調月は二人のカルテを机へ並べた。
「まずは霊力測定だ」
二人が測定器へ手をかざすと、淡い光がゆっくりと流れ始める。
しばらくして、調月は手元の数値を確認し、小さく頷いた。
「……共鳴率、九十八パーセント。安定圏内だな。霊力回路も問題ない。初期霊障の症状は?」
「俺は、ありませんでした」
「私も……大丈夫、です」
「そうか。……よし、いいだろう」
調月はカルテへ最後の一行を書き込み、静かにペンを置くと、二人の顔をまっすぐに見つめた。
「——本日をもって、行動制限を解除する」
青葉がぱっと顔を上げた。
「本当ですか……!」
「ああ。霊障も消失しているし、共鳴率も十分だ。これ以上、経過観察を続ける必要はない」
パタン、とカルテが閉じられた。
「登下校、学内、休日。すべて自由だ」
その一言が落とされた診察室は、にわかに静まり返った。
三か月もの間、毎日のように一緒に登下校し、学内でも当たり前のように隣にいた。その日々が、今日で終わる。
青葉は小さく息を吐いた。ほっとしたはずなのに、胸の奥にはなにかが引っかかったままだった。
「……そうですか。良かった……」
「もうここへ来る必要はない。あとは普段通りに過ごして構わん。以上」
「え……これで終わり……ですか?」
「終わりだ」
調月は立ち上がり、白衣の襟を整えた。
「私の仕事はここまでだ。暗くなる前に帰れよ」
それだけ言うと、慣れた手つきでカルテを棚へ戻した。診察室にはもう、自分たちがここに留まる理由は残されていなかった。
「……ありがとうございました」
東雲が深く頭を下げる。青葉もそれに倣って、小さく頭を下げた。
「お世話になりました」
調月は振り返ることなく、片手を軽く上げただけだった。
保健棟を出る頃には、辺り一帯はすっかり緋色に染まっていた。校庭の向こうからは、これから打ち上げにでも行くのか、「どこ行く?」と盛り上がる生徒たちの楽しげな笑い声が、初秋の風に乗ってかすかに聞こえてきた。
「なんか、不思議だね」
暮れなずむ夕陽を見つめながら、青葉は小さく笑った。
「今日の朝はあんなに緊張してたのに、あっという間だった」
「ああ」
東雲は短く返す。青葉は嬉しそうに目を細めた。
「ハゲ山も美波ちゃんも、笑ってくれてたよね」
「ああ」
「子どもたちも楽しそうだったし、本当に良かったなぁ」
「そうだな」
「ねえ、学祭終わったら水族館行こうって話、覚えてる? 今度は本物の魚、見に行こうよ」
「……」
「……東雲?」
「……ああ。ごめん」
少し遅れて、小さく返事が返ってきた。
青葉は少しだけ首を傾げる。
(霊学祭終わって、疲れてるのかな)
そう結論づけて、青葉はそれ以上なにも聞かなかった。
二人はそのまま校門に向かって歩く。毎日並んで歩いた道。もう何度通ったか分からない、見慣れた帰り道。
やがて、その校門を出てすぐのところで——。
「青葉」
東雲が、名前を呼んだ。
あまりに静かなその声に、青葉は思わず足を止める。
「ん?」
「ちょっと、いいか」
東雲は青葉に向き直ると、少し俯いたまま、大きく息を吸い込んだ。
暮色に沈むその顔を見た瞬間、なぜか胸の奥がざわついた。
「——今日で一緒にいるの、やめよう」
青葉はきょとんとした。
「……え?」
「行動制限、解除されただろ」
東雲は淡々と、感情を削ぎ落とした声で続ける。
「もう、一緒に登校する必要もない。昼飯も、下校も、休み時間も、全部。……今日で終わりにしよう」
青葉は言葉の意味をすぐには理解できず、何度も瞬きを繰り返した。
「え……なんで?」
東雲は答えない。青葉はもどかしさに堪えかねて、一歩近づいた。
「だ……だって、私たち……友達でしょ? 別に、登下校を一緒にしなくたっていいけどさ。学校で話すとかできるじゃん?」
「……」
「……ダメなの……?」
「……」
「なんで……」
「……」
「『友達になってよ』って……東雲が言ったんじゃん。確かに初期霊障の距離制限はあったけどさ、全部番だから一緒にいたわけじゃないでしょ。ご飯を食べながら話したり、学祭を一緒に作ったり、買い出しに行ったり……三か月が終わったら、もう……友達じゃ、なくなっちゃうの?」
東雲は静かに目を閉じた。唇だけが、かすかに笑みの形を作っていた。
「……ごめん。その約束、もう守れそうにない」
東雲はゆっくりと顔を上げた。夕陽に照らされたその瞳は、どこまでも真っ直ぐで、揺るぎなかった。
「好きなんだよ。もう、ずっと前から」
青葉の呼吸が、ぴたりと止まった。
「……え……」
「……」
「……いつ、から……」
