***
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った放課後の図書室には、西に傾いた太陽が、格子状の窓から柔らかな斜光を差し込ませている。古びた木製の書架はこっくりとした橙色に染まり、そこから伸びる長く深い影が、床の絨毯をゆっくりと這うようにして覆っていく。この時間が止まったかのような静寂と、古い紙の匂いに満ちた空間が、青葉はたまらなく好きだった。
都内随一の蔵書数を誇るこの学校の図書館は、一般書籍のみならず霊術専門書も豊富に取り揃えられている。
図書委員の仕事である返却本の棚戻しを終えた青葉は、近くにあった椅子に座り、ふう、と一息ついて伸びをした。
本に囲まれている時間は、日々の雑音から切り離され、不思議と心が凪いでいく。
研究書、小説、古文書や民俗学の文献——ここにある全ての頁には、自分がまだ見ぬ広大な世界と、先人たちの知恵が詰まっている。
(いつか私もここに並ぶような、誰かの役に立つ術式を生み出したい)
まだ何者でもない自分の、真っ新に光り輝く未来。その夢を思い描くたび、胸の奥が心地よく高鳴った。
愛おしさを込めて、頬杖をつきながら書架を見渡していた、その時。
静寂を破るように、図書館の引き戸がガラガラと開いた。
「失礼します」
記憶に新しい、よく通る——けれど少し低いその声に、青葉は弾かれたように振り返った。
「あれ、東雲?」
夕闇のグラデーションに染まりかけた入り口に立っていたのは、東雲玲司だった。制服の肩に鞄をかけているところを見ると、山積みの生徒会業務を終え、これから下校するところなのだろう。片手には、何やら書類の詰まった厚みのある茶封筒が握られている。
「篠宮。まだ残っていたんだな」
「うん、返却本の片付け。東雲こそ、図書室に何か用?」
「ああ。生徒会から図書委員長へ届け物」
東雲は封筒を軽く持ち上げて見せた。
「夏休み中に行われる、館内の一斉蔵書点検についての資料なんだけど」
「あれ……佐竹くん今日、急な用事で早退したって聞いてない?」
「あー……」
東雲は一瞬だけ、記憶を遡るように眉根を寄せた。
「そういえば、昼の幹部会でそんな報告があった気がする」
「相変わらず忙しそうだね。良かったら、私が預かろうか?」
「頼めるか? 助かる」
「もちろん」
青葉は受付カウンターから出て、東雲の前まで歩み寄った。差し出された封筒を受け取ろうと、左手を伸ばす。
その刹那。互いの指先が、ほんの少しだけ、擦れるように触れ合った。
「——っ!」
バチッ、と。冬場の静電気などとは比べ物にならない強烈な衝撃が走って、二人は思わず封筒を落としてしまった。
それは物理的な痛みというよりも、まるで内側から魂を直接揺さぶられたかのような、胸の奥を掴まれたような熱だった。
青葉は心臓を跳ね上がらせ、反射的に手を引き結ぶ。
「あ、ご、ごめん……っ」
「いや……」
東雲もまた、僅かに目を見開いたまま動きを止めていた。自身の指先を見つめる彼の瞳に、かすかな動揺が走っているのがわかる。
「せ、静電気、かな……? びっくりしたね」
「……だな。書類ばっか触ってたから、指先が乾燥してたのかも」
「ね。私も本ばっか触ってたから……あ、ハンドクリーム使う?」
「いや、いいよ。ありがとう」
お互いに言い聞かせるように言葉を交わしたが、春の終わりのこの季節にしては、あまりにも不可解だった。指先から伝わった微弱な電流のような熱が、いまだに血液を巡って身体の奥をじわじわと焦がしている。青葉は内心で首を傾げたが、それ以上深く考えるのをやめ、落としてしまった封筒を拾い上げた。
「これ、確かに預かるね」
「ああ。ありがとう」
