つがいがなんだってんだ!

 ◇

 篠宮家の玄関の扉が、夜の静寂の中にカチャリと静かな音を立てて閉じる。その冷たい金属音を聞き届けてからも、しばらくの間、玲司はアスファルトの上に縫い付けられたように動くことができなかった。
 深い群青が空一面を塗りつぶしている。閑静な住宅街には人の気配などほとんどなく、生い茂る生垣の奥から響く不揃いな虫の鳴き声だけが、妙に耳の奥へまとわりついた。

「……帰るか」

 声に出して自分を促し、ようやく一歩を踏み出したものの、その足取りはひどく重かった。
 放課後から今に至るまでのほんの二時間の中で、この身に起きた出来事の質量が、あまりにも大きすぎる。
 右手首に突如として顕れた番紋。調月から告げられた、これから三か月の制約。そして——。

『番だからって理由で、誰かを好きになることだけは、絶対にないから』

 冷たく、けれど退路を断つような強い光を宿した彼女の瞳が脳裏をよぎり、胸の最奥がズキリと鈍く痛んだ。

「……そっか」

 要するに、自分は明確に篠宮に振られたわけだ。これまで周囲から向けられてきた好意とは全く違う、純度百パーセントの拒絶。その事実だけは、不思議なくらいすんなりと脳が理解してくれた。

 ……それなのに、どうしてこんなにも胸が苦しいんだろう。

 ふいに、保健棟で聞いた調月の言葉が脳裏に蘇る。

『番同士の霊力ってのは、発現と同時に、お互いを一つの大きな循環回路として繋ごうとする性質がある』
『今のお前たちの番紋も、本質的には同じ生体反応に過ぎない』

 玲司は無意識に自分の両手へ視線を落とした。
 初期霊障の影響なのか。篠宮が廊下から逃げていったあの瞬間から、今に至るまで、その痺れは消えないまま残っていた。
 そして、中庭で倒れた篠宮を抱き上げた時。腕の中から、青く透き通る植物を思わせる、凛とした香りがふわりと漂った。それが鼻先を掠めた瞬間、どうしようもなく、魂を揺さぶられてしまったのだ。
 いつか聞いたことがある。番には、“番同士にしか分からない香り”があるのだと。
 手の痺れも、あの香りも。
 それらはこの紋様が刻まれた瞬間から、身体が意思とは無関係に反応しているという現実を、嫌というほど突きつけてくる。

 ——この胸の痛みすら、番という生体現象がもたらす反応に過ぎないのだろうか。

 制服の袖を少しだけ捲り上げる。闇の中でもなお、淡く紅い光を放つ番紋が、生き物のように静かに脈打っていた。それを見つめているうちに、昼休みに篠宮とその友人たちに向かって言った自分自身の言葉が呼び起こされる。

『番は運命の祝福だろ』

 あの時は、本気でそう信じていた。疑う余地すらなかったのだ。
 東雲の歴史の中で自分が見てきた番の先人たちは、誰もが皆、例外なく幸せな家庭を築いていたから。
 だけど。

『お姉ちゃんは、蒼介くんとの婚約を強制的に破棄させられた』

 そう告白する彼女の、あの低く震えていた声が、脳裏に強く焼き付いていた。
 運命。祝福。そんな綺麗な言葉の裏で、夢見た未来を引き裂かれた人間が、確かに存在する。自分たち名家が当然のように享受してきた“奇跡”の陰で、篠宮青葉という少女は、大切な家族の悲劇を、そのすぐ傍で目の当たりにしたのだ。

(俺は……)

 玲司はふと、歩みを止める。頭上の街灯が一つ、瞬きを繰り返したあと、ぱっと白い光を灯した。
 光に透ける右手首の紋様に、左手の指先でそっと触れてみる。まるで自分の身体のなかに、もう一つ別の鼓動が埋め込まれてしまったかのような錯覚を覚えた。

(俺は、一体何を考えてる)

 何を悩み、何に怯えているのか。答えなら、とっくに決まっているはずなのに。

 俺は——篠宮のことが、好きだったのだ。

 そこまで思考が行き着いて、玲司はゆっくりと両手を降ろした。

(……いや)

 本当に、そうなのか?
『好きなのだ』という疑いようのない感情さえも、この手首の紋様が脳に見せている、精巧な“錯覚”ではないと、何故言い切れるというのか。
 だって。
 あの廊下で、互いの手首に淡い紅色が浮かび上がった瞬間。
 自分の心は確かに、あの混沌とした状況に反して、跳ねるように歓喜していなかったか。
 篠宮があんなにも顔を真っ青にして苦しんでいたのに、取り返しのつかない不条理に怯えて涙を流していたのに、自分は心のどこかで、間違いなく安堵してしまったのだ。

