つがいがなんだってんだ!

 ガラガラと、力任せに図書館の扉を開く。
 図書委員も仕事を終えたこの時間、館内はしんと静まり返っており、利用者の姿はない。
 青葉は肩を激しく上下させ、荒い息を吐き出しながら、入口に立ち尽くして館内を鋭く見渡した。そして——。
 いた。
 あの日の夕暮れと、全く同じ場所。
 返却本の整理を終えた自分が書架を眺めていた、あの窓際の席に。
 一人の男子生徒が、背筋の伸びた美しい姿勢で文庫本を開いていた。
 ページをめくる節ばった指先も、蛍光灯の微かな光を受けている柔らかそうな髪も、端正な横顔も、一か月前となに一つ変わっていなかった。
 その姿を捉えた瞬間、青葉の胸の奥から、耐え難いほど熱いものが込み上げた。
 
「東雲……っ!」
 
 静謐な館内に、大きな声が響いた。
 東雲がはっと顔を上げる。こちらを向いた瞬間、その瞳が驚きに大きく見開かれた。
 
「……青葉」
 
 東雲は持っていた本をパタンと閉じると、ゆっくりと席から立ち上がった。
 前髪を乱し、肩で激しく息を切り、目元を真っ赤にして立っている青葉の姿を見て、東雲の表情が、隠しきれない不安と動揺に揺れた。
 
「どうしたんだよ、お前……」
 
 東雲が、恐る恐るこちらへと近づいてくる。
 
「なんか……あったの?」
 
 その声は、あの日、校門の前で別れた時となに一つ変わっていなかった。どこまでも優しくて、自分のことなんて二の次で、ただ真っ直ぐに心配してくれている。そのずるいくらいの優しさに触れて、青葉の目からは再びボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
 
「あのね……」
 
 喉が詰まって、上手く空気が吸えない。肩を震わせながら、必死に心の中の言葉を探す。
 
「あの……私……っ」
 
 違う。こんなことが言いたいんじゃない。もっと落ち着いて、ちゃんと筋道を立てて話そうと思って走ってきたのに。なにから話せばいいのか、頭の中で組み立てていた言葉が、音もなく崩れていく。
 けれど、東雲は決して言葉を急かさなかった。突然泣きながら現れた青葉を前にして、戸惑いながらも、その漆黒の瞳で青葉を見つめ、次の言葉を待ってくれている。
 青葉は一度ぎゅっと目を閉じ、涙を振り払うようにして、大きく深呼吸をした。
 それから、ゆっくりと呼吸を整え、掠れた声で話し始める。
 
「……さっきね、駅から家に帰る途中で」
 
 東雲はなにも言わず、ただ真剣な目で頷いた。
 
「家の近くの角を曲がったところに……新しい、小さなカフェができてるのを、見つけたの」
「え……?」
「そのお店の看板にね、昔ながらの卵プリンって書いてあって。……とろとろしてない、自立してるやつ」
 
 涙に濡れたまま、青葉の唇にかすかな笑みが浮かぶ。東雲は、なんの話をされているのか分からず、不思議そうに目を瞬かせた。
 
「それを見た瞬間にね。このお店、今度絶対に東雲に教えたいな、って……東雲と一緒に、ここに来たいって、思ったの」
「!」
 
 東雲の喉が、小さく鳴った。
 
「……それでね」
 
 青葉は少し照れくさそうに、けれど視線を逸らすことなく続けた。
 
「前に、学祭の買い出しの帰りに二人で喫茶店に入った日……東雲、私にくれたでしょ。ボールペンと、本」
 
 東雲は息を詰めたまま、青葉を見つめていた。青葉の脳裏に、あの日の東雲の声が、鮮明に蘇る。
 
『だから、これ青葉が好きそうだなって思って』
 
「気づいたの。東雲は……本当に私のことを、ちゃんと知ろうとしてくれてて」
 
 青葉はゆっくり歩を進め、東雲との距離を縮めていく。
 
「自分でも気づかないぐらい小さなことまで、東雲は、ずっと見ていてくれたんだって。……だから、私も……」
 
 ごめん。遅くなって、ごめんなさい。
 身体はとっくに、全部全部分かってたのに。
 意地っ張りで頑固な私の心は、それに気づくのにこんなに時間がかかってしまったの。
 本当はもっと、たくさん伝えたいことがあるんだけど。
 ここですべてを伝えるには、あなたが私にくれたものが、あまりにも大きすぎるから。
 だから今は、一番大事な、たった一つの言葉だけ。
 東雲の目の前で、青葉は足を止めた。
 もう一度だけ、深く息を吸い込む。
 
