——あぁ、いいな。
僕が初めて彼を知ったのは、先輩から呼ばれた勉強会に参加した時だった。
見たことない顔で、初々しい雰囲気が、一年目の看護師であることを教えてくれる。
勉強会へ行くたび、気づけば彼を探していた。
隣の同期へ向ける、柔らかくて甘い視線。
あんな目で誰かを見る人を、僕は初めて見た。
去年の九月。
そんな彼が、僕の所属する科に異動してきた。
「循環器内科から異動してきました。橘です。よろしくお願いします」
僕が彼を一方的に知っているだけで、きっと彼は僕のことを知らない。
ある日、残業する彼と鉢合わせた。
勉強熱心なイメージがあったため、僕は彼におすすめの資料を渡した。
そしたら数日後、資料のお礼としてチョコレートをくれた。
——律儀だなぁ。
僕はなぜか、彼ともう少し話したいと思い、勢いでご飯に誘った。
断れるかな?と思ったが、二つ返事で承諾されて、少し驚いた。
どこに行こうか悩んだが、空腹を満たすのにうってつけの、お気に入りのお店に連れていくことにした。
思いのほか、おにぎりを美味しそうに食べてくれて、嬉しかったのを覚えている。
帰り道、彼の友人と出くわした時、彼の表情が一気に暗くなった気がした。僕が聞いていい内容なのか分からず、聞こえないふりをしてその場を凌いだ。
彼の友人が去った後も、なんだか元気がない気がして、咄嗟にコンビニに駆け込んだ。
彼の好みを知らないことに気づいて、目についたものを適当に選んだ。
袋の中を覗いた彼が少し笑ってくれて、それだけで救われる。
少し遠回りをして帰ろうと思い、車を走らせていると、彼が思い詰めたように口を開いた。
「俺……ゲイ、なんです。その……、さっきの人達は、そういうバーで知り合って」
勇気を振り絞って話す彼に、申し訳なくなった。
——ごめん。
以前から、彼が熱い視線を送る相手が同性であることを、僕は知っていたから。
彼の勇気に対して、僕はちゃんと向き合えているのか不安になり、曖昧な返答をしてしまった。
彼が打ち明けてくれたのに、僕のことを言わないのはフェアじゃないと思い、僕は初めて他人に自分のことを話した。
「あなたには、できないと思うわよ」
「この学校に行きなさい」
「この人と結婚しなさい」
「用無し」
「ごめんなさい。私と別れてください」
「長男のくせに、その役割すら果たせないのか」
「役立たず」
脳内で鮮明に再生される言葉たちを思い出し、少しだけ情けない表情をしてしまった気がする。
僕が離婚した理由を彼に伝えて、ずっと誰にも言えなかった悩みを打ち明けた時、彼は優しく笑いながら
「なんか俺たち一緒っすね」
と言ってくれた。
僕はその一言で、重たい雲で覆われていた世界が、一気に晴れ渡っていく感覚になった。
その日から気づけば、家族でも友人でもない橘くんだけが、僕の世界で特別な場所を占めるようになっていた。
彼が同性愛者であることを知っても、彼ともっと過ごしたいという気持ちが先走り、見かけると声をかけてしまう。
そんな欲が溢れてしまい、彼の想い人との会話にも聞き耳を立ててしまった。
「あのさ、瑞季って毎年俺にチョコくれるじゃん?いつも美味しいやつくれるけど、どこで買ってるのかなーって」
――ちょっと待って……。
僕らしくないが、いてもたってもいられず口を挟んでしまった。
「なになに、チョコの話?」
実に、僕らしくない。
戸惑う彼を見ながら、できるだけ傷つけないように彼の想い人へ提案をした。
恐る恐る彼を見ると、少しだけホッとしたように見えた。
その後、僕は彼を食事に誘った。
彼は快く承諾してくれ、この前先輩に教えてもらったイタリアンにでも連れてこうと思っていた。
車に向かって歩いていると、彼が少し躊躇いながら話し出す。
「あの、もし良ければ……」
彼に言われるがままついていくと、町の中華屋に入って行く。
——え、ここでいいのか?
僕は少し戸惑いながら、彼の後を追って店内に入った。
彼が少し申し訳なさそうに笑いながら、お酒を頼むので、僕も続いて同じものを頼んだ。
彼は、僕を信頼してくれているのか、今までの恋愛を話してくれた。
——あぁ、やっぱり素敵な子だな。
彼の話を聞いていると、こんな子に想われるのは幸せすぎるだろうなと思ってしまう。
頬を赤らめながら、彼が目を細めて話す。
「俺じゃ、なかったんですよ。あいつ、幸せにできるの」
その一言に、胸の奥が苦しくなった。
そんなことない。
君に想ってもらえる人は、幸せに違いない。
心の底から、本当にそう思った。
もともとお酒に強くないため、中華屋を出る頃には、体がふわふわしていた。
お互いマフラーに顔を埋めながら話していると、彼から衝撃の一言が飛び出す。
「なら、うち来ます?」
息が止まりそうになる。
——どういう意味だ……?
一瞬的外れな思考になるが、彼の想い人と自分の容姿を照らし合わせて、冷静になった。
笑ってしまうほど、僕は彼の好みとは違う。
——あぁ、そうか。僕は安全圏なのか。
胸の奥がチクっとなりつつ、納得して家にお邪魔することにした。
彼の家にお邪魔すると、風呂に入っている間に布団が敷かれていた。
彼が風呂に入っている間も、心の中で味わったことのない感情が溢れてくる。
風呂から出てきた彼に言われるがまま、布団に入り目を瞑る。
——知らない、なんだこの気持ちは……。
よく分からない感情にこれ以上振り回されないように、僕は眠りについた。
次の日。
目を覚ますと、珈琲のいい匂いがしてきた。
スライド式の扉を開けると、休みである彼がキッチンに立っていた。
——なんか、……いいな。
そんな光景を見て、ほのぼのしてしまう。
彼に言われるがまま洗面台に行き、顔を洗ってからリビングに戻ると、テーブルの上に朝食が用意してあった。
離婚してから朝食を食べる習慣もなく、ましてや泊まらせてもらったのに、朝ごはんまで用意してもらったことに申し訳なくなる。
彼は少し困ったように笑いながら、僕を見送ってくれた。
彼の家に泊まった日から、三日経ったが彼の姿を一度も見ていない。
——休み?……体調崩したとか?
