君が笑ってくれるなら

家の玄関に入り、俺はやっと声を殺して溢れる気持ちに向き合う。
 気が済むまで泣いた後、悲しくないと言ったら嘘になるが、どこかスッキリしている自分もいた。
 
「ちゃんと、言えてよかった」

 どうか輪島が笑顔で過ごせますように。
 好きな人の幸せを願える俺で良かった。

 デートをした日から、輪島とは顔を合わせることがなかった。避けられてるのか、忙しいだけなのか分からなかったが、俺から会いに行ったり連絡をすることもなかった。
 
 そうこうしているうちに、輪島の送別会の日を迎えた。
 年度末ということもあり、会場は病院から少し離れたイタリアンレストランを貸し切ったものだった。
 俺は日勤だったため、少し遅めに合流する。
 会場に着くと、奥のテーブルには呼吸器の医者や師長たちが座っていて、そこに輪島の姿もあった。
 店の入り口で立っていると、手前の席に座る真藤さんに手招きされる。
「お疲れ様!ここのテーブルでいい?」
「あ、はい。ありがとうございます」
 真藤さんに招かれて、もうお酒が入っている先輩たちからも歓迎される。

 宴会も終盤になり、みんなが見える位置で輪島が立ち上がり、退職前の挨拶があった。いつものように、穏やかに話す輪島と一瞬目が合った気がする。
 輪島の挨拶が終わると、部長からの激励や師長から看護師一同として花束が贈呈された。
 会場はあたたかい拍手に包まれ、宴会も終わりを迎える。

「じゃあ、二件目いける人ー!このまま、近くのカラオケ押さえたんで!」
 店を出ると、幹事の人たちの呼びかけが聞こえた。
 先生たちの中に輪島もいて、このまま朝まで連れ回されそうな雰囲気だ。
 隣に立つ真藤さんが、俺の方に顔を向ける。
「橘くんはどうする?」
 俺としては、もうこれ以上ここに居続ける意味はない。
 時計と睨めっこし、少し電車に乗れば通っていたゲイバーにも行けそうだった。
 ――久しぶりにママや常連さんに会って、輪島のことを聞いてもらおうかな…。
「俺は、帰ります」
「そっか!じゃあ、お疲れ!またね」
 真藤さんに見送られ、ゆっくり駅の方へ歩く。
 スマホを開き電車の時刻を調べていると、この前輪島といた時に絡んできた飲み友達からメッセージが届く。
「みんなで飲んでるよーん」
 メッセージとともに、ママや他の常連さんとの自撮り写真が送られてきたため、俺も「今から行こうかな」と返信した。
 すると、すぐに既読になり数秒後には彼から電話がかかってきた。
「もしもし」
「あ!みずくん、ほんとに来るのー?」
 陽気な声で話すのは、例の飲み友達だ。
「あ、うん。今近くにいるから。行こうかなって」
「うそー!あれから気になっててさ!みずくんに会いたかったんだよね」
 酔っ払っているから、いつもよりもテンションが高く、このまま電話を続けると、余計なことを言ってきそうな気がした。
「あー、はいはい。俺も会いたかったよ」
 彼の言葉に適当に返事をした時、後ろから手首を掴まれる。
 通話をしたまま後ろを振り返ると、息を切らしながら俺をじろっと見つめる輪島がいた。
「え……」
 思わず声に出すと、電話の先から「なに?どうしたー?」とこちらの状況を心配する声が聞こえた。
「あ、ごめん。一旦切る」
 俺は通話を終了し、この状況が理解できないまま輪島に話しかける。
「えっと……、どうしました?」
 輪島がなぜ、こんなに息を切らしているのか。
 なぜ怒ったような顔をしているのか、分からない。
「……、くの?」
 人が行き交う雑踏の中で、息を切らしながら話す輪島の言葉が聞き取れなかった。
「すみません。聞こえなくて……」
 俺の返答を聞き、輪島が息を整えるように深く呼吸をする。
「……誰かに会いに行くの?」
 先ほどまで穏やかな表情で挨拶をしていた輪島からは想像ができないほど、悲しそうな顔で俺を見つめる。
 輪島の真っ黒な瞳には俺しか映っていなくて、胸の奥がざわつく。
「……はい、これからちょっと飲みに行きます。先生は、カラオケですよね?」
 俺の返事を聞いて、輪島は何も言わずに掴んでいた手首を手のひらに移動させ、駅の方へ歩き出す。
「え!ちょ…っと、先生」
 本当に何が起きているのか分からない。
 分かることとすれば、こんな状況でも繋がれている手は温かくて、俺の前を歩く輪島から少しだけ香る洗剤の香りに胸の奥が熱くなっていた。
 何も言わずに駅の方へ歩く輪島に、少し大きな声で話しかける。
「あの、……先生!どこ、行くんですか」
「あっ……」
 輪島がハッとして、俺の顔を見て掴んでいた手を少し緩めた。
「ちゃんと話したいから。……ついてきてくれる?」
 その瞬間、いつもの優しい輪島に戻った気がして安心する。
「わかりました」
 輪島に手を繋がれたまま、駅の向こう側にあるハイクラスなホテルへ入る。
 受付で部屋の空きを確認し、ルームキーを渡される時も、輪島はずっと俺の手を離さない。
 静かなエレベーターの中には、機械音だけが響いていた。

 ――なんだ、これ?
 ……何が起きてる?

 輪島に連れられて入った部屋は、俺じゃ数年かかっても泊まることができないような広さだ。
 部屋に入った瞬間、輪島が俺の方に振り返り、勢いよく抱きしめられる。
 背中に回された腕は力強く、ふわふわした猫っ毛が俺の頬にあたる。
「せ、先生……?」
 俺のドギマギした声を聞いて、輪島が俺の肩に頭を埋めたまま小さく震えた声で話す。
「……行かないで」
「え?」
「どこにも行かないで……ほしい」
 俺は輪島の肩に手を添えて、輪島の身体をゆっくりと押す。輪島は今にも泣き出しそうな表情で、俺を見つめていた。
「先生……、えっと。この状況は、……勘違いしちゃうから」
 俺の身体からゆっくり離れていく輪島が、今度は俺の肩を強く握る。
「勘違いじゃない」
「……え?」
「僕……僕が、橘くんを大切にしたい」
 世界が一瞬静止した中で、輪島の言葉だけが俺の中に反芻される。
「それは、……どういう意味ですか」
 俺をまっすぐ見つめる輪島に、泣きそうになりながら目を逸らして聞き返す。
「橘くんが笑ってる時、できるだけその隣にいたい。……泣いてしまうような時は、僕が守ってあげたい。こんな気持ち初めてだから、……正直これが橘くんと同じかって聞かれると、分からないけど」
「……」
「でも、橘くんが他の人にそうなるのは嫌なんだ」
 ――特別なんてないって、言ってたのに……。
 輪島の真剣な表情で、この言葉たちが輪島の本心であることは嫌でも分かる。
「……お、俺は、先生が好き……です」
「うん」
「俺の、好きは……、先生が笑ってくれてたら嬉しいんです」
「うん」
「先生が、苦しそうに頑張ってるのは……嫌なんです」
「……うん」
 俺たちは話しながら、気づくとお互い泣いていた。
「俺だって、先生のそばにいたいよ……」
「……橘くん」
 輪島が俺の左手を両手で包み込み、赤く腫れた目をクシャッと細めながら、俺に笑いかける。
「僕と、ずっと一緒にいてほしい」
「……はい」
 
 俺よりも長くて、意外と筋肉質な腕に抱きしめられ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔を輪島の胸に埋めた。