「……っ」
肺の空気がすべて引き抜かれたかのように、喉がひゅう、と鳴って息が止まる。耳の奥では、自分の鼓動だけがうるさいほどに鳴り響いていた。
番紋。この世界において、それ以外の答えなど存在し得なかった。
「嘘……嘘だ……」
歯の根が合わず、掠れた声が口の端から漏れる。
その震えた声に、東雲ははっと顔を上げた。視線が重なるより早く、青葉は淡く光る左手首を反射的に覆い隠していた。
「篠宮……」
東雲は自分の右手首と青葉を何度も見比べている。その瞳には、驚きや戸惑いだけではない——どこか安堵にも似た光が宿っているように見えた。
「これ……番紋、だよな」
東雲は息を呑むように呟く。
「……俺たち……番なんだ」
それを聞いた瞬間、昼休みに交わした会話が青葉の脳裏に蘇る。
『番は運命の祝福だろ』
『俺の両親も、じいちゃんばあちゃんも、その上の代も全員番なんだ』
『番はやっぱり、運命の相手ってやつなんだろうな、って思うけどな』
——ああ、やっぱり。この男は、簡単に受け入れるんだ。
東雲が一歩、こちらへ歩み寄ってきたその瞬間。
「来ないでっ!!」
悲鳴にも似た叫びが、廊下に鋭く響き渡った。
自分でも驚くほど、拒絶に満ちた声だった。けれど、これ以上彼が近づけば、この悪夢が否定できない現実になってしまう気がした。
全身から血の気が引いていき、指先が、つま先が、氷のように冷たくなっていく。
「篠宮、落ち着け」
東雲はその場で足を止め、声を落とした。
「まず息を——」
「無理……無理……っ!」
青葉は激しく首を振った。喉が引き攣り、空気が上手く吸えない。喘ぐような浅い呼吸を繰り返した。
左手首は焼けるように熱い。脈打つたび、熱が全身へ広がっていく。
「どうして……どうして今なの……? なんであんたが……」
「っ……!」
学院大学部へ進み、研究室へ入り、研究者になる。そのために、ずっと努力してきた。それなのに。
どうして、たった一つの紋様が、自分の人生を上書きしようとするのだ。
しかもその相手は、番を祝福だと信じて疑わない、東雲玲司。
どうして、よりにもよって、この男なのか。
「待ってくれ」
東雲が戸惑いながら口を開く。
「なんで、そんなに怯えてんだよ。俺……篠宮になんかした……?」
「違う!!」
「っ……!」
「東雲がどうとか、そういう話じゃない!!」
涙が次々と溢れ出る。
「なんで……なんでみんな、勝手なことばっかり言うの……『番は祝福』? 『運命の相手』? 人の気持ちなんてなにも知らないくせに、いい加減にしてよ!!」
「篠宮……」
「番なんていらない!! 私は、自分で選んだ人生を歩きたいの!! 誰かに決められた運命なんて、そんなものいらない!!」
東雲が悪いわけではない。分かっている。
それでも、これまで心の中で飲み込んできた言葉が一度溢れ始めると、もう止めることができなかった。
東雲は言葉を失い、その場に立ち尽くしている。
「こんなの、祝福なんかじゃない……! ただの呪いだよ……っ!!」
青葉は東雲の横をすり抜け、無我夢中で走り出した。
「篠宮! おい、篠宮……っ!」
背後から追いかけてくる声を振り切るように、青葉は前だけを向いて走り続けた。
最悪。最悪、最悪……っ!!
恐怖に追い立てられ、階段を転がるように駆け下りて渡り廊下へと飛び出した。
夕暮れの冷たい風が、涙で濡れた頬を容赦なく吹きつける。世界はこんなにも冷えていくというのに、自分の左手首だけは、皮下に炭火を押し当てられているような熱を放ち続けていた。
今はとにかく、一人になりたい。
その一心だけで、校門へと続く中庭へ足を踏み出した、まさにその瞬間だった。
「……くっ、あ……っ!」
視界が傾き、足元から地面が消えた。天地の感覚を失った身体が、大きくよろめく。腹の底から強烈な吐き気が込み上げ、耳鳴りが頭の中を支配した。夕陽に染まった景色が水面のように歪み、輪郭を失っていく。
「はぁ……っ、はぁ、っ……ぐ……っ」
息を吸おうとするたび、胸の奥がきつく締めつけられる。青葉の膝から力が抜け、その場へ倒れ込んだ。
なんだこれ。ふざけんな。動いてよ、自分の身体でしょ。動け……!!
