残り香の湯、雨のジンガ

 十四歳の夏、私の世界は「墨」と「香水」の匂いで満ちていた。
 蝉時雨が降り注ぐ田舎の午後は、時間が煮詰まったように重く、淀んでいる。その重力から逃れるように、私は毎日、シィカお姉ちゃんの家へと続く坂道を駆け上がった。


 シィカお姉ちゃん。


 都会の大学へ進学し、長期休みのたびに洗練された風を連れて帰ってくる彼女は、私の停滞した日常における唯一の光だった。彼女の白く細い指先が、和紙の上を滑る。筆の先から生み出される三十一文字(みそひともじ)は、どれもが私には手の届かない、高貴な魔法の呪文のように見えた。


「ワカハ、墨を磨(す)るリズムが少し速いわ。もっと、呼吸に合わせて」
 隣でそう微笑むお姉ちゃんからは、彼女が「都会の香り」と呼ぶ、ほんのり甘くて少しだけ苦い、名も知らぬ香水の残り香がした。


 私は、お姉ちゃんになりたかった。


 彼女が選ぶ言葉になり、彼女が纏う服になり、彼女が愛でる万年筆になりたかった。彼女の隣で墨を磨っている間だけ、私は自分の平坦な胸や、泥に汚れた運動靴、そして「子供」という中途半端な境界線から解放されるような気がしていたのだ。


 けれど、知らなかった。
 白く清らかなシィカお姉ちゃんというキャンバスに、もうすぐ全く別の、強烈な色彩が混じり合うことを。


 そして、その色彩が私の体の中にも、消えない熱として刻み込まれることになるなんて。


 あの夏、雨の匂いと共にやってきたのは、リズムだった。
 言葉よりも先に体を揺さぶる、激しくて、重い、褐色の鼓動。


 私の筆先が、初めて震えた日のことを。
 今でも、風呂場の蒸気の中に思い出す。