翌朝。
青葉はほとんど眠ることができないまま、朝日で白んでいく窓の外を、ぼうっと眺めていた。
微睡みに沈みかけるたび、左手首の奥からじわじわと這い上がってくる不快な熱に叩き起こされ、浅い睡眠を何度も繰り返す羽目になったからだ。
昨日までは何もなかったはずの肌の上で、淡い紅色の番紋が、今もなお静かな拍動を刻んでいる。
(本当に……夢であってほしかった)
鏡に映る自分の目元には、絵に描いたような濃いクマが浮かんでいる。あまりにひどい寝不足顔に少しだけ笑えた。
居間にいた母には、詮索を避けるために『少し試験勉強で疲れているだけ』とだけ濁してある。父にもまだ話していない。心の準備が整うまで、この紋様の発現を両親へ打ち明けるつもりはなかった。
心身ともにボロボロで、できることなら今日一日くらい学校を休みたい。
けれど。
(……ここで逃げたら、運命に負けたことになる)
最先端の研究所に入り、立派な研究者になる。そのために血の滲むような努力を重ねてきたのだ。たかが不可抗力の番紋ごときに、自分の大切な日常を一秒たりとも譲り渡したくはなかった。
「行ってきます」
背後の静かな廊下へ誰にともなくそう告げ、玄関の扉へ手を掛ける。
ガチャ、と音を立てて引くと、朝独特の清々しい空気が、青葉の前髪を揺らした。
「おはよう、篠宮」
「…………」
我が家の古びた門扉の前。乱れのない制服に身を包んだ東雲玲司が、眩い朝日に照らされながら、驚くほど爽やかな笑顔で片手を挙げて佇んでいた。
「…………」
青葉は無言のまま、静かに玄関の扉を閉めた。
ガチャリ。
音を立てて扉が閉まり、閉ざされた玄関の中に再び静寂が戻る。
(……何も見なかった)
昨日はいろいろと現実離れした出来事が起きすぎたのだ。脳の疲労が限界を迎えているに違いない。人間、徹夜気味になれば幻覚の一つや二つ、普通に見る。
胸元で深く呼吸を一つ。よし、と気合を入れ直して、もう一度扉を開ける。
「おはよう。今日もいい天気だな」
そこには、さっきと寸分違わぬ爽やかな笑顔を浮かべた東雲が立っていた。
「…………」
バタンッ。
青葉はもう一度、素早く扉を閉めた。
「青葉ー? 出たり入ったりしてどうしたの?」
廊下の奥から、不思議そうな母の声が飛んでくる。
「な、なんでもない! ちょっと、忘れ物確認しただけ!」
なんでもなくない。全くもって、なんでもなくない。
昨日あれだけのことがあったというのに、東雲が当たり前のように我が家の前に立っているのだから。
(なんで来てんの、あのバカ……!)
これ以上玄関で不審な挙動を続ければ母に出てこられてしまう。観念した青葉は、恨めしさを全面に押し出しながら三度扉を開けた。
東雲は今度は声を掛けず、何事もなかったかのような穏やかな瞳でこちらを見つめていた。
「……あんた、朝から一体何をしてんの」
「え? 何って、篠宮を迎えに来たんだ」
「それは見れば分かるけど!」
閑静な朝の住宅街に、青葉の鋭いツッコミが響き渡る。
「昨日の今日だよ!? 私があれだけ拒絶したのに、よく平然とした顔で私の家の前に立てるよね! 鉄の心臓なの!?」
あまりの剣幕に、東雲はほんの少しだけ不思議そうに首を傾げた。
「だって、調月先生が言ってただろ?」
「……は?」
「学校では原則として一緒に行動しろって。だったら、登校も一緒の方が合理的だろ?」
大真面目なその言葉に、青葉の脳裏へ、昨日朦朧とした意識の中で聞いた調月の話が蘇った。
『当分の間、少なくとも学校生活では、登校から下校まで原則として行動をともにしろ』
『勘違いするなよ。これは点滴を打っている患者に向かって“移動するときは点滴スタンドを持って歩け”と言っているのと同じだ』
「だから、来た」
一点の曇りもない真顔でさらりと言う東雲に、青葉はその場にしゃがみ込んで頭を抱えたくなった。
(つまり、自分が点滴スタンドだと? にしたってさあ、律儀すぎるでしょ……!)
