珠景姫 Mikage Hime ~百年越しの夏に見た夢~

 終点。奥汐咲(おくしおさ)温泉。
 目的地まで、バスは一度も止まらなかった。

 レトロなボンネットバスの写真を撮り、珠景(みかげ)と春子(はるこ)は歩き出す。
 山奥に佇む温泉地のなかに、一際目立つ旅館があった。

『奥汐咲(おくしおさ)温泉 優海の郷(ゆうみのさと)』
 歴史ある建物のなかに、二人は足を踏み入れる。

 春子(はるこ)はフロントに向かうと、旅館の半纏を着た年配の男性を連れてきた。
 男性は深々と一礼し、陽気な笑顔を見せた。

「これはこれは。遠方遥々、ようこそお越しくださいましたぁ! 当旅館の支配人を勤めております、牛沢(うしざわ)春彦(はるひこ)というものでして。春子(はるこ)の父親でもあります」

 春彦(はるひこ)は、一人喋り続ける。

「娘から話は聞きましたんで、貸切風呂の方をご用意させて頂きます。うちの娘が誰かを連れてくるなんて、思ってもなかったですから。びっくり仰天、私の財布からお金も飛び出して行きましたっけ。なので、そのままお入りください。では、ご案内しますね」

 突然の嵐は、颯爽と去っていった。

「あ、ありがとうございます……本当に、良いんですか……?」
 春子(はるこ)に目を向けると、笑顔で頷いてくれた。
 そして、筆談で一言。

『これも何かの縁だから』

 素敵な出会いに感謝して、珠景(みかげ)は春彦(はるひこ)の後を追う。
 春子(はるこ)は帰省なので、今は温泉に入らないらしい。
 互いに手を振ってお別れし、珠景(みかげ)はお風呂へ向かった。

 案内されたのは、桜吹雪の湯。
 暖簾を潜り、言われた通りに鍵を閉めた。
 脱衣所で服を脱ぎ、浴室の戸を引く。

 渓流沿いの露天風呂。
 涼しげな風と、檜の香りに包まれて。
 身体を流した珠景(みかげ)は、開放感とお湯に浸かる。

「夏の温泉。最高かも……」
 自然界の歌声を聞きながら、身体を癒すひととき。
 まだ、朝なのが罪深い。
 ただ一言。幸せだった。


 お風呂上がり。
 珠景(みかげ)は、ツヤ肌を手に入れた。
 フロントに鍵を返却し、旅を再開する。

 春彦(はるひこ)と春子(はるこ)。
 親子揃って、バス停まで見送りに来てくれた。
「お二人に出会えて、本当に良かったです! 温泉も最高でした」

『不思議とパワーをもらえた気がします。次は泊まりに来てください。待ってますから』

「夢奥島(ゆめおくしま)の秘湯・奥汐咲(おくしおさ)温泉。先祖代々、受け継がれてきたこの土地で―― 春子(はるこ)。ムッとするのはやめなさい。お父さんの心が……うん、手短にね……うむ。では、達者で!」

 春彦(はるひこ)の陽気な声に呼ばれ、バスが近づいて来た。
 最後に握手を交わし、珠景(みかげ)は一人バスに乗り込む。

『夢岬(ゆめみさき)行き、発車します』

 小さな春の系譜。
 初対面なのに、どこか懐かしい。
 だから、お別れが名残惜しかった。

 ふと、写真の存在を思い出し、二人にカメラを見せる。
 声は届かなくても、二人にとっては問題ない。

 満面の笑みを浮かべ、仁王立ちする春彦(はるひこ)お爺さん。
 顔の近くに『これも何かの縁だから』と書いたノートを掲げる春子(はるこ)。
 仲良しで素敵な親子を、一枚の写真に収めた。

 ドアが閉まり、バスが動き出す。
 大きく手を振ってくれた二人に、珠景(みかげ)も笑顔で手を振り返した。

 奥汐咲(おくしおさ)温泉を旅立ち、史深(ふみ)が住む夢岬(ゆめみさき)へ。
 一人揺られるバスの車内は、少しだけ寂しかった。