保健棟から一歩外へ出ると、生温い風がそっと青葉の頬を撫でた。
校舎の向こうからは、自主練習に励む運動部の掛け声がかすかに響いていた。濃い茜色から薄暮へと移り変わる空を、ねぐらへ急ぐ鳥の群れが横切っていく。
二人の間に、会話はなかった。
ただ、帰路へと続く校門へ向かって、長く伸びた影を引きずりながら、静かに桜の並木道を歩いていく。
左手首の奥では、未だにじりじりと焼けるような熱が燻り続けていた。
ドクン、ドクンと番紋が脈打つたびに、東雲の霊力と不本意に共鳴し、身体の奥から五感が過敏になっていくような奇妙な感覚に襲われた。青葉のすぐ後ろからは、規則正しい足音が聞こえてくる。近づいては離れて、離れては近づき——見えない境界線を探るように、東雲は一定の距離を保ちながら歩いていた。
(……気まずすぎて、息が詰まりそう)
何か言葉を発しなければ、という焦燥はある。けれど、硬く結んだ唇から、一体何を溢れさせればいいのだろう。今の青葉にはさっぱり分からなかった。番紋がこの肌に発現してから、まだ一時間しか経っていないのだ。このあまりにも短すぎる時間の中で、自分が思い描いていた未来は、音を立てて姿を変えてしまった。
「……篠宮」
不意に、背後から静かで低い声が鼓膜を叩いた。
青葉は足を止めず、ただ前を見据えたまま歩調を緩める。
「ごめん」
東雲の謝罪に、青葉の目尻がぴくりと動く。
「俺……お前が番のことを、そんなふうに思ってたなんて、知らなかった」
その声音には、昼休みに校庭で見せていたような、誰もが惹きつけられる堂々とした自信は微塵もなかった。
青葉はしばらくの間、ただ自分の靴がアスファルトを擦る音だけを聴きながら、黙って歩き続ける。しかしやがて、胸の奥に凝り固まったしこりを吐き出すように、小さく息を漏らした。
「……桜お姉ちゃん」
「え?」
「私の姉の話。篠宮桜」
東雲からの返答はなかった。ただ黙って、青葉が続ける言葉を待っている。
「お姉ちゃんはね、この学院を主席で卒業したの。本当に優秀で、そのまま最先端の霊術研究所に入って……私なんかよりずっと、研究者として将来を期待されていた。……婚約者もいた」
街灯がちらつき始めたアスファルトへ視線を落としたまま、青葉はぽつり、ぽつりと、胸の傷口を開くように言葉を紡いでいく。
「蒼介くんっていうの。本当に仲が良くて、幸せそうで……私も、本当のお兄ちゃんみたいに慕ってた」
不意に強い風が吹き抜け、街路樹のナンキンハゼがさらさらと寂しげな音を立てて揺れた。青葉は歩みを止めないまま、制服の袖越しに左手首を、指先が白くなるほど握り締めた。
「知ってる? 女性は二十一歳の誕生日を迎えるまでしか、番紋は顕れないの。だから、お姉ちゃんも蒼介くんも、もう大丈夫だって思ってた。……でも、二十一歳になる誕生日の三日前……お姉ちゃんの手首にも、これが出たの」
歩みを止めることなく話し続ける青葉へ、東雲は恐る恐る問いかけた。
「その、相手は……?」
「蒼介くんじゃなかった」
ひゅっ、と息を呑む音だけが、静まり返った夜道に小さく響いた。東雲はそれ以上何も訊くことなく、ただただ言葉を失っていた。青葉もまた、込み上げる感情を噛み殺すように、すぐには言葉を続けられなかった。いくつかの並木を通り過ぎ、夜の影が色濃くなってから、ようやく喉の奥から声を絞り出す。
「研究所で知り合ったばかりの、名家の上司だった。お姉ちゃんは、蒼介くんとの婚約を強制的に破棄させられた。しばらくして、あれだけ愛していた研究の仕事も辞めて……周囲から『名家なんだから』『番なんだから』って言われるまま、その上司の家へ嫁いで……子どもも産んだ」
気づけば、自宅が目の前まで迫っていた。けれど、一度口を開いてしまえば、抑え込んできた感情は堰を切ったように溢れ出し、もう止めることはできなかった。
「私は、運命なんていう理不尽なものに流されたくない。自分の人生は、自分で決めるの。だから——番だからって理由で、誰かを好きになることだけは、絶対にないから」
それは、はっきりとした拒絶の宣言だった。言葉の鋒を向けられた東雲は、しばらくの間、彫刻のように身じろぎもせず、何も言葉を発しなかった。
長い、長い沈黙が二人の間を支配したあと。
「……分かった」
その言葉に、青葉は思わず足を止めて振り返った。
「お前の番に対する考えは、否定しない」
東雲は静かに歩みを進めながら、一つひとつ言葉を選ぶように口を開いた。
「……だから。霊力が安定するまでの、これからの三か月だけ」
そこで一度言葉を区切り、彼は夕闇の中、目の前に立つ青葉を真っ直ぐ見つめた。
