つがいがなんだってんだ!

 ***
 
 夏休みも後半を迎えた。学院中が霊学祭準備の熱に浮かされる中、青葉と東雲の二人は、人影の少ない保健棟の廊下を歩いていた。
 週に一度の定期検診——番紋の経過観察の日だ。
 白く磨かれた無機質な廊下には、窓の外から容赦なく夏の日差しが差し込み、遠くで蝉の鳴き声が響いている。
 
「失礼します」
「入れ」
 
 扉の前で挨拶をすると、奥から低く落ち着いた声が返ってきた。部屋へ入ると、調月は手元の論文から顔を上げ、小さく顎を引く。

「調月先生、よろしくお願いします」

 二人は揃って頭を下げ、診察机の前のパイプ椅子へ腰を下ろした。調月は胸ポケットから万年筆を取り出し、カルテを開く。
 
「今週はどうだった。体調に変化は?」
「俺は問題ありません。学内で離れていても、以前のように手足が痺れることはほとんどなくなりました」
「篠宮は」
「私も同じです。番紋が急に熱を持つことも、ここ最近はほとんどなくなりました」
「そうか。……よし。数値を確認しよう」
 
 いつものようにそれぞれの腕を調月の方へ差し出す。
 調月は番紋に測定器の硝子面を順番に当て、モニターへ目を落とした。
 
「共鳴率八十七パーセント……前回よりもかなり上昇している。正常域まであとわずかだ。順調だな」
「本当ですか?」
「ああ。このまま安定していれば、あと一か月ほどで霊障は完全に収まるだろう」
「!」
 
 東雲と青葉が、同時に弾かれたように顔を見合わせた。
 
「それじゃあ……行動制限も解除、ってことですか?」
「そうだな。霊障が完全に収まったことさえ確認できれば、今後は通常の学生と同じように、距離を気にせず生活していい」
「良かった……」
 
 青葉は胸に手を当て、ほっと安堵の息を漏らした。
 これでようやく、元の生活に戻れる。
 その安堵した様子を見た調月は、わずかに間を置き、机の上の論文へ手を伸ばした。
 
「そういえば……ちょうどお前たちにも関係する話があってな」
 
 いつもとはわずかに異なる声音に、二人は自然と姿勢を正した。
 
「これは先月、霊術医学誌に掲載された論文なんだが」
「論文……何に関する研究ですか?」
「番紋についてだ」
 
 その言葉に、青葉は息を呑んだ。
 
「これまで番紋は、一度刻まれたら生涯消えない不可逆のものと考えられていた。だが——」
 
 調月は論文の表紙を、人差し指で軽く叩いた。
 
「その前提が、覆るかもしれん」
「……?」
「番紋は、消失することがあるらしい」
「……消失、する……?」
「霊力回路が安定した番同士のあいだで、番紋が消失した例がいくつか報告されているそうだ。いずれも、回路の安定後、一定期間にわたって相手との交流が著しく減っていたらしい」
 
 診察室の中が、水を打ったように静まり返った。窓の外の蝉の声が、やけに遠く聞こえる。
 青葉は恐る恐る自分の左手首へ視線を落とした。東雲もまた、無言で自分の右手首を見つめていた。
 
「つまり……」
 
 東雲が、言葉を噛みしめるように口を開いた。

「行動制限が終わった後、もし俺たちが離れたら……番紋が消えるかもしれないってことですか」
「可能性はある。だが、症例数は極めて少ない。そもそも霊力保持者自体が少なく、その中でも番はさらに稀だからな。現在分かっているのは、消失例に共通する傾向だけだ。まだ因果関係を断言できる段階ではない」

 調月は一度言葉を切り、机の上の論文をちらりと見やった。

「この研究を主導しているのは、もともとは別分野にいた研究者らしい。番を専門にしてきた人間とは異なる視点から、消失例を拾い上げたそうだ。秋の霊術医学会でも、続報が発表される」
「……そうですか」

 青葉は手首を見つめたまま、動けなかった。
 これ……消えるかもしれないんだ。
 それは、運命に勝手に未来を決められたあの日から、ずっと望んでいたはずだ。
 なのに、どうしてだろう。
 胸の奥が冷たい水に浸されたように、波立っていた。
 
「……まあ」

 パタンと閉じられたカルテの音が、静かな診察室によく響いた。
 その音に、二人がハッと顔を上げる。

「私の仕事は、霊障が起きないように患者の容態を診ることだ。番紋が残ろうが消えようが、そこから先は私の管轄ではない」
 
 突き放すようでいて、どこか優しさを含んだ口調だった。
 
「霊障さえ治まれば、お前たちはもう普通の学生だ。だから——その後をどうするかは、お前たちの好きにしろ」
 
 青葉と東雲は、もう一度顔を見合わせる。けれど、どちらからも言葉は出なかった。
 
「検診は以上だ。霊学祭まであと少し、くれぐれも無茶だけはするなよ」
「……はい。ありがとうございました」
 
 二人は揃って立ち上がり、診察室を後にした。