今度は触れないように慎重に封筒を受け取り、近くの木製机へと置く。
ふと、東雲の視線が、その机の上に開きっぱなしになっていた本へと向けられた。オレンジ色の夕陽に照らされた、付箋だらけの『現代霊術応用技術学・概論』。
「……またそれ読んでんのか」
呆れたような、けれどどこか感心したような東雲の呟きに、青葉はふっと緊張を緩めて笑った。
「"また"って何」
「昼休みも、教室で熱心に睨みつけていただろ」
「え、見てたの?」
「いや。昼休みに、窓からその本をひらひら振ってただろ。その時にタイトルが見えたから」
「ええ? あんな遠くからよく見えたね。さすがの身体強化能力、五感まで鍛えられてる」
「あー……まあな」
東雲はなぜか少し決まり悪そうに視線を逸らしたが、青葉は特に気に留めることもなく、愛おしそうに本へと視線を落とした。
「でも、本当に面白いんだよ、これ」
「それが?」
「うん」
「そんなにか?」
「そんなに」
一ミリの迷いもない即答に、東雲は降参したように思わず苦笑する。
「実技一辺倒の俺には、呪文の羅列にしか見えないけどな」
「あはは、学年主席の台詞とは思えないね。まあでも、興味がない人にはただの退屈な文字列かもしれない。……でも私は、これが好きなの」
そう言って顔を上げた青葉の瞳には、夕陽を反射した黄金色の光が宿っていた。玲司は息を呑み、少しだけ目を細める。研究の話をしている時の彼女は、教室で見せる生真面目な表情とは全く違っていた。純粋で、無防備で、心の底から世界を楽しんでいる。その姿が、東雲の目にはひどく眩しく、美しく映った。
「将来は、やっぱり研究者になるのか」
「勿論」
青葉は本のページを、そっと宝物のように撫でる。
「霊術っていうシステムは、まだまだ便利に変えられると思うの。もっと安全に使えるように改良したり、生まれつき霊力が少ない一般の人でも、その恩恵を受けられるようにしたり……。私は、そうやって人と人がもっと繋がる未来を作る研究がしたい」
その横顔には、一点の曇りも揺らぎも感じられない、強い意志が宿っている。
「……篠宮らしいな」
「どういう意味?」
「いや、別に」
東雲は少しだけ、悪戯っぽく微笑んだ。
「似合っていると思う、すごく」
不意を突かれた言葉だった。周囲からはいつも『頑固だ』『女の子らしくない堅物だ』と言われることが多かった。伊織や颯人は応援してくれるけれど、研究者の夢を『似合っている』と肯定されたのは、思えばこれが初めてだったかもしれない。
「あ、……ありがとう」
胸がふわりと軽くなり、青葉は照れ隠しのように小さく笑った。
「……あのさ。昼間の……」
「うん? どうかした?」
「……いや、ごめん。何でもない。じゃあ、俺もう行くわ」
一瞬何かを言いかけた東雲だったが、次の瞬間、名残惜しそうに踵を返した。
「うん。資料は明日、佐竹くんに渡しておくよ」
青葉の言葉に返事をするように、東雲は軽く手を挙げ、図書室を後にした。
引き戸が静かに閉まり、再び元の、西日に染まった静寂が室内に戻ってくる。青葉は小さく息を吐き、机の上の封筒を持ち直した。
「さて、私も片付けて帰ろうかな」
そう呟き、歩き出そうとした、まさにその瞬間だった。
——ドクン。
「……え?」
突如、左手首の奥がじわりと異常な熱を帯びたのを感じ、思わず足が止まった。
気のせいではない。心臓の鼓動に合わせて共鳴しながら、じわり、じわりと、皮膚の裏側を焼き焦がすような熱量が広がっていく。
「な、に……これ……っ」
嫌な予感とともに脳裏に"あの夜"の光景が蘇り、全身が粟立っていく。
嫌だ。嘘だ。だって、私は高校生だ。まだ、何も成し遂げていないのに。
震える手で恐る恐る制服の袖をめくろうとした、その時だった。
——ドサッ!!
