そして、今に至る。
ありがたい事に、異動先では循環器で経験できなかった治療が多く、毎日めまぐるしく働いていた。
やっと呼吸器内科の流れに慣れてきた十二月。
病院全体の感染管理講習会が開催されるため、俺は終わらない記録に一区切りつけ会議室に向かった。
講演開始ギリギリだったので、前の方しか空いておらず背中を丸くして席に座る。
こんな席、誰も座りたくないよな……と思っていた時、俺の隣に誰かが座ってきた。俺と同じように肩身狭いだろうなと思い、その人の方をチラッと見る。
そこには黒髪の猫っ毛に、少し垂れた二重の瞼。そしてすらっとした鼻には、くっきりとした目鼻立ちを隠しきれない黒縁眼鏡の白衣をまとった男性が座っていた。
噂の輪島一慶先生だ。
思わず見入ってしまう。
俺の視線に気付いたのか、輪島先生と目が合い会釈する。
「橘くんもギリギリだった?」
小声で聞いてくる輪島に、俺は驚いてしまう。
「え、先生、俺のこと知ってるんですか?」
俺の質問返しに、輪島がクスッと笑う。
「知ってるよ。九月から異動してきた輪島くん……だよね?」
そう言いながら、講師が登壇したためお互い身体を前に向ける。
講習会が終わりレジュメを見返していると、輪島が声をかけてくる。
「橘くんお疲れ様。あまり無理しないようにね」
「あ、はい。お疲れ様です」
輪島のどこか一線を引くような笑顔が、どうも自分と似ている気がして俺は苦手だった。
輪島が会議室をあとにして、俺も病棟に戻ろうとした時、後ろから肩をたたかれる。
「お疲れ」
振り返らずとも、その声で誰だかわかってしまう。
心の中で深呼吸をして、後ろを振り返る。
「お疲れ、宵。なんか久々だね」
「だよな。瑞季が異動になってから、本当に会えなくなったよな」
「だね」
動揺や緊張が伝わらないように意識していると、少し照れくさそうに宵が話す。
「あのさ、瑞季ってアクセサリーとか結構詳しいよな?」
「あー……まぁ、多少?」
何だか嫌な予感がする。
「……今度、クリスマスにアクセサリーあげたくてさ。瑞季センスいいから、いつも行く店とか教えてくれない?」
ーーあー、やっぱり。まぁそうだよな。
目の前で嬉しそうに話す宵の表情が、傷の深さを実感させる。
「そっかそっか!じゃあ、LINEで送る!……まだ仕事残ってるから、病棟戻るわ!ごめんな!また!」
俺は言い逃げのように、その場から小走りで立ち去った。
病棟に戻ると、夜勤のスタッフは出払ってるのかステーションには誰もいないように見えた。
「この時間だし、……いいかな」
いつもは立ちながらノートパソコンで記録を入力しているが、その時は医者や先輩たちがよく使っているディスプレイ型のパソコンを使うことにした。
隣のパソコンは誰かが閉じ忘れたのか、自動的にロックがかかっているが、俺はあまり気にしなかった。
あと一人分の記録を入力すれば終わるタイミングで、後ろからペタペタとサンダルの足音を立てて、誰かが近づいてきた。
「お疲れ、橘くん」
そう言って隣の席に座ってきたのは、先ほどの講習会で会った輪島だ。
「あ、お疲れ様です」
「よかったら、これどーぞ」
輪島が俺の手元にカフェオレの缶を置く。
「え?」
「あれ?嫌いだった?」
「いや、なんで?……かなと思って」
「あははは、そんな怪しまないでよ」
俺が少し戸惑っている横で、輪島は肩を揺らしながらクスクス笑う。
先輩たちの会話を思い出し、なんとなく気まずい。
ーーなんなんだろ、この人……。
軽く会釈をし、缶を受け取った。
「……ありがとうございます」
「はい、どうぞ」
輪島はそう言って、隣のロックがかかったパソコンにログインする。俺も残りの記録を終わらせるため、手を動かした。