最近、気づけば彼のことばかり考えている。
——きっと、歳の離れた可愛い後輩だからだ。
その日は外来が長引いてしまい、少し遅めに食堂に向かった。注文を済ませ席を見渡すと、見覚えのある後ろ姿に目が止まった。
「あ!また、ラーメン食べてる」
僕の声に、食べている手を止めて彼が振り向いた。
——久しぶりに会えた。
自然と彼の隣に腰を下ろす。
食事をしながら他愛もない話をしていると、彼のスマホに通知が入った。
「俺も……そろそろ動こうかなって」
その一言だけで、胸の奥が小さく痛んだ。
「あのさ」
気づけば、僕は口を開いていた。
「これからも、ご飯とか行ってくれる?」
情けない顔で話す僕を見て、一瞬戸惑ったように見えたが、いつものように明るく返事をくれて安心した。
病棟へ戻る彼を見送りながら、今度の食事に誘おうとして気づいた。
僕は、彼の連絡先を知らない。
慌てて残りのご飯をかき込み、食器を返却すると彼を追いかけた。
エレベーターを待つ余裕なんてない。
階段を駆け下りながら、彼の姿を探す。
「橘くん!連絡先、教えて!」
僕の姿を見つけるなり、彼は目を丸くした。次の瞬間、肩を揺らしながらクスクス笑っている。
僕の拙いスマホ操作にも、丁寧に教えてくれながら、やっと彼の連絡先を知ることができホッとする。
その時、彼が口を開いた。
「先生、今度俺とデートしてくれますか」
——え。今、なんて?
一瞬時間が止まったように、彼も僕も黙り込む。
すると、僕よりも言った本人の方が動揺していた。
僕が何も言わないうちに、彼は何も言わず走り去ってしまう。
——デートって。
その瞬間、お腹の底からブワーッと熱いものが湧き上がってくる。
「え、僕……」
味わったことない感情の正体が、わかってしまった。
病棟に戻ると、彼の姿が見当たらない。
夕方になっても、病室やナースステーションにも居ないため、師長に声をかけた。
「師長さん、橘くんって今どこに居ますか?」
「え?橘ですか?何かあったんですか?」
「あ、いや。橘くんに呼吸器の資料教えてる約束してたので」
僕の言葉に納得したような表情で、師長が教えてくれた。
「橘、昼休憩から戻ったら熱あって。さっき、帰したんですよ」
——え?熱?
先ほどまで、体調が悪そうには見えなかったのに。
「そうですか。なら、また今度にしますね」
「はい、そうしてあげてください」
医局に戻り、カルテを開くが、全然内容が入ってこない。
窓の外は薄暗くなっており、少し考えたあとカルテを閉じた。
「ちょっとだけ……」
自分に言い聞かすように、足早に病院を出る。
コンビニに入り、彼が好きだといったチョコをカゴに入れ、買い物を済ませ彼の家へ向かった。
スマホを開くが、メッセージが既読にならない。
「寝てるかな?」
寝ていたら、ドアノブにでもかけておこうと思い、手帳からペンを取り出し、チョコのケースにメッセージを書いた。
インターホンを押すと、毛先から雫が滴り、なんとも言えない雰囲気の彼が扉から出てくる。
一瞬息を飲んだあと、自然な雰囲気で声をかける。
「あ、橘くん。大丈夫?」
僕の顔を見るなり、勢いよく扉を閉められてしまった。
——あ……。
やっぱり、迷惑だったかと思い買ってきたものをドアノブにかけて、扉の向こうの彼に声をかけた。
「ごめんね。師長から体調悪くて、帰ったって聞いたから。……買ってきたもの、ここにかけておくから、よかったら食べてね。じゃあ」
らしくないことをするから、こうなるんだ。
自分の行動を後悔しつつ、僕は彼のマンションを出た。
病院まで戻ろうと、重い足をなんとか動かしていると、後ろから聞き覚えのある声で呼び止められる。
振り返ると、髪が濡れたままの彼が立っていた。
思わず彼の元へ駆け寄る。
「橘くん、大丈夫?熱あるんだよね?」
「あ、はい。もう、だいぶ下がりましたけど」
「そっか、よかった」
「あの、これ……ありがとうございます」
「あ、うん。良かったら食べてね」
「はい」
会話が終わり、また体調が悪くならないように彼をマンションの下まで見送った。
少し思い詰めたような、疲れているように見える彼に、昼間にした会話を掘り下げるのはよくない気がする。
「じゃあ、ゆっくり休むんだよ」
微熱のせいで頬を赤くした彼さえ、僕は愛おしいと思ってしまった。
次の日。
午前の診療を終えると、母から着信が入っていた。
「……もしもし」
「お父さん、脳梗塞で倒れたの」
母の震える声に、事態の重さを悟る。
命に別状はない。でも麻痺は残るらしい。
父は地元で病院を経営しているため、その父が倒れたことに、母は声を震わせていた。
少しの沈黙のあと、母が小さく言った。
「……帰ってきてくれない?」
その一言だけで十分だった。
「……分かった」
通話を切り、静かに目を閉じる。
——もう、彼とも離れなきゃいけないのか。
いくら気持ちが沈んでいても、目の前にいる患者は変わらない。
終業後、いつもより指先や思考が遅くなり、病棟のカウンターでカルテを見つめていた。
すると、カウンター越しに僕の顔覗き込みながら、彼が声をかけてくれる。
他愛もない挨拶だが、僕はそれだけで少し気持ちが軽くなった。
病棟を後にする彼を見て、深いことなど考えずに追いかけた。
