駅の改札へと続く薄暗い階段の手前で、桜が振り返った。
「じゃあ、またね。送ってくれて、ありがと」
「うん……」
「やっぱ、地元はいいよねー。また近いうちに帰ってくるよ。その時は泊まってくって、お母さんにも言っといて」
「うん」
桜が階段を上り始める。一段、また一段と遠ざかっていく背中へ向かって、青葉はもう一度口を開いた。
「お姉ちゃん」
桜が振り返る。
「……ありがと」
一瞬だけ目を丸くしたあと、桜はふっと笑った。ひらりと手を振ると、改札の向こうへ消えていく。
間もなく発車ベルが鳴り響き、ガタンゴトンと電車がゆっくりと駅を離れていく。青葉はしばらく、誰もいなくなった階段をじっと見つめていた。
「……」
青葉は踵を返し、自宅への道を一人歩き始める。秋の夕暮れは短く、薄明の空には次第に藍が差し始めていた。
見慣れた角を曲がった、その時。青葉の足がピタリと止まった。
——こんなところに、カフェなんてあっただろうか。
ひっそりとした店先には、小さな木枠のブラックボードが置かれ、チョークで手描きのメニューが並んでいる。『NEW OPEN』の文字がまだ新しかった。
『本日の日替わりデザート:昔ながらの卵プリン』
それを見た瞬間、ふっと笑みが零れ落ちた。
「……東雲」
青葉は小さく、その名前を呟く。
(このプリン……好きだろうな)
……東雲と一緒に、ここに来たい。
誰かと一緒に来たいのではない。
伊織でも、颯人でも、他のみんなでもない。
東雲玲司が、いい。
その瞬間、ドクン、と胸の奥が今まで経験したことがないほど大きく、熱く脈打った。不意に、霊学祭の買い出しへ行ったあの日の記憶が、鮮やかに蘇った。
『これ、良かったら使って』
『どうせノート何十冊も埋めるんだろ?』
『前に図書館でさ。その著者の本、読んでただろ』
『これ青葉が好きそうだなって思って』
ボールペンも本も、全部、偶然なんかじゃない。
三か月——いや、高校一年の時からずっと、東雲が『篠宮青葉』という一人の人間を、見つめ続けてくれた証だった。
何に興味を持つのか。どんな小さなことで声を上げて笑うのか。どんな本を読み、どんな文房具を愛用しているのか。そんな自分でも気づかないような、些細な日常の欠片まで、東雲はずっと、ずっと見ていてくれていたのだ。
『三か月間、あなたが見て、聞いて、知ってきた東雲くんは、全部“偽物”だったの?』
青葉はもう一度、自身の左手首に視線を落とす。
番紋は、確かにそこにある。
けれど、番紋だけが、本物なのか。
東雲が自分に向けてくれていた優しさや、自分が感じてきた東雲への気持ちは、偽物なのか。
……違う。
番だから優しかったんじゃない。番だから自分の夢を、あんなに応援してくれたんじゃない。
東雲玲司という一人の人間が、どこまでも誠実で、どこまでも優しくて、どうしようもないくらい真っ直ぐな人だったからだ。
その姿は、絶対に——。
(偽物なんかじゃ、ない)
青葉は吸い寄せられるようにブラックボードへ歩み寄り、プリンのイラストの隅へ、そっと指先を触れた。
「……あ……」
胸の奥で散らばっていた記憶の欠片が次々と繋がり、一つの答えを形作っていく。
(私——)
青葉は弾かれたように、勢いよく踵を返した。
自宅がある方向とは、真逆の方向へ。
街灯が灯り始めた住宅街を、青葉は夢中で走り出した。すれ違う人の怪訝な視線も、点滅する歩行者信号も、気にもならなかった。
「はっ……はぁ……っ、く……っ」
乱れる呼吸を抑え込むこともせず、青葉は走りながら制服のポケットへ右手を滑り込ませる。
引っ張り出したのはスマートフォンだった。震える指先で電源ボタンを押すと、連絡先一覧を呼び出す。探す名前は、たった一つ。
『東雲 玲司』
その四文字は、お気に入りに登録されているわけでも、画面の最上部に固定されているわけでもない。けれど三か月という時間の中で、数えきれないほど他愛のない連絡を取り合ってきた。その積み重ねは、頭で考えるより先に、指先へと刻み込まれている。
あの日以来、丸一か月の間、一度も選ぶことのなかった名前。それでも、消すことなんてできないまま、ずっとずっと残っていた名前。
青葉は躊躇うことなく、その名前をタップした。
スマートフォンを耳へ強く押し付ける。
冷たい電子音が、鼓膜の奥へと響き渡った。
——プルルル……プルルル……
呼び出し音が重なるたび、青葉の焦りは募っていく。
(出て……っ、東雲……!)
