***
霊学祭当日、朝七時。
まだ一般来場者の姿もない学院は、間もなく始まる狂騒を前に、すでに慌ただしい熱気に包まれていた。
「テープそこ押さえて! 剥がれてきちゃう!」
「机あと二つ、そっちの壁際に運んでー!」
「ねえ、本部のパンフレットもう届いた!?」
普段の授業前とはまるで違う。誰もがせわしなく教室を行き交っているのに、不思議とその表情は一様に明るかった。教室の扉には、成瀬たちが夜遅くまでかかって書き上げた、大きく立派な一枚の看板が掲げられている。
『創成棟・自科霊棟三年生 合同実演企画——霊術水族館』
教室へ一歩足を踏み入れると、すでにクラス全員がそれぞれの持ち場に集まり、開場直前の最終確認に追われていた。
無駄口を叩く者は一人もいない。全員が、この二か月間で積み重ねてきた自分の役割に、黙々と向き合っていた。
東雲は腕に巻いた『実行委員長』の腕章を律儀に直しながら、教室全体を見渡した。
「よし」
教壇の前へ立つと、教室中の視線が自然と東雲へ集まる。慌ただしく動いていた手も、次々と止まっていった。
「みんな。ここまで約二か月、本当にお疲れ様。いろんなことがあったけど、全員の力で乗り越えてこれた」
東雲はふっと、いつもより少しだけ肩の力を抜いて、小さく苦笑した。
「……まあ、こういう時に級長っぽい熱い挨拶とかをするのは、柄じゃないからさ」
その言葉に、張り詰めていた教室のあちこちから、くすりと緊張の解けるような笑いが漏れる。
東雲は教室中の全員を真っ直ぐ見渡し、一人ひとりへ言葉を届けるように静かに口を開いた。
「一言だけ。——今日くらいは、審査の順位とか、最優秀賞とか、そんな他人の評価は全部忘れて。自分たちが二か月かけて作ってきた、この景色を。今日は誰よりも、自分たち自身が楽しもう」
「おぉー!!」
教室中が歓声と拍手に包まれた。
「よっしゃあ! 祭りだ祭りだー!」
「もう、東雲くんのせいで泣きそうなんだけど!」
「ちょっと伊織、まだ始まってもいないのに泣くの早すぎ!」
温かい笑い声が広がり、教室の空気が一つになった、その時だった。
「まもなく一般来場者の入場を開始します。各実演企画、準備をお願いします」
校内放送のアナウンスを合図に、廊下の向こうから少しずつ、波のようなざわめきが近づいてくる。
小さな子どものはしゃぐ声。プログラムをめくる紙の音。保護者たちの期待に満ちた話し声。
やがて開場を告げる澄んだ鐘の音が、学院中に鳴り響いた。
東雲は静かに息を吸うと、教室の扉を開け放った。
「ようこそ——」
その瞬間、最初の来場者が、彼らの生み出した世界へと足を踏み入れた。
入ってきたのは、小学校低学年くらいの兄妹と、その両親の四人家族だった。
「こんにちは! ようこそ、霊術水族館へ!」
兄妹は「水族館?」と不思議そうに首を傾げながら、薄暗い教室の中を恐る恐る覗き込む。
「……わぁ」
遮光された教室の中は、水操術と光操術の連動によって、まるで深い海の底にいるような柔らかな青い光だけで満たされている。天井からは水の幕が下ろされ、砂地の隙間から伸びる淡く光る海藻が、水の流れに身を任せるように、ゆらゆらと揺らめいている。
そして——その空間を埋め尽くしていたのは、青い光を纏いながら優雅に泳ぐ、無数の『光の魚たち』だった。
「すごーい!! 本当の水族館みたい!」
「あ、ずるい! 待って!」
二人の頭上を、まるで歓迎するように、一匹の美しい青い熱帯魚がゆったりと尾びれを揺らして横切っていった。
「……本当に泳いでいるみたい。綺麗ね……」
母親も一歩入ったところで立ち止まり、感嘆の声を漏らす。父親も思わず辺りを見回し、感心したように東雲へ視線を向けた。