更衣室に向かう彼は、スマホを見ながら歩いていた。
後ろからチラッと見えてしまった時、僕は一気に焦ってしまう。
「それ」
「え?!」
僕の存在に気づき彼が驚いているが、それどころじゃない。
「……今から、誰かと会うの?」
恐る恐る聞くと、彼の返答は思っていたものと違った。
それでも今引き止めないと、何かが終わってしまう気がして、口からこぼれるように、僕はまた彼をご飯に誘った。
移動中の車内は、いつもより静かで不安になる。
注文を終えた後、飲み物を取りに席を立つ彼を見つめた。
——もう、いるのかな……。
どうしても、彼の恋路が気になってしまう。
僕は前振りもなく、口を開いた。
「……順調?」
僕の質問に対して、彼はなんとも言えない表情をする。
言葉を選びながら、もう一度丁寧に聞いた。
「この前、自分から動くって言ってたから。出会いとか……あった?」
「あ、いや。結局、まだ全然です」
——よかった……。
ホッとしていると、今度は彼が話し出した。
「先生、辞めちゃうんですね。俺、知らなかったですよー」
そうだ。
彼に会えたことで、一瞬忘れかけていた現実を思い出す。
彼に家族のことをどこまで話していいのか悩みながらも、僕は辞める経緯を伝えた。
話を終えると、僕の父親のことを気遣ってくれる彼の優しさに涙が出そうになってしまった。
——これで最後なのかな……。
食事を食べ終えて、名残惜しい気持ちをグッと堪えていると、彼が僕の目を見つめて口を開く。
「先生。やっぱり、俺とデートしてくれませんか?」
——すごいなぁ。
僕は知ってる。
これは、初めて彼を見た時の視線だ。
どこまでも綺麗で、まっすぐな彼から目を逸らせない。
僕は、自分の気持ちと向き合うよりも先に、返事をしてしまった。
「うん。行こうか」
彼が僕のことをどう思っているのか、少し前には気づいていた。
そんな彼と真正面から向き合えないくせに、僕は彼の優しさに甘えてしまう。
約束のデートの日。
これが彼と過ごす最後の日になる。
「……だったら」
今日だけは彼に、先生じゃなくて、僕として見てほしいと思った。
「あの、今日は先生、やめない?……仕事じゃないし」
少し照れながら、彼が頷く。
初めて名前を呼ばれただけで、頬が緩んだ。
何を食べても、何を話しても不思議と気疲れしない。
——デートって、本当はこういうものなんだ。
ワークショップで作ったカップ麺を見つめていると、どうしても手放したくなくて、彼に提案した。
「交換しない?」
僕は今日という日を、忘れたくなかった。
観覧車から街を眺めながら、彼が「楽しかった」と笑う。
——もう十分だ。
今日という一日を思い出せるなら、また家族のもとへ戻っても、きっと大丈夫。
彼と遅めの夕飯を食べ、駅まで向かっていると、後ろを歩く彼に呼び止められる。
彼の表情を見て、僕は背筋を伸ばした。
「俺は、……先生が好きです」
彼の震える唇を見て、どんな覚悟で話してくれているのかわかる。
普通はみんなが自然に感じる気持ちも、僕には分からないし、知らなかった。でも今なら、少しだけわかる気がする。
——でも、……。
僕は、彼の気持ちをどれほど理解できているのだろうか。
彼が思ってくれてるものを、僕は返せるのだろうか。
過去に言われてきた言葉を思い出し、自分の気持ちが彼と同じものなのか不安になる。
こんな気持ちで彼の気持ちに応えるのは、違う……気がする。
考えても、納得いく言葉が見つからず、僕は今言える最大限の気持ちを伝えた。
彼は僕の返事を聞いた後、少し困ったように笑って質問してくる。
「先生、……今日は楽しかった?」
——うん。すごく。
僕が深く頷くと、彼は僕を見てクシャッと笑った。
帰り道、僕たちは何を話すわけでもなく、ただそっと隣を寄り添うように歩いた。
その後。
辞める前に受け持ちの患者を引き継いだり、部長や、お世話になった先輩に挨拶をするので慌ただしい日々だった。
あっという間に、病棟が開いてくれた送別会の日になり、会場に着くと奥の席に案内される。
辺りを見回しても、彼の姿がない。
——もしかして、来ない?
店の扉が開くたびに、来た人たちの顔を見てしまう。
送別会が始まり、部長や後輩からお酌され、慣れない大人数に気を使う。
「あ、橘くん、こっちこっち」
入口の方から、誰かの話し声が耳に届き、入口を見つめると、彼が立っていた。
——いた。
この会がお開きになったら、彼に声かけよう。
もう少し彼と話がしたい。
そんなことを考えながら店を出ると、彼の姿が見当たらない。
彼と同じ席に座っていた看護師に声をかける。
「あの」
「あれ、輪島先生どうしました?」
「さっきまで、橘くんいたと思ったんだけど……」
僕の質問に、ハッとしたように看護師が答えた。
「さっき帰ったんで、急げば間に合うと思います!」
僕の背中を押すように見送られ、僕は彼を追いかけた。
——なんか、彼を追いかけること多いな。
最後の最後まで、僕は彼を追いかけていることに少し笑ってしまう。
人ごみの中、彼の後ろ姿を見つけて残りの体力を振り絞り近づくと、予想もしてない彼の言葉が耳に飛び込んでくる。
「……会いたかった」
——え?
誰に?なんでそんな嬉しそうな顔で、言っているの?
