つがいがなんだってんだ!

 鋭い電子音とともに、保健棟の重い自動扉が勢いよく左右に開いた。

調月(つかつき)先生!」

 静まり返った診療室に、東雲の切迫した声が響き渡る。
 診察机で書類に目を通していた白衣姿の男——調月(ひじり)が、ゆっくりと顔を上げる。銀縁眼鏡の奥の切れ長な瞳は、この騒ぎにもほとんど揺れていない。学校医というより、偏屈な科学者のような独特の雰囲気が漂っていた。
 調月は、東雲の腕の中で浅い呼吸を繰り返す青葉と、二人の手首に浮かぶ紋様を一目見るなり、小さく片眉を動かした。

「……離れたな?」
「え……?」

 東雲は腕の中の青葉を抱き直しながら、調月を見返す。
 調月は椅子から立ち上がると、迷いのない足取りで二人のもとへ歩み寄ってきた。

「ひとまず、ベッドへ寝かせろ」

 促されるまま、東雲は青葉の身体を静かにベッドへ横たえ、一歩身を引く。
 調月はもう一度、青葉と東雲の手首を丁寧に確認すると、「やはりな」と、短く呟いた。

「これは、典型的な『初期霊障《しょきれいしょう》』だ」
「初期……霊障……」

 遠くから聞こえてくる東雲の戸惑った声を、青葉は酷い耳鳴りの向こう側で聞いていた。

「番紋の発現直後というのは、個人の霊力が極めて不安定な状態になる。番紋が出たのはいつだ」
「……つい、さっきです……」

 調月は白衣のポケットから手のひらサイズの霊力測定器を取り出すと、青葉の手首へ軽く当てた。測定器のガラス面から、青白い光の術式が幾重(いくえ)にも走り、青葉の肌を照らし出す。

「番同士の霊力ってのは、発現と同時に、お互いを一つの大きな循環回路として繋ごうとする性質がある。まあ、一本の血管みたいなもんだ」

 測定器の数値を記録しながら、調月は言葉を継いだ。

「繋がりかけた血管を無理やり引き裂けば、身体が悲鳴を上げる。それと同じで、番同士の回路が千切れると、霊力の循環が崩れてしまう。それが、今の彼女の症状だ」
「だから、突然あんな風に……」
「失神、目眩、強烈な吐き気、および過呼吸。珍しいことじゃない。当然、個人差はあるがな。初期霊障というのは、霊術回路の出力が弱い方に出やすい傾向がある。現状では、篠宮の方が圧倒的に症状が重く出るはずだ」

 調月の淡々とした説明が、頭の上を通り過ぎていく。
 青葉は苦しさに耐えるように固く目を閉じたまま、白布の敷かれたベッドの上で、小さく唇を噛み締めた。
 悔しくて、情けなくて、涙が溢れそうになる。
 自分の身体なのに、この男が近くにいないと維持することすらできないなんて。
 そんな青葉の心情を察したのか、調月は眼鏡の奥の目元をわずかに和らげ、穏やかな視線を投げかけた。

「篠宮」

 呼びかけられても、青葉は固く目を閉じたまま動かなかった。

「安心しろ。これで死ぬことはない」
「…………」
「ただ——」

 そこで初めて、調月は表情を厳しく引き締めた。

「当分の間は、無理に彼から離れるな」

 その言葉に、東雲が一歩前に出る気配がした。

「……どれくらいの距離なら、許されるんですか」
「現段階の霊力共鳴率が二十パーセント……とすると、最大でも五十メートル前後というところだな」
「五十……たったそれだけ、ですか」
「霊力回路が肉体に定着するまで、およそ三か月だ。その期間は、互いに目に見えない鎖で繋がれていると思っておけ。もっとも、自宅の敷地内にいる限りはそこまで神経質になる必要はない。血の繋がった家族というのは霊力の波長が似通っている。家の中にいる間は、その霊力が緩衝材となって初期霊障をある程度抑えてくれる」
 
 調月はカルテへ視線を落としたまま、淡々と続ける。

「——だが、一歩でもその安全圏から外へ出れば話は別だ。今のお前たちの霊術回路はまだ不安定だからな。当分の間、少なくとも学校生活では、登校から下校まで原則として行動をともにしろ。その方が身体への負担が一番少ない。……まあ、安心しろ。距離制限が続くのは三か月ほどだが、霊力回路の形成が順調に進めば、許容距離は徐々に伸びていく」

 三か月——。
 その数字を突きつけられた瞬間、青葉の華奢な肩が小さく震えた。

「……そんなの」

 ひび割れた声が、青葉の喉から辛うじて漏れ出す。

「嫌……。そんなの、絶対に、嫌です……っ!」
「嫌だろうが何だろうが、現実は変わらん」

 調月は感傷を一切交えぬ声で、きっぱりと言い放った。

「重度の骨折をした人間に『松葉杖なんて格好悪いから使いたくない』と言われても、骨がくっつくまではそれなしで歩けないのと同じだ。今のお前たちの番紋も、本質的には同じ生体反応に過ぎない」

