つがいがなんだってんだ!

 夏休み最終日。霊学祭まで、あと一週間に迫った自科霊クラスの教室は、もはや授業を受ける場所ではなく、巨大な工作と霊術の実験場と化していた。

「ちょ、成瀬、それ炙りすぎ!」
「やっべ! ちょっと焦げ目ついた!」
「まあ、これも味ってやつだな!」

 成瀬は友人たちと共に発泡スチロールの擬岩を囲んでいた。指先に小さな炎を灯し、表面をわずかに溶かしながら、本物の岩肌のような凹凸を刻んでいく。
 
「植物班、手前の海藻もうちょい増やせる?」
「はーい、任せて!」
 
 杏奈が柔らかく笑いながら床に手を触れる。淡い緑の霊力に促されるように、設置してあった砂地から、細長い昆布のような若葉がすくすくと芽吹いていった。
 
「念力班ー! 魚動かす練習するから、術式の同期準備お願い!」
「オッケー、いつでもいけるよ!」
 
 熱気と霊力が混ざり合う教室の中、誰もが汗を拭いながら忙しなく動いていた。
 そんな喧騒から少し離れた窓際の席で——。
 青葉は、机の上に積み上げられた術式ノートの最後の一冊へ、静かにボールペンの先を走らせていた。ペン先が紙から離れた瞬間——ノート全体が、ふわりと淡い赤い光を放ち、その輝きは紙へ溶け込むように静かに消えていった。
 
「……できた」
 
 青葉は、凝り固まった肩を回しながら、ほっと深い息を吐いた。
 机いっぱいに並んだ、三十冊の術式ノート。そのすべてに、自科霊クラス三十人分の霊術が、創成棟の仲間たちと共に組み上げた術式として丁寧に刻み込まれていた。
 
「終わった?」
 
 資材を運び終えた東雲が、覗き込むように声をかけてくる。
 青葉は振り返り、達成感に満ちた顔で大きく頷いた。
 
「うん! 完成したよ」
「三十人分か……大変だったよな。お疲れ、青葉」
「みんなのおかげだよ。私一人じゃ、絶対に無理だった」
 
 その言葉に東雲は優しく微笑むと、教室を見渡した。
 大道具班、装飾班、照明班、術式班——。それぞれが自分の持ち場で、完成へ向けた追い込みに励んでいた。
 
「……よし」
 
 東雲はパン、と一度大きく手を叩く。乾いた音が、教室の喧騒を切り裂いた。
 
「みんな、一回手を止めてくれ」 
「どうした、玲司?」
 
 成瀬が脚立の上から、頭にタオルを巻いた姿で顔を出す。
 
「霊学祭まであと一週間だろ。本番前に、一度通しで動かしてみないか」
 
 一瞬の静寂の後、クラス中がどよめいた。
 
「デモ、ってこと?」
「そう、本番前の動作確認。実際に合わせてみれば、まだ気づいてない問題点も見つかるだろうし」
「おぉぉー!」
 
 あちこちから地鳴りのような歓声が上がる。さっきまで作業に没頭していた教室が、一瞬で高揚感に包まれた。
 東雲は隣の青葉に向き直った。
 
「青葉。良い?」
 
 青葉は表情を引き締め、力強く頷いた。
 
「うん! みんな、お願いね!」
 
 その声を合図に、生徒たちが一斉に自分の持ち場へと散っていった。 
 パチ、と教室の蛍光灯が落とされる。遮光カーテンのわずかな隙間から漏れる夏の夏の斜陽だけが、静かに床の擬岩を照らしていた。
 青葉は深く息を吸い、一冊目のノートをゆっくりと開いた。

「——起動」

 淡い、情熱的な赤い光。炎操霊術の光球がふわりと宙へ浮かぶ。

「——起動」

 瑞々しい緑色の光。植物操霊術の光球がその隣へ静かに灯る。

「——起動」

 深い青。水操霊術の光がゆっくりと重なっていく。
 一冊、また一冊とノートを開くたび、色とりどりの光球が次々と浮かび上がり、それぞれの術式が静かに目を覚ましていく。それはまるで、真夏の夜空へ一斉に放たれた、無数の星のようだった。
 教室のあちこちから、「うわぁ……」と感嘆の声が漏れた。東雲は教室いっぱいに広がる光景を見渡し、小さく息を吐く。
 全てのノートを開き終えると、青葉が凛とした声で指示を飛ばした。
 
「柊也、なっちゃん。お願い!」
「了解」

 柊也たちが一斉に術式を起動させると、宙に浮かんでいた無数の光球が、生き物のようにうねり、姿を変えていった。
 柔らかな尾びれが生まれ、透明な胸ひれが広がり、細かな光の鱗が夕日に反射してきらきらと輝く。赤い熱帯魚、鮮やかな青いイルカ、優雅に尾を引く金色のタツノオトシゴ、虹色に輝く半透明のクラゲ。
 色鮮やかな“光の魚“たちが、暗い教室の中に次々と産声を上げる。誰も泳ぎ方を教えていないはずなのに、それらは生まれた瞬間から、水の中にいるかのように尾びれを揺らし始めた。
 