「これ、全部生徒さんたちの霊術なんですか?」
東雲は穏やかに、けれど誇りを持って微笑んだ。
「こちらは創成霊術棟と自然科学霊術棟の合同実演企画となっております。空間を泳ぐ魚たちに直接触れていただくと、それぞれの霊術を体験することができます」
「体験?」
「ええ。ぜひ、お好きな魚に触れてみてください」
妹は、自分の目の前をぷかぷかと浮遊していた赤い魚へと、恐る恐る小さな手を伸ばした。
その指先が光の鱗に触れた、次の瞬間。
——ホワッ。
ふわりと温かな炎が、女の子の手のひらの上で優しく灯った。
「きゃっ!」
一瞬驚いて手を引っ込めそうになる。けれど、それがまったく熱くない、心地よい温もりだと気づくと——女の子の顔に、ぱぁっと向日葵のような笑顔が咲いた。
「すごいすごい!! お兄ちゃん見て! 手から火が出た! 熱くないの!」
「本当だ! じゃあ俺はこっち!」
お兄ちゃんが、隣を泳いでいた黄色い魚の背中に触れる。
パチパチ、と小さな黄色い雷光が、指先で可愛らしく弾けた。
「うおっ! なんかビリビリする! すっげぇ、雷の魚だ!」
暗い教室の中に、子どもたちの純粋な笑い声が弾けるように響き渡る。その楽しげな様子に誘われるように、廊下を行き交う他の来場者たちも、次々と教室の中へと吸い込まれていった。
「えっ、なにここ、めちゃくちゃ綺麗……!」
「写真撮ってもいいですか?」
「もちろんです。フラッシュだけオフにしていただければ、いくらでもどうぞ」
教室のあちこちで、大人も子どもも関係なく、柔らかな笑顔と笑い声が溢れていく。魚を追いかけて次々と霊術を体験する子どもたち、クラスメイトの説明を聞きながら「霊術ってすごいのね」と目を輝かせる保護者、幻想的な室内を背景に、楽しそうに写真を撮る女子大生たち——誰もが、同じ青い光に照らされ、同じ景色を見て、同じように笑っていた。
ノートへ視線を落としていた青葉は、ふと周囲の景色を見渡した。
「……」
青葉の胸の奥が、言葉にできない熱でじんわりと満たされていく。
『霊術ってさ、まだまだ便利なものへと変えられると思うの。もっと安全に使えるように改良したり、生まれつき霊力が少ない一般の人でも、その恩恵を受けられるようにしたり……。私は、そうやって人と人がもっと繋がる未来を作る研究がしたい』
今、まさに目の前で——霊術を扱えない子どもたちが、笑いながら楽しそうに霊術に触れている。
ほんの三秒間だけの奇跡。それでも、その儚い三秒間が、今確実に、ここにいる誰かの人生の『楽しい記憶』へと変わっている。
青葉の視界が、一瞬だけ熱いもので潤んだ。
「……っ」
言葉にならない。ただ、胸がいっぱいで、静かにその光景を見つめ続けることしかできなかった。
「——青葉?」
不意に、すぐ隣から低く落ち着いた声がした。
ハッとして顔を上げると、いつの間にか入口の案内を成瀬たちに引き継いだ東雲が、そっと彼女の隣に立っていた。
「……」
青葉は少しだけ目元を赤くしながら、花が綻ぶように柔らかく笑った。
「……東雲。私、今……一番幸せかも」
東雲はなにも言わず、教室いっぱいに広がる青い光の海へ目を向けた。
ひらひらと泳ぎ回る魚たち。その姿を見て浮かぶ来場者の笑顔と、絶えない歓声。そして——その景色を、誰よりも愛おしそうに見つめる青葉の横顔。
「……これが」
やがて青葉が、光のクジラを見上げながら、ぽつりと宝物を打ち明けるように呟いた。
「私がずっと見たかったのは……こんな景色だったんだなって、思った」
「……そっか」
その日、展示終了時間になるまで、教室の前には入場を待つ長い列が途切れることはなかった。
