リビングの扉を開けると、そこには数年ぶりに見る横顔があった。母はお茶のトレイを抱え、嬉しそうにパタパタと動き回っている。
桜は——記憶の中と何一つ変わらない笑顔を浮かべていた。その姿を目にした瞬間、青葉は思わず扉の枠を掴んだまま声を上げた。
「お姉ちゃん……!?」
「お……青葉! 元気だった? 大きくなったねぇ」
「お姉ちゃんこそ……全然帰ってこないから、心配したじゃん。何年ぶり?」
「ほんとよ。なんの連絡もなく来るんだからびっくりしちゃったわ。桜、今日は泊まっていけるんでしょ?」
ソファに腰掛けた桜は、「あー……」と少し申し訳なさそうに眉を下げて笑った。
「ごめん。二時間ぐらいしたら、出なきゃなんだよね。明日、こっちで学会があるんだ」
「え……学会?」
聞き返すと、桜はマグカップを受け取りながら大きく頷いた。
「うん。今夜には会場近くのホテルに入らなきゃいけなくて。でも、ちょうどこっちの方まで来てたからさ。せっかくだし顔だけでも出そうかなって」
母は少し残念そうに肩を落とした。
「そうなの? 久しぶりなんだから、一日くらい泊まっていけばいいのに」
「私も泊まりたかったんだけどね。明日の発表が朝一だからさ。さすがに朝早くからバタバタさせるのも悪いし」
姉が何気なく口にしたその一言に、青葉は胸の奥を小さく突かれたような心地がした。思わず桜の横顔を見つめる。
(学会……)
それは、研究者だった頃の姉なら、ごく当たり前に口にしていた言葉だった。
けれど、五年前——あの日を境に、その言葉はもう、姉の人生から消えてしまったものだと、青葉はどこかで思い込んでいた。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
我慢できずに声をかけると、桜が不思議そうに振り返る。
「研究……戻れたんだね」
桜は一瞬だけきょとんとしたが、やがて少し照れくさそうに口元を緩めた。
「うん。まあ、前とはだいぶ違う分野なんだけどね」
「違う分野?」
「今はね、番の研究をしてるの」
その一言に、青葉の表情がぴくりと強張った。
「番の……?」
「そう」
桜は苦笑しながら頷いた。
「ほら……私、番紋が出て、蒼介ともあんなことになっちゃったじゃない? だから最初は、この番紋が憎くてしょうがなかったんだけど……でも、だからこそ。私の人生を変えたこの『番』って、一体なんなんだろうってさ。知りたくなったんだよね」
「お姉ちゃん……」
青葉は思わず息を呑んだ。
あの日、姉の人生は終わってしまったのだと、青葉はどこかで思い込んでいた。けれど——桜は、その痛みを抱えながらも、新たな道へと再び歩き始めていたのだ。
「それで、結婚してからしばらくは一人で細々と研究してたんだけどね。なかなか形にならなくて。でも途中から協力してくれる先生たちも見つかって、最近ようやく、一本の論文としてまとめられたの」
「えっ!」
青葉は一歩、桜の方へ踏み出した。
「すごい……! どんな研究なの?」
桜は少しだけ視線を斜め上に向けて、記憶をなぞるように人差し指を顎に当てた。
「えっとね……番ってさ。昔から『運命の祝福』とか、『魂の伴侶』なんて言われてるじゃん?」
「まあ……そうだね」
「でも、それってあくまで昔から語り継がれてきた話ってだけで、学術的に実証された事実じゃないんだよね」
「そうなの?」
「うん。実はね、番がどういう仕組みで生まれるのかさえ、まだ分からないことの方がずっと多いんだよ。だから、本当に世間で言われてるようなものなのか知りたくて、ずっとデータを集めて調べてたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわりと冷たく波立った。無意識のうちに、自分の左手首へと視線を落とした。制服の袖口の中には、薄くなりかけた番紋が、息を潜めるように隠れている。
「調べてて思ったんだけどさ。番ってね、世間で思われているよりずっと複雑で、それでいて繊細なんだよ」
「……そう、なんだ」
