香坂伊吹が死んでから、半年が過ぎていた。
帝都に降る春の雨は、戦場の雨よりもずっと柔らかい。硝子窓を濡らす雫は細く、街路樹の若葉を洗い、遠く演習場から響いてくる号令さえ淡く霞ませているというのに、朝霧景の胸の内にだけは、あの日の冷たい雨音がまだ消えずに残っていた。
執務机の上には、処理を待つ書類が整然と積まれている。副官が替わってからというもの、書類の山は以前よりいくらか高くなった気がしたが、それは新しい副官の能力が低いからではなく、かつて景の隣にいた男が、あまりにも過不足なく物事を片づける人間だったからだと分かっていた。
——香坂伊吹。その名を胸の内で呼ぶたび、景は今でもほんの一瞬だけ、次の間から軍靴の音が返ってくるような錯覚を覚える。
伊吹は無駄口を叩かない男だった。必要な報告は簡潔に、進言は的確に、景がまだ言葉にしていない命令でさえ、視線の動きやわずかな沈黙から読み取り、気づけばすでに先回りして動いている。
十年という歳月は、人ひとりの存在を習慣に変えるには十分すぎるほど長く、だからこそ景は、伊吹がいなくなった今もなお、会議の席で隣の椅子が空いていることに慣れず、廊下の角を曲がるたび、そこにあの細身の軍服姿を探してしまう。
伊吹が残した書類の癖さえ、景はまだ覚えていた。余白の取り方、報告の順序、景が問う前に必要な数字だけを抜き出しておく几帳面さ。新しい副官の書類に不備があるわけではないが、目を通すたび、景は無意識に足りないものを探してしまう。
人ひとりがいなくなっただけで、世界はこれほど扱いづらくなるものなのか。
そう思うたび、景は己の弱さを嗤いたくなった。
人は死ぬ。軍人である以上、それはとうに理解していた。
だが、理解していることと受け入れられることは別だった。
香坂家から届いた知らせは簡素だった。
——香坂伊吹、病にて死去。葬儀は家内にて執り行う。
そう記された書状を読んだ時、景はしばらく文字の意味を理解できなかった。戦場で弾に倒れたのなら、まだ分かる。任務の途中で命を落としたのなら、怒りや後悔の向け先もあった。けれど、昨日までそこにいた男が、病などという景の知らぬものに奪われたと告げられても、ただひどく出来の悪い冗談を聞かされているようで、悲しみさえ遅れてやってきた。
葬儀の日、棺の中の顔は白布で隠されていた。
香坂家の者たちは、病で面変わりが激しいためだと説明した。武門の名家として名高い香坂家らしい、礼を失わぬ静かな葬儀だったが、その静けさがかえって薄気味悪く、景は焼香を終えたあとも、胸の奥に収まりきらない違和感を抱えたまま帰るしかなかった。
それでも、死んだのだと言われれば、死んだのだろう。
いくら受け入れがたくとも、棺があり、位牌があり、香の匂いがあり、伊吹の名を刻んだ墓がある以上、景にできることは何もなかった。
「閣下」
襖の向こうから控えめな声がかかり、景は閉じていた報告書へ視線を落としたまま、「入れ」と短く答えた。
新しい副官はまだ若く、伊吹ほどの沈着さはないものの、余計なことを言わぬだけの分別はあった。青年は襖を開けると、畳の縁を踏まぬよう几帳面に膝をつき、景の表情を窺うことなく一礼する。
「お時間でございます」
景は筆を置き、軍服の袖口を整えながら立ち上がった。
今日は軍務ではない。朝霧家当主として、果たさねばならない務めがある。
縁談。その二文字は、景にとって戦場の砲声よりもなお煩わしいものだった。朝霧家の重臣たちは、ここ数年、顔を合わせるたびに同じ話を繰り返している。帝都軍最強と謳われる朝霧景が、いつまでも独り身では家が立ち行かぬ。朝霧家の血を繋ぐ後継ぎが必要だ。軍神と呼ばれる身であろうと、当主である以上、家の務めから逃れることは許されない。
言っていることは正しい。正しいからこそ、景はなおさら苛立たしかった。
