つがいがなんだってんだ!

 桜はなにも言わず、鞄からハンカチをそっと差し出した。
 
「ほら、拭きな。鼻まで真っ赤だよ」
「……ありがと」

 青葉はぐずつきながら、歪な顔でそれを受け取った。
 桜は立ち上がると、夕陽を背に静かに微笑んだ。
 
「青葉。一つだけ、質問するよ」
「……なに」

 青葉はハンカチで目元を拭いながら、小さく頷いた。
 桜は妹の左手首に残る薄い番紋へ一瞬だけ視線を落とすと、濡れた瞳を真っ直ぐに見つめた。
 
「その子……東雲くんが、あなたの世界から本当にいなくなってもいいと思う?」
「え……」
「番紋が消えるかどうかの話じゃないよ」
 
 桜は一つひとつ確かめるように、言い直した。
 
「東雲くんと、もう二度と会えなくなってもいいの?」
「……っ」
 
 堪えていた涙が、また溢れ出した。青葉は何度も激しく首を横に振る。
 
「……嫌。嫌だよ……っ」
 
 掠れた声が嗚咽に混じる。
 
「東雲ともう二度と話せないなんて……会えなくなるなんて、絶対に嫌……っ!」
 
 桜は小さく息を吐き、柔らかく微笑んだ。
 
「そっか」
 
 それだけだった。
 青葉は縋るように姉を見上げる。
 
「お姉ちゃん……私、東雲のことが好きなのかな。それとも、番だからそう感じてるだけなのかな……」
 
 桜は首を横に振った。
 
「それは、私が答えちゃ駄目だよ」
「え……なんで……?」
「だって青葉は、他の誰かに自分の気持ちを決められるのが、一番嫌なんでしょ?」
 
 青葉は息を呑んだ。
 桜は妹の震える肩へ手を置く。
 
「番紋が消えるのが怖いのか。東雲くんがいなくなるのが怖いのか。あなたが彼をどう思っているのか。その答えは、自分で見つけるしかないんだよ」
 
 桜の手が、青葉の肩をゆっくりと撫でた。
 
「それだけは、世界中のどんな論文を読んだって、どこにも書いてないから」
「でも……番の相手とは霊力回路が繋がるんでしょ。脳の霊力波形まで同調して、そう錯覚してるのかもしれないじゃん……!」
「そうだね」
 
 桜は否定しなかった。
 
「もしかしたら、そういう作用もあるのかもしれない」
 
 青葉の唇が震える。
 桜はその目を逸らさずに続けた。
 
「じゃあ、番の影響が少しでもあったら——この三か月、あなたが東雲くんと話して、笑って、知ってきたことまで、全部偽物になるの?」
「……っ」
 
 青葉の脳裏に、東雲と過ごした三か月の記憶が次々と蘇った。
 
 夕陽の武道場で、一人黙想していた横顔。喫茶店で固いプリンの話をして、二人で笑ったこと。自分が読んでいた本を、ずっと覚えていてくれたこと。霊術水族館の光を、隣で見上げたこと。
 
『青葉には、自分の意志で誰かを好きになってほしい』
 
「……」
 
 桜は、薄れかけた妹の番紋へ視線を落とした。
 
「みんな、ほんと勝手だよね。『運命の祝福だ』『番が現れたら安泰だ』って簡単に言うけど、幸せかどうかなんて、その人にしか分からないのに」
 
 桜は鴇色(ときいろ)へ移ろい始めた空を見上げた。
 
「私ね。自分が幸せだって胸を張って言えるようになったの、本当に最近なんだ」
 
 その横顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。けれど瞳の奥には、あの日の痛みが今も消えずに沈んでいる。
 
「仕事のことも、夫とのことも、あれから散々遠回りした。今はあの人を愛してるし、子どもも可愛い。仕事だって充実してる。……でも、今が幸せだからって、周りが私の意志を無視して結婚を決めたことまで、正しかったとは思ってない」
 
 桜は一度、言葉を切った。
 
「あの時の痛みは消えない。蒼介とのことだって、なかったことにはしたくない。ううん——しちゃいけないと思ってる」
「お姉ちゃん……」
 
 青葉は姉の横顔から目を逸らせなかった。
 目の前にいるのは、昔から知っている優しい姉だ。けれど同時に、自分の人生を何度も選び直してきた、一人の人間でもあった。
 
「抗えない運命は、この先もきっとあるよ。でも、それを幸せと呼ぶか、不幸と呼ぶか。その先をどう生きるかまで、運命に決めさせる必要はない」
 
 桜は自分の左胸を、トン、と叩いた。
 
「どれだけ調べても、考えても。最後の最後に決めるのは、“ここ”でしかないんだよ」