***
夏休みも後半を迎えた。学院中が霊学祭準備の熱に浮かされる中、青葉と東雲の二人は、人影の少ない保健棟の廊下を歩いていた。
週に一度の定期検診——番紋の経過観察の日だ。
白く磨かれた無機質な廊下には、窓の外から容赦なく夏の日差しが差し込み、遠くでは蝉が鳴き続けている。
「失礼します」
「入れ」
扉の前で挨拶をすると、奥から低く落ち着いた声が返ってきた。部屋へ入ると、調月は手元の論文から顔を上げ、小さく顎を引く。
「調月先生、よろしくお願いします」
二人は揃って頭を下げ、診察机の前のパイプ椅子へ腰を下ろした。調月は胸ポケットから万年筆を取り出し、カルテを開く。
「今週はどうだった。体調に変化は?」
「俺は問題ありません。学内で離れても、下校時も……以前ほど手足が痺れる感覚はありません」
「篠宮は」
「私も同じです。番紋が急に熱を持つことも、ここ最近はほとんどなくなりました」
「そうか。……よし。数値を確認しよう」
二人は慣れた様子で、それぞれの腕を陣の上へ差し出す。
調月はモニターへ目を落とし、表示された数値を記録用紙へと書き込んでいく。
「共鳴率八十七パーセント……前回よりもかなり上昇している。正常域まであとわずかだ。順調だな」
「……本当ですか?」
「ああ」
調月はカルテへ視線を落としたまま、淡々と答えた。
「このまま安定していれば、あと一か月ほどで霊障は完全に消失するだろう」
「!」
東雲と青葉が、同時に弾かれたように顔を見合わせた。
「それじゃあ……」
「行動制限も解除、ってことですか?」
東雲が確認するように、一歩身を乗り出す。
「ああ。霊障の完全消失さえ確認できれば、今後は通常の学生と同じように、距離を気にせず生活していい」
「よかった……」
青葉は胸に手を当て、そっと安堵の息を漏らした。これでようやく、あの日から続いていた制限が終わる。
その安堵した様子を見た調月は、わずかに間を置き、机の上の論文へ手を伸ばした。
「そういえば……ちょうどお前たちにも関係する話があってな」
いつもとはわずかに異なる声音に、二人は自然と姿勢を正した。
「これは先月、霊術医学誌に掲載された論文なんだが」
「論文……何に関する研究ですか?」
「番紋についてだ」
その言葉に、青葉は思わず息を呑んだ。
「これまで番紋は、一度刻まれたら生涯消えない不可逆のものと考えられていた。だが——」
調月は論文の表紙を、人差し指で軽く叩いた。
「その前提が、覆るかもしれん」
「……?」
「番紋は——消失することがあるらしい」
「……消失、する……?」
青葉の声が、意味を掴みかねるように漏れた。
「霊力回路が安定した番同士に、番紋の消失例がいくつか報告されている。いずれも、長期間にわたって相手との交流が著しく減っていたらしい」
診察室の中が、水を打ったように静まり返った。窓の外の蝉の声が、やけに遠く聞こえる。
青葉はゆっくりと、自分の左手首へ視線を落とした。東雲もまた、無言で自分の右手首を見つめていた。
「つまり……」
東雲が、言葉を噛みしめるように口を開いた。
「行動制限が終わった後、もし俺たちが離れたら……番紋が消える可能性がある、ってことですか」
「可能性はある。だが、症例数は極めて少ない。そもそも霊力保持者自体が少なく、その中でも番はさらに稀だからな。現在分かっているのは、消失例に共通する傾向だけだ。因果関係を断言できる段階ではない」
それだけ言うと、調月は論文を机の上に置いた。
診察室には、再び重い沈黙が流れる。青葉は手首を見つめたまま、動けなかった。
(消えちゃうかもしれないんだ……)
それは、運命に勝手に未来を決められたあの日から、ずっと望んでいたはずだった。
……なのに、どうしてだろう。胸の奥が冷たい水に浸されたように、波立っていた。
「……まあ」
パタンと閉じられたカルテの音が、静かな診察室によく響いた。
その音に、二人がハッと顔を上げる。
「私の仕事は、霊障が起きないように患者の容態を診ることだ。番紋が残ろうが消えようが、そこから先は私の管轄ではない」
冷淡で、けれど同時に、どこか突き放すような優しさを含んだ口調だった。
「霊障さえ治まれば、お前たちはもう普通の学生だ。だから——その後をどうするかは、お前たちの好きにしろ」
青葉と東雲は、もう一度顔を見合わせる。けれど、どちらからも言葉は出なかった。
「検診は以上だ。霊学祭まであと少し、くれぐれも無茶だけはするなよ」
「……はい。ありがとうございました」
二人は揃って立ち上がり、診察室を後にした。
静かに閉まった扉を見送り、調月は小さく息を吐く。机の上の論文へ目を落とすと、万年筆をペン立てへ戻し、わずかに口角を上げた。
「大した研究だ」
