住宅街を抜けると、学院へと真っ直ぐに続く長い桜並木が、瑞々しい緑のトンネルを作って二人を迎えた。朝露をたっぷりとまとった若葉がそよ風に揺れるたび、新緑の間から差し込む木漏れ日が、歴史ある石畳の上へきらきらと斑模様の影を落としていく。
昨日までの日常であれば、青葉はいつも一人、この並木道を気ままに歩いていた。お気に入りの本をめくりながら歩く日もあれば、昨日失敗した術式理論の組み立てを頭の中で反芻しながら歩く日もある。他人に自分の歩調を乱されることのない、平穏な時間だった。
けれど、今日からは違う。静寂だけが相棒だった通学路には、もう一つ、規則正しい足音が加わっていた。
(……気になる。気になりすぎて、術式の構成なんてこれっぽっちも頭に入ってこない……!)
意地でもそちらを向いてやるものかと思うものの、彼の存在だけは嫌でも隣に感じてしまう。
青葉は雑念を振り払うために、首を振って小さなため息を漏らした。その瞬間だった。
「篠宮」
「はっ!? な、何?」
突然名前を呼ばれ、青葉は変な声を上げて飛び上がった。
「ふはっ、威嚇してくる猫みたい。でも、良かった」
「……え?」
「寝不足なのは分かるけどさ。顔色は昨日よりも良くなってるから。安心した」
不意を突かれ、青葉は思わずその場に足が止まりそうになった。
「なんで、そんなこと……」
「え、違った?」
「いや、まあ……違わない、けど……」
別に、気の利いた言葉で褒められたわけでもない。ましてや、下心の透けるような甘い台詞で口説かれたわけでもない。彼はただ、純粋に“友達”として、自分の体調を気遣っているだけなのだ。
だからこそ、邪推する隙すら与えられなくて、余計に調子が狂ってしまう。
「ねえ、東雲」
「なに?」
「あんたって、昔からそうなの?」
「何が?」
「私たち、今まで別に大して接点もなかったじゃん。クラスメイトだからたまに話すことはあったけどさ。私はあんたの顔色の変化なんて、正直昨日の今日じゃよく分かんないよ」
東雲は歩きながら少しだけ考えるように視線を彷徨わせ、「んーまあ……生徒会やってると色々あんのよな」と呟いた。
「何十人もの人間が関わる組織を動かしているとさ、体調が悪そうなやつとか、キャパを超えて無理をしているやつとか……案外、見てると分かるようになるんだよ」
「……へぇ」
青葉は歩みを止めないまま、少しだけ素直に感心してしまった。
昨日までの自分なら、彼のそんな一面を知ることもなく、「どうせ完璧超人の御曹司様だから、生まれつき何でも上手くこなせるんでしょ」くらいにしか思わなかっただろう。
けれど、実際は違った。ただ与えられた才能に胡座をかいている人間ではない。見えないところで、人を見て、人を気遣うことを積み重ねてきた人だった。
東雲玲司という男を見る目が、ほんの少しだけ変わった。その時だった。
「あ! 東雲会長、おはようございまーす!」
並木道の前方から、女子生徒たちの黄色い歓声が飛んできた。
青葉が声のした方へ視線を向けると、胸のタイの色からして二年生とおぼしき女子生徒が三人。彼女たちは東雲の姿を認めた瞬間、まるで大好きなアイドルを見つけたかのように、ぱっと表情を輝かせて小走りで駆け寄ってきた。
「おはよう。挨拶運動? 朝早くから、お疲れ様」
東雲は、生徒会長としての微笑みを浮かべて挨拶を返す。
「はい! 会長こそ、今日も朝から生徒会のお仕事ですか?」
「うん、ちょっと生徒会室の書類を片付けるつもり」
「うわぁ、毎日本当にお疲れ様です! あ、これ、良かったらお昼休みに皆さんで食べてください!」
花が咲いたように楽しげに、東雲を囲んで言葉を弾ませる後輩たち。
一歩離れた場所からその華やかな光景を見て、青葉は「あ」と我に返り、静かに彼らの輪から距離をとった。
(そっか。すっかり忘れてたわ)
昨日からあまりに怒涛の展開が続きすぎて麻痺していたが、東雲玲司という男は、この学院における絶対的な人気者なのだ。彼がこうして女子生徒に囲まれ、憧憬の眼差しを浴びるなど、日常茶飯事どころか毎朝の様式美ですらある。
(……五十メートル以内なら、離れても大丈夫だよね)
自分は別に、根暗な日陰者ではないと思う。だけど、こんな華やかな輪の中は、自分の居場所ではないと感じる程度には、地味だとも思う。
ここはある程度距離を保ちつつ、他人のふりをして別々に行動した方が、お互い気まずくないはずだ——そう納得して、青葉が足早にその場をすり抜けようとした、まさにその瞬間だった。
「良いの? ありがとう! 後でみんなに配っておくよ。じゃあ、ごめん。ちょっと連れを待たせてるから」
その東雲の一言によって、女子生徒たちの探るような視線が、一斉に青葉へと注がれた。
並木道に、凍りつくような沈黙が流れる。
(やめて。そんな目でこっちを見ないで……!)
