珠景姫 Mikage Hime ~百年越しの夏に見た夢~

 八月八日。早朝。
 珠景姫(みかげひめ)が夢見た世界へ――

 心地良い朝の静寂。
 清々しい空気を吸い込んで。
 寝静まる民宿に、笑顔を見せる。

「いってきますっ」
 玄関の戸を閉めて、珠景(みかげ)は一人歩き出した。
 澄んだ青空の下、海まで伸びる坂道を下っていく。
 商店街もまだ眠っていて、石畳の上が軽やかな足音を響かせる。

 優しい光に照らされた夢奥島(ゆめおくしま)駅。
 切符を買って、改札を抜ける。

 青の世界が広がっていた。
 美しい景色を見つめ、カメラを構える。
 これが、始まりの一枚。

 朱色の気動車に乗り込み、海側の席に座った。

『おはようございます。本日も、夢波(ゆな)海岸鉄道をご利用頂きまして、誠にありがとうございます。終点・夢岬(ゆめみさき)まで各駅に停車して参ります――』

 海を眺めていると、ホイッスルの音が聞こえた。
 ゆっくりと、列車が動き出す。

 珠景(みかげ)を乗せた気動車は、島の横断を始めた。
 車窓に映る景色は、次第に変わりゆく。

 鈴鳴(すずなき)海岸の沿線を駆け抜けると、住宅街に入った。
 踏切を鳴らしながら、次の駅を目指して走り続ける。

 初めて乗る電車は、想像以上に快適だった。
 遠い場所まで行けるだけでも凄いのに、座っているだけで、いろんな景色を楽しめる。

 海を渡る船。空を飛ぶ飛行機。
 他の乗り物にも、いつか乗ってみたい。
 きっと、感動の連続なのだろう。

『まもなく、汐咲(しおさ)。汐咲(しおさ)です。お出口は、左側です』
 車内アナウンスが流れ、気動車は減速を始める。

 トンネルを抜けると、小さな港町が見えた。
 海辺の景色に、心が導かれる。

 列車は、汐咲(しおさ)駅に停車。
 荷物を持って立ち上がり、ドアのボタンを押した。

 汐咲駅のホームに降り立つ。
 予定に無い途中下車。これも、旅の醍醐味だろう。
 次の駅に向かう列車を見送って、珠景(みかげ)も歩き出した。

 白い木造の駅舎に入り、時刻表を見上げる。
 夢岬(ゆめみさき)行きの列車は、二時間以上来ないらしい。

「……」
 念の為、スマホで写真を撮り、駅舎を出た。

 島一番の漁獲量を誇る汐咲(しおさ)湾。
 姫の教養として、宮殿で教わったことがある場所だ。

 太陽の光を照り返す海。
 爽やかな青空。
 深緑に覆われた山。

 歴史ある街並み。
 湾に沿って並ぶ舟屋。
 汐咲(しおさ)の景色は、夏が似合う。

 風景写真を撮りながら、散策すること三十分。
 駅舎に戻った珠景(みかげ)は、バスの時刻表を見つけた。
 バス停には、先客が一人。

「あの、すみません」
 声をかけると、その女性は振り返ってくれた。
 編み込んだ髪を揺らし、小さく首を傾げる。

「奥汐咲(おくしおさ)温泉まで行っちゃうと、夢岬(ゆめみさき)の方には行けないですか?」
 女性は首を横に振ると、手で丸を作って見せた。

「行けるんですね。ありがとうございます」
 感謝を伝え、女性の後ろに並んだ。
 せっかくだから、奥汐咲(おくしおさ)温泉にも行ってみよう。

「……」
 チラッとこちらを振り返り、女性は小さなノートを取り出す。
 桜色の万年筆で何かを書くと、珠景(みかげ)に見せてくれた。

『旅の方ですか?』
 女性の問いかけに、珠景(みかげ)は嬉しそうに頷く。

「今日は、夢岬(ゆめみさき)にある親戚の家まで行くんですけど、途中下車しちゃって……この後どうしようかなって思ってたところです。お姉さんも旅行ですか?」

 女性はノートに返答を記す。
『私は帰省です。奥汐咲(おくしおさ)温泉の旅館が実家でして……あと、お姉さんって歳じゃないので……おばさんとお呼びください』

「……おばさんと呼ぶには、少し無理があるような……」
『今年で還暦なので』

「う、嘘ですよね。本当に言ってます?」
『……父が。私も、二十九になります』
「驚かせないでください。全然、お若いじゃないですか」
 大学生のような風貌だが、三十路に差し掛かっているらしい。 
 そもそも、母親の年齢にすら達していなかった。

 初対面の緊張も解れてきて、互いに表情を緩める。
『良ければ、一緒に行きます? うちの温泉で良ければ、ご案内しますよ?』
「行きたいです!」

『今更ですが…… 春子(はるこ)といいます。声が出ないので、筆談でコミュニケーションを取っています。耳は聞こえるので、普通に話して良いですよ』

「分かりました。えっと、神島珠景(みかげ)。十七歳です。よろしくお願いします」
 握手を交わし、微笑み合う。

 そんな二人を、ボンネットバスが迎えに来た。
 他に乗客はおらず、一番後ろの席に並んで腰掛ける。
 年季の入った車両だが、ふかふかのシートは心地良い。
 汐咲(しおさ)駅を出発したバスは、細い山道へと入っていく。

 貸切の車内に響くエンジン音。
 移動中の会話はなく、木漏れ日が揺れるだけ。
 誰も居ないバス停を何度も過ぎ去り、バスは山を登り続けた。