翌朝。目覚まし時計の音が鳴り響き、青葉はいつもの時間に目を覚ました。制服に着替え、鞄を肩に掛ける。玄関で靴を履き、スマートフォンへ目を落とした。
——七時二十分。
(そろそろ東雲が——)
「……あ……」
そこまで考えて、指先が凍りついたように止まる。
昨日の夕暮れが脳裏をよぎった。
『今日で、この関係も、おしまいにしよう』
青葉はゆっくりとスマートフォンをポケットにしまう。靴紐を結び終えても、しばらく玄関に立ったままだった。
「……行ってきます」
重い扉を開けて家を出る。
住宅街の景色は、いつもと少しも変わらない。朝日に照らされた電柱も、向かいの角のコンビニも、毎朝信号待ちをした交差点も、全部同じ。
違うのは、ただ一つ。隣に誰もいないことだけだった。
学院へ着くと、昇降口で靴を替えていた伊織がこちらに気づき、大きく手を振ってきた。
「お。青葉、おはよー!」
「おはよう」
「……あれ? 東雲くんは?」
その何気ない一言が、胸の奥をちくりと痛ませた。
「あー……別々に来た」
「そうなんだ? あ、昨日制限解除されたってDMで言ってたもんね!」
「うん」
それ以上の言葉は続かなかったが、伊織は深く追及せず、明るく頷いた。青葉も小さく笑みを返す。
ちゃんと笑えていたか、自分では分からなかった。
「おー、おはよ」
「おはよう」
教室に入ると、既に陸上部の朝練を終えた颯人が、こちらに気づいて手を上げる。青葉は挨拶を返しながら、自然と教室の奥へ視線を向けた。
東雲は——もう席に着いていた。
青葉が無意識にその姿を見つめていると、その視線に気づいたのか、東雲はふと顔を上げた。
一瞬だけ、二人の視線が交差する。
「おはよう」
東雲は穏やかに会釈すると、再び手元の生徒会資料へ視線を落とした。やがて資料を抱え、そのまま教室を出ていった。
青葉は自分の席に座り、鞄から教科書を取り出す。
その時、筆箱の中に見慣れない軸が覗いた。
東雲からもらったばかりのボールペンだった。
それを見た瞬間、青葉の胸がざわりと音を立てた。
「青葉ー?」
伊織が不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「……ううん。なんでもない」
別に、なんでもない。
そう言い聞かせても、心は全く追いつかなかった。
***
季節はゆっくりと確実に、本格的な秋へと歩み始めていた。
中間試験最終日。緊張感から解放され、部活やカラオケなど思い思いに散っていく生徒たちを横目に、青葉は特になにをするでもなく早々に帰宅した。自室へ戻ると、鞄だけ床へ下ろし、制服のままベッドへ倒れ込む。カーテンの隙間から、柔らかな午後の斜陽が、部屋の床へ長い影を落としていた。
「……」
ぼんやりと天井の木目を眺める。
最近、こんなふうになにもせず時間を過ごすことが増えていた。本を読もうとしても文字が滑り、研究資料を開いても一向に頭に入ってこない。試験も、思うような手応えは得られなかった。
(なんなんだろ……)
重いため息が唇から漏れる。
別に、体調が悪いわけじゃない。研究だって、ちゃんと進んでいる。創成棟のみんなとも毎日のように議論で盛り上がっている。伊織や颯人とは相変わらずくだらない話で笑い合い、自科霊棟で仲良くなった成瀬や杏奈とも、廊下で会えば自然と言葉を交わす。
毎日、ちゃんと楽しいはずだ。
それなのに、胸の奥だけは、まるで底の抜けた器のように、なにを注いでも満たされなかった。
(……)
なにが足りないのか。……自分でも、分かっている。
たとえば昼休み。伊織や颯人と食べている時に、無意識に空いた一席へ目をやってしまうとか。帰り道でふと思いついた話題を、いつものように隣へ投げかけようとしてから、そこには誰もいないことに気づくとか。毎朝七時二十分になると、もう確かめる必要もないスマートフォンを、つい見てしまう、とか。
(……東雲)
至る所で東雲と過ごした日々の欠片を拾うたび、たった三か月の間に、こんなにも彼の存在が自分の日常に染み込んでいたのだと気づく。その事実が、かえって虚しかった。
「はあ……」
妙な脱力感を振り払うように、左腕を額に載せる。何気なく制服の袖を少し捲った時、窓から差し込む斜陽が、左手首の番紋を照らした。
「……え」
思わず息を呑んだ。左手首に浮かぶ番紋——その複雑に絡み合う線の輪郭が、以前より、明らかに薄くなっていた。
「……嘘……」
青葉はゆっくりと身を起こし、震える指先で何度も番紋に触れた。見間違いじゃない。確かに、掠れるように薄くなっている。
指先から血の気が引いていく。それと同時に、以前、保健棟の診察室で調月から告げられた言葉が、鮮明に蘇った。
『番紋は——消失することがあるらしい』
「……っ!」
胸が、引きちぎられるように締め付けられた。
東雲はあの日、自ら引いた境界を徹底して守り続けていた。
朝も、昼も、放課後も、必要以上に言葉を交わすことはなかった。互いに近づくこともなく、目が合えば小さく会釈するだけ。青葉もまた、なにも言えなかった。どんな顔で話しかければいいのかも分からなかったし、あれほどはっきり終わりを告げた彼に、自分から近づいていいとも思えなかったから。
そうして互いに干渉することなく、砂時計から砂が零れ落ちるように、一か月が静かに過ぎ去っていった。
——その結果が、これだ。
途端に心臓が嫌な音を立てて暴れ出した。
「嫌だ……消えないでよ……」
その声の切実さに、自分自身で驚く。
青葉はハッと息を止めた。
(なんで……?)