僕は気づいたら、彼の手首を掴んでいた。
「え……」
戸惑う彼に、今にも張り裂けそうな気持ちを押し殺して、息を切らしながら尋ねる。
「……誰かに会いに行くの?」
「……はい、これからちょっと飲みに行きます。先生は、カラオケですよね?」
僕が彼を追いかけてきた事なんて知らない彼は、何の気なしに返事をした。
これから僕ではない誰かに、会いに行くのか。
——……やだな。
僕は彼の手を掴んで、駅の方に向かった。
ちゃんと、彼と話したい。
他の誰かの元に、行ってほしくない。
彼にこの気持ちをどう伝えるか考えながら、無我夢中で歩いていると、背後から彼の声が耳に入ってくる。
「あっ……」
ハッとして彼の顔を見ると、彼は戸惑ったような、不安そうな顔をしていて、繋いでいた手に力が入っていることもその時気づいた。
「ちゃんと話したいから。……ついてきてくれる?」
僕がそう言うと、彼は静かに頷いて、僕の後ろをついてきてくれた。
静かな場所で、二人だけで話したい。
僕は学会で使ったことがあるホテルを思い出し、そこへ向かった。
フロントに行くと、週末ということもあり、スイートルームしか空いていないと言われたが、そんなことになりふり構ってる余裕はなかった。
「それでいいので、お願いします」
鍵を受け取り、部屋に入って彼の顔を見た瞬間。
押さえ込んでいた感情が一気に溢れて、勢いよく抱きしめてしまう。
僕の腕の中で、戸惑う彼。
「せ、先生……?」
そんな彼に、僕は情けない声でお願いする。
「……行かないで」
「え?」
「どこにも行かないで……ほしい」
泣きそうな気持ちを堪えながら、彼を見つめる。
「先生……、えっと。この状況は、……勘違いしちゃうから」
——ちがう。ちがうんだよ
「勘違いじゃない」
「……え?」
「僕……僕が、橘くんを大切にしたい」
僕の言葉を聞いて戸惑う彼に、今の正直な気持ちを伝える。
「橘くんが笑ってる時、できるだけその隣にいたい。……泣いてしまうような時は、僕が守ってあげたい。こんな気持ち初めてだから、……正直これが橘くんと同じかって聞かれると、分からないけど。でも、橘くんが他の人にそうなるのは嫌なんだ」
僕の話を聞いた彼が、瞳を潤ませながら話し出す。
「……お、俺は、先生が好き……です」
「うん」
「俺の、好きは……、先生が笑ってくれてたら嬉しいんです」
「うん」
「先生が、苦しそうに頑張ってるのは……嫌なんです」
「……うん」
——あぁ、おんなじだ。僕もだよ
「僕と、ずっと一緒にいてほしい」
僕の腕の中で何度も頷く彼を、優しく抱きしめた。
憂を帯びた彼の瞳が、僕を見つめる。
甘い雰囲気に慣れない彼が、戸惑ったように話す。
「あの……俺、あんまりこういうの……」
彼を傷つけないように、優しく唇を喰んだ。一生懸命息継ぎをする彼が、愛おしくて仕方ない。
——だめだ。
「これ以上は、……今日は、やめよう」
自分の理性がこんなにも脆い事を、初めて知った。
戸惑う僕を不安そうに見つめながら、彼が口を開く。
「あの、俺たちは、その……こ、恋人ですか?」
彼の言葉にハッとする。
——ちゃんと言ってなかった。
顔を埋めていたシーツから離れ、彼と視線を合わせる。
「僕は、橘くんの彼氏になりたい」
——やっと、言えた。
僕の言葉を聞いて、彼が嬉しそうに笑った。
「ふふ。……うん、俺も先生の彼氏になりたい」
やっぱり、笑ってる彼は素敵だ。
——この笑顔を守りたいな。
彼と恋人同士になり、僕はもっと欲が出てしまう。
今までの気持ちをちゃんと伝えた後、僕の誤解していた彼の電話相手が友人と分かり一安心する。
「僕、足りないところ沢山あると思うし。……橘くんより、一回り以上もおじさんだけど。大切にするから、僕と一緒にいて欲しいな」
できるだけ言葉にして、彼に気持ちを伝える。
すると彼は、とろんとした瞳で僕を見つめながら照れくさそうに聞いてくる。
「……ずっと、大切にしてくれますか?」
——はぁ。
目の前にいる彼が、本当に可愛くて、愛おしくて。
もうきっと、離してあげれない。
「うん。ずっと。橘くんが、僕を必要としてくれるなら」
「なら、ずっとです」
人を愛する事を、僕は初めて知った。
これから、彼との甘い恋人生活が始まる。
……かと思いきや、僕に待っていたのは引っ越しの準備に追われる日々だった。
職場の私物や、書類を片付けた後は、必要最低限なものしかないアパートに戻る。
備え付けの家電に、折りたたみベッド。
クローゼットに入った服たちを次々に段ボールにしまっていく。
「あ、……」
僕の手元には、彼とデートに行った時に制作したカップ麺。
食べてしまうのが勿体無くて、枕元の棚に飾っていた。
朝から何も食べていなかったのもあり、食べることにする。
お湯を注いで三分待つ。
その間に、もう一度カップ麺のイラストがわかるように写真に収めた。
「いただきます」
食べ慣れた味だが、特別美味しく感じてしまう。
「ご馳走様」
食べ終わった容器をゆすぎ、乾かすために裏返すと、カップ麺の底に何か書いてあるのに気づいた。
「え、なにこれ」
そこには、彼からのメッセージ。
「デートしてくれてありがとう。すごく楽しいです」
彼らしい。
——こちらこそ。
カップ麺の容器を入念に拭き、潰れないようにケースに入れて段ボール箱にしまった。
兵庫に向かう日。
彼が新幹線の乗り場まで来てくれた。
名残惜しい。
家族や友人、元妻にもこんな気持ちになったことはない。
——僕の特別。
隣で笑って見送ろうとする彼に、もっと特別がほしくてお願いする。
少し照れた彼。
いつかこの願いが叶うといいなと思い、彼の隣を離れた。
新幹線に向かって歩く僕の腕がグイッと引っ張られ、彼が耳元で囁く。
「……だいすきです、いっ……、一慶さん」
——まいったな……。
彼から名前を呼ばれるだけで、こんなにも満たされるのか。
——恋って、すごいな。
駅に着いたら、彼に電話しよう。
すでに会いたい気持ちを我慢して、僕は新幹線に乗った。
いいなぁと心の底から思っていた彼の視線が、今は僕に向いている。
きっと、僕が彼を見つめる視線も負けていない。