桜の何気ない呟きに、青葉は曖昧に相槌を打つのが精一杯だった。頭の中では、番紋のことばかりがぐるぐると渦を巻いている。
桜はそんな青葉の内心など知る由もなく、生き生きとした表情で革の鞄を開いた。中から取り出したのは、分厚いクリアファイルだった。
「これ。明日の発表で使う資料のコピー」
「えっ」
青葉は弾かれたように身を乗り出した。
「いいの? 見ちゃっても」
「どうせ明日には発表するんだから、別に問題ないよ」
桜はくすくすと笑いながらクリアファイルを青葉へ差し出した。ページをそっとめくると、そこには番紋の精緻な模式図や、霊力の周波数波形、そして整然と並ぶいくつもの検証グラフが並んでいた。
「すご……」
青葉は純粋に、そのデータの美しさに息を呑んだ。
「これ……全部お姉ちゃんが分析したの?」
「もちろん共同研究者の先生方もいるけど、解析用の術式構成とかはほとんど私かな」
桜はこともなげに答えた。昔からそうだった。この姉は、自分が完全に納得するまで、どれだけ時間がかかろうとも絶対に手を止めない。その妥協のない背中を、青葉は誰よりも近くで、ずっと憧れながら見てきたのだ。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「楽しそうだね。すごく」
その一言に、桜は少しだけ意外そうに丸い目を瞬かせた。そして、昔と変わらない、少女のような笑みを浮かべた。
「ふふ、そう見える?」
「うん。本当に」
「そっか。……うん、楽しいよ」
桜はマグカップを両手で包み込み、優しく微笑んだ。
「やっぱり私、なにがあっても、研究が好きだったんだなって。今、改めてそう思う」
「……お姉ちゃん、小さい頃からそうだもんね。夏休みの自由研究、一人だけ本物の論文みたいにして提出してたもん」
「あったね、そんなことも!」
桜が可笑しそうに吹き出す。
「お父さんにさ、『自由研究の最後に参考文献のリストを書いてる小学生がどこにいるんだ』って笑われたっけ」
「でも結局、あの研究、県の科学展で一番いい賞取ってたじゃん」
「あはは、そうだっけ?」
「あとさ、部屋で霊力測定器とか自作してたよね! お姉ちゃんがいない間に私が勝手に触って、壊して泣いたやつ」
「うわーそれ、懐かしい! ただの接触不良で配線が一本抜けただけなのに、『お姉ちゃんの宝物壊しちゃった、ごめんなさぁい!』って、玄関先で大号泣してたよね」
「だって、本当に壊したと思って怖かったんだもん!」
「あっはははは!」
二人で顔を見合わせると、堪えきれずに笑い声を重ねた。その様子を、母はマグカップを片手に、目を細めてにこにこと眺めていた。
「本当に、あんたたちは……。昔から研究とか霊術の話になると、時間を忘れて止まらなくなるんだから」
「遺伝だよ、お母さん」
桜は悪戯な笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「お父さんもお母さんもガチガチの理系なんだから、私たちがこうなるのは必然でしょ」
「ふふ、そうかもねぇ」
母は本当に嬉しそうに微笑んだ。
五年前までは当たり前にあった、姉を交えた温かな時間。久しぶりに我が家に戻ってきた姉妹の弾んだ笑い声に、母は何度も何度も、小さく頷いていた。
その時だった。桜の手元から、ピピッと小さなアラームが鳴る。
「あ! やば。もうこんな時間!?」
桜は腕時計をちらりと見ると、小さく肩を跳ねさせた。名残惜しそうに笑いながら、ファイルを鞄へ滑り込ませ、立ち上がる。
「ごめん、お母さん、青葉。そろそろ出なきゃ!」
「もう行くの? もう少しゆっくりしてけばいいのに……でも仕方ないわね」
「うん、ごめんね」
玄関へと向かい、手際よく靴を履きながらそう告げる桜に、青葉は思わず、その背中を目で追っていた。
(もう、行っちゃうんだ……)
せっかく会えたのに。
もっと話したかった。
もう少しだけ、この温かい時間を一緒に過ごしたかった。
——このまま見送ってしまって、本当にいいの?
