つがいがなんだってんだ!

 桜はなにも言わず、鞄からハンカチをそっと差し出した。
 
「ほら、拭きな。鼻まで真っ赤だよ」
「……ありがと」

 青葉はぐずつきながら、歪な顔でそれを受け取った。
 桜は立ち上がると、夕陽を背に静かに微笑んだ。
 
「青葉。一つだけ、質問するよ」
「……なに」

 青葉はハンカチで何度も目元を拭いながら、小さく頷いた。
 桜は、妹の左手首に残る、薄くなった番紋へ一瞬だけ鋭い視線を落とした。それからすぐに視線を上げ、妹の濡れた瞳を真っ直ぐに見つめる。
 
「その子……東雲くんがさ。あなたの世界から、本当にいなくなってもいいと思う?」
「え……」
「番紋が消えるかどうかの話じゃないよ」
 
 桜は言葉の重みを含めるように、静かに、明確に言い直した。
 
「東雲くんと、もう二度と会えなくなっても、いいの?」
「……っ」
 
 堪えきれない涙が溢れ出す。青葉は何度も、何度も激しく首を横に振った。
 
「……嫌。嫌だよ……っ」
 
 掠れた声が、慟哭となって零れる。
 
「東雲ともう二度と話せなくなるなんて……会えなくなるなんて、絶対に嫌……っ!」
 
 その言葉をしっかりと受け止めた桜は、ふぅ、と小さく息を吐くと、どこか安心したように、柔らかく微笑んだ。
 
「そっか」
 
 その一言だけだった。青葉は涙でぐしゃぐしゃになった視界のまま、縋るように姉を見上げる。
 
「お姉ちゃん……私……東雲のことが、好きなのかな……。それとも、番だからそう感じてるだけなのかな……」
 
 その必死な問いかけに対して、桜は静かに首を横に振った。
 
「それはね、私が答えちゃ駄目だよ」
「え……?」
「だって、青葉はそういうの、一番嫌いでしょ? 他の誰かや運命なんかに、自分の気持ちを勝手に決められること」
 
 青葉はハッとして、静かに息を呑んだ。
 桜は妹の震える両肩へ、そっと手を置く。青葉は涙をボロボロと零しながら、必死に顔を上げた。桜の瞳はどこまでも優しく、力強かった。
 
「青葉。どうして今、こんなに苦しいのか。その答えは——他の誰でもない、自分で見つけるしかないんだよ」

 桜は青葉の肩を優しく撫でた。

「……それだけは、世界中のどんな論文を読んだって、どこにも見つからないんだから」
 
 桜は青葉の涙の痕を見つめながら、ふっと悪戯っぽく、小さく微笑んだ。
 
「これはいま、番を研究してる人として言わせてもらうけど。確かに番紋には、霊力を同調させたり、相手の存在に安心感を覚えたりする作用はあると考えられてる。でも——恋愛感情そのものを誘発する作用は、今のところ検証できてない」
 
 桜は少しだけ肩をすくめて笑う。

「多分、できない」
「…………え」
 
 青葉は完全に涙を止め、大きく目を見開いたまま凝固した。
 桜は妹のそのあまりの抜け作な表情に、堪えきれずにぷっと吹き出した。
 
「だってさ。そんな力が本当にあるなら、私はあの頃、自分の気持ちなんて最初から必要なかったことになるじゃない? ……番はね。別にそこにあるだけで幸せにもしてくれないし、不幸にもさせられない。その先を決めるのは、自分だけ……少なくとも、私はそう思ってるよ」
 
 青葉は頭を強く殴られたような衝撃のまま、呆然と桜を見つめ返した。
 
「でも……番の相手とは、霊力回路が繋がるんでしょ。脳の霊力波形まで同調して、そう錯覚しただけかもしれないじゃん……!」
 
 桜は少しだけ困ったように苦笑し、両手を青葉の頬にそっと添えた。
 
「そうだね……じゃあさ。百歩譲って、もし仮に番紋に、ほんの少し脳に錯覚を引き起こす効果があったとしてだよ?」
 
 夕陽が、向かい合う二人を静かに照らしていた。
 桜は妹の揺れる瞳を、真っ直ぐに射抜くように見つめた。
 
「三か月間、あなたが見て、聞いて、知ってきた東雲くんは、全部“偽物”だったの?」
「!」
 
 青葉の脳裏に、三か月の出来事が走馬灯のように蘇る。
 放課後の図書館で、自分の研究の話を楽しそうに聞いてくれたこと。創成棟へ続く渡り廊下を、二人で息を切らせて駆け抜けたこと。喫茶店で、自分がプリンを食べる姿を見つめていた、あの優しい眼差し。そして——。
 
『青葉はちゃんと、自分で選んだ人と、幸せになってよ』

「……」

 桜は、俯いたままの青葉の左手首へ静かに視線を落とした。薄れかけた番紋が、夕陽の中で淡く浮かび上がっている。
 
「……ねえ、青葉。“本物”ってさ、何で決まるんだろうね。目に見えるものなら、本物なのかな。目に見えないものだって、人はちゃんと信じて生きてるはずなのに」
「……」
「世の中ってさ、好き勝手に“正解”を押し付けてくるじゃない。いい大学。いい会社。いい結婚。……番。どれも、“目に見える幸せ”だから、みんな安心する。でも、本当に幸せかどうかなんて、その人しか決められないでしょ」

 桜は小さく笑いながら、鴇色(ときいろ)へと移ろい始めた美しい夕空を見上げた。
 
「私にも番紋は顕れた。今でこそ、あの人を愛してるよ。……でもあの時、周りが私の意思を無視して結婚を決めたことだけは、今でも正しかったとは思ってない」

 その横顔に浮かぶ笑みは柔らかい。けれどその瞳の奥には、あの日味わった理不尽さが、今も静かに沈んでいるようだった。
 
「だけどあの後、自分で立ち上がって、自分で研究を続けるって決めて……自分で、あの人をちゃんと好きになった」

 言葉を区切るたび、桜は一歩ずつ自分の人生を確かめるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
 
「一つひとつ、自分の意思で選んできたの。私が『幸せだ』って胸を張って言えるようになったのは、本当に最近なんだ。やっと……やっと、そう言えるようになった」
「お姉ちゃん……」

 そう微笑む桜の顔から、青葉は目を逸らすことができなかった。
 目の前にいるのは、昔から知っている優しい姉だった。けれど同時に、自分の人生を何度もその手で選び取り続けてきた、一人の人間でもあった。その姿が、夕陽の中で一際眩しく見えた。

「抗えない運命ってやつは、きっとこの先もあると思う。だけど、その運命にどんな意味を与えて生きていくのか。何を自分の幸せとするのか。それを決めるのは、運命じゃない。運命なんかに、決めさせない。最後に信じるのは、“ここ”だよ」

 桜は自分の左胸をトン、と叩く。誇らしげに微笑むその瞳には、少しの迷いもなかった。