もう一度、声を聴きたい。ちゃんと話がしたい。
ただそれだけのことが、どうしてこんなにも苦しくて、こんなにも遠いのだろう。
——プルルル……プルルル……
電話の向こうから応答はない。
絶望が胸に広がり、スマートフォンを耳から離そうとした、まさにその時だった。
——ピッ。
小さな電子音が一つ、静寂の中に鳴り響いた。
青葉は、肺からすべての空気が抜け落ちたように息を呑んだ。
繋がった。電話が、確かに繋がっている。
けれど、すぐには声が聞こえてこない。ただ、向こうから微かな呼吸だけが聞こえてくる。気の遠くなるような長い沈黙の中、互いの息遣いだけが重なっていた。
『……もしもし』
静かな、掠れた声が聞こえた。
聞き間違えるはずもない、東雲の声だった。
たった一か月前まで、毎日のように隣で、当たり前のように聞いていたはずの声。それなのに、どうしてこんなにも、胸が痛くなるほど懐かしいのだろう。どうしてこんなにも、泣きたくなるほど安心してしまうのだろう。
「っ……」
声にならなかった。言いたいことは、胸の奥から溢れんばかりに山ほどあるのに、喉の奥が熱く震えて、まともな言葉の形を結んでくれない。
沈黙を貫く電話の向こうで、東雲が小さく、なにかを堪えるように息をつく音が聞こえた。
『……青葉?』
それを聞いた瞬間、青葉の目から堰を切ったように涙が溢れた。止めようとしても止まらない。頬を伝った雫が、ぽたり、ぽたりと地面へ落ちていく。
たった一度、自分の名前を呼ばれただけだった。
それだけで、胸がいっぱいになってしまった。
「……東雲。今、どこ?」
懸命に絞り出した声は、自分でも驚くほど涙で掠れ、ひどく小さかった。電話の向こうで、東雲が戸惑ったように短く息を呑むのが分かった。
『え……? なんで、急に……てかお前……走ってる? 息、上がってない?』
「いいからっ! 今、どこにいるか、早く教えてっ!」
青葉は息を乱したまま、涙も拭わず叫んだ。
電話の向こうで、東雲はしばらくの間黙り込んだ。
『……剣道部の、部室だけど。まだ片付けが——』
「分かった!」
青葉は東雲が言葉を言い終わるより前に、間髪を入れずに言葉を叩きつけた。
「今からすぐ行くから! そこで待ってて!」
『えっ!? ちょ、ちょっと待て! ここはさすがに——』
電話の向こうでは、部員たちの笑い声が遠くに聞こえていた。東雲は少しだけ逡巡し、それから、ぽつりと落とすように言った。
『……図書館』
その一言に、青葉の足が止まった。
『図書館で、いいか?』
——図書館。
番紋が顕れた、始まりの場所。
青葉はスマートフォンを、壊れんばかりにぎゅっと握り締めた。
「……分かった」
涙を手の甲で拭いながら、力強く頷く。
「すぐ行く。……本当に、すぐ行くから」
それだけを告げると、青葉は自ら通話を切った。スマートフォンを再びポケットへ押し込むと、青葉は深く、冷たい夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。
そして。
もう一度、地面を強く蹴って走り出す。
淡い藍色に溶けていく街を置き去りにしながら、ただ、あの図書館へ向かって。
途中で何度も息が苦しくなって肺が灼けるように痛んでも、足がもつれて転びそうになっても、足を止めることはなかった。
ただ、会いたかった。
一分一秒でも早く、東雲のところへ。
「じゃあ、またね。送ってくれて、ありがと」
「うん……」
「やっぱ、地元はいいよねー。また近いうちに帰ってくるよ。その時は泊まってくって、お母さんにも言っといて」
「うん」
桜が階段を上り始める。一段、また一段と遠ざかっていく背中へ向かって、青葉はもう一度口を開いた。
「お姉ちゃん」
桜が振り返る。
「……ありがと」
一瞬だけ目を丸くしたあと、桜はふっと笑った。ひらりと手を振ると、改札の向こうへ消えていく。