その問いに背中を押されるように、青葉は口を開いた。
「お姉ちゃん!」
「うん?」
「私……駅まで送っていくよ。ちょっと外の空気、吸いたいから」
「え?」
青葉は少しだけ照れくさそうに、けれど必死に言葉を紡いだ。桜は少しだけ目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、送ってもらおっかな」
母は玄関の扉を押さえたまま、二人を優しく見送った。
「暗くなるの早くなったから、気をつけてね」
「うん、ありがと。……お母さん」
「うん? どうしたの桜」
「もう少し、顔見せに帰るようにするね」
「! ……いつでも待ってるから」
「うん……ありがとう。じゃあ、行ってきます」
桜は——記憶の中と何一つ変わらない笑顔を浮かべていた。その姿を目にした瞬間、青葉は思わず扉の枠を掴んだまま声を上げた。
「お姉ちゃん……!?」
「お……青葉! 元気だった? 大きくなったねぇ」
「お姉ちゃんこそ……全然帰ってこないから、心配したじゃん。何年ぶり?」
「ほんとよ。なんの連絡もなく来るんだからびっくりしちゃったわ。桜、今日は泊まっていけるんでしょ?」
ソファに腰掛けた桜は、「あー……」と少し申し訳なさそうに眉を下げて笑った。
「ごめん。二時間ぐらいしたら、出なきゃなんだよね。明日、こっちで学会があるんだ」
「え……学会?」
聞き返すと、桜はマグカップを受け取りながら大きく頷いた。
「うん。今夜には会場近くのホテルに入らなきゃいけなくて。でも、ちょうどこっちの方まで来てたからさ。せっかくだし顔だけでも出そうかなって」
母は少し残念そうに肩を落とした。
「そうなの? 久しぶりなんだから、一日くらい泊まっていけばいいのに」
「私も泊まりたかったんだけどね。明日の発表が朝一だからさ。さすがに朝早くからバタバタさせるのも悪いし」
姉が何気なく口にしたその一言に、青葉は胸の奥を小さく突かれたような心地がした。思わず桜の横顔を見つめる。
(学会……)
それは、研究者だった頃の姉なら、ごく当たり前に口にしていた言葉だった。
けれど、五年前——あの日を境に、その言葉はもう、姉の人生から消えてしまったものだと、青葉はどこかで思い込んでいた。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
我慢できずに声をかけると、桜が不思議そうに振り返る。
「研究……戻れたんだね」
桜は一瞬だけきょとんとしたが、やがて少し照れくさそうに口元を緩めた。
「うん。まあ、前とはだいぶ違う分野なんだけどね」
「違う分野?」
「今はね、番の研究をしてるの」
その一言に、青葉の表情がぴくりと強張った。
「番の……?」
「そう」
桜は苦笑しながら頷いた。
「ほら……私、番紋が出て、蒼介ともあんなことになっちゃったじゃない? だから最初は、この番紋が憎くてしょうがなかったんだけど……でも、だからこそ。私の人生を変えたこの『番』って、一体なんなんだろうってさ。知りたくなったんだよね」
「お姉ちゃん……」
青葉は思わず息を呑んだ。
あの日、姉の人生は終わってしまったのだと、青葉はどこかで思い込んでいた。けれど——桜は、その痛みを抱えながらも、新たな道へと再び歩き始めていたのだ。
「それで、結婚してからしばらくは一人で細々と研究してたんだけどね。なかなか形にならなくて。でも途中から協力してくれる先生たちも見つかって、最近ようやく、一本の論文としてまとめられたの」
「えっ!」
青葉は一歩、桜の方へ踏み出した。
「すごい……! どんな研究なの?」
桜は少しだけ視線を斜め上に向けて、記憶をなぞるように人差し指を顎に当てた。
「えっとね……番ってさ。昔から『運命の祝福』とか、『魂の伴侶』なんて言われてるじゃん?」
「まあ……そうだね」
「でも、それってあくまで昔から語り継がれてきた話ってだけで、学術的に実証された事実じゃないんだよね」
「そうなの?」
「うん。実はね、番がどういう仕組みで生まれるのかさえ、まだ分からないことの方がずっと多いんだよ。だから、本当に世間で言われてるようなものなのか知りたくて、ずっとデータを集めて調べてたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわりと冷たく波立った。無意識のうちに、自分の左手首へと視線を落とした。制服の袖口の中には、薄くなりかけた番紋が、息を潜めるように隠れている。
「調べてて思ったんだけどさ。番ってね、世間で思われているよりずっと複雑で、それでいて繊細なんだよ」
「……そう、なんだ」
桜の何気ない呟きに、青葉は曖昧に相槌を打つのが精一杯だった。頭の中では、番紋のことばかりがぐるぐると渦を巻いている。