普通の男子高校生なら、昨日あれだけ真正面から拒絶されたら、いくら医師の指示があったって気まずくて距離を置くはずだ。視線が合うことすら避けるのが一般的な人間の繊細さというものだろう。
なのに目の前の男は、そんな繊細な空気の壁を“合理的だから”という理屈だけを頼りに、馬鹿正直に正面突破し、いとも簡単に粉砕してしまう。
「……ねえ、東雲」
「うん? なに?」
「あんた、『生きるの大変そう』って言われたことない?」
東雲は真剣な表情で数秒ほど記憶を模索し、
「……あー。よく言われるかも」
と、至って平然と答えた。
青葉は思わず額を手のひらで押さえた。
「自覚はあるのね……」
「でも、お前が昨日みたいにまた道端で倒れたら困るだろ? 俺たち、一応“友達”になったんだからさ」
「…………」
番という運命を後ろ盾にした押しつけがましさも、恩着せがましい響きも、これっぽっちも混ざっていない。ただ、目の前で体調を崩しかけているクラスメイトを純粋に案じる、どこまでも誠実な言葉だった。
(……本当に、変なやつ)
昨日までの青葉は、東雲玲司という存在を、絶対に自分とは相容れない人間だと思っていた。
けれど、こうして見えない鎖で繋がれ、至近距離で観察してみればどうだ。実際は、融通が利かなくて、呆れるほど真面目で——気まずさなんか飛び越えて、他人を優先してしまう。
(なんなんだろう、この人)
青葉は小さく肩をすくめ、降参の合図代わりに短いため息を吐き出した。
「……行こ。遅刻したら内申に響くでしょ」
「おう、行くか」
二人は適度な距離を保ったまま、並んで朝の住宅街を歩き出した。
昨日までとはほんの少しだけ、けれど決定的に景色が違う朝が、静かに始まろうとしていた。
青葉はほとんど眠ることができないまま、朝日で白んでいく窓の外を、ぼうっと眺めていた。
微睡みに沈みかけるたび、左手首の奥からじわじわと這い上がってくる不快な熱に叩き起こされ、浅い睡眠を何度も繰り返す羽目になったからだ。
昨日までは何もなかったはずの肌の上で、淡い紅色の番紋が、今もなお静かな拍動を刻んでいる。
(本当に……夢であってほしかった)
鏡に映る自分の目元には、絵に描いたような濃いクマが浮かんでいる。あまりにひどい寝不足顔に少しだけ笑えた。
居間にいた母には、詮索を避けるために『少し試験勉強で疲れているだけ』とだけ濁してある。父にもまだ話していない。心の準備が整うまで、この紋様の発現を両親へ打ち明けるつもりはなかった。
心身ともにボロボロで、できることなら今日一日くらい学校を休みたい。
けれど。
(……ここで逃げたら、運命に負けたことになる)
最先端の研究所に入り、立派な研究者になる。そのために血の滲むような努力を重ねてきたのだ。たかが不可抗力の番紋ごときに、自分の大切な日常を一秒たりとも譲り渡したくはなかった。
「行ってきます」
背後の静かな廊下へ誰にともなくそう告げ、玄関の扉へ手を掛ける。
ガチャ、と音を立てて引くと、朝独特の清々しい空気が、青葉の前髪を揺らした。
「おはよう、篠宮」
「…………」
我が家の古びた門扉の前。乱れのない制服に身を包んだ東雲玲司が、眩い朝日に照らされながら、驚くほど爽やかな笑顔で片手を挙げて佇んでいた。
「…………」
青葉は無言のまま、静かに玄関の扉を閉めた。
ガチャリ。
音を立てて扉が閉まり、閉ざされた玄関の中に再び静寂が戻る。
(……何も見なかった)
昨日はいろいろと現実離れした出来事が起きすぎたのだ。脳の疲労が限界を迎えているに違いない。人間、徹夜気味になれば幻覚の一つや二つ、普通に見る。
胸元で深く呼吸を一つ。よし、と気合を入れ直して、もう一度扉を開ける。
「おはよう。今日もいい天気だな」
そこには、さっきと寸分違わぬ爽やかな笑顔を浮かべた東雲が立っていた。
「…………」
バタンッ。
青葉はもう一度、素早く扉を閉めた。
「青葉ー? 出たり入ったりしてどうしたの?」
廊下の奥から、不思議そうな母の声が飛んでくる。
「な、なんでもない! ちょっと、忘れ物確認しただけ!」
なんでもなくない。全くもって、なんでもなくない。
昨日あれだけのことがあったというのに、東雲が当たり前のように我が家の前に立っているのだから。
(なんで来てんの、あのバカ……!)