妻が欲しいわけではない。愛などというものを望んでいるわけでもない。けれど朝霧家を絶やすわけにはいかず、ならば必要なのは、家を継ぐ子だけだった。
そこに情は要らない。情を持てば、人は弱くなる。そう思ったのは、いつからだっただろうか。
景は長い外套を肩へかけ、廊下へ出た。磨き込まれた板敷きに軍靴の音が低く響く。廊下の先では朝霧家の使いが頭を下げて待っており、その向こうに停められた黒塗りの車の窓には、雨に煙る帝都の街並みが歪んで映っていた。
「相手は、香坂家の令嬢だったな」
車へ乗り込む直前、景がそう尋ねると、副官は一瞬だけ目を上げ、すぐに書類で確認するように答えた。
「はい。香坂家のご長女にございます。幼い頃より病弱であったため、本家から離れた別邸にて静養されていたとか」
「伊吹に妹がいたことは聞いている」
もっとも、伊吹本人の口から聞いたわけではない。
あの男は、自分の話をしなかった。家族のことも、生家のことも、何を好み何を嫌うかさえ、必要以上には語らない。ただ、景の隣に立ち、景の命令を受け、景が生き残るために必要な道を無言で選び続けた。
妹がいるなら、なぜ一度も話さなかったのか。そう思いかけて、景は窓の外へ視線を逸らした。
死んだ人間に、今さら問い質せることなどないのだから。
朝霧家の本邸へ着く頃には、雨は上がっていた。
湿った庭石の上に薄日が差し、濡れた木々の葉先から雫がぽたりぽたりと落ちている。客間へ向かう廊下には香が焚かれ、奥座敷にはすでに香坂家当主とその夫人、そして件の娘が通されているという。
景は襖の前で一度だけ足を止めた。
この場で伝えるべきことは決まっている。
結婚は受ける。ただし、愛は与えない。必要なのは後継ぎのみで、子が生まれれば離縁する。その後の生活は朝霧家が責任を持って保障する。
冷酷だと思われても構わなかった。むしろ、最初からはっきり告げておく方が互いのためであり、余計な期待を抱かせぬことこそ、景にできる唯一の誠実さだと思っていた。
襖が開かれる。柔らかな春の光が差し込む座敷の奥で、一人の女が静かに座っていた。
景はその横顔を見た瞬間、呼吸の仕方を忘れた。
黒髪を低く結い、淡い藤鼠の着物に身を包んだ姿は、華美ではないが、背筋の伸びた立ち姿ならぬ座り姿だけで、育ちの良さと芯の強さを感じさせる。
女にしては背が高いのだろう。伏せた睫毛は長く、輪郭には女性らしい柔らかさがあるのに、わずかに顎を引く角度、膝の上に置いた指先の揃え方、物音に反応して目だけを静かに動かす癖が、あまりにも記憶の中の男に似ていた。
(——伊吹)
声に出しかけ、景は喉元でその名を押し殺した。
違う、目の前にいるのは女だ。香坂家の長女であり、伊吹の妹だ。そう理解しているのに、座敷へ足を踏み入れるわずかな間、景は死者の面影に捕らわれ、まるで半年前の葬儀で棺の中へ置き去りにしてきた何かが、突然目の前に戻ってきたような錯覚を覚えていた。
「朝霧閣下。本日はお時間をいただき、誠に恐れ入ります」
香坂家当主が穏やかに頭を下げる。その隣で夫人も品よく微笑んでいたが、景の視線は自然と、畳へ手をついたまま深く礼をしている女へ向かっていた。
「こちらが、娘でございます。病弱ゆえ長く人前へは出しておりませんでしたが、朝霧家へお迎えいただけるのであれば、これ以上の誉れはございません」
女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、春の雨に洗われた空気のように澄んでいた。華やかさで人を惹きつける美しさではない。ただ静かにそこへ在るだけで、不思議と視線を離せなくなる。
景は知らず、息を止めていた。
「香坂家長女にございます」
名は告げられなかった。それが奇妙だと思うより先に、景はその声に意識を奪われた。伊吹よりも柔らかく、女の声としては低い。けれど、言葉の切り方が似ている。必要な分だけを差し出し、それ以上は踏み込ませない、あの距離の取り方に。