 ——『ああ、俺の相手は、篠宮だったんだ』と。

「はは……最低だな、俺は」

 思わず額を押さえ、声を出して笑ってしまった。酷い自嘲だった。自分自身の底浅さに、心の底から嫌気がさす。あんなに傷ついている相手を目の前にして、自分は“番”という繋がりそのものに、どこかで期待を抱いてしまっていたのだ。
 それさえも、番紋が魂へ刻み込んだ反応だというのか。考えれば考えるほど、思考は濃い霧の奥へと消え去り、確かな輪郭を失っていく。

『今日はこれ以上、何も考えるなよ』

 去り際の調月の、ぶっきらぼうな忠告が鼓膜に蘇る。

「……無理ですよ、先生」

 こんな呪いのような熱を埋め込まれて、何も考えるなという方が不可能な話だ。
 冷たさを増した夜風が、前髪を激しく揺らしていく。
 目を閉じると不意に、まだうっすらと寒さの残る四月の教室の情景が浮かび上がった。
 それは、高等部一年の春。五十音順に並べられた席で、自分のすぐ後ろに座っていたのが、篠宮だった。あれは、何かの拍子に、前から渡ってきた書類を回した時のこと。

『あ。ありがとう、東雲くん』

 たったそれだけの、大して親しくもないクラスメイトとしての短いやり取りだった。
 だがこの時、事務的に書類を渡しただけなのに、誰に媚を売るわけでもなく、静かに『ありがとう』と、彼女は言ったのだ。その飾り気のない礼が、やけに新鮮に感じて、思わず後ろを振り返ったのを覚えている。
 それ以来、気がつけば彼女の姿を目で探すことが増えていた。
 昼休み、周囲の喧騒から逃れるように難解な霊術書に没頭していた姿。普段はあんなに素っ気ないのに、自分の好きな研究の話になると、まるで子どもみたいにその大きな瞳を嬉しそうに輝かせるところ。弓道場で、凛とした空気を纏いながら真っ直ぐに的を見据えていた、美しい横顔。
 二年に上がってクラスが離れてからも、たまに廊下ですれ違う彼女の姿や学年テストの成績上位者一覧に貼り出された彼女の名前を見つける度に、胸の奥がほわりと温かくなった。
 そして、三年の始業式。クラス名簿に並んだ自分の名前のすぐ下に、篠宮青葉を見つけた瞬間、自分でも不思議なほどに、嬉しいという気持ちが湧き上がったのだ。

『——私は、これが好きなの』

 今日の放課後の図書館で、そう言ってはにかむように見せてくれた、あの嫋やかな笑顔が鮮明に蘇る。
 あの瞬間、自分たちの手首には、運命の番紋なんてまだ、影も形も無かったはずだ。
 それなのに、どうして自分はあんなにも彼女の姿が頭から離れないのか。
 あれは、本当に自分自身の感情だったのか。それとも、まだ刻まれてもいない番の運命が、知らないうちに自分を引き寄せていたのだろうか。

「友達」

 口の中で、その寂しい響きを小さく転がしてみる。

「友達として……か」

 声に出したその言葉は意外にも、荒んだ胸の隙間にすとんと綺麗に落ちてくれた。
 好きになってもらわなくていい。番という絶対的な特権を使って、彼女の心を無理矢理こちらに振り向かせようなんて、思わない。
 それでも、ただの“友達”としてなら。
 この不自由な三か月の間、彼女の隣を歩くための免罪符にしてもいいだろうか。
 “友達”という名で梱包すれば、彼女が望む未来を壊さずに、傍にいることだけは許される。
 そう思った瞬間、胸の奥にあった痛みが、ほんの少しだけ形を変えた。それが救いなのか、それとも自分で自分に()めた枷なのかは分からない。
 それでも今は、もっと篠宮青葉という一人の人間を知りたかった。
 彼女がどんな景色を見て、何を愛し、何を憎み、その小さな両手で何を守ろうともがいているのか。
 知りたい、と願うこの切実な気持ちの行き場を、今はまだ“友達”という名前の箱に、そっと閉じ込めておこう。
 玲司は右手首を制服の袖で隠し、天を仰いだ。吸い込まれそうなほど透明な夜空には、一粒の星が、航海灯のように静かに輝いていた。