静かな廊下に、何かが激しく落ちる音が響き渡った。
青葉は弾かれたように顔を上げ、図書室の扉を勢いよく押し開ける。
「……篠、宮……?」
掠れた声を絞り出してそこに佇んでいたのは、先ほど別れたばかりの東雲玲司だった。まだ数メートルしか離れていない廊下の真ん中で、彼は肩にかけていたはずの通学鞄を床に落とし、呆然と立ち尽くしていた。
その視線は、自身の右手首へと注がれている。
見れば、彼の制服の袖口から露出した左手首から、禍々しいほどに美しい、淡い紅色の光が漏れ出していた。その光は脈を打つようチカチカと瞬きながら、彼の肌の上でゆっくりと、確実に、ある"紋様"を描き始めていく——。
それを見た瞬間、青葉の心臓が、冷たく凍りついた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った放課後の図書室には、西に傾いた太陽が、格子状の窓から柔らかな斜光を差し込ませている。古びた木製の書架はこっくりとした橙色に染まり、そこから伸びる長く深い影が、床の絨毯をゆっくりと這うようにして覆っていく。この時間が止まったかのような静寂と、古い紙の匂いに満ちた空間が、青葉はたまらなく好きだった。
都内随一の蔵書数を誇るこの学校の図書館は、一般書籍のみならず霊術専門書も豊富に取り揃えられている。
図書委員の仕事である返却本の棚戻しを終えた青葉は、近くにあった椅子に座り、ふう、と一息ついて伸びをした。
本に囲まれている時間は、日々の雑音から切り離され、不思議と心が凪いでいく。
研究書、小説、古文書や民俗学の文献——ここにある全ての頁には、自分がまだ見ぬ広大な世界と、先人たちの知恵が詰まっている。
(いつか私もここに並ぶような、誰かの役に立つ術式を生み出したい)
まだ何者でもない自分の、真っ新に光り輝く未来。その夢を思い描くたび、胸の奥が心地よく高鳴った。
愛おしさを込めて、頬杖をつきながら書架を見渡していた、その時。
静寂を破るように、図書館の引き戸がガラガラと開いた。
「失礼します」
記憶に新しい、よく通る——けれど少し低いその声に、青葉は弾かれたように振り返った。
「あれ、東雲?」
夕闇のグラデーションに染まりかけた入り口に立っていたのは、東雲玲司だった。制服の肩に鞄をかけているところを見ると、山積みの生徒会業務を終え、これから下校するところなのだろう。片手には、何やら書類の詰まった厚みのある茶封筒が握られている。
「篠宮。まだ残っていたんだな」
「うん、返却本の片付け。東雲こそ、図書室に何か用?」
「ああ。生徒会から図書委員長へ届け物」
東雲は封筒を軽く持ち上げて見せた。
「夏休み中に行われる、館内の一斉蔵書点検についての資料なんだけど」
「あれ……佐竹くん今日、急な用事で早退したって聞いてない?」
「あー……」
東雲は一瞬だけ、記憶を遡るように眉根を寄せた。
「そういえば、昼の幹部会でそんな報告があった気がする」
「相変わらず忙しそうだね。良かったら、私が預かろうか?」
「頼めるか? 助かる」
「もちろん」
青葉は受付カウンターから出て、東雲の前まで歩み寄った。差し出された封筒を受け取ろうと、左手を伸ばす。
その刹那。互いの指先が、ほんの少しだけ、擦れるように触れ合った。
「——っ!」
バチッ、と。冬場の静電気などとは比べ物にならない強烈な衝撃が走って、二人は思わず封筒を落としてしまった。
それは物理的な痛みというよりも、まるで内側から魂を直接揺さぶられたかのような、胸の奥を掴まれたような熱だった。
青葉は心臓を跳ね上がらせ、反射的に手を引き結ぶ。
「あ、ご、ごめん……っ」
「いや……」
東雲もまた、僅かに目を見開いたまま動きを止めていた。自身の指先を見つめる彼の瞳に、かすかな動揺が走っているのがわかる。
「せ、静電気、かな……? びっくりしたね」
「……だな。書類ばっか触ってたから、指先が乾燥してたのかも」
「ね。私も本ばっか触ってたから……あ、ハンドクリーム使う?」
「いや、いいよ。ありがとう」
お互いに言い聞かせるように言葉を交わしたが、春の終わりのこの季節にしては、あまりにも不可解だった。指先から伝わった微弱な電流のような熱が、いまだに血液を巡って身体の奥をじわじわと焦がしている。青葉は内心で首を傾げたが、それ以上深く考えるのをやめ、落としてしまった封筒を拾い上げた。
「これ、確かに預かるね」
「ああ。ありがとう」