景は向かいへ腰を下ろした。
香坂家当主が形式ばった挨拶を続けようとしたが、景はそれを手で制し、女の方だけを見た。
「先に伝えておく」
女はそっと瞬きをしただけで、逃げるように目を伏せることも、怯えるように肩を揺らすこともしなかった。
「この婚姻は契約だ。朝霧家は後継ぎを必要としているが、俺自身に妻を迎える意思はなく、誰かを愛するつもりもない」
その一言は、穏やかに流れていた座敷の空気に、小さな波紋を落とした。
香坂家の夫人が息を呑んだ気配がしたが、女だけは景の言葉を正面から受け止め、波ひとつ立たぬ水面のような静けさを湛えていた。
「子が生まれれば、その時点で離縁する。離縁後の住まいと生活に必要なものは、朝霧家が用意しよう。お前に妻としての情を求めることはない代わりに、こちらからも夫としての情を与えることはない」
口にした条件が冷酷であることは、景も承知していた。
普通の令嬢であれば、怒るか、傷つくか、少なくともその場で言葉を失うだろう。家同士の婚姻とはいえ、面と向かって「必要なのは後継ぎだけだ」と告げられれば、多少なりとも誇りを傷つけられて当然だ。
だが、女は取り乱さなかった。悲しむことも、怒ることも、縋ることもしない。
ただ静かに景を見つめ、すべてを聞き終えたあと、ほんの少しだけ頭を下げた。
「承知いたしました」
迷いのない返答だった。その潔さは景の予想を軽々と越え、返すべき言葉が喉元で止まる。
「……意味は分かっているのか」
「はい。朝霧家に必要なのは後継ぎであり、私はそのために嫁ぐのだと理解しております」
女は淡々と答えた。その声はどこまでも静かで、景を責める色も、自分を憐れむ響きもなかった。ただ与えられた運命を受け止め、それでも前へ進もうとする者だけが持つ静けさが、言葉の奥に息づいていた。
景は女を見つめ、その瞳を静かに細めた。
妙な女だ。そう思ったはずなのに、その静かな眼差しが、なぜか胸から離れなかった。
かつて伊吹も、理不尽な作戦を前にした時ほどよく似た顔をしていた。嫌だとも、無理だとも言わず、ただ必要なものを見極め、最短で目的を果たすための道だけを選ぶ、あの静かな目だった。
景はその連想を振り払うように息を吐いた。
「異論はあるか」
これで終わると思っていた。
女は黙って頷き、香坂家当主が安堵の笑みを浮かべ、婚姻の日取りだけが淡々と決められていく。景はそう想定していたし、その方が互いに面倒も少ないはずだった。
しかし女は、景の予想に反して、そこでゆっくりと顔を上げた。
「では、私からも二つだけお願いがございます」
座敷に落ちた沈黙は、先ほどまでのものとは質が違っていた。
香坂家当主が驚いたように娘を見て、夫人が小さく眉を寄せた。景は黙って女を見つめ、その願いを待った。金か、屋敷か、離縁後の身分保障か、あるいは夫婦として最低限の優しさを求めるのか。どれであっても、景は応じるつもりだった。
けれど女は、少しも欲の滲まない目で、まっすぐ景を見た。
「私は、妻としての役目は果たします」
「ああ」
「ですが、それ以外では、どうか私に関わらないとお約束ください」
景はほんの一瞬、その言葉の意味を取り違えたのかと思った。
関わらないでほしい。
女は確かにそう言った。妻として嫁ぐ相手に、夫婦らしい情を求めるどころか、自分から距離を置くよう求めてきたのだ。
景は返事を忘れ、目の前の女を見つめた。
これまで縁談の席で向けられてきた視線を思い出す。朝霧家の名に惹かれる者、軍神という肩書きに憧れる者、美貌を褒めそやしながら夫としての愛情を期待する者、あるいは恐れと打算を隠しきれぬ者。誰もが景から何かを得ようとしていた。家名でも、子でも、庇護でも、愛でも、何かしらを。
なのに、この女は違った。景が差し出すより先に、景から遠ざかるための条件を口にした。
