、それきり口を閉ざす。
 それでもなお、一を見つめる眼差しには、説明のつかない戸惑いが滲んでいた。
「……妙だな」
「何が、でしょうか」
「どこか、懐かしい」
 一の鼓動が、大きく跳ねた。
(——違います。懐かしいのではありません。私は、十年ものあいだ、あなたの隣にいました。あなたの背を追い、命令を受け、同じ戦場を駆け、同じ夜明けを迎えてきたのです)
 その言葉は喉元まで込み上げ、それでも静かに飲み込む。
「……きっと、お兄様に似ているのでしょう」
 ようやく絞り出した声は、驚くほど穏やかだった。
 景はそっと目を伏せる。
「ああ……そうかもしれないな」
 納得したように頷いたその横顔を見て、一は胸の奥がきりりと痛むのを感じた。
 部屋には再び静かな沈黙が流れる。
 行灯の光が揺れ、障子越しに月明かりが淡く差し込んでいた。
 一はゆっくりと目を閉じる。
 これは契約だ。そこに愛はなく、子を授かれば終わる婚姻である。
 その事実は何一つ変わらない。それでも景は、一を急かすことなく、何度も表情を確かめ、痛みはないかと気遣いながら、その夜を静かに重ねていった。
 互いの体温が少しずつ近づき、重ねられた手が離れることなく夜は更けていく。
 窓の外では風が若葉を揺らし、遠くで水琴窟の澄んだ音が一度だけ響いた。
 やがて、すべてが静けさへ溶けていく頃、一は景の腕の中でそっと瞼を閉じた。
 契約は果たされた。
 けれど心のどこかでは、それ以上の何かが静かに芽吹いてしまったことを、一だけはもう知っていた。
 ――この人を、これ以上好きになってはいけない。
 契約が終われば、自分は消える。
 景の記憶からも、人生からも。
 だから今だけは、この温もりを胸の奥へしまっておこう。
 そう決めたはずなのに、眠りへ落ちる直前、一の頬を撫でた景の指先は胸が痛むほど優しく、その温もりだけは、忘れようとしても決して忘れられない気がした。