あの東雲玲司が、朝の登校時にわざわざ歩調を合わせて一緒に歩いている“連れ”が存在する。しかもそれが、教室の隅で本を読み漁っているような自分ときた。そのあまりにも場違いな光景に、青葉は強烈な胃痛を覚え、梅干しを丸かじりしたように表情を歪ませた。
「行こう、篠宮。遅れるぞ」
「……そ、そうだね」
爆弾を投下した自覚など微塵もない様子で、何事もなかったかのように再び涼しい顔で歩き出す東雲。その眩しすぎる背中を、青葉はガチガチに緊張したまま、ぎこちない足取りで追いかけることしかできなかった。
(こいつ……っ! 悪意が一ミリもないから、余計にタチが悪い……!!)
朝の学院へと続く緑豊かな並木道に、「え、あの人って……」「なんで会長と一緒に……?」という女子たちの小さなざわめきが、不穏な漣のように広がっていく。
これから始まるであろう激動の学院生活の予感に、冷や汗を流しているのは、どうやら世界中で青葉ただ一人だけのようだった。隣には、そんなことなど露ほども気にしていなさそうな様子の男。その横顔を見ているうちに、青葉はついに耐え切れなくなり、東雲をキッと睨みつけた。
「……ちょっと、ねえ」
「うん? どうした?」
「今、あの女の子たちの前で何て言った?」
「何って……『連れを待たせてるから』って」
「言ったよね!」
「言ったな」
「なんでわざわざそんな誤解を招くような言い方するの!」
東雲は責められる理由が本気で分からないといった様子で、きょとんと綺麗な目を瞬かせた。
「だって事実だろ。現に一緒に登校しているんだから」
「事実だけども!!」
「じゃあ何が問題なんだ?」
「伝え方がまずいんだってば!!」
思わず声が裏返り、青葉は慌てて両手で自分の口を押さえた。朝の静かな並木道に響いた奇声に、前方を歩く生徒が何人か不審そうにこちらを振り返る。
東雲は少し困ったように、整えられた黒髪を掻いた。
「俺、そんな気に障るようなことやったか?」
「やったよ! 大罪だよ!」
「えぇ……」
「誰も事情を知らないのに、あんたみたいな学院一の有名人に『連れ』なんて身内みたいな言われ方をしたら、周りが勝手に誤解するでしょ!?」
「誤解?」
「だから!」
あまりの通じなさに、青葉は言葉に詰まって思わず両手をせわしなく振り回した。
「……こ、恋人とか! そういう、浮ついた関係なんじゃないかって!」
「…………」
東雲は数秒間、ピタリと動きを止めて黙り込んだ。そして——
「ああ!」
ようやくすべての点と線が繋がったように、ぽんと手を打って深く頷く。
「確かに、そう受け取られる可能性もあるか」
「今気付いたの!?」
「そこまで考えてなかった」
「少しは考えてよ、学年主席が聞いて呆れるわ!」
青葉は本格的に頭を抱えたくなった。
「お願いだから、自分の立場を自覚して行動して!」
東雲は、その端正な顔にこれ以上ないほど殊勝な反省の色を浮かべ、素直に謝った。
「ごめん。次からは気をつける」
「っ、……本当に? 信じていいのね?」
「おう!」
(そんな顔で素直に謝られたら、怒るに怒れなくなるじゃん……)
毒気を抜かれて怒りのやり場を失った青葉は、深いため息を飲み込みながら、再び足早に歩き出した。
昨日までの日常であれば、青葉はいつも一人、この並木道を気ままに歩いていた。お気に入りの本をめくりながら歩く日もあれば、昨日失敗した術式理論の組み立てを頭の中で反芻しながら歩く日もある。他人に自分の歩調を乱されることのない、平穏な時間だった。
けれど、今日からは違う。静寂だけが相棒だった通学路には、もう一つ、規則正しい足音が加わっていた。
(……気になる。気になりすぎて、術式の構成なんてこれっぽっちも頭に入ってこない……!)