それは拒絶の言葉であるはずなのに、不思議と不快ではなかった。むしろ、自分が握っていたはずの契約の主導権を、静かな指先で横から抜き取られたような感覚があり、景は久しく覚えたことのない戸惑いを抱いた。
「……お前は、それでいいのか」
問うつもりのなかった言葉が、口をついて出た。
女はほんの少しだけ、微笑んだように見えた。
「はい。私は朝霧様に愛されるために嫁ぐのではございませんので」
その一言は、丁寧で従順な響きをしていながら、景の胸の内へ静かに刃を差し入れてくるようだった。
愛されるために嫁ぐのではない。そう言い切る女の横顔は、不幸を受け入れた娘というより、何かを守るために自分の望みを切り捨てた者の顔に近かった。
景はその表情を知っている気がした。戦場で撤退命令を受けた伊吹が、救えなかった者たちの名を一つも口にせず、ただ「承知しました」とだけ答えた時の横顔に、どこか似ていた。
「もう一つは」
景が促すと、女は一度だけ膝の上の指先を握り、それからすぐにほどいた。その小さな仕草を、景は見逃さなかった。
「契約が終わりましたら、私のことはお忘れください」
今度こそ、景はすぐに返事ができなかった。
普通なら、忘れないでほしいと願うのではないのだろうか。たとえ愛のない婚姻であっても、一度は妻となる相手に、ほんの少しでも自分の痕跡を残したいと考えるものではないかと思う。
けれど女は、まるで自分という存在そのものを最初から消すつもりでいるかのように、契約が終われば忘れてくれと願った。
その言葉を聞いた瞬間、景の胸の奥で、半年前から動かずにいた何かがかすかに軋んだ。
(——忘れる)
忘れろと言われて忘れられるものなら、景はとうに伊吹のいない日々に慣れている。空いた椅子へ目を向けることも、廊下の足音に振り返ることも、書類の文字に小さく失望することもなくなっているはずだった。
だが、忘れられない。忘れたいと思ったことさえない。死者の記憶ですら消せずにいる景へ、目の前の女は、これから自分を忘れろと言う。
「……奇妙な願いだな」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
「そうでしょうか」
「普通は、逆を願うものだろう」
「朝霧様に覚えていていただく理由が、私にはございません」
その返答に、景は再び黙った。
理由がない。そんなことを、どうしてこの女はこれほど静かに言えるのだろう。
己の価値を知らぬ者の言葉なのか、それとも、すでに自分を誰かの記憶に残すことを諦めている者の言葉なのか、景には判じることができなかった。ただ、その穏やかすぎる諦念が、どうしようもなく胸に障った。
香坂家当主が慌てて取り繕うように笑う。
「娘は、長く人前に出ず育ちましたゆえ、少々変わったところがございまして。どうかお気になさらず」
景はその言葉を聞き流し、女だけを見ていた。
確かにそうだ。だが、ただ世間知らずなだけではない。
目の前の女は、愛されぬ契約結婚を突きつけられても揺らがず、むしろ自ら景との間に線を引き、最後にはその記憶からさえ消えたいと願った。そのどれもが景の想定を外れていたはずなのに、不可解さの奥にある静けさだけが、なぜか懐かしい。
「いいだろう」
景はゆっくりと答えた。
「その二つ、約束する」
女は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
感謝されるようなことではない。そう思いながらも、景はその言葉を口にしなかった。
契約は成立した。妻を必要としない男と、関わらないでほしいと願う女。後継ぎが生まれた時点で終わる、愛のない婚姻。
それだけのはずだった。それだけで済むはずだった。
けれど景は、座敷を辞したあともなお、雨上がりの庭に満ちる青い匂いの中で、耳の奥に残り続けている彼女の声を思い返していた。
胸の内に生まれた小さな違和感に、まだ名前はない。