桜はそんな青葉の内心など知る由もなく、生き生きとした表情で革の鞄を開いた。中から取り出したのは、分厚いクリアファイルだった。
「これ。明日の発表で使う資料のコピー」
「えっ」
青葉は弾かれたように身を乗り出した。
「いいの? 見ちゃっても」
「どうせ明日には発表するんだから、別に問題ないよ」
桜はくすくすと笑いながらクリアファイルを青葉へ差し出した。ページをそっとめくると、そこには番紋の精緻な模式図や、霊力の周波数波形、そして整然と並ぶいくつもの検証グラフが並んでいた。
「すご……」
青葉は純粋に、そのデータの美しさに息を呑んだ。
「これ……全部お姉ちゃんが分析したの?」
「もちろん共同研究者の先生方もいるけど、解析用の術式構成とかはほとんど私かな」
桜はこともなげに答えた。昔からそうだった。この姉は、自分が完全に納得するまで、どれだけ時間がかかろうとも絶対に手を止めない。その妥協のない背中を、青葉は誰よりも近くで、ずっと憧れながら見てきたのだ。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「楽しそうだね。すごく」
その一言に、桜は少しだけ意外そうに丸い目を瞬かせた。そして、昔と変わらない、少女のような笑みを浮かべた。
「ふふ、そう見える?」
「うん。本当に」
「そっか。……うん、楽しいよ」
桜はマグカップを両手で包み込み、優しく微笑んだ。
「やっぱり私、なにがあっても、研究が好きだったんだなって。今、改めてそう思う」
「……お姉ちゃん、小さい頃からそうだもんね。夏休みの自由研究、一人だけ本物の論文みたいにして提出してたもん」
「あったね、そんなことも!」
桜が可笑しそうに吹き出す。
「お父さんにさ、『自由研究の最後に参考文献のリストを書いてる小学生がどこにいるんだ』って笑われたっけ」
「でも結局、あの研究、県の科学展で一番いい賞取ってたじゃん」
「あはは、そうだっけ?」
「あとさ、部屋で霊力測定器とか自作してたよね! お姉ちゃんがいない間に私が勝手に触って、壊して泣いたやつ」
「うわーそれ、懐かしい! ただの接触不良で配線が一本抜けただけなのに、『お姉ちゃんの宝物壊しちゃった、ごめんなさぁい!』って、玄関先で大号泣してたよね」
「だって、本当に壊したと思って怖かったんだもん!」
「あっはははは!」
二人で顔を見合わせると、堪えきれずに笑い声を重ねた。その様子を、母はマグカップを片手に、目を細めてにこにこと眺めていた。
「本当に、あんたたちは……。昔から研究とか霊術の話になると、時間を忘れて止まらなくなるんだから」
「遺伝だよ、お母さん」
桜は悪戯な笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「お父さんもお母さんもガチガチの理系なんだから、私たちがこうなるのは必然でしょ」
「ふふ、そうかもねぇ」
母は本当に嬉しそうに微笑んだ。
五年前までは当たり前にあった、姉を交えた温かな時間。久しぶりに我が家に戻ってきた姉妹の弾んだ笑い声に、母は何度も何度も、小さく頷いていた。
その時だった。桜の手元から、ピピッと小さなアラームが鳴る。
「あ! やば。もうこんな時間!?」
桜は腕時計をちらりと見ると、小さく肩を跳ねさせた。名残惜しそうに笑いながら、ファイルを鞄へ滑り込ませ、立ち上がる。
「ごめん、お母さん、青葉。そろそろ出なきゃ!」
「もう行くの? もう少しゆっくりしてけばいいのに……でも仕方ないわね」
「うん、ごめんね」
玄関へと向かい、手際よく靴を履きながらそう告げる桜に、青葉は思わず、その背中を目で追っていた。
(もう、行っちゃうんだ……)
せっかく会えたのに。
もっと話したかった。
もう少しだけ、この温かい時間を一緒に過ごしたかった。
——このまま見送ってしまって、本当にいいの?
その問いに背中を押されるように、青葉は口を開いた。
「お姉ちゃん!」
「うん?」
「私……駅まで送っていくよ。ちょっと外の空気、吸いたいから」
「え?」
青葉は少しだけ照れくさそうに、けれど必死に言葉を紡いだ。桜は少しだけ目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、送ってもらおっかな」
母は玄関の扉を押さえたまま、二人を優しく見送った。
「暗くなるの早くなったから、気をつけてね」
「うん、ありがと。……お母さん」
「うん? どうしたの桜」
「もう少し、顔見せに帰るようにするね」
「! ……いつでも待ってるから」
「うん……ありがとう。じゃあ、行ってきます」