「……高一の時には、気づいたらもう……」
「……そ、んな……前から……なんで……」
頭の中が、真っ白になった。
突然の告白に、身じろぎ一つできなかった。
「研究の話をしてる時も、創成棟で笑ってる時も、学祭の準備をしてる時も。水族館を見て『綺麗』って笑ってた時も。……俺は、番だからじゃなくて……篠宮青葉が、好きなんだよ」
夕暮れの冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。
東雲は、ゆっくりと長い息を吐き出した。
「だけど、青葉言ったよな」
『——番だからって理由で、誰かを好きになることだけは、絶対にないから』
「俺がどれだけ『番だから好きなんじゃない』って伝えても、青葉は……番の俺を、好きにはなれないだろ?」
青葉は唇を小さく震わせる。
「っ……」
けれど、声にはならなかった。
好きなのか、好きじゃないのか。今までずっと、考えないように心の奥に押し込めてきたから。
違うとか、そんなことないとか、すぐにでも否定したかったけど——自分の気持ちすら分からないのに、この場で彼を繋ぎ止めるだけの言葉など、この不器用な口からは、全く出てきてくれなくて。
青葉はただただ黙るしかできなかった。
「……それでいい」
東雲は小さく微笑む。その声は、どこまでも静かで穏やかな響きをしていた。
「青葉はちゃんと、自分で選んだ人と、幸せになってよ。だから……今日で、この関係も、おしまいにしよう」
青葉は呆然と立ち尽くしていた。なにを言えばいいのかが、どうしても見つからない。
長い、長い沈黙の後——東雲がそっと口を開いた。
「……暗くなってきちゃったけど、一人で帰れそう?」
あまりにも普段通りの彼らしい気遣いに、鼻の奥が、つんと痛んだ。
「……うん」
やっとの思いで絞り出した声は、ひどく掠れていた。青葉は滲んだ視界のまま、ゆっくりと頷いた。
東雲は安心したように、小さく顎を引く。
「……気をつけて、帰れよ」
一瞬だけ、愛おしそうに青葉を見つめる。
そして——静かに視線を外した。
「じゃあな」
東雲は踵を返した。振り返ることなく、真っ直ぐ前だけを見て歩いていく。
宵色の中へ溶けていくその背中を、青葉は涙で歪む視界のまま見送り続けた。
その日、二人は三か月ぶりに、別々の帰路についた。
「まずは霊力測定だ」
二人が測定器へ手をかざすと、淡い光がゆっくりと流れ始める。
しばらくして、調月は手元の数値を確認し、小さく頷いた。
「……共鳴率、九十八パーセント。安定圏内だな。霊力回路も問題ない。初期霊障の症状は?」
「俺は、ありませんでした」
「私も……大丈夫、です」
「そうか。……よし、いいだろう」
調月はカルテへ最後の一行を書き込み、静かにペンを置くと、二人の顔をまっすぐに見つめた。
「——本日をもって、行動制限を解除する」
青葉がぱっと顔を上げた。
「本当ですか……!」
「ああ。霊障も消失しているし、共鳴率も十分だ。これ以上、経過観察を続ける必要はない」
パタン、とカルテが閉じられた。
「登下校、学内、休日。すべて自由だ」
その一言が落とされた診察室は、にわかに静まり返った。
三か月もの間、毎日のように一緒に登下校し、学内でも当たり前のように隣にいた。その日々が、今日で終わる。
青葉は小さく息を吐いた。ほっとしたはずなのに、胸の奥にはなにかが引っかかったままだった。
「……そうですか。良かった……」
「もうここへ来る必要はない。あとは普段通りに過ごして構わん。以上」
「え……これで終わり……ですか?」
「終わりだ」
調月は立ち上がり、白衣の襟を整えた。
「私の仕事はここまでだ。暗くなる前に帰れよ」
それだけ言うと、慣れた手つきでカルテを棚へ戻した。診察室にはもう、自分たちがここに留まる理由は残されていなかった。
「……ありがとうございました」
東雲が深く頭を下げる。青葉もそれに倣って、小さく頭を下げた。
「お世話になりました」
調月は振り返ることなく、片手を軽く上げただけだった。
保健棟を出る頃には、辺り一帯はすっかり緋色に染まっていた。校庭の向こうからは、これから打ち上げにでも行くのか、「どこ行く?」と盛り上がる生徒たちの楽しげな笑い声が、初秋の風に乗ってかすかに聞こえてきた。
「なんか、不思議だね」
暮れなずむ夕陽を見つめながら、青葉は小さく笑った。
「今日の朝はあんなに緊張してたのに、あっという間だった」
「ああ」
東雲は短く返す。青葉は嬉しそうに目を細めた。
「ハゲ山も美波ちゃんも、笑ってくれてたよね」
「ああ」
「子どもたちも楽しそうだったし、本当に良かったなぁ」