帝都に降る春の雨は、戦場の雨よりもずっと柔らかい。硝子窓を濡らす雫は細く、街路樹の若葉を洗い、遠く演習場から響いてくる号令さえ淡く霞ませているというのに、朝霧景の胸の内にだけは、あの日の冷たい雨音がまだ消えずに残っていた。
執務机の上には、処理を待つ書類が整然と積まれている。副官が替わってからというもの、書類の山は以前よりいくらか高くなった気がしたが、それは新しい副官の能力が低いからではなく、かつて景の隣にいた男が、あまりにも過不足なく物事を片づける人間だったからだと分かっていた。
——香坂伊吹。その名を胸の内で呼ぶたび、景は今でもほんの一瞬だけ、次の間から軍靴の音が返ってくるような錯覚を覚える。
伊吹は無駄口を叩かない男だった。必要な報告は簡潔に、進言は的確に、景がまだ言葉にしていない命令でさえ、視線の動きやわずかな沈黙から読み取り、気づけばすでに先回りして動いている。
十年という歳月は、人ひとりの存在を習慣に変えるには十分すぎるほど長く、だからこそ景は、伊吹がいなくなった今もなお、会議の席で隣の椅子が空いていることに慣れず、廊下の角を曲がるたび、そこにあの細身の軍服姿を探してしまう。
伊吹が残した書類の癖さえ、景はまだ覚えていた。余白の取り方、報告の順序、景が問う前に必要な数字だけを抜き出しておく几帳面さ。新しい副官の書類に不備があるわけではないが、目を通すたび、景は無意識に足りないものを探してしまう。
人ひとりがいなくなっただけで、世界はこれほど扱いづらくなるものなのか。
そう思うたび、景は己の弱さを嗤いたくなった。
人は死ぬ。軍人である以上、それはとうに理解していた。
だが、理解していることと受け入れられることは別だった。
香坂家から届いた知らせは簡素だった。
——香坂伊吹、病にて死去。葬儀は家内にて執り行う。
そう記された書状を読んだ時、景はしばらく文字の意味を理解できなかった。戦場で弾に倒れたのなら、まだ分かる。任務の途中で命を落としたのなら、怒りや後悔の向け先もあった。けれど、昨日までそこにいた男が、病などという景の知らぬものに奪われたと告げられても、ただひどく出来の悪い冗談を聞かされているようで、悲しみさえ遅れてやってきた。
葬儀の日、棺の中の顔は白布で隠されていた。
香坂家の者たちは、病で面変わりが激しいためだと説明した。武門の名家として名高い香坂家らしい、礼を失わぬ静かな葬儀だったが、その静けさがかえって薄気味悪く、景は焼香を終えたあとも、胸の奥に収まりきらない違和感を抱えたまま帰るしかなかった。
それでも、死んだのだと言われれば、死んだのだろう。
いくら受け入れがたくとも、棺があり、位牌があり、香の匂いがあり、伊吹の名を刻んだ墓がある以上、景にできることは何もなかった。
「閣下」
襖の向こうから控えめな声がかかり、景は閉じていた報告書へ視線を落としたまま、「入れ」と短く答えた。
新しい副官はまだ若く、伊吹ほどの沈着さはないものの、余計なことを言わぬだけの分別はあった。青年は襖を開けると、畳の縁を踏まぬよう几帳面に膝をつき、景の表情を窺うことなく一礼する。
「お時間でございます」
景は筆を置き、軍服の袖口を整えながら立ち上がった。
今日は軍務ではない。朝霧家当主として、果たさねばならない務めがある。
縁談。その二文字は、景にとって戦場の砲声よりもなお煩わしいものだった。朝霧家の重臣たちは、ここ数年、顔を合わせるたびに同じ話を繰り返している。帝都軍最強と謳われる朝霧景が、いつまでも独り身では家が立ち行かぬ。朝霧家の血を繋ぐ後継ぎが必要だ。軍神と呼ばれる身であろうと、当主である以上、家の務めから逃れることは許されない。
言っていることは正しい。正しいからこそ、景はなおさら苛立たしかった。