今度は触れないように慎重に封筒を受け取り、近くの木製机へと置く。
ふと、東雲の視線が、その机の上に開きっぱなしになっていた本へと向けられた。オレンジ色の夕陽に照らされた、付箋だらけの『現代霊術応用技術学・概論』。
「……またそれ読んでんのか」
呆れたような、けれどどこか感心したような東雲の呟きに、青葉はふっと緊張を緩めて笑った。
「"また"って何」
「昼休みも、教室で熱心に睨みつけていただろ」
「え、見てたの?」
「いや。昼休みに、窓からその本をひらひら振ってただろ。その時にタイトルが見えたから」
「ええ? あんな遠くからよく見えたね。さすがの身体強化能力、五感まで鍛えられてる」
「あー……まあな」
東雲はなぜか少し決まり悪そうに視線を逸らしたが、青葉は特に気に留めることもなく、愛おしそうに本へと視線を落とした。
「でも、本当に面白いんだよ、これ」
「それが?」
「うん」
「そんなにか?」
「そんなに」
一ミリの迷いもない即答に、東雲は降参したように思わず苦笑する。
「実技一辺倒の俺には、呪文の羅列にしか見えないけどな」
「あはは、学年主席の台詞とは思えないね。まあでも、興味がない人にはただの退屈な文字列かもしれない。……でも私は、これが好きなの」
そう言って顔を上げた青葉の瞳には、夕陽を反射した黄金色の光が宿っていた。玲司は息を呑み、少しだけ目を細める。研究の話をしている時の彼女は、教室で見せる生真面目な表情とは全く違っていた。純粋で、無防備で、心の底から世界を楽しんでいる。その姿が、東雲の目にはひどく眩しく、美しく映った。
「将来は、やっぱり研究者になるのか」
「勿論」
青葉は本のページを、そっと宝物のように撫でる。
「霊術っていうシステムは、まだまだ便利に変えられると思うの。もっと安全に使えるように改良したり、生まれつき霊力が少ない一般の人でも、その恩恵を受けられるようにしたり……。私は、そうやって人と人がもっと繋がる未来を作る研究がしたい」
その横顔には、一点の曇りも揺らぎも感じられない、強い意志が宿っている。
「……篠宮らしいな」
「どういう意味?」
「いや、別に」
東雲は少しだけ、悪戯っぽく微笑んだ。
「似合っていると思う、すごく」
不意を突かれた言葉だった。周囲からはいつも『頑固だ』『女の子らしくない堅物だ』と言われることが多かった。伊織や颯人は応援してくれるけれど、研究者の夢を『似合っている』と肯定されたのは、思えばこれが初めてだったかもしれない。
「あ、……ありがとう」
胸がふわりと軽くなり、青葉は照れ隠しのように小さく笑った。
「……あのさ。昼間の……」
「うん? どうかした?」
「……いや、ごめん。何でもない。じゃあ、俺もう行くわ」
一瞬何かを言いかけた東雲だったが、次の瞬間、名残惜しそうに踵を返した。
「うん。資料は明日、佐竹くんに渡しておくよ」
青葉の言葉に返事をするように、東雲は軽く手を挙げ、図書室を後にした。
引き戸が静かに閉まり、再び元の、西日に染まった静寂が室内に戻ってくる。青葉は小さく息を吐き、机の上の封筒を持ち直した。
「さて、私も片付けて帰ろうかな」
そう呟き、歩き出そうとした、まさにその瞬間だった。
——ドクン。
「……え?」
突如、左手首の奥がじわりと異常な熱を帯びたのを感じ、思わず足が止まった。
気のせいではない。心臓の鼓動に合わせて共鳴しながら、じわり、じわりと、皮膚の裏側を焼き焦がすような熱量が広がっていく。
「な、に……これ……っ」
嫌な予感とともに脳裏に"あの夜"の光景が蘇り、全身が粟立っていく。
嫌だ。嘘だ。だって、私は高校生だ。まだ、何も成し遂げていないのに。
震える手で恐る恐る制服の袖をめくろうとした、その時だった。
——ドサッ!!
静かな廊下に、何かが激しく落ちる音が響き渡った。
青葉は弾かれたように顔を上げ、図書室の扉を勢いよく押し開ける。
「……篠、宮……?」
掠れた声を絞り出してそこに佇んでいたのは、先ほど別れたばかりの東雲玲司だった。まだ数メートルしか離れていない廊下の真ん中で、彼は肩にかけていたはずの通学鞄を床に落とし、呆然と立ち尽くしていた。
その視線は、自身の右手首へと注がれている。
見れば、彼の制服の袖口から露出した左手首から、禍々しいほどに美しい、淡い紅色の光が漏れ出していた。その光は脈を打つようチカチカと瞬きながら、彼の肌の上でゆっくりと、確実に、ある"紋様"を描き始めていく——。
それを見た瞬間、青葉の心臓が、冷たく凍りついた。