夏休みも後半を迎えた。学院中が霊学祭準備の熱に浮かされる中、青葉と東雲の二人は、人影の少ない保健棟の廊下を歩いていた。
週に一度の定期検診——番紋の経過観察の日だ。
白く磨かれた無機質な廊下には、窓の外から容赦なく夏の日差しが差し込み、遠くでは蝉が鳴き続けている。
「失礼します」
「入れ」
扉の前で挨拶をすると、奥から低く落ち着いた声が返ってきた。部屋へ入ると、調月は手元の論文から顔を上げ、小さく顎を引く。
「調月先生、よろしくお願いします」
二人は揃って頭を下げ、診察机の前のパイプ椅子へ腰を下ろした。調月は胸ポケットから万年筆を取り出し、カルテを開く。
「今週はどうだった。体調に変化は?」
「俺は問題ありません。学内で離れても、下校時も……以前ほど手足が痺れる感覚はありません」
「篠宮は」
「私も同じです。番紋が急に熱を持つことも、ここ最近はほとんどなくなりました」
「そうか。……よし。数値を確認しよう」
二人は慣れた様子で、それぞれの腕を陣の上へ差し出す。
調月はモニターへ目を落とし、表示された数値を記録用紙へと書き込んでいく。
「共鳴率八十七パーセント……前回よりもかなり上昇している。正常域まであとわずかだ。順調だな」
「……本当ですか?」
「ああ」
調月はカルテへ視線を落としたまま、淡々と答えた。
「このまま安定していれば、あと一か月ほどで霊障は完全に消失するだろう」
「!」
東雲と青葉が、同時に弾かれたように顔を見合わせた。
「それじゃあ……」
「行動制限も解除、ってことですか?」
東雲が確認するように、一歩身を乗り出す。
「ああ。霊障の完全消失さえ確認できれば、今後は通常の学生と同じように、距離を気にせず生活していい」
「よかった……」
青葉は胸に手を当て、そっと安堵の息を漏らした。これでようやく、あの日から続いていた制限が終わる。
その安堵した様子を見た調月は、わずかに間を置き、机の上の論文へ手を伸ばした。
「そういえば……ちょうどお前たちにも関係する話があってな」
いつもとはわずかに異なる声音に、二人は自然と姿勢を正した。
「これは先月、霊術医学誌に掲載された論文なんだが」
「論文……何に関する研究ですか?」
「番紋についてだ」
その言葉に、青葉は思わず息を呑んだ。
「これまで番紋は、一度刻まれたら生涯消えない不可逆のものと考えられていた。だが——」
調月は論文の表紙を、人差し指で軽く叩いた。
「その前提が、覆るかもしれん」
「……?」
「番紋は——消失することがあるらしい」
「……消失、する……?」
青葉の声が、意味を掴みかねるように漏れた。
「霊力回路が安定した番同士に、番紋の消失例がいくつか報告されている。いずれも、長期間にわたって相手との交流が著しく減っていたらしい」
診察室の中が、水を打ったように静まり返った。窓の外の蝉の声が、やけに遠く聞こえる。
青葉はゆっくりと、自分の左手首へ視線を落とした。東雲もまた、無言で自分の右手首を見つめていた。
「つまり……」
東雲が、言葉を噛みしめるように口を開いた。
「行動制限が終わった後、もし俺たちが離れたら……番紋が消える可能性がある、ってことですか」
「可能性はある。だが、症例数は極めて少ない。そもそも霊力保持者自体が少なく、その中でも番はさらに稀だからな。現在分かっているのは、消失例に共通する傾向だけだ。因果関係を断言できる段階ではない」
それだけ言うと、調月は論文を机の上に置いた。
診察室には、再び重い沈黙が流れる。青葉は手首を見つめたまま、動けなかった。
(消えちゃうかもしれないんだ……)
それは、運命に勝手に未来を決められたあの日から、ずっと望んでいたはずだった。
……なのに、どうしてだろう。胸の奥が冷たい水に浸されたように、波立っていた。
「……まあ」
パタンと閉じられたカルテの音が、静かな診察室によく響いた。
その音に、二人がハッと顔を上げる。
「私の仕事は、霊障が起きないように患者の容態を診ることだ。番紋が残ろうが消えようが、そこから先は私の管轄ではない」
冷淡で、けれど同時に、どこか突き放すような優しさを含んだ口調だった。
「霊障さえ治まれば、お前たちはもう普通の学生だ。だから——その後をどうするかは、お前たちの好きにしろ」
青葉と東雲は、もう一度顔を見合わせる。けれど、どちらからも言葉は出なかった。
「検診は以上だ。霊学祭まであと少し、くれぐれも無茶だけはするなよ」
「……はい。ありがとうございました」
二人は揃って立ち上がり、診察室を後にした。
静かに閉まった扉を見送り、調月は小さく息を吐く。机の上の論文へ目を落とすと、万年筆をペン立てへ戻し、わずかに口角を上げた。
「大した研究だ」