「あのね。私——」
 
 一瞬だけ、声が震えた。でも、もう迷わなかった。
 
「東雲のこと、好きみたい」
 
 しんと静まり返った図書館の片隅に、小さくて、けれどなによりも強固な告白だけが、静かに落ちた。
 
「……」

 東雲は、指先一つ動かすことができなかった。息をすることさえ忘れたように、ただ目の前に立つ青葉を凝視している。
 やっとのことで、その薄い唇を微かに動かした。
 
「……でも、俺たちは……」
 
 今にも消え入りそうな声に、青葉は静かに顔を上げる。東雲は、泣き出しそうなほど苦しそうに、口元を歪めて笑った。
 
「……俺たちは、番で……だから青葉は、『番だからって誰かを好きにはならない』って——」
「あ~~~~~、もうっ!!!!」
 
 東雲の言葉が終わるよりも早く、青葉は両手で自分の頭を抱えてしゃがみ込んだ。突然の変化に東雲は目を見開いて硬直した。
 
「あお、ば……?」
「だからっ!! そういうことじゃないって言ってるでしょ!!!」
 
 青葉は耳まで真っ赤に染めながら、走って乱れていた髪をさらにぐしゃぐしゃと掻きむしった。
 
「青葉、」
「番とか、番じゃないとか、今の私にはもう、一ミリも関係ないの!!」
 
 言葉が上手くまとまらない。自分の心の中にあるこの爆発しそうな感情が伝わらないことが、悔しくて、もどかしくて、また目元から涙がボロボロと溢れてくる。
 
「ねえ、ほんとに、なんでこんな伝わんないかな!? ああもうっ、」
 
 青葉はとうとう堪えきれなくなり、胸の奥に溜め込んでいた感情のすべてをぶつけるように叫んだ。
 
「つがいが、なんだってんだっ!!!!」
 
 激しい叫びの余韻を残し、館内はしんと静まり返った。
 青葉は涙を溢れさせ、鼻を真っ赤にしながら、それでも東雲の瞳だけを真っ直ぐに射抜き続けた。
 
「私はっ! 番だから好きになったんじゃない!! 運命だから惹かれたわけでも、絶対にない!!」
 
 至近距離まで詰め寄った青葉は、その小さな両手で、東雲の制服の胸ぐらをぎゅっと掴み、力強く引き寄せた。
 
「私はっ……!!」
 
 震える声のまま、今度こそ、自分自身の魂が選んだ言葉を叫んだ。
 
「東雲玲司が——大好きなのっ!!!」

 胸ぐらを掴む青葉の、白く震える指先。絶え間なく零れ落ちる、熱い涙。制服越しに伝わる、お互いの胸の鼓動——そのすべてが、紛れもない現実だった。
 東雲玲司が、好き。
 それが、青葉が自ら選び取った答えだった。
 
「……っ、あ……」
 
 東雲の喉の奥が、熱い塊で完全に詰まった。大きく見開かれた瞳が、じわじわと滲んでいく。
 一体何年ぶりだろう。人前で決して見せることのなかった涙が、一粒、また一粒と、東雲の長い睫毛を割り、頬を伝って落ちていく。
 東雲は込み上げる涙を隠すように、慌てて顔を背けようとする。けれど、涙目で真っ直ぐに見つめ続けている青葉から、一瞬たりとも目を逸らすことができなかった。
 
「……なんで」
 
 掠れた、今にも泣き崩れそうな声が、東雲の口から漏れる。
 
「なんで……お前、そんなこと……」
 
 いつものように、格好をつけて笑おうとして——けれど、呆気なく失敗する。
 
「そんなこと……今更、言うんだよ……っ」
 
 東雲の広い肩が、小刻みに震えていた。
 この丸一か月間。毎日、毎日。いつの間にか小さくなった歩幅で、合わせる相手もいない帰り道を、一人歩いた。学校の廊下でその姿を見かけても、会釈だけを残して、すれ違った。創成棟の窓を見るたび、青葉を探しそうになる自分を、何度戒めたことだろう。
 そのすべては——青葉が『運命』という呪縛から解き放たれて、自分の手で、自分の意志で、誰かを好きになれる未来を掴み取れるように。
 そのためだけに、必死に耐え抜いてきたのだ。
 だから——。
 