空っぽだった僕を、たくさんの色で埋めてくれる彼は、特別以上の存在だ。
彼が笑っている隣で、これからも過ごせますように。
僕が初めて彼を知ったのは、先輩から呼ばれた勉強会に参加した時だった。
見たことない顔で、初々しい雰囲気が、一年目の看護師であることを教えてくれる。
勉強会へ行くたび、気づけば彼を探していた。
隣の同期へ向ける、柔らかくて甘い視線。
あんな目で誰かを見る人を、僕は初めて見た。
去年の九月。
そんな彼が、僕の所属する科に異動してきた。
「循環器内科から異動してきました。橘です。よろしくお願いします」
僕が彼を一方的に知っているだけで、きっと彼は僕のことを知らない。
ある日、残業する彼と鉢合わせた。
勉強熱心なイメージがあったため、僕は彼におすすめの資料を渡した。
そしたら数日後、資料のお礼としてチョコレートをくれた。
——律儀だなぁ。
僕はなぜか、彼ともう少し話したいと思い、勢いでご飯に誘った。
断れるかな?と思ったが、二つ返事で承諾されて、少し驚いた。
どこに行こうか悩んだが、空腹を満たすのにうってつけの、お気に入りのお店に連れていくことにした。
思いのほか、おにぎりを美味しそうに食べてくれて、嬉しかったのを覚えている。
帰り道、彼の友人と出くわした時、彼の表情が一気に暗くなった気がした。僕が聞いていい内容なのか分からず、聞こえないふりをしてその場を凌いだ。
彼の友人が去った後も、なんだか元気がない気がして、咄嗟にコンビニに駆け込んだ。
彼の好みを知らないことに気づいて、目についたものを適当に選んだ。
袋の中を覗いた彼が少し笑ってくれて、それだけで救われる。
少し遠回りをして帰ろうと思い、車を走らせていると、彼が思い詰めたように口を開いた。
「俺……ゲイ、なんです。その……、さっきの人達は、そういうバーで知り合って」
勇気を振り絞って話す彼に、申し訳なくなった。
——ごめん。
以前から、彼が熱い視線を送る相手が同性であることを、僕は知っていたから。
彼の勇気に対して、僕はちゃんと向き合えているのか不安になり、曖昧な返答をしてしまった。
彼が打ち明けてくれたのに、僕のことを言わないのはフェアじゃないと思い、僕は初めて他人に自分のことを話した。
「あなたには、できないと思うわよ」
「この学校に行きなさい」
「この人と結婚しなさい」
「用無し」
「ごめんなさい。私と別れてください」
「長男のくせに、その役割すら果たせないのか」
「役立たず」
脳内で鮮明に再生される言葉たちを思い出し、少しだけ情けない表情をしてしまった気がする。
僕が離婚した理由を彼に伝えて、ずっと誰にも言えなかった悩みを打ち明けた時、彼は優しく笑いながら
「なんか俺たち一緒っすね」
と言ってくれた。
僕はその一言で、重たい雲で覆われていた世界が、一気に晴れ渡っていく感覚になった。
その日から気づけば、家族でも友人でもない橘くんだけが、僕の世界で特別な場所を占めるようになっていた。
彼が同性愛者であることを知っても、彼ともっと過ごしたいという気持ちが先走り、見かけると声をかけてしまう。
そんな欲が溢れてしまい、彼の想い人との会話にも聞き耳を立ててしまった。
「あのさ、瑞季って毎年俺にチョコくれるじゃん?いつも美味しいやつくれるけど、どこで買ってるのかなーって」
――ちょっと待って……。
僕らしくないが、いてもたってもいられず口を挟んでしまった。
「なになに、チョコの話?」
実に、僕らしくない。
戸惑う彼を見ながら、できるだけ傷つけないように彼の想い人へ提案をした。
恐る恐る彼を見ると、少しだけホッとしたように見えた。
その後、僕は彼を食事に誘った。
彼は快く承諾してくれ、この前先輩に教えてもらったイタリアンにでも連れてこうと思っていた。
車に向かって歩いていると、彼が少し躊躇いながら話し出す。
「あの、もし良ければ……」
彼に言われるがままついていくと、町の中華屋に入って行く。
——え、ここでいいのか?
僕は少し戸惑いながら、彼の後を追って店内に入った。
彼が少し申し訳なさそうに笑いながら、お酒を頼むので、僕も続いて同じものを頼んだ。
彼は、僕を信頼してくれているのか、今までの恋愛を話してくれた。
——あぁ、やっぱり素敵な子だな。
彼の話を聞いていると、こんな子に想われるのは幸せすぎるだろうなと思ってしまう。
頬を赤らめながら、彼が目を細めて話す。
「俺じゃ、なかったんですよ。あいつ、幸せにできるの」
その一言に、胸の奥が苦しくなった。
そんなことない。
君に想ってもらえる人は、幸せに違いない。
心の底から、本当にそう思った。
もともとお酒に強くないため、中華屋を出る頃には、体がふわふわしていた。
お互いマフラーに顔を埋めながら話していると、彼から衝撃の一言が飛び出す。
「なら、うち来ます?」
息が止まりそうになる。
——どういう意味だ……?
一瞬的外れな思考になるが、彼の想い人と自分の容姿を照らし合わせて、冷静になった。
笑ってしまうほど、僕は彼の好みとは違う。
——あぁ、そうか。僕は安全圏なのか。
胸の奥がチクっとなりつつ、納得して家にお邪魔することにした。
彼の家にお邪魔すると、風呂に入っている間に布団が敷かれていた。
彼が風呂に入っている間も、心の中で味わったことのない感情が溢れてくる。
風呂から出てきた彼に言われるがまま、布団に入り目を瞑る。
——知らない、なんだこの気持ちは……。
よく分からない感情にこれ以上振り回されないように、僕は眠りについた。
次の日。
目を覚ますと、珈琲のいい匂いがしてきた。
スライド式の扉を開けると、休みである彼がキッチンに立っていた。
——なんか、……いいな。
そんな光景を見て、ほのぼのしてしまう。
彼に言われるがまま洗面台に行き、顔を洗ってからリビングに戻ると、テーブルの上に朝食が用意してあった。
離婚してから朝食を食べる習慣もなく、ましてや泊まらせてもらったのに、朝ごはんまで用意してもらったことに申し訳なくなる。
彼は少し困ったように笑いながら、僕を見送ってくれた。
彼の家に泊まった日から、三日経ったが彼の姿を一度も見ていない。
——休み?……体調崩したとか?