記録を最終確認して、カルテを閉じパソコン画面をログオフにする。
まだ隣で、パソコン画面を見つめる輪島に声をかけた。
「あの、お先、失礼します。あと、これご馳走様です」
そういうと、輪島が「あ!」とした表情をしてドクター用の本棚の方に向かっていった。
ガサゴソと本棚から資料を引っ張り出して、俺の方に戻ってくる。
「これ、良かったら。分かりやすいから見てみて」
呼吸器内科でよく使われる、化学療法のまとまった資料を渡された。
「……え?」
なんで俺にそんなことしてくれるのか、理解できずにフリーズしていると、輪島も「あれ?」という表情でこちらを見る。
「てっきり、勉強が好きだと思ってたんだけど。……迷惑だった?」
「え……いや、有り難いですけど。……俺、そんなガリ勉に見えるんですか?」
「あ、ごめん。言い方が良くなかった。橘くん、新人の頃からいろんな勉強会来てたでしょ?」
俺は輪島の発言に、目を見開く。
そもそもさっき、俺の名前を知っていたことにすら驚いたのに。新人の頃から知っていたのか……?
「僕も大学の先輩とかに呼ばれたら、できるだけ顔出すようにしてて。熱心な一年目だなぁって思ってたんだ」
「……そ、そうっすか」
なんだか照れ臭くなり、もらったレジュメに視線を落とす。
「この資料、かなり分かりやすいから。良かったら使って」
「……ありがとうございます」
「僕も新人の頃、助けてもらったからさ。じゃあ、気をつけてね」
輪島と病棟で別れる。
正直勉強会に参加していたのも、宵が行くと言ったからついて行ったものが多かった。
もちろん、学ぶきっかけになったけれど。
更衣室へ向かう。
――見られてたのか……
宵の隣にいる俺は、変じゃなかっただろうか。
その答えは分からないまま、冬の夜道を歩いた。
ありがたい事に、異動先では循環器で経験できなかった治療が多く、毎日めまぐるしく働いていた。
やっと呼吸器内科の流れに慣れてきた十二月。
病院全体の感染管理講習会が開催されるため、俺は終わらない記録に一区切りつけ会議室に向かった。
講演開始ギリギリだったので、前の方しか空いておらず背中を丸くして席に座る。
こんな席、誰も座りたくないよな……と思っていた時、俺の隣に誰かが座ってきた。俺と同じように肩身狭いだろうなと思い、その人の方をチラッと見る。
そこには黒髪の猫っ毛に、少し垂れた二重の瞼。そしてすらっとした鼻には、くっきりとした目鼻立ちを隠しきれない黒縁眼鏡の白衣をまとった男性が座っていた。
噂の輪島一慶先生だ。
思わず見入ってしまう。
俺の視線に気付いたのか、輪島先生と目が合い会釈する。
「橘くんもギリギリだった?」
小声で聞いてくる輪島に、俺は驚いてしまう。
「え、先生、俺のこと知ってるんですか?」
俺の質問返しに、輪島がクスッと笑う。
「知ってるよ。九月から異動してきた輪島くん……だよね?」
そう言いながら、講師が登壇したためお互い身体を前に向ける。
講習会が終わりレジュメを見返していると、輪島が声をかけてくる。
「橘くんお疲れ様。あまり無理しないようにね」
「あ、はい。お疲れ様です」
輪島のどこか一線を引くような笑顔が、どうも自分と似ている気がして俺は苦手だった。
輪島が会議室をあとにして、俺も病棟に戻ろうとした時、後ろから肩をたたかれる。
「お疲れ」
振り返らずとも、その声で誰だかわかってしまう。
心の中で深呼吸をして、後ろを振り返る。
「お疲れ、宵。なんか久々だね」
「だよな。瑞季が異動になってから、本当に会えなくなったよな」
「だね」
動揺や緊張が伝わらないように意識していると、少し照れくさそうに宵が話す。