意地でもそちらを向いてやるものかと思うものの、彼の存在だけは嫌でも隣に感じてしまう。
青葉は雑念を振り払うために、首を振って小さなため息を漏らした。その瞬間だった。
「篠宮」
「はっ!? な、何?」
突然名前を呼ばれ、青葉は変な声を上げて飛び上がった。
「ふはっ、威嚇してくる猫みたい。でも、良かった」
「……え?」
「寝不足なのは分かるけどさ。顔色は昨日よりも良くなってるから。安心した」
不意を突かれ、青葉は思わずその場に足が止まりそうになった。
「なんで、そんなこと……」
「え、違った?」
「いや、まあ……違わない、けど……」
別に、気の利いた言葉で褒められたわけでもない。ましてや、下心の透けるような甘い台詞で口説かれたわけでもない。彼はただ、純粋に“友達”として、自分の体調を気遣っているだけなのだ。
だからこそ、邪推する隙すら与えられなくて、余計に調子が狂ってしまう。
「ねえ、東雲」
「なに?」
「あんたって、昔からそうなの?」
「何が?」
「私たち、今まで別に大して接点もなかったじゃん。クラスメイトだからたまに話すことはあったけどさ。私はあんたの顔色の変化なんて、正直昨日の今日じゃよく分かんないよ」
東雲は歩きながら少しだけ考えるように視線を彷徨わせ、「んーまあ……生徒会やってると色々あんのよな」と呟いた。
「何十人もの人間が関わる組織を動かしているとさ、体調が悪そうなやつとか、キャパを超えて無理をしているやつとか……案外、見てると分かるようになるんだよ」
「……へぇ」
青葉は歩みを止めないまま、少しだけ素直に感心してしまった。
昨日までの自分なら、彼のそんな一面を知ることもなく、「どうせ完璧超人の御曹司様だから、生まれつき何でも上手くこなせるんでしょ」くらいにしか思わなかっただろう。
けれど、実際は違った。ただ与えられた才能に胡座をかいている人間ではない。見えないところで、人を見て、人を気遣うことを積み重ねてきた人だった。
東雲玲司という男を見る目が、ほんの少しだけ変わった。その時だった。
「あ! 東雲会長、おはようございまーす!」
並木道の前方から、女子生徒たちの黄色い歓声が飛んできた。
青葉が声のした方へ視線を向けると、胸のタイの色からして二年生とおぼしき女子生徒が三人。彼女たちは東雲の姿を認めた瞬間、まるで大好きなアイドルを見つけたかのように、ぱっと表情を輝かせて小走りで駆け寄ってきた。
「おはよう。挨拶運動? 朝早くから、お疲れ様」
東雲は、生徒会長としての微笑みを浮かべて挨拶を返す。
「はい! 会長こそ、今日も朝から生徒会のお仕事ですか?」
「うん、ちょっと生徒会室の書類を片付けるつもり」
「うわぁ、毎日本当にお疲れ様です! あ、これ、良かったらお昼休みに皆さんで食べてください!」
花が咲いたように楽しげに、東雲を囲んで言葉を弾ませる後輩たち。
一歩離れた場所からその華やかな光景を見て、青葉は「あ」と我に返り、静かに彼らの輪から距離をとった。
(そっか。すっかり忘れてたわ)
昨日からあまりに怒涛の展開が続きすぎて麻痺していたが、東雲玲司という男は、この学院における絶対的な人気者なのだ。彼がこうして女子生徒に囲まれ、憧憬の眼差しを浴びるなど、日常茶飯事どころか毎朝の様式美ですらある。
(……五十メートル以内なら、離れても大丈夫だよね)
自分は別に、根暗な日陰者ではないと思う。だけど、こんな華やかな輪の中は、自分の居場所ではないと感じる程度には、地味だとも思う。
ここはある程度距離を保ちつつ、他人のふりをして別々に行動した方が、お互い気まずくないはずだ——そう納得して、青葉が足早にその場をすり抜けようとした、まさにその瞬間だった。
「良いの? ありがとう! 後でみんなに配っておくよ。じゃあ、ごめん。ちょっと連れを待たせてるから」
その東雲の一言によって、女子生徒たちの探るような視線が、一斉に青葉へと注がれた。
並木道に、凍りつくような沈黙が流れる。
(やめて。そんな目でこっちを見ないで……!)