最近、気づけば彼のことばかり考えている。
——きっと、歳の離れた可愛い後輩だからだ。
その日は外来が長引いてしまい、少し遅めに食堂に向かった。注文を済ませ席を見渡すと、見覚えのある後ろ姿に目が止まった。
「あ!また、ラーメン食べてる」
僕の声に、食べている手を止めて彼が振り向いた。
——久しぶりに会えた。
自然と彼の隣に腰を下ろす。
食事をしながら他愛もない話をしていると、彼のスマホに通知が入った。
「俺も……そろそろ動こうかなって」
その一言だけで、胸の奥が小さく痛んだ。
「あのさ」
気づけば、僕は口を開いていた。
「これからも、ご飯とか行ってくれる?」
情けない顔で話す僕を見て、一瞬戸惑ったように見えたが、いつものように明るく返事をくれて安心した。
病棟へ戻る彼を見送りながら、今度の食事に誘おうとして気づいた。
僕は、彼の連絡先を知らない。
慌てて残りのご飯をかき込み、食器を返却すると彼を追いかけた。
エレベーターを待つ余裕なんてない。
階段を駆け下りながら、彼の姿を探す。
「橘くん!連絡先、教えて!」
僕の姿を見つけるなり、彼は目を丸くした。次の瞬間、肩を揺らしながらクスクス笑っている。
僕の拙いスマホ操作にも、丁寧に教えてくれながら、やっと彼の連絡先を知ることができホッとする。
その時、彼が口を開いた。
「先生、今度俺とデートしてくれますか」
——え。今、なんて?
一瞬時間が止まったように、彼も僕も黙り込む。
すると、僕よりも言った本人の方が動揺していた。
僕が何も言わないうちに、彼は何も言わず走り去ってしまう。
——デートって。
その瞬間、お腹の底からブワーッと熱いものが湧き上がってくる。
「え、僕……」
味わったことない感情の正体が、わかってしまった。
病棟に戻ると、彼の姿が見当たらない。
夕方になっても、病室やナースステーションにも居ないため、師長に声をかけた。
「師長さん、橘くんって今どこに居ますか?」
「え?橘ですか?何かあったんですか?」
「あ、いや。橘くんに呼吸器の資料教えてる約束してたので」
僕の言葉に納得したような表情で、師長が教えてくれた。
「橘、昼休憩から戻ったら熱あって。さっき、帰したんですよ」
——え?熱?
先ほどまで、体調が悪そうには見えなかったのに。
「そうですか。なら、また今度にしますね」
「はい、そうしてあげてください」
医局に戻り、カルテを開くが、全然内容が入ってこない。
窓の外は薄暗くなっており、少し考えたあとカルテを閉じた。
「ちょっとだけ……」
自分に言い聞かすように、足早に病院を出る。
コンビニに入り、彼が好きだといったチョコをカゴに入れ、買い物を済ませ彼の家へ向かった。
スマホを開くが、メッセージが既読にならない。
「寝てるかな?」
寝ていたら、ドアノブにでもかけておこうと思い、手帳からペンを取り出し、チョコのケースにメッセージを書いた。
インターホンを押すと、毛先から雫が滴り、なんとも言えない雰囲気の彼が扉から出てくる。
一瞬息を飲んだあと、自然な雰囲気で声をかける。
「あ、橘くん。大丈夫?」
僕の顔を見るなり、勢いよく扉を閉められてしまった。
——あ……。
やっぱり、迷惑だったかと思い買ってきたものをドアノブにかけて、扉の向こうの彼に声をかけた。
「ごめんね。師長から体調悪くて、帰ったって聞いたから。……買ってきたもの、ここにかけておくから、よかったら食べてね。じゃあ」
らしくないことをするから、こうなるんだ。
自分の行動を後悔しつつ、僕は彼のマンションを出た。
病院まで戻ろうと、重い足をなんとか動かしていると、後ろから聞き覚えのある声で呼び止められる。
振り返ると、髪が濡れたままの彼が立っていた。
思わず彼の元へ駆け寄る。
「橘くん、大丈夫?熱あるんだよね?」
「あ、はい。もう、だいぶ下がりましたけど」
「そっか、よかった」
「あの、これ……ありがとうございます」
「あ、うん。良かったら食べてね」
「はい」
会話が終わり、また体調が悪くならないように彼をマンションの下まで見送った。
少し思い詰めたような、疲れているように見える彼に、昼間にした会話を掘り下げるのはよくない気がする。
「じゃあ、ゆっくり休むんだよ」
微熱のせいで頬を赤くした彼さえ、僕は愛おしいと思ってしまった。
次の日。
午前の診療を終えると、母から着信が入っていた。
「……もしもし」
「お父さん、脳梗塞で倒れたの」
母の震える声に、事態の重さを悟る。
命に別状はない。でも麻痺は残るらしい。
父は地元で病院を経営しているため、その父が倒れたことに、母は声を震わせていた。
少しの沈黙のあと、母が小さく言った。
「……帰ってきてくれない?」
その一言だけで十分だった。
「……分かった」
通話を切り、静かに目を閉じる。
——もう、彼とも離れなきゃいけないのか。
いくら気持ちが沈んでいても、目の前にいる患者は変わらない。
終業後、いつもより指先や思考が遅くなり、病棟のカウンターでカルテを見つめていた。
すると、カウンター越しに僕の顔覗き込みながら、彼が声をかけてくれる。
他愛もない挨拶だが、僕はそれだけで少し気持ちが軽くなった。
病棟を後にする彼を見て、深いことなど考えずに追いかけた。