「あのさ、瑞季ってアクセサリーとか結構詳しいよな?」
「あー……まぁ、多少?」
何だか嫌な予感がする。
「……今度、クリスマスにアクセサリーあげたくてさ。瑞季センスいいから、いつも行く店とか教えてくれない?」
ーーあー、やっぱり。まぁそうだよな。
目の前で嬉しそうに話す宵の表情が、傷の深さを実感させる。
「そっかそっか!じゃあ、LINEで送る!……まだ仕事残ってるから、病棟戻るわ!ごめんな!また!」
俺は言い逃げのように、その場から小走りで立ち去った。
病棟に戻ると、夜勤のスタッフは出払ってるのかステーションには誰もいないように見えた。
「この時間だし、……いいかな」
いつもは立ちながらノートパソコンで記録を入力しているが、その時は医者や先輩たちがよく使っているディスプレイ型のパソコンを使うことにした。
隣のパソコンは誰かが閉じ忘れたのか、自動的にロックがかかっているが、俺はあまり気にしなかった。
あと一人分の記録を入力すれば終わるタイミングで、後ろからペタペタとサンダルの足音を立てて、誰かが近づいてきた。
「お疲れ、橘くん」
そう言って隣の席に座ってきたのは、先ほどの講習会で会った輪島だ。
「あ、お疲れ様です」
「よかったら、これどーぞ」
輪島が俺の手元にカフェオレの缶を置く。
「え?」
「あれ?嫌いだった?」
「いや、なんで?……かなと思って」
「あははは、そんな怪しまないでよ」
俺が少し戸惑っている横で、輪島は肩を揺らしながらクスクス笑う。
先輩たちの会話を思い出し、なんとなく気まずい。
ーーなんなんだろ、この人……。
軽く会釈をし、缶を受け取った。
「……ありがとうございます」
「はい、どうぞ」
輪島はそう言って、隣のロックがかかったパソコンにログインする。俺も残りの記録を終わらせるため、手を動かした。
記録を最終確認して、カルテを閉じパソコン画面をログオフにする。
まだ隣で、パソコン画面を見つめる輪島に声をかけた。
「あの、お先、失礼します。あと、これご馳走様です」
そういうと、輪島が「あ!」とした表情をしてドクター用の本棚の方に向かっていった。
ガサゴソと本棚から資料を引っ張り出して、俺の方に戻ってくる。
「これ、良かったら。分かりやすいから見てみて」
呼吸器内科でよく使われる、化学療法のまとまった資料を渡された。
「……え?」
なんで俺にそんなことしてくれるのか、理解できずにフリーズしていると、輪島も「あれ?」という表情でこちらを見る。
「てっきり、勉強が好きだと思ってたんだけど。……迷惑だった?」
「え……いや、有り難いですけど。……俺、そんなガリ勉に見えるんですか?」
「あ、ごめん。言い方が良くなかった。橘くん、新人の頃からいろんな勉強会来てたでしょ?」
俺は輪島の発言に、目を見開く。
そもそもさっき、俺の名前を知っていたことにすら驚いたのに。新人の頃から知っていたのか……?
「僕も大学の先輩とかに呼ばれたら、できるだけ顔出すようにしてて。熱心な一年目だなぁって思ってたんだ」
「……そ、そうっすか」
なんだか照れ臭くなり、もらったレジュメに視線を落とす。
「この資料、かなり分かりやすいから。良かったら使って」
「……ありがとうございます」
「僕も新人の頃、助けてもらったからさ。じゃあ、気をつけてね」
輪島と病棟で別れる。
正直勉強会に参加していたのも、宵が行くと言ったからついて行ったものが多かった。
もちろん、学ぶきっかけになったけれど。
更衣室へ向かう。
――見られてたのか……
宵の隣にいる俺は、変じゃなかっただろうか。
その答えは分からないまま、冬の夜道を歩いた。