これ以上玄関で不審な挙動を続ければ母に出てこられてしまう。観念した青葉は、恨めしさを全面に押し出しながら三度扉を開けた。
東雲は今度は声を掛けず、何事もなかったかのような穏やかな瞳でこちらを見つめていた。
「……あんた、朝から一体何をしてんの」
「え? 何って、篠宮を迎えに来たんだ」
「それは見れば分かるけど!」
閑静な朝の住宅街に、青葉の鋭いツッコミが響き渡る。
「昨日の今日だよ!? 私があれだけ拒絶したのに、よく平然とした顔で私の家の前に立てるよね! 鉄の心臓なの!?」
あまりの剣幕に、東雲はほんの少しだけ不思議そうに首を傾げた。
「だって、調月先生が言ってただろ?」
「……は?」
「学校では原則として一緒に行動しろって。だったら、登校も一緒の方が合理的だろ?」
大真面目なその言葉に、青葉の脳裏へ、昨日朦朧とした意識の中で聞いた調月の話が蘇った。
『当分の間、少なくとも学校生活では、登校から下校まで原則として行動をともにしろ』
『勘違いするなよ。これは点滴を打っている患者に向かって“移動するときは点滴スタンドを持って歩け”と言っているのと同じだ』
「だから、来た」
一点の曇りもない真顔でさらりと言う東雲に、青葉はその場にしゃがみ込んで頭を抱えたくなった。
(つまり、自分が点滴スタンドだと? にしたってさあ、律儀すぎるでしょ……!)
普通の男子高校生なら、昨日あれだけ真正面から拒絶されたら、いくら医師の指示があったって気まずくて距離を置くはずだ。視線が合うことすら避けるのが一般的な人間の繊細さというものだろう。
なのに目の前の男は、そんな繊細な空気の壁を“合理的だから”という理屈だけを頼りに、馬鹿正直に正面突破し、いとも簡単に粉砕してしまう。
「……ねえ、東雲」
「うん? なに?」
「あんた、『生きるの大変そう』って言われたことない?」
東雲は真剣な表情で数秒ほど記憶を模索し、
「……あー。よく言われるかも」
と、至って平然と答えた。
青葉は思わず額を手のひらで押さえた。
「自覚はあるのね……」
「でも、お前が昨日みたいにまた道端で倒れたら困るだろ? 俺たち、一応“友達”になったんだからさ」
「…………」
番という運命を後ろ盾にした押しつけがましさも、恩着せがましい響きも、これっぽっちも混ざっていない。ただ、目の前で体調を崩しかけているクラスメイトを純粋に案じる、どこまでも誠実な言葉だった。
(……本当に、変なやつ)
昨日までの青葉は、東雲玲司という存在を、絶対に自分とは相容れない人間だと思っていた。
けれど、こうして見えない鎖で繋がれ、至近距離で観察してみればどうだ。実際は、融通が利かなくて、呆れるほど真面目で——気まずさなんか飛び越えて、他人を優先してしまう。
(なんなんだろう、この人)
青葉は小さく肩をすくめ、降参の合図代わりに短いため息を吐き出した。
「……行こ。遅刻したら内申に響くでしょ」
「おう、行くか」
二人は適度な距離を保ったまま、並んで朝の住宅街を歩き出した。
昨日までとはほんの少しだけ、けれど決定的に景色が違う朝が、静かに始まろうとしていた。