妻が欲しいわけではない。愛などというものを望んでいるわけでもない。けれど朝霧家を絶やすわけにはいかず、ならば必要なのは、家を継ぐ子だけだった。
そこに情は要らない。情を持てば、人は弱くなる。そう思ったのは、いつからだっただろうか。
景は長い外套を肩へかけ、廊下へ出た。磨き込まれた板敷きに軍靴の音が低く響く。廊下の先では朝霧家の使いが頭を下げて待っており、その向こうに停められた黒塗りの車の窓には、雨に煙る帝都の街並みが歪んで映っていた。
「相手は、香坂家の令嬢だったな」
車へ乗り込む直前、景がそう尋ねると、副官は一瞬だけ目を上げ、すぐに書類で確認するように答えた。
「はい。香坂家のご長女にございます。幼い頃より病弱であったため、本家から離れた別邸にて静養されていたとか」
「伊吹に妹がいたことは聞いている」
もっとも、伊吹本人の口から聞いたわけではない。
あの男は、自分の話をしなかった。家族のことも、生家のことも、何を好み何を嫌うかさえ、必要以上には語らない。ただ、景の隣に立ち、景の命令を受け、景が生き残るために必要な道を無言で選び続けた。
妹がいるなら、なぜ一度も話さなかったのか。そう思いかけて、景は窓の外へ視線を逸らした。
死んだ人間に、今さら問い質せることなどないのだから。
朝霧家の本邸へ着く頃には、雨は上がっていた。
湿った庭石の上に薄日が差し、濡れた木々の葉先から雫がぽたりぽたりと落ちている。客間へ向かう廊下には香が焚かれ、奥座敷にはすでに香坂家当主とその夫人、そして件の娘が通されているという。
景は襖の前で一度だけ足を止めた。
この場で伝えるべきことは決まっている。
結婚は受ける。ただし、愛は与えない。必要なのは後継ぎのみで、子が生まれれば離縁する。その後の生活は朝霧家が責任を持って保障する。
冷酷だと思われても構わなかった。むしろ、最初からはっきり告げておく方が互いのためであり、余計な期待を抱かせぬことこそ、景にできる唯一の誠実さだと思っていた。
襖が開かれる。柔らかな春の光が差し込む座敷の奥で、一人の女が静かに座っていた。
景はその横顔を見た瞬間、呼吸の仕方を忘れた。
黒髪を低く結い、淡い藤鼠の着物に身を包んだ姿は、華美ではないが、背筋の伸びた立ち姿ならぬ座り姿だけで、育ちの良さと芯の強さを感じさせる。
女にしては背が高いのだろう。伏せた睫毛は長く、輪郭には女性らしい柔らかさがあるのに、わずかに顎を引く角度、膝の上に置いた指先の揃え方、物音に反応して目だけを静かに動かす癖が、あまりにも記憶の中の男に似ていた。
(——伊吹)
声に出しかけ、景は喉元でその名を押し殺した。
違う、目の前にいるのは女だ。香坂家の長女であり、伊吹の妹だ。そう理解しているのに、座敷へ足を踏み入れるわずかな間、景は死者の面影に捕らわれ、まるで半年前の葬儀で棺の中へ置き去りにしてきた何かが、突然目の前に戻ってきたような錯覚を覚えていた。
「朝霧閣下。本日はお時間をいただき、誠に恐れ入ります」
香坂家当主が穏やかに頭を下げる。その隣で夫人も品よく微笑んでいたが、景の視線は自然と、畳へ手をついたまま深く礼をしている女へ向かっていた。
「こちらが、娘でございます。病弱ゆえ長く人前へは出しておりませんでしたが、朝霧家へお迎えいただけるのであれば、これ以上の誉れはございません」
女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、春の雨に洗われた空気のように澄んでいた。華やかさで人を惹きつける美しさではない。ただ静かにそこへ在るだけで、不思議と視線を離せなくなる。
景は知らず、息を止めていた。
「香坂家長女にございます」
名は告げられなかった。それが奇妙だと思うより先に、景はその声に意識を奪われた。伊吹よりも柔らかく、女の声としては低い。けれど、言葉の切り方が似ている。必要な分だけを差し出し、それ以上は踏み込ませない、あの距離の取り方に。