なぜ、自分は今、消えないでほしいと願ったのだろう。
ずっと、ずっと嫌だったはずだ。番なんて、運命なんて、自分の自由な気持ちを縛り付ける呪いみたいなものだと思っていた。『呪いの紋様だ』と吐き捨てたのは、他ならぬ自分自身だったのに。
なのに、どうして。
今まさに、こうして薄れかかっていく番紋に、縋ろうとしているのだろうか。
「どうしたらいいの……」
理由も分からないまま、胸を締めつけるような不安に耐えきれず、涙が滲んだ。
その時だった。
「お母さーん、いるー?」
青葉はびくりと顔を上げた。玄関の方から聞き慣れた、けれどここ数年聞くことのなかった懐かしい声が響いていた。
「……え」
今の声、まさか——。
次の瞬間、階下から母親の素っ頓狂な声が響いた。
「え、桜……!? 急にどうしたの、そんな荷物抱えて!」
——桜。
その名前を耳にした瞬間、青葉は勢いよくベッドから立ち上がっていた。
——七時二十分。
(そろそろ東雲が——)
「……あ……」
そこまで考えて、指先が凍りついたように止まる。
昨日の夕暮れが脳裏をよぎった。
『今日で、この関係も、おしまいにしよう』
青葉はゆっくりとスマートフォンをポケットにしまう。靴紐を結び終えても、しばらく玄関に立ったままだった。
「……行ってきます」
重い扉を開けて家を出る。
住宅街の景色は、いつもと少しも変わらない。朝日に照らされた電柱も、向かいの角のコンビニも、毎朝信号待ちをした交差点も、全部同じ。
違うのは、ただ一つ。隣に誰もいないことだけだった。
学院へ着くと、昇降口で靴を替えていた伊織がこちらに気づき、大きく手を振ってきた。
「お。青葉、おはよー!」
「おはよう」
「……あれ? 東雲くんは?」
その何気ない一言が、胸の奥をちくりと痛ませた。
「あー……別々に来た」
「そうなんだ? あ、昨日制限解除されたってDMで言ってたもんね!」
「うん」
それ以上の言葉は続かなかったが、伊織は深く追及せず、明るく頷いた。青葉も小さく笑みを返す。
ちゃんと笑えていたか、自分では分からなかった。
「おー、おはよ」
「おはよう」
教室に入ると、既に陸上部の朝練を終えた颯人が、こちらに気づいて手を上げる。青葉は挨拶を返しながら、自然と教室の奥へ視線を向けた。
東雲は——もう席に着いていた。
青葉が無意識にその姿を見つめていると、その視線に気づいたのか、東雲はふと顔を上げた。
一瞬だけ、二人の視線が交差する。
「おはよう」
東雲は穏やかに会釈すると、再び手元の生徒会資料へ視線を落とした。やがて資料を抱え、そのまま教室を出ていった。
青葉は自分の席に座り、鞄から教科書を取り出す。
その時、筆箱の中に見慣れない軸が覗いた。
東雲からもらったばかりのボールペンだった。
それを見た瞬間、青葉の胸がざわりと音を立てた。
「青葉ー?」
伊織が不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「……ううん。なんでもない」
別に、なんでもない。
そう言い聞かせても、心は全く追いつかなかった。
***
季節はゆっくりと確実に、本格的な秋へと歩み始めていた。
中間試験最終日。緊張感から解放され、部活やカラオケなど思い思いに散っていく生徒たちを横目に、青葉は特になにをするでもなく早々に帰宅した。自室へ戻ると、鞄だけ床へ下ろし、制服のままベッドへ倒れ込む。カーテンの隙間から、柔らかな午後の斜陽が、部屋の床へ長い影を落としていた。
「……」
ぼんやりと天井の木目を眺める。