霊学祭当日、朝七時。
まだ一般来場者の姿もない学院は、間もなく始まる狂騒を前に、すでに慌ただしい熱気に包まれていた。
「テープそこ押さえて! 剥がれてきちゃう!」
「机あと二つ、そっちの壁際に運んでー!」
「ねえ、本部のパンフレットもう届いた!?」
普段の授業前とはまるで違う。誰もがせわしなく教室を行き交っているのに、不思議とその表情は一様に明るかった。教室の扉には、成瀬たちが夜遅くまでかかって書き上げた、大きく立派な一枚の看板が掲げられている。
『創成棟・自科霊棟三年生 合同実演企画——霊術水族館』
教室へ一歩足を踏み入れると、すでにクラス全員がそれぞれの持ち場に集まり、開場直前の最終確認に追われていた。
無駄口を叩く者は一人もいない。全員が、この二か月間で積み重ねてきた自分の役割に、黙々と向き合っていた。
東雲は腕に巻いた『実行委員長』の腕章を律儀に直しながら、教室全体を見渡した。
「よし」
教壇の前へ立つと、教室中の視線が自然と東雲へ集まる。慌ただしく動いていた手も、次々と止まっていった。
「みんな。ここまで約二か月、本当にお疲れ様。いろんなことがあったけど、全員の力で乗り越えてこれた」
東雲はふっと、いつもより少しだけ肩の力を抜いて、小さく苦笑した。
「……まあ、こういう時に級長っぽい熱い挨拶とかをするのは、柄じゃないからさ」
その言葉に、張り詰めていた教室のあちこちから、くすりと緊張の解けるような笑いが漏れる。
東雲は教室中の全員を真っ直ぐ見渡し、一人ひとりへ言葉を届けるように静かに口を開いた。
「一言だけ。——今日くらいは、審査の順位とか、最優秀賞とか、そんな他人の評価は全部忘れて。自分たちが二か月かけて作ってきた、この景色を。今日は誰よりも、自分たち自身が楽しもう」
「おぉー!!」
教室中が歓声と拍手に包まれた。
「よっしゃあ! 祭りだ祭りだー!」
「もう、東雲くんのせいで泣きそうなんだけど!」
「ちょっと伊織、まだ始まってもいないのに泣くの早すぎ!」
温かい笑い声が広がり、教室の空気が一つになった、その時だった。
「まもなく一般来場者の入場を開始します。各実演企画、準備をお願いします」
校内放送のアナウンスを合図に、廊下の向こうから少しずつ、波のようなざわめきが近づいてくる。
小さな子どものはしゃぐ声。プログラムをめくる紙の音。保護者たちの期待に満ちた話し声。
やがて開場を告げる澄んだ鐘の音が、学院中に鳴り響いた。
東雲は静かに息を吸うと、教室の扉を開け放った。
「ようこそ——」
その瞬間、最初の来場者が、彼らの生み出した世界へと足を踏み入れた。
入ってきたのは、小学校低学年くらいの兄妹と、その両親の四人家族だった。
「こんにちは! ようこそ、霊術水族館へ!」
兄妹は「水族館?」と不思議そうに首を傾げながら、薄暗い教室の中を恐る恐る覗き込む。
「……わぁ」
遮光された教室の中は、水操術と光操術の連動によって、まるで深い海の底にいるような柔らかな青い光だけで満たされている。天井からは水の幕が下ろされ、砂地の隙間から伸びる淡く光る海藻が、水の流れに身を任せるように、ゆらゆらと揺らめいている。
そして——その空間を埋め尽くしていたのは、青い光を纏いながら優雅に泳ぐ、無数の『光の魚たち』だった。
「すごーい!! 本当の水族館みたい!」
「あ、ずるい! 待って!」
二人の頭上を、まるで歓迎するように、一匹の美しい青い熱帯魚がゆったりと尾びれを揺らして横切っていった。
「……本当に泳いでいるみたい。綺麗ね……」
母親も一歩入ったところで立ち止まり、感嘆の声を漏らす。父親も思わず辺りを見回し、感心したように東雲へ視線を向けた。