景は向かいへ腰を下ろした。
香坂家当主が形式ばった挨拶を続けようとしたが、景はそれを手で制し、女の方だけを見た。
「先に伝えておく」
女はそっと瞬きをしただけで、逃げるように目を伏せることも、怯えるように肩を揺らすこともしなかった。
「この婚姻は契約だ。朝霧家は後継ぎを必要としているが、俺自身に妻を迎える意思はなく、誰かを愛するつもりもない」
その一言は、穏やかに流れていた座敷の空気に、小さな波紋を落とした。
香坂家の夫人が息を呑んだ気配がしたが、女だけは景の言葉を正面から受け止め、波ひとつ立たぬ水面のような静けさを湛えていた。
「子が生まれれば、その時点で離縁する。離縁後の住まいと生活に必要なものは、朝霧家が用意しよう。お前に妻としての情を求めることはない代わりに、こちらからも夫としての情を与えることはない」
口にした条件が冷酷であることは、景も承知していた。
普通の令嬢であれば、怒るか、傷つくか、少なくともその場で言葉を失うだろう。家同士の婚姻とはいえ、面と向かって「必要なのは後継ぎだけだ」と告げられれば、多少なりとも誇りを傷つけられて当然だ。
だが、女は取り乱さなかった。悲しむことも、怒ることも、縋ることもしない。
ただ静かに景を見つめ、すべてを聞き終えたあと、ほんの少しだけ頭を下げた。
「承知いたしました」
迷いのない返答だった。その潔さは景の予想を軽々と越え、返すべき言葉が喉元で止まる。
「……意味は分かっているのか」
「はい。朝霧家に必要なのは後継ぎであり、私はそのために嫁ぐのだと理解しております」
女は淡々と答えた。その声はどこまでも静かで、景を責める色も、自分を憐れむ響きもなかった。ただ与えられた運命を受け止め、それでも前へ進もうとする者だけが持つ静けさが、言葉の奥に息づいていた。
景は女を見つめ、その瞳を静かに細めた。
妙な女だ。そう思ったはずなのに、その静かな眼差しが、なぜか胸から離れなかった。
かつて伊吹も、理不尽な作戦を前にした時ほどよく似た顔をしていた。嫌だとも、無理だとも言わず、ただ必要なものを見極め、最短で目的を果たすための道だけを選ぶ、あの静かな目だった。
景はその連想を振り払うように息を吐いた。
「異論はあるか」
これで終わると思っていた。
女は黙って頷き、香坂家当主が安堵の笑みを浮かべ、婚姻の日取りだけが淡々と決められていく。景はそう想定していたし、その方が互いに面倒も少ないはずだった。
しかし女は、景の予想に反して、そこでゆっくりと顔を上げた。
「では、私からも二つだけお願いがございます」
座敷に落ちた沈黙は、先ほどまでのものとは質が違っていた。
香坂家当主が驚いたように娘を見て、夫人が小さく眉を寄せた。景は黙って女を見つめ、その願いを待った。金か、屋敷か、離縁後の身分保障か、あるいは夫婦として最低限の優しさを求めるのか。どれであっても、景は応じるつもりだった。
けれど女は、少しも欲の滲まない目で、まっすぐ景を見た。
「私は、妻としての役目は果たします」
「ああ」
「ですが、それ以外では、どうか私に関わらないとお約束ください」
景はほんの一瞬、その言葉の意味を取り違えたのかと思った。
関わらないでほしい。
女は確かにそう言った。妻として嫁ぐ相手に、夫婦らしい情を求めるどころか、自分から距離を置くよう求めてきたのだ。
景は返事を忘れ、目の前の女を見つめた。
これまで縁談の席で向けられてきた視線を思い出す。朝霧家の名に惹かれる者、軍神という肩書きに憧れる者、美貌を褒めそやしながら夫としての愛情を期待する者、あるいは恐れと打算を隠しきれぬ者。誰もが景から何かを得ようとしていた。家名でも、子でも、庇護でも、愛でも、何かしらを。
なのに、この女は違った。景が差し出すより先に、景から遠ざかるための条件を口にした。