間もなく発車ベルが鳴り響き、ガタンゴトンと電車がゆっくりと駅を離れていく。青葉はしばらく、誰もいなくなった階段をじっと見つめていた。
「……」
青葉は踵を返し、自宅への道を一人歩き始める。秋の夕暮れは短く、薄明の空には次第に藍が差し始めていた。
見慣れた角を曲がった、その時。青葉の足がピタリと止まった。
——こんなところに、カフェなんてあっただろうか。
ひっそりとした店先には、小さな木枠のブラックボードが置かれ、チョークで手描きのメニューが並んでいる。『NEW OPEN』の文字がまだ新しかった。
『本日の日替わりデザート:昔ながらの卵プリン』
それを見た瞬間、ふっと笑みが零れ落ちた。
「……東雲」
青葉は小さく、その名前を呟く。
(このプリン……好きだろうな)
……東雲と一緒に、ここに来たい。
誰かと一緒に来たいのではない。
伊織でも、颯人でも、他のみんなでもない。
東雲玲司が、いい。
その瞬間、ドクン、と胸の奥が今まで経験したことがないほど大きく、熱く脈打った。不意に、霊学祭の買い出しへ行ったあの日の記憶が、鮮やかに蘇った。
『これ、良かったら使って』
『どうせノート何十冊も埋めるんだろ?』
『前に図書館でさ。その著者の本、読んでただろ』
『これ青葉が好きそうだなって思って』
ボールペンも本も、全部、偶然なんかじゃない。
三か月——いや、高校一年の時からずっと、東雲が『篠宮青葉』という一人の人間を、見つめ続けてくれた証だった。
何に興味を持つのか。どんな小さなことで声を上げて笑うのか。どんな本を読み、どんな文房具を愛用しているのか。そんな自分でも気づかないような、些細な日常の欠片まで、東雲はずっと、ずっと見ていてくれていたのだ。
『三か月間、あなたが見て、聞いて、知ってきた東雲くんは、全部“偽物”だったの?』
青葉はもう一度、自身の左手首に視線を落とす。
番紋は、確かにそこにある。
けれど、番紋だけが、本物なのか。
東雲が自分に向けてくれていた優しさや、自分が感じてきた東雲への気持ちは、偽物なのか。
……違う。
番だから優しかったんじゃない。番だから自分の夢を、あんなに応援してくれたんじゃない。
東雲玲司という一人の人間が、どこまでも誠実で、どこまでも優しくて、どうしようもないくらい真っ直ぐな人だったからだ。
その姿は、絶対に——。
(偽物なんかじゃ、ない)
青葉は吸い寄せられるようにブラックボードへ歩み寄り、プリンのイラストの隅へ、そっと指先を触れた。
「……あ……」
胸の奥で散らばっていた記憶の欠片が次々と繋がり、一つの答えを形作っていく。
(私——)
青葉は弾かれたように、勢いよく踵を返した。
自宅がある方向とは、真逆の方向へ。
街灯が灯り始めた住宅街を、青葉は夢中で走り出した。すれ違う人の怪訝な視線も、点滅する歩行者信号も、気にもならなかった。
「はっ……はぁ……っ、く……っ」
乱れる呼吸を抑え込むこともせず、青葉は走りながら制服のポケットへ右手を滑り込ませる。
引っ張り出したのはスマートフォンだった。震える指先で電源ボタンを押すと、連絡先一覧を呼び出す。探す名前は、たった一つ。
『東雲 玲司』
その四文字は、お気に入りに登録されているわけでも、画面の最上部に固定されているわけでもない。けれど三か月という時間の中で、数えきれないほど他愛のない連絡を取り合ってきた。その積み重ねは、頭で考えるより先に、指先へと刻み込まれている。
あの日以来、丸一か月の間、一度も選ぶことのなかった名前。それでも、消すことなんてできないまま、ずっとずっと残っていた名前。
青葉は躊躇うことなく、その名前をタップした。
スマートフォンを耳へ強く押し付ける。
冷たい電子音が、鼓膜の奥へと響き渡った。
——プルルル……プルルル……
呼び出し音が重なるたび、青葉の焦りは募っていく。
(出て……っ、東雲……!)