「友達として、お前の側にいてもいいか」
「……え?」
思ってもみない提案に、今度は青葉が言葉を失って立ち尽くす。東雲はようやく肩の力を抜いたように、ふっと笑うと、話を続けた。
「調月先生も言っていただろ。今日だけで結論を出そうとするな、ってさ。だから、これは番としてじゃない。一人の同級生として、篠宮青葉として——俺に、お前のことを教えてくれよ」
差し出されたのは、番という“運命”の強要ではなく、一人の人間として向き合おうとする、不器用な歩み寄りだった。
「……」
青葉は言葉を発することができず、ただ彼を見つめることしかできない。何も答えない青葉を見つめ、東雲は少しだけ困ったように眉を下げた。
「……ダメか?」
気遣うような彼の声音を聴きながら、青葉は静かに胸の中で、目の前の青年を捉え直そうとしていた。
(この人——)
自分が勝手に思い込んでいた、“雲の上の世界”に生きる傲慢な人間なんかじゃない。
それだけは、はっきりと分かってしまった。
「……勝手にすれば」
けれど、ここで素直に頷いたら、さっきまであれほど拒絶していた彼を、あっさりと受け入れてしまいそうで。青葉はぶっきらぼうに、それだけを答えた。自分でも、あまりにも投げやりで可愛げのない返答だと思う。それなのに、東雲はその綺麗な目をほんの少しだけ細めた。
「良かった」
「別に、許可したわけじゃないし。これ以上近づいたら本当に怒るからね!」
「はは、分かってるよ」
東雲は、今度は無理に作ったものではない、どこかホッとしたような笑みを浮かべた。その彼の表情に、青葉は無性にむず痒さを覚え、逃げるように玄関の扉を開けた。
「じゃあ、また明日な。篠宮」
扉が閉じて見えなくなるまで、彼は笑顔で手を振っていた。
(……変なやつ)
容姿端麗、文武両道な学年主席の生徒会長。
『番は祝福だろ』と無邪気に言ってのけた、大企業の御曹司。
放課後の図書館で、私の地味な夢を『似合っている』と肯定してくれた同級生。
——そして今、自分の意思を押しつけることなく、ただ友達として自分のことを教えてくれと言って笑った自分の番となった青年。
東雲玲司がどういう男なのか、青葉にはまだ分からない。
ただ一つだけ。
今日まで思っていた“何もかも持っている遠い人”という印象だけは、少しずつ変わり始めていた。
校舎の向こうからは、自主練習に励む運動部の掛け声がかすかに響いていた。濃い茜色から薄暮へと移り変わる空を、ねぐらへ急ぐ鳥の群れが横切っていく。
二人の間に、会話はなかった。
ただ、帰路へと続く校門へ向かって、長く伸びた影を引きずりながら、静かに桜の並木道を歩いていく。
左手首の奥では、未だにじりじりと焼けるような熱が燻り続けていた。
ドクン、ドクンと番紋が脈打つたびに、東雲の霊力と不本意に共鳴し、身体の奥から五感が過敏になっていくような奇妙な感覚に襲われた。青葉のすぐ後ろからは、規則正しい足音が聞こえてくる。近づいては離れて、離れては近づき——見えない境界線を探るように、東雲は一定の距離を保ちながら歩いていた。
(……気まずすぎて、息が詰まりそう)
何か言葉を発しなければ、という焦燥はある。けれど、硬く結んだ唇から、一体何を溢れさせればいいのだろう。今の青葉にはさっぱり分からなかった。番紋がこの肌に発現してから、まだ一時間しか経っていないのだ。このあまりにも短すぎる時間の中で、自分が思い描いていた未来は、音を立てて姿を変えてしまった。
「……篠宮」
不意に、背後から静かで低い声が鼓膜を叩いた。
青葉は足を止めず、ただ前を見据えたまま歩調を緩める。
「ごめん」
東雲の謝罪に、青葉の目尻がぴくりと動く。
「俺……お前が番のことを、そんなふうに思ってたなんて、知らなかった」
その声音には、昼休みに校庭で見せていたような、誰もが惹きつけられる堂々とした自信は微塵もなかった。
青葉はしばらくの間、ただ自分の靴がアスファルトを擦る音だけを聴きながら、黙って歩き続ける。しかしやがて、胸の奥に凝り固まったしこりを吐き出すように、小さく息を漏らした。
「……桜お姉ちゃん」
「え?」
「私の姉の話。篠宮桜」
東雲からの返答はなかった。ただ黙って、青葉が続ける言葉を待っている。
「お姉ちゃんはね、この学院を主席で卒業したの。本当に優秀で、そのまま最先端の霊術研究所に入って……私なんかよりずっと、研究者として将来を期待されていた。……婚約者もいた」
街灯がちらつき始めたアスファルトへ視線を落としたまま、青葉はぽつり、ぽつりと、胸の傷口を開くように言葉を紡いでいく。