それは拒絶の言葉であるはずなのに、不思議と不快ではなかった。むしろ、自分が握っていたはずの契約の主導権を、静かな指先で横から抜き取られたような感覚があり、景は久しく覚えたことのない戸惑いを抱いた。
「……お前は、それでいいのか」
問うつもりのなかった言葉が、口をついて出た。
女はほんの少しだけ、微笑んだように見えた。
「はい。私は朝霧様に愛されるために嫁ぐのではございませんので」
その一言は、丁寧で従順な響きをしていながら、景の胸の内へ静かに刃を差し入れてくるようだった。
愛されるために嫁ぐのではない。そう言い切る女の横顔は、不幸を受け入れた娘というより、何かを守るために自分の望みを切り捨てた者の顔に近かった。
景はその表情を知っている気がした。戦場で撤退命令を受けた伊吹が、救えなかった者たちの名を一つも口にせず、ただ「承知しました」とだけ答えた時の横顔に、どこか似ていた。
「もう一つは」
景が促すと、女は一度だけ膝の上の指先を握り、それからすぐにほどいた。その小さな仕草を、景は見逃さなかった。
「契約が終わりましたら、私のことはお忘れください」
今度こそ、景はすぐに返事ができなかった。
普通なら、忘れないでほしいと願うのではないのだろうか。たとえ愛のない婚姻であっても、一度は妻となる相手に、ほんの少しでも自分の痕跡を残したいと考えるものではないかと思う。
けれど女は、まるで自分という存在そのものを最初から消すつもりでいるかのように、契約が終われば忘れてくれと願った。
その言葉を聞いた瞬間、景の胸の奥で、半年前から動かずにいた何かがかすかに軋んだ。
(——忘れる)
忘れろと言われて忘れられるものなら、景はとうに伊吹のいない日々に慣れている。空いた椅子へ目を向けることも、廊下の足音に振り返ることも、書類の文字に小さく失望することもなくなっているはずだった。
だが、忘れられない。忘れたいと思ったことさえない。死者の記憶ですら消せずにいる景へ、目の前の女は、これから自分を忘れろと言う。
「……奇妙な願いだな」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
「そうでしょうか」
「普通は、逆を願うものだろう」
「朝霧様に覚えていていただく理由が、私にはございません」
その返答に、景は再び黙った。
理由がない。そんなことを、どうしてこの女はこれほど静かに言えるのだろう。
己の価値を知らぬ者の言葉なのか、それとも、すでに自分を誰かの記憶に残すことを諦めている者の言葉なのか、景には判じることができなかった。ただ、その穏やかすぎる諦念が、どうしようもなく胸に障った。
香坂家当主が慌てて取り繕うように笑う。
「娘は、長く人前に出ず育ちましたゆえ、少々変わったところがございまして。どうかお気になさらず」
景はその言葉を聞き流し、女だけを見ていた。
確かにそうだ。だが、ただ世間知らずなだけではない。
目の前の女は、愛されぬ契約結婚を突きつけられても揺らがず、むしろ自ら景との間に線を引き、最後にはその記憶からさえ消えたいと願った。そのどれもが景の想定を外れていたはずなのに、不可解さの奥にある静けさだけが、なぜか懐かしい。
「いいだろう」
景はゆっくりと答えた。
「その二つ、約束する」
女は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
感謝されるようなことではない。そう思いながらも、景はその言葉を口にしなかった。
契約は成立した。妻を必要としない男と、関わらないでほしいと願う女。後継ぎが生まれた時点で終わる、愛のない婚姻。
それだけのはずだった。それだけで済むはずだった。
けれど景は、座敷を辞したあともなお、雨上がりの庭に満ちる青い匂いの中で、耳の奥に残り続けている彼女の声を思い返していた。
胸の内に生まれた小さな違和感に、まだ名前はない。