最近、こんなふうになにもせず時間を過ごすことが増えていた。本を読もうとしても文字が滑り、研究資料を開いても一向に頭に入ってこない。試験も、思うような手応えは得られなかった。
(なんなんだろ……)
重いため息が唇から漏れる。
別に、体調が悪いわけじゃない。研究だって、ちゃんと進んでいる。創成棟のみんなとも毎日のように議論で盛り上がっている。伊織や颯人とは相変わらずくだらない話で笑い合い、自科霊棟で仲良くなった成瀬や杏奈とも、廊下で会えば自然と言葉を交わす。
毎日、ちゃんと楽しいはずだ。
それなのに、胸の奥だけは、まるで底の抜けた器のように、なにを注いでも満たされなかった。
(……)
なにが足りないのか。……自分でも、分かっている。
たとえば昼休み。伊織や颯人と食べている時に、無意識に空いた一席へ目をやってしまうとか。帰り道でふと思いついた話題を、いつものように隣へ投げかけようとしてから、そこには誰もいないことに気づくとか。毎朝七時二十分になると、もう確かめる必要もないスマートフォンを、つい見てしまう、とか。
(……東雲)
至る所で東雲と過ごした日々の欠片を拾うたび、たった三か月の間に、こんなにも彼の存在が自分の日常に染み込んでいたのだと気づく。その事実が、かえって虚しかった。
「はあ……」
妙な脱力感を振り払うように、左腕を額に載せる。何気なく制服の袖を少し捲った時、窓から差し込む斜陽が、左手首の番紋を照らした。
「……え」
思わず息を呑んだ。左手首に浮かぶ番紋——その複雑に絡み合う線の輪郭が、以前より、明らかに薄くなっていた。
「……嘘……」
青葉はゆっくりと身を起こし、震える指先で何度も番紋に触れた。見間違いじゃない。確かに、掠れるように薄くなっている。
指先から血の気が引いていく。それと同時に、以前、保健棟の診察室で調月から告げられた言葉が、鮮明に蘇った。
『番紋は——消失することがあるらしい』
「……っ!」
胸が、引きちぎられるように締め付けられた。
東雲はあの日、自ら引いた境界を徹底して守り続けていた。
朝も、昼も、放課後も、必要以上に言葉を交わすことはなかった。互いに近づくこともなく、目が合えば小さく会釈するだけ。青葉もまた、なにも言えなかった。どんな顔で話しかければいいのかも分からなかったし、あれほどはっきり終わりを告げた彼に、自分から近づいていいとも思えなかったから。
そうして互いに干渉することなく、砂時計から砂が零れ落ちるように、一か月が静かに過ぎ去っていった。
——その結果が、これだ。
途端に心臓が嫌な音を立てて暴れ出した。
「嫌だ……消えないでよ……」
その声の切実さに、自分自身で驚く。
青葉はハッと息を止めた。
(なんで……?)
なぜ、自分は今、消えないでほしいと願ったのだろう。
ずっと、ずっと嫌だったはずだ。番なんて、運命なんて、自分の自由な気持ちを縛り付ける呪いみたいなものだと思っていた。『呪いの紋様だ』と吐き捨てたのは、他ならぬ自分自身だったのに。
なのに、どうして。
今まさに、こうして薄れかかっていく番紋に、縋ろうとしているのだろうか。
「どうしたらいいの……」
理由も分からないまま、胸を締めつけるような不安に耐えきれず、涙が滲んだ。
その時だった。
「お母さーん、いるー?」
青葉はびくりと顔を上げた。玄関の方から聞き慣れた、けれどここ数年聞くことのなかった懐かしい声が響いていた。
「……え」
今の声、まさか——。
次の瞬間、階下から母親の素っ頓狂な声が響いた。
「え、桜……!? 急にどうしたの、そんな荷物抱えて!」
——桜。
その名前を耳にした瞬間、青葉は勢いよくベッドから立ち上がっていた。


