君が笑ってくれるなら

――やばい。
 
 やばい。
 
 やばい。
 
 病棟に戻りながら、心臓がどくどくして、なぜか泣きそうになる。

 ――……どうしよう。

 輪島に言い放った言葉を思い出して、仕事どころではない。身体は熱いのに、嫌な汗だけがじっとりと滲む。
 このまま、倒れてしまいそうな気分だ。

 病棟の休憩室に入ると、中には遅番の真藤さんが座っていた。
 俺を見るなり、駆け寄ってくる。
「ちょ、どした?めっちゃ顔色、悪いけど」
「あ、いや……。えっと、ちょっと今は……」
「ちょ、とりあえず熱測って」
 真藤さんに言われるがまま、俺は椅子に座り体温計を腋に入れる。
 測っている間も、頭がぼーっとする。
 測定が終わった体温計を見ると、38.6度と表示された。
「あるじゃん!帰んな!あとは、私貰うよ」
「え、いや……でも」
 考えすぎた頭は、熱の影響でさらにパンクしていく。
 言いたいことが上手くまとまらないでいると、真藤さんが俺の鞄を持ってくる。
「師長には、私から言っておくから。明日以降の勤務は、また師長に連絡して相談!はい、じゃあ帰って!」
 すれ違うスタッフに頭を下げるので精一杯の中、半ば強引にエレベーターまで連れて行かれ帰らされた。

 家につき、体温を測ると先ほどと変わらず。
 とりあえず、布団に入る。
 ――なにこれ、……知恵熱ってやつ?
 白い天井を見つめながら、最後に見た輪島の表情を思い出す。
「あれは、たぶん……もうダメ……だ」
 自覚したばかりの恋が、何も始まらないまま終わってしまった。
 いや、何もする気がなかったからアプリ登録したんだ。
 自分のブレブレな感情に、考えが追いつかない。
「とりあえず、寝よう……」
 枕元にスマホを置いて、俺は眠った。

 どれくらい寝たか分からないが、窓の外が暗くなり電気もつけずに眠ってしまったため、部屋は真っ暗だった。
 枕元のスマホの光が、かなり眩しい。
「ん……何時だ」
 スマホの画面を開くと、18時をすぎていた。
 師長からの着信と、「念のため明日の勤務は休み」という趣旨のメッセージがきていた。
 他のスタッフにも迷惑をかけて、申し訳なくなる。
 部屋の電気をつけ、体温を測ると37.4度まで下がっていた。現状報告のため師長に電話をし、シフト調整のお礼を伝える。
 電話を切った後、自分の着ている服がしっとりしていて、寝てる間に結構汗をかいたことに気づく。
「とりあえず、シャワー……」
 俺はスマホをテーブルに放り出し、風呂場へ向かった。

 シャワーを終えて着替えていると、インターホンが鳴る。
 宅配かと思い、頭にタオルを被せたまま玄関のドアを開ける。
「あ、橘くん。大丈夫?」
 扉の先に輪島が立っていて、思わず扉を閉めてしまう。
 ――え?なんで?
 外から、輪島の声が聞こえてくる。
「ごめんね。師長から体調悪くて、帰ったって聞いたから。……買ってきたもの、ここにかけておくから、よかったら食べてね。じゃあ」
 輪島はそう話して、外のドアノブに何かをかけ、立ち去っていく。
 輪島の足音が遠くなっていくのを確認して、扉を開ける。
 ドアノブにかかった袋には、ゼリーやおかゆ、スポーツドリンクが入っていた。中身を確認していると、以前輪島がくれたチョコレートのパッケージに、何か書かれているのに気づく。
「ゆっくり休んでね」
 たったその一言で、また胸が苦しくなる。
「優しくしないでよ……」
 俺は袋を抱えたまま階段を降りて、家の前の道を歩く輪島を呼び止める。
「先生!」
 俺の声を聞いて、少し先を歩いていた輪島が俺の元へ駆け寄ってくる。
「橘くん、大丈夫?熱あるんだよね?」
「あ、はい。もう、だいぶ下がりましたけど」
「そっか、よかった」
 安心する輪島を見て、本当にずるい人だなと思った。
「あの、これ……ありがとうございます」
「あ、うん。良かったら食べてね」
「はい」
 輪島に、マンションの下まで見送られる。
「じゃあ、ゆっくり休むんだよ」
 去っていく輪島を呼び止めようとして、俺は黙り込んだ。
 誰にでも親切で、優しい人だから。
 
 ――俺だけが、特別になれるわけじゃない。

俺のこの気持ちは、輪島を苦しめるのかもしれない。

そう思ったら、何も言えなかった。