「蒼介くんっていうの。本当に仲が良くて、幸せそうで……私も、本当のお兄ちゃんみたいに慕ってた」
不意に強い風が吹き抜け、街路樹のナンキンハゼがさらさらと寂しげな音を立てて揺れた。青葉は歩みを止めないまま、制服の袖越しに左手首を、指先が白くなるほど握り締めた。
「知ってる? 女性は二十一歳の誕生日を迎えるまでしか、番紋は顕れないの。だから、お姉ちゃんも蒼介くんも、もう大丈夫だって思ってた。……でも、二十一歳になる誕生日の三日前……お姉ちゃんの手首にも、これが出たの」
歩みを止めることなく話し続ける青葉へ、東雲は恐る恐る問いかけた。
「その、相手は……?」
「蒼介くんじゃなかった」
ひゅっ、と息を呑む音だけが、静まり返った夜道に小さく響いた。東雲はそれ以上何も訊くことなく、ただただ言葉を失っていた。青葉もまた、込み上げる感情を噛み殺すように、すぐには言葉を続けられなかった。いくつかの並木を通り過ぎ、夜の影が色濃くなってから、ようやく喉の奥から声を絞り出す。
「研究所で知り合ったばかりの、名家の上司だった。お姉ちゃんは、蒼介くんとの婚約を強制的に破棄させられた。しばらくして、あれだけ愛していた研究の仕事も辞めて……周囲から『名家なんだから』『番なんだから』って言われるまま、その上司の家へ嫁いで……子どもも産んだ」
気づけば、自宅が目の前まで迫っていた。けれど、一度口を開いてしまえば、抑え込んできた感情は堰を切ったように溢れ出し、もう止めることはできなかった。
「私は、運命なんていう理不尽なものに流されたくない。自分の人生は、自分で決めるの。だから——番だからって理由で、誰かを好きになることだけは、絶対にないから」
それは、はっきりとした拒絶の宣言だった。言葉の鋒を向けられた東雲は、しばらくの間、彫刻のように身じろぎもせず、何も言葉を発しなかった。
長い、長い沈黙が二人の間を支配したあと。
「……分かった」
その言葉に、青葉は思わず足を止めて振り返った。
「お前の番に対する考えは、否定しない」
東雲は静かに歩みを進めながら、一つひとつ言葉を選ぶように口を開いた。
「……だから。霊力が安定するまでの、これからの三か月だけ」
そこで一度言葉を区切り、彼は夕闇の中、目の前に立つ青葉を真っ直ぐ見つめた。
「友達として、お前の側にいてもいいか」
「……え?」
思ってもみない提案に、今度は青葉が言葉を失って立ち尽くす。東雲はようやく肩の力を抜いたように、ふっと笑うと、話を続けた。
「調月先生も言っていただろ。今日だけで結論を出そうとするな、ってさ。だから、これは番としてじゃない。一人の同級生として、篠宮青葉として——俺に、お前のことを教えてくれよ」
差し出されたのは、番という“運命”の強要ではなく、一人の人間として向き合おうとする、不器用な歩み寄りだった。
「……」
青葉は言葉を発することができず、ただ彼を見つめることしかできない。何も答えない青葉を見つめ、東雲は少しだけ困ったように眉を下げた。
「……ダメか?」
気遣うような彼の声音を聴きながら、青葉は静かに胸の中で、目の前の青年を捉え直そうとしていた。
(この人——)
自分が勝手に思い込んでいた、“雲の上の世界”に生きる傲慢な人間なんかじゃない。
それだけは、はっきりと分かってしまった。
「……勝手にすれば」
けれど、ここで素直に頷いたら、さっきまであれほど拒絶していた彼を、あっさりと受け入れてしまいそうで。青葉はぶっきらぼうに、それだけを答えた。自分でも、あまりにも投げやりで可愛げのない返答だと思う。それなのに、東雲はその綺麗な目をほんの少しだけ細めた。
「良かった」
「別に、許可したわけじゃないし。これ以上近づいたら本当に怒るからね!」
「はは、分かってるよ」
東雲は、今度は無理に作ったものではない、どこかホッとしたような笑みを浮かべた。その彼の表情に、青葉は無性にむず痒さを覚え、逃げるように玄関の扉を開けた。
「じゃあ、また明日な。篠宮」
扉が閉じて見えなくなるまで、彼は笑顔で手を振っていた。
(……変なやつ)
容姿端麗、文武両道な学年主席の生徒会長。
『番は祝福だろ』と無邪気に言ってのけた、大企業の御曹司。
放課後の図書館で、私の地味な夢を『似合っている』と肯定してくれた同級生。
——そして今、自分の意思を押しつけることなく、ただ友達として自分のことを教えてくれと言って笑った自分の番となった青年。
東雲玲司がどういう男なのか、青葉にはまだ分からない。
ただ一つだけ。
今日まで思っていた“何もかも持っている遠い人”という印象だけは、少しずつ変わり始めていた。