「瀬名君たち、大丈夫?」
「っしゃ、行くぞ!」

 念力班が手をかざした瞬間、魚たちが一斉に、命を得たように泳ぎ始めた。机の間をすり抜け、天井近くを優雅に旋回し、人と人の間を通り抜けていく。杏奈が霊力で海藻をゆったりと揺らし、由美が水のカーテンを引く。魚たちはその美しい景色の中で、群れをなして円を描いた。光操術の柔らかな照明が壁や天井に水面の揺らぎを映し出す。
 夏の教室は、いつしか静かな海中世界へと変わっていた。
 
「……すっげぇ」
 
 成瀬が、ポツリと魂が抜けたように呟いた。その一言が引き金だった。
 
「大成功じゃんこれ!」
「やばい、鳥肌立った!」
「本当に海の中にいるみたい!」
 
 教室中が、割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。誰もが満面の笑みを浮かべ、抱き合い、ハイタッチを交わしている。
 伊織は目の前を泳ぐ水色の魚へ、目を輝かせながら手を伸ばした。
 
「ねえねえ、これは誰のやつかな!?」
 
 伊織の指先が、光の魚の鱗へ触れる。
 ——フワッ。
 小さな優しい風が、伊織の身体を包むように渦を巻いた。
 
「うおぉ、風! しかも前より長く出てる!」
「すげぇ! 俺も触る!」
「雷のやつどこだ!」
「あ、クラゲ触ったら水が出た!」

 生徒たちが我先にと魚たちへ触れ、教室のあちこちで小さな炎が揺れ、水しぶきが弾け、風が舞い、雷が瞬いた。
 東雲はその様子を見渡し、小さく安堵の息を吐いた。
 
「……ひとまず、成功だな」
「最高! めちゃくちゃ可愛い!」
「本番が本当に楽しみだねぇ」
 
 伊織は満面の笑みを浮かべ、杏奈も嬉しそうに目を細めた。
 その時だった。
 
「——あ、」

 青葉が、手元のノートをぱらぱらとめくりながら、小さく声を漏らした。
 東雲がすぐに気づいて振り向く。

 
「青葉? どうした?」 
「……このまま本番を迎えるのは無理かも」
「え?」
「今は、私がただ順番に術式を開いたから処理が追いついたけど……本番は、来場者が好きなタイミングで、何度も魚に触るでしょ?」
「確かに、そうだな」
「一冊のノートへ負荷が集中すると、術式回路が耐えきれなくなる可能性があるの」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「処理の負荷を分散させる……全員分の予備ノートが必要だね」
「これ一式で三十冊だよな? ってことは……」
「今ある新品はあと十冊……最低でも二十冊買い足さないと」
 
 するとタイミングを合わせたかのように、教室の後ろの大道具班からも悲鳴のような声が上がった。

「あー! 接着剤なくなった!」
「青い塗料も完全に切れたわ」
「やっぱここ、土台補強しないと危ねぇ!」
 
 今度は大道具班が一気に大騒ぎになり始める。
 
「……問題点が見つかるだろうとは思ってたけど、一気に来たな」
 
 東雲は苦笑しながらメモ帳を取り出すと、不足している材料と改善点を手早く書き留めていった。

「みんな、他に足りない材料とかある? まとめて俺が買い出し行ってくるよ」
「あ、待って。私も行く! ノートは術式との相性もあるから、自分で選びたいの」
「分かった。一緒に行こう」

 そのやり取りを聞いた成瀬と伊織は、にやぁっといたずらを思いついた子どものように口角を上げた。

「おやおや〜?」
「二人きりで真夏のランデブーですかあ?」
「買い出し!!」
 
 青葉と東雲の声が綺麗に重なった。
 
「仕事だから。勘違いすんなよ」
「はいはい、わーかってるよ」
「熱中症に気をつけて、いってらっしゃーい!」
「うん、夕方には戻るね!」

 青葉は何の疑いもなく元気に手を振り返し、買い物メモを片手に、東雲と共に教室を後にした。
 二人の背中が廊下の角を曲がり、完全に消えるのを見届けてから——。
 成瀬が、ぽつりと呆れたように呟いた。
 
「……なぁ、伊織」
「ん?」
「あの二人、本気で『買い出し』だと思ってるんだよな?」
「そこがまたウブで可愛いんじゃん!」
 
 伊織が我慢できずに吹き出した。それを聞いていた柊也も、苦笑しながら荷物を片付ける。
 
「にしても、あの二人。空気が完全に出来上がってるよな」
 
 その言葉に、周囲の生徒たちも思わず頷いた。もう今や、東雲玲司と篠宮青葉が並んで歩く姿は、誰にとっても当たり前の光景になっていた。