「そうだな」
「ねえ、学祭終わったら水族館行こうって話、覚えてる? 今度は本物の魚、見に行こうよ」
「……」
「……東雲?」
「……ああ。ごめん」
少し遅れて、小さく返事が返ってきた。
青葉は少しだけ首を傾げる。
(霊学祭終わって、疲れてるのかな)
そう結論づけて、青葉はそれ以上なにも聞かなかった。
二人はそのまま校門に向かって歩く。毎日並んで歩いた道。もう何度通ったか分からない、見慣れた帰り道。
やがて、その校門を出てすぐのところで——。
「青葉」
東雲が、名前を呼んだ。
あまりに静かなその声に、青葉は思わず足を止める。
「ん?」
「ちょっと、いいか」
東雲は青葉に向き直ると、少し俯いたまま、大きく息を吸い込んだ。
暮色に沈むその顔を見た瞬間、なぜか胸の奥がざわついた。
「——今日で一緒にいるの、やめよう」
青葉はきょとんとした。
「……え?」
「行動制限、解除されただろ」
東雲は淡々と、感情を削ぎ落とした声で続ける。
「もう、一緒に登校する必要もない。昼飯も、下校も、休み時間も、全部。……今日で終わりにしよう」
青葉は言葉の意味をすぐには理解できず、何度も瞬きを繰り返した。
「え……なんで?」
東雲は答えない。青葉はもどかしさに堪えかねて、一歩近づいた。
「だ……だって、私たち……友達でしょ? 別に、登下校を一緒にしなくたっていいけどさ。学校で話すとかできるじゃん?」
「……」
「……ダメなの……?」
「……」
「なんで……」
「……」
「『友達になってよ』って……東雲が言ったんじゃん。確かに初期霊障の距離制限はあったけどさ、全部番だから一緒にいたわけじゃないでしょ。ご飯を食べながら話したり、学祭を一緒に作ったり、買い出しに行ったり……三か月が終わったら、もう……友達じゃ、なくなっちゃうの?」
東雲は静かに目を閉じた。唇だけが、かすかに笑みの形を作っていた。
「……ごめん。その約束、もう守れそうにない」
東雲はゆっくりと顔を上げた。夕陽に照らされたその瞳は、どこまでも真っ直ぐで、揺るぎなかった。
「好きなんだよ。もう、ずっと前から」
青葉の呼吸が、ぴたりと止まった。
「……え……」
「……」
「……いつ、から……」
「……高一の時には、気づいたらもう……」
「……そ、んな……前から……なんで……」
頭の中が、真っ白になった。
突然の告白に、身じろぎ一つできなかった。
「研究の話をしてる時も、創成棟で笑ってる時も、学祭の準備をしてる時も。水族館を見て『綺麗』って笑ってた時も。……俺は、番だからじゃなくて……篠宮青葉が、好きなんだよ」
夕暮れの冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。
東雲は、ゆっくりと長い息を吐き出した。
「だけど、青葉言ったよな」
『——番だからって理由で、誰かを好きになることだけは、絶対にないから』
「俺がどれだけ『番だから好きなんじゃない』って伝えても、青葉は……番の俺を、好きにはなれないだろ?」
青葉は唇を小さく震わせる。
「っ……」
けれど、声にはならなかった。
好きなのか、好きじゃないのか。今までずっと、考えないように心の奥に押し込めてきたから。
違うとか、そんなことないとか、すぐにでも否定したかったけど——自分の気持ちすら分からないのに、この場で彼を繋ぎ止めるだけの言葉など、この不器用な口からは、全く出てきてくれなくて。
青葉はただただ黙るしかできなかった。
「……それでいい」
東雲は小さく微笑む。その声は、どこまでも静かで穏やかな響きをしていた。
「青葉はちゃんと、自分で選んだ人と、幸せになってよ。だから……今日で、この関係も、おしまいにしよう」
青葉は呆然と立ち尽くしていた。なにを言えばいいのかが、どうしても見つからない。
長い、長い沈黙の後——東雲がそっと口を開いた。
「……暗くなってきちゃったけど、一人で帰れそう?」
あまりにも普段通りの彼らしい気遣いに、鼻の奥が、つんと痛んだ。
「……うん」
やっとの思いで絞り出した声は、ひどく掠れていた。青葉は滲んだ視界のまま、ゆっくりと頷いた。
東雲は安心したように、小さく顎を引く。
「……気をつけて、帰れよ」
一瞬だけ、愛おしそうに青葉を見つめる。
そして——静かに視線を外した。
「じゃあな」
東雲は踵を返した。振り返ることなく、真っ直ぐ前だけを見て歩いていく。
宵色の中へ溶けていくその背中を、青葉は涙で歪む視界のまま見送り続けた。
その日、二人は三か月ぶりに、別々の帰路についた。


