君が笑ってくれるなら

俺は知恵熱を出した次の日には回復して、通常勤務に戻れた。病棟のスタッフにお礼を言いつつ、朝の申し送り前に点滴を準備する。
 
 今日も先輩たちは、いつも通り準備をしながら世間話をしていた。
「え?!まじ?!」
 一人の先輩が大きな声でそう言うと、もう一人の先輩が口元に人差し指をつけて、静かにするようにジェスチャーを送る。
 俺はまた噂話をしてるんだろうと思い、聞こえないふりをして先輩の後ろの棚に物品を取りに行く。
 その時、先輩たちが少し小さな声で話している内容が、俺の耳にも入ってくる。
「いや、ほんとだって。医局行ったら、部長と話してたもん」
「え、まじかー……。ショック。推しだったのに」
「それな。てっきり、離婚したから継ぐ話とかないと思ってたわ」
「まぁー、ぶっちゃけ、医者家系の事情とか、うちらには分からんよね」
「ね。てか、輪島先生の実家って確か兵庫だよね?」
 先輩たちの会話が流れるように聞こえてくる中、俺は物品の引き出しをゆっくり閉めて持ち場に戻る。

 ――……今、輪島って言った?
 
 朝の申し送りが始まる中、俺は先ほどの先輩たちの会話を振り返る。
 ――継ぐって、言ってた。
 先輩たちの言葉が真実なら、輪島はもう直ぐこの病院を去るのか?え、俺何も聞いてないけど……。
 あ、そうか。
 そもそも、俺に言う必要とかもないのか。
 堂々巡りな思考をしていると、いつの間にか申し送りは終わり、他のスタッフたちが持ち場へ捌けていく。

 やばい、全然聞いてなかった……。
 仕事に集中しなきゃいけないのに。
 ――輪島のことばかり、考えてしまう。

 それから三日経った頃に、休憩室の冷蔵庫に飲み会の出欠席表が貼られていた。表の上には日時の他に、「輪島先生の送別会」と書かれていた。
 俺はポケットからペンを取り出し、強く握りしめる。
 自分の名前の横に◯を描いて、ため息を吐いた。
 ――まじかよ。
 熱を出して早退した日以降、輪島と顔を合わせていない。
 連絡先は知っているが、なんて連絡すればいいのか分からず、結局俺は何もしていなかった。
「またご飯行こうって言ったくせに……」
 輪島とのトークを開いて、何か打とうとするが直ぐに閉じた。

 次の日は夕方に緊急入院があり、遅番だった俺は記録に追われていた。21時をすぎた頃やっと仕事が終わり、休憩室に鞄を取りに行く。
「お先に失礼します」
 夜勤のスタッフに挨拶をし、帰ろうとした時、カウンターでカルテを開く輪島を見つける。
 声をかけようか迷ったが、挨拶だけでもと思いカウンター越しに声をかける。
「先生、お疲れ様です」
 俺の言葉に、カルテを見ていた輪島が顔を上げる。
「あ、橘くん!お疲れ」
「はい。……じゃあ、失礼します」
 挨拶できただけでも良かった。
 そう言い聞かして、階段の方へ向かった。
 階段を降りながら、スマホを見るとアプリからの通知バーが表示される。
 
 ――あ、そういえば。まだ登録したままだ……。
 
 通知バーを押して、久しぶりにマッチングアプリを開いた。
 運営からのお知らせや、AIのおすすめする相手が表示され、適当に「いいね」を送る。
「それ」
 俺の背後から、輪島がスマホに手を伸ばす。
「え?!」
 俺は思わず手を止めて後ろを振り返ると、神妙な面持ちで輪島が立っていた。
「……今から、誰かと会うの?」
「え、いや。帰ります」
「なら、……僕とご飯行かない?」
「え?」
「ごめん、遅すぎるか」
 輪島が少し悲しそうな顔をする。
 ――何で、そんな顔するんだよ……。
「ご飯、行きます」
「え、ほんと?」
 今度は打って変わって、輪島が嬉しそうな表情をする。
 ――本当に、大概にしてくれよ。

 遅い時間だったのもあり、病院から少し離れたファミレスに輪島の車で向かった。
 車内は前に聞いたラジオが流れ、特に何かを話すわけでもなく、ただゆっくりと時間が流れた。
 ファミレスで席につき、お互い食べたいものを注文して、俺は1人でドリンクバーへ向かった。
 正直、輪島と何を話せばいいのか分からない。
 病院を辞めるのも触れていいのか?
 そもそも、まともに会話するのは熱出した日以来で、輪島が何を考えてるのか理解できなかった。
 悶々としながら席に戻ると、交代で輪島も飲み物を取りに行く。
 俺はその間、ニュースでも見ようかと思いスマホを触った。
 
 飲み物を取ってきた輪島が、向かいの席に座るといきなり質問される。
「……順調?」
 ――順調?
 俺は輪島の質問の意味が分からない。
 少し気まずそうに、輪島が言葉を付け足してもう一度聞いてくる。
「この前、自分から動くって言ってたから。出会いとか……あった?」
 輪島の表情と補足の言葉で、やっと質問の意図を理解する。
「あ、いや。結局、まだ全然です」
 俺の返答を聞いて、輪島の表情が少しだけ穏やかになった気がした。
 今度は俺のターンだと思い、話題を変える。
「先生、辞めちゃうんですね。俺、知らなかったですよー」
 俺はできるだけ明るくなるように、口角を上げて話した。すると、輪島が慌てて反応する。
「それは、えっと。本当に、急に決まって……。父親が倒れちゃったから」
「え、お父さん大丈夫ですか?」
「あ、うん。脳梗塞で。まだ退院の目処は経ってないんだけど、命に別状はないよ」
「……よかったです」
 2人の間に沈黙が走る。
「橘くんが熱出した次の日に倒れて。……最後に会った時、用無しって言ってきた母親がさ、泣きながら電話してきたんだよね」
 輪島は、眉を下げながら困ったように笑う。
「泣きながら、頼まれちゃうとさ」
 輪島はアイスティーに口をつけ、小さく笑った。
「大変でしたね」
「うん。でも、本当に部長や患者さんにも迷惑かけちゃって、俺的には申し訳ない気持ちが大きいかな」
「それは、仕方ないですよ」
 輪島が辞める背景は、俺が想像していたよりもはるかに深い淀みがあるのを感じた。

 運ばれてきたご飯を食べながら、輪島になんて言葉をかけたら良いのか考える。
 元気で頑張ってください?
 寂しいです?
 ありがとうございました?
 どれも嘘ではないが、違う気がする。
 お互い食べ終わった時、俺は輪島の目を見て口を開いた。

「先生。やっぱり、俺とデートしてくれませんか?」

 今度は、逃げない。
 どんな表情でも、どんな返答でも、ちゃんと向き合う。
 俺の言葉を聞いて、輪島が少し目を丸くしたあと、目尻を下げて優しく笑いながら返事をする。
「うん。行こうか」
 その場で、輪島と出かける日を決めてその日は解散した。