爪を立て、必死に身体を前へ引きずろうとする。しかし腕に力が入らず、身体は数センチも前へ進まない。左手首の番紋だけが、青葉の意志を嘲笑うかのように、熱を増しながら脈打っていた。
「篠宮!!」
その時、すぐ近くの石畳を激しく叩く足音とともに、追いついた東雲の切迫した声が響いた。
地を這う視線の先には、丁寧に手入れされた靴。
こめかみを脂汗が伝う。青葉は辛うじて顔を上げた。
「大丈夫か!? 顔色が真っ青だぞ」
「来ないで……触らないで……っ」
掠れた声で必死に拒絶の言葉を絞り出すが、東雲は迷うことなく青葉の傍らへと膝をついた。
「そんな状態で、放っておけるわけがないだろ!!」
有無を言わせぬ叫びとともに、大きな手がそっと青葉の肩へと伸ばされる。
その指先が制服越しに肩へ触れた、その時——。
ふわり、と。
恐怖と痛みに支配されていた青葉の嗅覚へ、どこか懐かしい不思議な香りが滑り込んできた。
……なんだろう、この匂いは。
石鹸と、檜と……檸檬が少し、混じったような。どこか深い森の奥を思わせる、凛と澄んだ香りだった。その香りを吸い込むたび、あんなに激しく乱れていた呼吸が不思議なほどに凪いでいく。
——違う。嫌なのに。近づきたくないのに。
自分が東雲を受け入れたわけじゃない。ただ、忌々しい番紋のせいで、身体だけがひとりでに、この男を受け入れようとしているだけだ。
そう言い聞かせていなければ、身体だけでなく心まで奪われてしまいそうだった。
「……立てる?」
上から降ってくる静かな声に、青葉は力なく首を横に振った。
せめてその場から逃れようと、残った力を振り絞る。だが足に力が入らず、身体がぐらりと傾いた。
「っ……!」
倒れ込む身体を、東雲の腕が咄嗟に受け止めた。その瞬間、彼から漂う香りがさらに色濃く青葉を包み込んだ。
「悪い、暴れんなよ」
……東雲が、何か言ってる。声は聞こえるのに、言葉の意味が全然頭に入ってこない。ぼやける意識の中で、膝の裏と背中に東雲の腕が回されるのを感じた。身体がふわりと宙に浮く。気づけば、東雲の腕の中へすっぽりと抱き上げられていた。
「保健棟行くから」
東雲は青葉を横抱きにしたまま駆け出した。
走っているはずなのに、全然揺られる感じがしない。不思議なほどに安定した腕の中で、彼の香りが優しく、けれど確実に自分の意識を侵食していく。
悔しい。心は嫌だと叫び続けているのに、彼の腕の中は、どうしようもなく心地良かった。自分の身体なのに、まるで別の生き物に作り替えられてしまったようで、それがただただ怖かった。
薄れゆく意識の中、視界の端で保健棟の白い影だけが迫ってきた。
肺の空気がすべて引き抜かれたかのように、喉がひゅう、と鳴って息が止まる。耳の奥では、自分の鼓動だけがうるさいほどに鳴り響いていた。
番紋。この世界において、それ以外の答えなど存在し得なかった。
「嘘……嘘だ……」
歯の根が合わず、掠れた声が口の端から漏れる。
その震えた声に、東雲ははっと顔を上げた。視線が重なるより早く、青葉は淡く光る左手首を反射的に覆い隠していた。
「篠宮……」
東雲は自分の右手首と青葉を何度も見比べている。その瞳には、驚きや戸惑いだけではない——どこか安堵にも似た光が宿っているように見えた。
「これ……番紋、だよな」
東雲は息を呑むように呟く。
「……俺たち……番なんだ」
それを聞いた瞬間、昼休みに交わした会話が青葉の脳裏に蘇る。
『番は運命の祝福だろ』
『俺の両親も、じいちゃんばあちゃんも、その上の代も全員番なんだ』
『番はやっぱり、運命の相手ってやつなんだろうな、って思うけどな』
——ああ、やっぱり。この男は、簡単に受け入れるんだ。
東雲が一歩、こちらへ歩み寄ってきたその瞬間。
「来ないでっ!!」
悲鳴にも似た叫びが、廊下に鋭く響き渡った。
自分でも驚くほど、拒絶に満ちた声だった。けれど、これ以上彼が近づけば、この悪夢が否定できない現実になってしまう気がした。
全身から血の気が引いていき、指先が、つま先が、氷のように冷たくなっていく。
「篠宮、落ち着け」
東雲はその場で足を止め、声を落とした。
「まず息を——」
「無理……無理……っ!」
青葉は激しく首を振った。喉が引き攣り、空気が上手く吸えない。喘ぐような浅い呼吸を繰り返した。
左手首は焼けるように熱い。脈打つたび、熱が全身へ広がっていく。
「どうして……どうして今なの……? なんであんたが……」
「っ……!」
学院大学部へ進み、研究室へ入り、研究者になる。そのために、ずっと努力してきた。それなのに。
どうして、たった一つの紋様が、自分の人生を上書きしようとするのだ。
しかもその相手は、番を祝福だと信じて疑わない、東雲玲司。
どうして、よりにもよって、この男なのか。
「待ってくれ」
東雲が戸惑いながら口を開く。
「なんで、そんなに怯えてんだよ。俺……篠宮になんかした……?」
「違う!!」
「っ……!」
「東雲がどうとか、そういう話じゃない!!」
涙が次々と溢れ出る。
「なんで……なんでみんな、勝手なことばっかり言うの……『番は祝福』? 『運命の相手』? 人の気持ちなんてなにも知らないくせに、いい加減にしてよ!!」
「篠宮……」
「番なんていらない!! 私は、自分で選んだ人生を歩きたいの!! 誰かに決められた運命なんて、そんなものいらない!!」
東雲が悪いわけではない。分かっている。
それでも、これまで心の中で飲み込んできた言葉が一度溢れ始めると、もう止めることができなかった。
東雲は言葉を失い、その場に立ち尽くしている。
「こんなの、祝福なんかじゃない……! ただの呪いだよ……っ!!」
青葉は東雲の横をすり抜け、無我夢中で走り出した。
「篠宮! おい、篠宮……っ!」
背後から追いかけてくる声を振り切るように、青葉は前だけを向いて走り続けた。
最悪。最悪、最悪……っ!!