「これ、全部生徒さんたちの霊術なんですか?」
東雲は穏やかに、けれど誇りを持って微笑んだ。
「こちらは創成霊術棟と自然科学霊術棟の合同実演企画となっております。空間を泳ぐ魚たちに直接触れていただくと、それぞれの霊術を体験することができます」
「体験?」
「ええ。ぜひ、お好きな魚に触れてみてください」
妹は、自分の目の前をぷかぷかと浮遊していた赤い魚へと、恐る恐る小さな手を伸ばした。
その指先が光の鱗に触れた、次の瞬間。
——ホワッ。
ふわりと温かな炎が、女の子の手のひらの上で優しく灯った。
「きゃっ!」
一瞬驚いて手を引っ込めそうになる。けれど、それがまったく熱くない、心地よい温もりだと気づくと——女の子の顔に、ぱぁっと向日葵のような笑顔が咲いた。
「すごいすごい!! お兄ちゃん見て! 手から火が出た! 熱くないの!」
「本当だ! じゃあ俺はこっち!」
お兄ちゃんが、隣を泳いでいた黄色い魚の背中に触れる。
パチパチ、と小さな黄色い雷光が、指先で可愛らしく弾けた。
「うおっ! なんかビリビリする! すっげぇ、雷の魚だ!」
暗い教室の中に、子どもたちの純粋な笑い声が弾けるように響き渡る。その楽しげな様子に誘われるように、廊下を行き交う他の来場者たちも、次々と教室の中へと吸い込まれていった。
「えっ、なにここ、めちゃくちゃ綺麗……!」
「写真撮ってもいいですか?」
「もちろんです。フラッシュだけオフにしていただければ、いくらでもどうぞ」
教室のあちこちで、大人も子どもも関係なく、柔らかな笑顔と笑い声が溢れていく。魚を追いかけて次々と霊術を体験する子どもたち、クラスメイトの説明を聞きながら「霊術ってすごいのね」と目を輝かせる保護者、幻想的な室内を背景に、楽しそうに写真を撮る女子大生たち——誰もが、同じ青い光に照らされ、同じ景色を見て、同じように笑っていた。
ノートへ視線を落としていた青葉は、ふと周囲の景色を見渡した。
「……」
青葉の胸の奥が、言葉にできない熱でじんわりと満たされていく。
『霊術ってさ、まだまだ便利なものへと変えられると思うの。もっと安全に使えるように改良したり、生まれつき霊力が少ない一般の人でも、その恩恵を受けられるようにしたり……。私は、そうやって人と人がもっと繋がる未来を作る研究がしたい』
今、まさに目の前で——霊術を扱えない子どもたちが、笑いながら楽しそうに霊術に触れている。
ほんの三秒間だけの奇跡。それでも、その儚い三秒間が、今確実に、ここにいる誰かの人生の『楽しい記憶』へと変わっている。
青葉の視界が、一瞬だけ熱いもので潤んだ。
「……っ」
言葉にならない。ただ、胸がいっぱいで、静かにその光景を見つめ続けることしかできなかった。
「——青葉?」
不意に、すぐ隣から低く落ち着いた声がした。
ハッとして顔を上げると、いつの間にか入口の案内を成瀬たちに引き継いだ東雲が、そっと彼女の隣に立っていた。
「……」
青葉は少しだけ目元を赤くしながら、花が綻ぶように柔らかく笑った。
「……東雲。私、今……一番幸せかも」
東雲はなにも言わず、教室いっぱいに広がる青い光の海へ目を向けた。
ひらひらと泳ぎ回る魚たち。その姿を見て浮かぶ来場者の笑顔と、絶えない歓声。そして——その景色を、誰よりも愛おしそうに見つめる青葉の横顔。
「……これが」
やがて青葉が、光のクジラを見上げながら、ぽつりと宝物を打ち明けるように呟いた。
「私がずっと見たかったのは……こんな景色だったんだなって、思った」
「……そっか」
その日、展示終了時間になるまで、教室の前には入場を待つ長い列が途切れることはなかった。