更衣室に向かう彼は、スマホを見ながら歩いていた。
後ろからチラッと見えてしまった時、僕は一気に焦ってしまう。
「それ」
「え?!」
僕の存在に気づき彼が驚いているが、それどころじゃない。
「……今から、誰かと会うの?」
恐る恐る聞くと、彼の返答は思っていたものと違った。
それでも今引き止めないと、何かが終わってしまう気がして、口からこぼれるように、僕はまた彼をご飯に誘った。
移動中の車内は、いつもより静かで不安になる。
注文を終えた後、飲み物を取りに席を立つ彼を見つめた。
——もう、いるのかな……。
どうしても、彼の恋路が気になってしまう。
僕は前振りもなく、口を開いた。
「……順調?」
僕の質問に対して、彼はなんとも言えない表情をする。
言葉を選びながら、もう一度丁寧に聞いた。
「この前、自分から動くって言ってたから。出会いとか……あった?」
「あ、いや。結局、まだ全然です」
——よかった……。
ホッとしていると、今度は彼が話し出した。
「先生、辞めちゃうんですね。俺、知らなかったですよー」
そうだ。
彼に会えたことで、一瞬忘れかけていた現実を思い出す。
彼に家族のことをどこまで話していいのか悩みながらも、僕は辞める経緯を伝えた。
話を終えると、僕の父親のことを気遣ってくれる彼の優しさに涙が出そうになってしまった。
——これで最後なのかな……。
食事を食べ終えて、名残惜しい気持ちをグッと堪えていると、彼が僕の目を見つめて口を開く。
「先生。やっぱり、俺とデートしてくれませんか?」
——すごいなぁ。
僕は知ってる。
これは、初めて彼を見た時の視線だ。
どこまでも綺麗で、まっすぐな彼から目を逸らせない。
僕は、自分の気持ちと向き合うよりも先に、返事をしてしまった。
「うん。行こうか」
彼が僕のことをどう思っているのか、少し前には気づいていた。
そんな彼と真正面から向き合えないくせに、僕は彼の優しさに甘えてしまう。
約束のデートの日。
これが彼と過ごす最後の日になる。
「……だったら」
今日だけは彼に、先生じゃなくて、僕として見てほしいと思った。
「あの、今日は先生、やめない?……仕事じゃないし」
少し照れながら、彼が頷く。
初めて名前を呼ばれただけで、頬が緩んだ。
何を食べても、何を話しても不思議と気疲れしない。
——デートって、本当はこういうものなんだ。
ワークショップで作ったカップ麺を見つめていると、どうしても手放したくなくて、彼に提案した。
「交換しない?」
僕は今日という日を、忘れたくなかった。
観覧車から街を眺めながら、彼が「楽しかった」と笑う。
——もう十分だ。
今日という一日を思い出せるなら、また家族のもとへ戻っても、きっと大丈夫。
彼と遅めの夕飯を食べ、駅まで向かっていると、後ろを歩く彼に呼び止められる。
彼の表情を見て、僕は背筋を伸ばした。
「俺は、……先生が好きです」
彼の震える唇を見て、どんな覚悟で話してくれているのかわかる。
普通はみんなが自然に感じる気持ちも、僕には分からないし、知らなかった。でも今なら、少しだけわかる気がする。
——でも、……。
僕は、彼の気持ちをどれほど理解できているのだろうか。
彼が思ってくれてるものを、僕は返せるのだろうか。
過去に言われてきた言葉を思い出し、自分の気持ちが彼と同じものなのか不安になる。
こんな気持ちで彼の気持ちに応えるのは、違う……気がする。
考えても、納得いく言葉が見つからず、僕は今言える最大限の気持ちを伝えた。
彼は僕の返事を聞いた後、少し困ったように笑って質問してくる。
「先生、……今日は楽しかった?」
——うん。すごく。
僕が深く頷くと、彼は僕を見てクシャッと笑った。
帰り道、僕たちは何を話すわけでもなく、ただそっと隣を寄り添うように歩いた。
その後。
辞める前に受け持ちの患者を引き継いだり、部長や、お世話になった先輩に挨拶をするので慌ただしい日々だった。
あっという間に、病棟が開いてくれた送別会の日になり、会場に着くと奥の席に案内される。
辺りを見回しても、彼の姿がない。
——もしかして、来ない?
店の扉が開くたびに、来た人たちの顔を見てしまう。
送別会が始まり、部長や後輩からお酌され、慣れない大人数に気を使う。
「あ、橘くん、こっちこっち」
入口の方から、誰かの話し声が耳に届き、入口を見つめると、彼が立っていた。
——いた。
この会がお開きになったら、彼に声かけよう。
もう少し彼と話がしたい。
そんなことを考えながら店を出ると、彼の姿が見当たらない。
彼と同じ席に座っていた看護師に声をかける。
「あの」
「あれ、輪島先生どうしました?」
「さっきまで、橘くんいたと思ったんだけど……」
僕の質問に、ハッとしたように看護師が答えた。
「さっき帰ったんで、急げば間に合うと思います!」
僕の背中を押すように見送られ、僕は彼を追いかけた。
——なんか、彼を追いかけること多いな。
最後の最後まで、僕は彼を追いかけていることに少し笑ってしまう。
人ごみの中、彼の後ろ姿を見つけて残りの体力を振り絞り近づくと、予想もしてない彼の言葉が耳に飛び込んでくる。
「……会いたかった」
——え?
誰に?なんでそんな嬉しそうな顔で、言っているの?