あの東雲玲司が、朝の登校時にわざわざ歩調を合わせて一緒に歩いている“連れ”が存在する。しかもそれが、教室の隅で本を読み漁っているような自分ときた。そのあまりにも場違いな光景に、青葉は強烈な胃痛を覚え、梅干しを丸かじりしたように表情を歪ませた。
「行こう、篠宮。遅れるぞ」
「……そ、そうだね」
爆弾を投下した自覚など微塵もない様子で、何事もなかったかのように再び涼しい顔で歩き出す東雲。その眩しすぎる背中を、青葉はガチガチに緊張したまま、ぎこちない足取りで追いかけることしかできなかった。
(こいつ……っ! 悪意が一ミリもないから、余計にタチが悪い……!!)
朝の学院へと続く緑豊かな並木道に、「え、あの人って……」「なんで会長と一緒に……?」という女子たちの小さなざわめきが、不穏な漣のように広がっていく。
これから始まるであろう激動の学院生活の予感に、冷や汗を流しているのは、どうやら世界中で青葉ただ一人だけのようだった。隣には、そんなことなど露ほども気にしていなさそうな様子の男。その横顔を見ているうちに、青葉はついに耐え切れなくなり、東雲をキッと睨みつけた。
「……ちょっと、ねえ」
「うん? どうした?」
「今、あの女の子たちの前で何て言った?」
「何って……『連れを待たせてるから』って」
「言ったよね!」
「言ったな」
「なんでわざわざそんな誤解を招くような言い方するの!」
東雲は責められる理由が本気で分からないといった様子で、きょとんと綺麗な目を瞬かせた。
「だって事実だろ。現に一緒に登校しているんだから」
「事実だけども!!」
「じゃあ何が問題なんだ?」
「伝え方がまずいんだってば!!」
思わず声が裏返り、青葉は慌てて両手で自分の口を押さえた。朝の静かな並木道に響いた奇声に、前方を歩く生徒が何人か不審そうにこちらを振り返る。
東雲は少し困ったように、整えられた黒髪を掻いた。
「俺、そんな気に障るようなことやったか?」
「やったよ! 大罪だよ!」
「えぇ……」
「誰も事情を知らないのに、あんたみたいな学院一の有名人に『連れ』なんて身内みたいな言われ方をしたら、周りが勝手に誤解するでしょ!?」
「誤解?」
「だから!」
あまりの通じなさに、青葉は言葉に詰まって思わず両手をせわしなく振り回した。
「……こ、恋人とか! そういう、浮ついた関係なんじゃないかって!」
「…………」
東雲は数秒間、ピタリと動きを止めて黙り込んだ。そして——
「ああ!」
ようやくすべての点と線が繋がったように、ぽんと手を打って深く頷く。
「確かに、そう受け取られる可能性もあるか」
「今気付いたの!?」
「そこまで考えてなかった」
「少しは考えてよ、学年主席が聞いて呆れるわ!」
青葉は本格的に頭を抱えたくなった。
「お願いだから、自分の立場を自覚して行動して!」
東雲は、その端正な顔にこれ以上ないほど殊勝な反省の色を浮かべ、素直に謝った。
「ごめん。次からは気をつける」
「っ、……本当に? 信じていいのね?」
「おう!」
(そんな顔で素直に謝られたら、怒るに怒れなくなるじゃん……)
毒気を抜かれて怒りのやり場を失った青葉は、深いため息を飲み込みながら、再び足早に歩き出した。