 青葉は重い瞼をこじ開け、ゆっくりと調月を見上げる。その煤けた瞳の奥には、運命への激しい怒りと、底知れない絶望が入り混じっていた。

「……これが、神様がくれた“運命”だから、従えって言うんですか」

 挑発的な青葉の問いに、調月は一瞬だけ沈黙する。
 直後——中指で眼鏡のブリッジを押し上げると、心底くだらないとでも言うように首を横へ振った。

「そんなもんは知らん。これは霊医学だ」

 消毒液の匂いに満ちた診察室の空気が、シンと静まり返る。

「運命だの呪いだのといったオカルトは私の専門外だ。だが、番紋が顕れた直後の霊力循環は極めて不安定であり、許容距離を超えれば、肉体に深刻な負荷がかかる。それは、長年の臨床研究で証明されている事実だ。私は神話を語っているんじゃない。目の前の現象を説明しているだけだ」

 その言葉に、青葉は初めて、調月の顔をまともに捉えた。
 この人は、世間の人間たちのように『番は素晴らしい奇跡だ』と盲目に崇拝していない。同時に、『運命なのだから番を大人しく受け入れろ』という理不尽な倫理の押し付けもしない。ただ、目の前で起きている厄介な生体現象を冷静に見つめて語っているだけだった。その徹底した客観性が、嵐のように荒れ狂っていた青葉の心を、静かな凪へと導いていく。
 調月は手元のカルテへさらさらと万年筆を走らせると、ペン立てにカツンと放り込んだ。

「応急処置は以上だ。霊力の暴走による急性症状は落ち着いてきている。少しベッドの上で休めば、自力で歩くこともできるだろう」

 その声を合図にするように、青葉はゆっくりと上体を起こした。
 視界を激しく揺るがしていた目眩も、胃の奥を焦がすような吐き気も、先ほどより幾分か治まっている。けれど、左手首に刻まれた番紋だけは、なおも薄い肌の下で、生き物が蠢くように脈打ち続けていた。

「……ありがとう、ございます」

 掠れた声で短く礼を言うと、青葉はシーツを擦らせながら足を下ろし、リノリウムの冷たい床をそっと踏みしめた。
 ……立てる。身体の芯はまだ鉛でも詰め込まれたかのように重いものの、歩けないほどではなかった。

「帰ります」

 頑なな口調でそう告げると、調月は一度だけ青葉の青白い顔を見つめた。

「そうか」

 短い返事だった。そこには無理に引き留めようとする気配はない。代わりに、銀縁眼鏡の奥の鋭い視線が、少し離れた場所で立ち尽くしていた東雲へと向けられた。

「東雲」
「はい」
「彼女を一人で帰すなよ」

 青葉の視界の隅で、東雲が背筋をスッと伸ばした。

「現状の霊力回路の結びつきでは、彼女がお前から離れた瞬間、再び同じ症状が出てもおかしくない」
「……分かりました」
「先生、私は——!」
「篠宮」

 調月の鋭い一瞥に、青葉は思わず口を(つぐ)んだ。

「私は今、医師として話している」

 遮られたその一言の重みに、診察室が再びシンと静まり返る。

「患者が再び危険な状態に陥ることが予見できる以上、一人で帰宅させるわけにはいかんのだ。何にそんなに気が立っているのか知らんが、勘違いするなよ。これは点滴を打っている患者に向かって“移動するときは点滴スタンドを持って歩け”と言っているのと同じだ。送り届けるための具体的な手段は、お前たち二人で決めればいい」

 それだけを告げると、調月は手元のカルテをパタンと閉じた。
 青葉は悔しさに唇を強く噛み締める。背後に佇む東雲もまた、何も言わずに押し黙っていた。
 暫く二人を見比べていた調月は、やがて小さく深いため息を吐く。

「あのな、二人とも」

 その声に、青葉と東雲が同時に顔を上げる。

「これは一人の大人としての意見だが——今日はこれ以上、何も考えるなよ」
「……え?」
「番紋が顕れた当日に、これからの人生の結論を出そうとするな、ということだ」

 調月は白衣のポケットへと両手を突き入れた。

「人間という生き物は、極度の興奮状態にあっては正常な判断ができないようになっている。……恐怖も」

 そこで調月は一拍置き、その鋭い視線を二人へ巡らせた。

「——高揚も、な」

 その言葉に、東雲の広い肩がぴくりと微かに揺れた。

「今日はもう大人しく家に帰り、身体を休めろ。今後のことを考えるのは、それからだ」
 
 締めくくるようなその言葉に、診察が終わったのだと青葉は理解した。
 小さく息を吐き出しながら、パイプ椅子の脇にいつの間にか置かれていた自分の通学鞄を拾い上げる。東雲もまた、自分の鞄を黙って肩へと掛け直した。
 二人の間には、相変わらず硝子のように尖った、気まずい沈黙が横たわったままだ。
 調月はもう、こちらを振り返りもしなかった。まるで『ここから先は医者の領域ではない』と静かに線を引くように、再び机の上の難解な書類へと視線を落とし、何事もなかったかのようにページをめくり始めている。
 青葉は、擦れる靴音を響かせながら診察室の扉へ向かって歩き始める。東雲もまた、少しだけ間を置いてその後ろを追った。
 五十メートルよりずっと近く、けれど決して追いつくことのない、遠い遠い距離だった。
 無機質な電子音とともに自動扉が開く。
 二人は並ぶことも、互いの顔を見ることもないまま、紅掛空色(べにかけそらいろ)に染まり始めた長い廊下へと踏み出した。