もう一度、声を聴きたい。ちゃんと話がしたい。
ただそれだけのことが、どうしてこんなにも苦しくて、こんなにも遠いのだろう。
——プルルル……プルルル……
電話の向こうから応答はない。
絶望が胸に広がり、スマートフォンを耳から離そうとした、まさにその時だった。
——ピッ。
小さな電子音が一つ、静寂の中に鳴り響いた。
青葉は、肺からすべての空気が抜け落ちたように息を呑んだ。
繋がった。電話が、確かに繋がっている。
けれど、すぐには声が聞こえてこない。ただ、向こうから微かな呼吸だけが聞こえてくる。気の遠くなるような長い沈黙の中、互いの息遣いだけが重なっていた。
『……もしもし』
静かな、掠れた声が聞こえた。
聞き間違えるはずもない、東雲の声だった。
たった一か月前まで、毎日のように隣で、当たり前のように聞いていたはずの声。それなのに、どうしてこんなにも、胸が痛くなるほど懐かしいのだろう。どうしてこんなにも、泣きたくなるほど安心してしまうのだろう。
「っ……」
声にならなかった。言いたいことは、胸の奥から溢れんばかりに山ほどあるのに、喉の奥が熱く震えて、まともな言葉の形を結んでくれない。
沈黙を貫く電話の向こうで、東雲が小さく、なにかを堪えるように息をつく音が聞こえた。
『……青葉?』
それを聞いた瞬間、青葉の目から堰を切ったように涙が溢れた。止めようとしても止まらない。頬を伝った雫が、ぽたり、ぽたりと地面へ落ちていく。
たった一度、自分の名前を呼ばれただけだった。
それだけで、胸がいっぱいになってしまった。
「……東雲。今、どこ?」
懸命に絞り出した声は、自分でも驚くほど涙で掠れ、ひどく小さかった。電話の向こうで、東雲が戸惑ったように短く息を呑むのが分かった。
『え……? なんで、急に……てかお前……走ってる? 息、上がってない?』
「いいからっ! 今、どこにいるか、早く教えてっ!」
青葉は息を乱したまま、涙も拭わず叫んだ。
電話の向こうで、東雲はしばらくの間黙り込んだ。
『……剣道部の、部室だけど。まだ片付けが——』
「分かった!」
青葉は東雲が言葉を言い終わるより前に、間髪を入れずに言葉を叩きつけた。
「今からすぐ行くから! そこで待ってて!」
『えっ!? ちょ、ちょっと待て! ここはさすがに——』
電話の向こうでは、部員たちの笑い声が遠くに聞こえていた。東雲は少しだけ逡巡し、それから、ぽつりと落とすように言った。
『……図書館』
その一言に、青葉の足が止まった。
『図書館で、いいか?』
——図書館。
番紋が顕れた、始まりの場所。
青葉はスマートフォンを、壊れんばかりにぎゅっと握り締めた。
「……分かった」
涙を手の甲で拭いながら、力強く頷く。
「すぐ行く。……本当に、すぐ行くから」
それだけを告げると、青葉は自ら通話を切った。スマートフォンを再びポケットへ押し込むと、青葉は深く、冷たい夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。
そして。
もう一度、地面を強く蹴って走り出す。
淡い藍色に溶けていく街を置き去りにしながら、ただ、あの図書館へ向かって。
途中で何度も息が苦しくなって肺が灼けるように痛んでも、足がもつれて転びそうになっても、足を止めることはなかった。
ただ、会いたかった。
一分一秒でも早く、東雲のところへ。