「……俺」
 
 東雲は、頬を伝う涙を拭うことも忘れたまま、困ったように、それでも愛おしそうに小さく笑った。
 
「もう……どうしたって、諦めるしかないって。ずっと、そう思ってたのに……っ」
 
 青葉はなにも言わなかった。胸ぐらを掴んだままの手を少しだけ緩め、東雲の顔を見つめながら、その言葉にじっと耳を傾けていた。頬には、一筋の涙が伝っていく。
 東雲は震える胸を落ち着かせるように、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。
 
「……青葉」
 
 その名前を呼ぶ声は、情けないほどに震えていたけれど。
 東雲は恐る恐る、まるで硝子細工に触れるように両腕を伸ばし、青葉の小さな身体をそっと胸の中へ抱き寄せた。
 
「好きだ、青葉——!」
 
 もう二度と、離れてしまわないように。今、腕の中にいる彼女が、夢ではないことを確かめるように、強く抱きしめる。
 青葉も静かにその腕を受け入れた。東雲の背中にそっと両手を回し、その胸元へと深く自分の額を預けた。生地越しに伝わってくる、驚くほど高い体温。ドクドクと、早鐘のように刻まれる力強い心臓の音。そして——どこまでも優しい、深い森の香り。そのすべてに包まれていることが、どうしようもないほど心地良かった。
 
「……ごめん。泣くつもりはなかった。格好悪すぎる」
 
 東雲が、青葉の髪に顔を埋めるようにして、掠れた声で呟く。
 青葉は東雲の胸に顔をうずめたまま、くすくすと愛おしそうに笑った。
 
「私も……図書館であんな大声出して叫ぶつもり、全然なかった。格好悪すぎだね」
 
 互いの顔を見つめた瞬間、二人は泣きながら、同時に吹き出してしまった。可笑しくて笑い、けれどやっぱり嬉しくて、また少しだけ涙が零れる。
 完全に日が落ちた窓の外では、夜の帳が静かに世界を包み込んでいた。
 やがて東雲が少しだけ腕の力を緩め、恐る恐る、けれど悪戯っぽく口を開いた。
 
「……青葉」
「ん?」
「もう一回、言ってよ」
 
 耳まで真っ赤に染めた東雲が、照れ隠しをするように視線を逸らしながら強請る。青葉は東雲の胸からゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐに見つめ返した。
 
「……好き」
 
 一拍置いて、さらに明確に、言葉を紡ぐ。
 
「東雲が、大好き」
 
 東雲は静かに目を閉じた。その目尻から、また新しい涙がひと筋、きらりと零れ落ちる。
 
「……ありがとう」
 
 その一言に、青葉は思わず声を上げて笑ってしまった。
 
「そこはさ、普通『俺も好きだ』って返すところでしょ?」
「いや……それは……」
 
 東雲は決まり悪そうに顔を背け、耳の裏まで真っ赤にしながら、わざとらしく小さく咳払いをした。
 
「……好きだよ」
「ふふっ」
 
 青葉は、心底幸せそうに笑った。
 
「うん。知ってる」
 
 二人の笑い声が、静かな館内に優しく溶けていく。その時にはもう、二人の目から涙は完全に止まっていた。
 東雲は青葉の手を、指先からそっと包み込むように握り締めた。青葉もまた、その大きな手のひらの熱を感じながら、力いっぱいに握り返した。
 ふと、東雲がなにかを思い出したように、口元を緩めて笑った。
 
「そういえばさ」
「ん?」
「あの、水族館の約束」
 
 青葉が少しだけ驚いたように丸い目を瞬かせる。
 
「……まだ、有効?」
 
 その問いの意味を理解した途端、青葉は最高の笑顔を咲かせた。
 
「もちろん。当たり前でしょ」
 
 そして、少しだけ意地悪そうに付け加える。
 
「あ、でも待って。その前に——」
「プリン!」
 
 二人同時に揃った声に、東雲は、心底嬉しそうに声を立てて笑った。
 
「ふはっ。楽しみにしてる」

 やがて二人は、肩を並べて図書館をあとにした。
 小さな星々が瞬き始めた夜空の下、街灯の白い光が、固く結ばれた二人の手を優しく照らし出していた。