僕は気づいたら、彼の手首を掴んでいた。
「え……」
戸惑う彼に、今にも張り裂けそうな気持ちを押し殺して、息を切らしながら尋ねる。
「……誰かに会いに行くの?」
「……はい、これからちょっと飲みに行きます。先生は、カラオケですよね?」
僕が彼を追いかけてきた事なんて知らない彼は、何の気なしに返事をした。
これから僕ではない誰かに、会いに行くのか。
——……やだな。
僕は彼の手を掴んで、駅の方に向かった。
ちゃんと、彼と話したい。
他の誰かの元に、行ってほしくない。
彼にこの気持ちをどう伝えるか考えながら、無我夢中で歩いていると、背後から彼の声が耳に入ってくる。
「あっ……」
ハッとして彼の顔を見ると、彼は戸惑ったような、不安そうな顔をしていて、繋いでいた手に力が入っていることもその時気づいた。
「ちゃんと話したいから。……ついてきてくれる?」
僕がそう言うと、彼は静かに頷いて、僕の後ろをついてきてくれた。
静かな場所で、二人だけで話したい。
僕は学会で使ったことがあるホテルを思い出し、そこへ向かった。
フロントに行くと、週末ということもあり、スイートルームしか空いていないと言われたが、そんなことになりふり構ってる余裕はなかった。
「それでいいので、お願いします」
鍵を受け取り、部屋に入って彼の顔を見た瞬間。
押さえ込んでいた感情が一気に溢れて、勢いよく抱きしめてしまう。
僕の腕の中で、戸惑う彼。
「せ、先生……?」
そんな彼に、僕は情けない声でお願いする。
「……行かないで」
「え?」
「どこにも行かないで……ほしい」
泣きそうな気持ちを堪えながら、彼を見つめる。
「先生……、えっと。この状況は、……勘違いしちゃうから」
——ちがう。ちがうんだよ
「勘違いじゃない」
「……え?」
「僕……僕が、橘くんを大切にしたい」
僕の言葉を聞いて戸惑う彼に、今の正直な気持ちを伝える。
「橘くんが笑ってる時、できるだけその隣にいたい。……泣いてしまうような時は、僕が守ってあげたい。こんな気持ち初めてだから、……正直これが橘くんと同じかって聞かれると、分からないけど。でも、橘くんが他の人にそうなるのは嫌なんだ」
僕の話を聞いた彼が、瞳を潤ませながら話し出す。
「……お、俺は、先生が好き……です」
「うん」
「俺の、好きは……、先生が笑ってくれてたら嬉しいんです」
「うん」
「先生が、苦しそうに頑張ってるのは……嫌なんです」
「……うん」
——あぁ、おんなじだ。僕もだよ
「僕と、ずっと一緒にいてほしい」
僕の腕の中で何度も頷く彼を、優しく抱きしめた。
憂を帯びた彼の瞳が、僕を見つめる。
甘い雰囲気に慣れない彼が、戸惑ったように話す。
「あの……俺、あんまりこういうの……」
彼を傷つけないように、優しく唇を喰んだ。一生懸命息継ぎをする彼が、愛おしくて仕方ない。
——だめだ。
「これ以上は、……今日は、やめよう」
自分の理性がこんなにも脆い事を、初めて知った。
戸惑う僕を不安そうに見つめながら、彼が口を開く。
「あの、俺たちは、その……こ、恋人ですか?」
彼の言葉にハッとする。
——ちゃんと言ってなかった。
顔を埋めていたシーツから離れ、彼と視線を合わせる。
「僕は、橘くんの彼氏になりたい」
——やっと、言えた。
僕の言葉を聞いて、彼が嬉しそうに笑った。
「ふふ。……うん、俺も先生の彼氏になりたい」
やっぱり、笑ってる彼は素敵だ。
——この笑顔を守りたいな。
彼と恋人同士になり、僕はもっと欲が出てしまう。
今までの気持ちをちゃんと伝えた後、僕の誤解していた彼の電話相手が友人と分かり一安心する。
「僕、足りないところ沢山あると思うし。……橘くんより、一回り以上もおじさんだけど。大切にするから、僕と一緒にいて欲しいな」
できるだけ言葉にして、彼に気持ちを伝える。
すると彼は、とろんとした瞳で僕を見つめながら照れくさそうに聞いてくる。
「……ずっと、大切にしてくれますか?」
——はぁ。
目の前にいる彼が、本当に可愛くて、愛おしくて。
もうきっと、離してあげれない。
「うん。ずっと。橘くんが、僕を必要としてくれるなら」
「なら、ずっとです」
人を愛する事を、僕は初めて知った。
これから、彼との甘い恋人生活が始まる。
……かと思いきや、僕に待っていたのは引っ越しの準備に追われる日々だった。
職場の私物や、書類を片付けた後は、必要最低限なものしかないアパートに戻る。
備え付けの家電に、折りたたみベッド。
クローゼットに入った服たちを次々に段ボールにしまっていく。
「あ、……」
僕の手元には、彼とデートに行った時に制作したカップ麺。
食べてしまうのが勿体無くて、枕元の棚に飾っていた。
朝から何も食べていなかったのもあり、食べることにする。
お湯を注いで三分待つ。
その間に、もう一度カップ麺のイラストがわかるように写真に収めた。
「いただきます」
食べ慣れた味だが、特別美味しく感じてしまう。
「ご馳走様」
食べ終わった容器をゆすぎ、乾かすために裏返すと、カップ麺の底に何か書いてあるのに気づいた。
「え、なにこれ」
そこには、彼からのメッセージ。
「デートしてくれてありがとう。すごく楽しいです」
彼らしい。
——こちらこそ。
カップ麺の容器を入念に拭き、潰れないようにケースに入れて段ボール箱にしまった。
兵庫に向かう日。
彼が新幹線の乗り場まで来てくれた。
名残惜しい。
家族や友人、元妻にもこんな気持ちになったことはない。
——僕の特別。
隣で笑って見送ろうとする彼に、もっと特別がほしくてお願いする。
少し照れた彼。
いつかこの願いが叶うといいなと思い、彼の隣を離れた。
新幹線に向かって歩く僕の腕がグイッと引っ張られ、彼が耳元で囁く。
「……だいすきです、いっ……、一慶さん」
——まいったな……。
彼から名前を呼ばれるだけで、こんなにも満たされるのか。
——恋って、すごいな。
駅に着いたら、彼に電話しよう。
すでに会いたい気持ちを我慢して、僕は新幹線に乗った。
いいなぁと心の底から思っていた彼の視線が、今は僕に向いている。
きっと、僕が彼を見つめる視線も負けていない。
空っぽだった僕を、たくさんの色で埋めてくれる彼は、特別以上の存在だ。
彼が笑っている隣で、これからも過ごせますように。