恐怖に追い立てられ、階段を転がるように駆け下りて渡り廊下へと飛び出した。
夕暮れの冷たい風が、涙で濡れた頬を容赦なく吹きつける。世界はこんなにも冷えていくというのに、自分の左手首だけは、皮下に炭火を押し当てられているような熱を放ち続けていた。
今はとにかく、一人になりたい。
その一心だけで、校門へと続く中庭へ足を踏み出した、まさにその瞬間だった。
「……くっ、あ……っ!」
視界が傾き、足元から地面が消えた。天地の感覚を失った身体が、大きくよろめく。腹の底から強烈な吐き気が込み上げ、耳鳴りが頭の中を支配した。夕陽に染まった景色が水面のように歪み、輪郭を失っていく。
「はぁ……っ、はぁ、っ……ぐ……っ」
息を吸おうとするたび、胸の奥がきつく締めつけられる。青葉の膝から力が抜け、その場へ倒れ込んだ。
なんだこれ。ふざけんな。動いてよ、自分の身体でしょ。動け……!!
爪を立て、必死に身体を前へ引きずろうとする。しかし腕に力が入らず、身体は数センチも前へ進まない。左手首の番紋だけが、青葉の意志を嘲笑うかのように、熱を増しながら脈打っていた。
「篠宮!!」
その時、すぐ近くの石畳を激しく叩く足音とともに、追いついた東雲の切迫した声が響いた。
地を這う視線の先には、丁寧に手入れされた靴。
こめかみを脂汗が伝う。青葉は辛うじて顔を上げた。
「大丈夫か!? 顔色が真っ青だぞ」
「来ないで……触らないで……っ」
掠れた声で必死に拒絶の言葉を絞り出すが、東雲は迷うことなく青葉の傍らへと膝をついた。
「そんな状態で、放っておけるわけがないだろ!!」
有無を言わせぬ叫びとともに、大きな手がそっと青葉の肩へと伸ばされる。
その指先が制服越しに肩へ触れた、その時——。
ふわり、と。
恐怖と痛みに支配されていた青葉の嗅覚へ、どこか懐かしい不思議な香りが滑り込んできた。
……なんだろう、この匂いは。
石鹸と、檜と……檸檬が少し、混じったような。どこか深い森の奥を思わせる、凛と澄んだ香りだった。その香りを吸い込むたび、あんなに激しく乱れていた呼吸が不思議なほどに凪いでいく。
——違う。嫌なのに。近づきたくないのに。
自分が東雲を受け入れたわけじゃない。ただ、忌々しい番紋のせいで、身体だけがひとりでに、この男を受け入れようとしているだけだ。
そう言い聞かせていなければ、身体だけでなく心まで奪われてしまいそうだった。
「……立てる?」
上から降ってくる静かな声に、青葉は力なく首を横に振った。
せめてその場から逃れようと、残った力を振り絞る。だが足に力が入らず、身体がぐらりと傾いた。
「っ……!」
倒れ込む身体を、東雲の腕が咄嗟に受け止めた。その瞬間、彼から漂う香りがさらに色濃く青葉を包み込んだ。
「悪い、暴れんなよ」
……東雲が、何か言ってる。声は聞こえるのに、言葉の意味が全然頭に入ってこない。ぼやける意識の中で、膝の裏と背中に東雲の腕が回されるのを感じた。身体がふわりと宙に浮く。気づけば、東雲の腕の中へすっぽりと抱き上げられていた。
「保健棟行くから」
東雲は青葉を横抱きにしたまま駆け出した。
走っているはずなのに、全然揺られる感じがしない。不思議なほどに安定した腕の中で、彼の香りが優しく、けれど確実に自分の意識を侵食していく。
悔しい。心は嫌だと叫び続けているのに、彼の腕の中は、どうしようもなく心地良かった。自分の身体なのに、まるで別の生き物に作り替えられてしまったようで、それがただただ怖かった。
薄れゆく意識の中、視界の端で保健棟の白い影だけが迫ってきた。


