つがいがなんだってんだ!

 ***

 四時間目の終了を告げる鐘が鳴り響くと同時に、食堂は瞬く間に活気に包まれた。
 無数のトレーが行き交い、食器の触れ合う音と生徒たちの笑い声がホールに広がる。その喧騒の中、中央付近のテーブル席では、青葉、伊織、颯人の三人が向かい合って昼食を囲んでいた。
 
「最近ずっとお弁当だったから、久しぶりに学食来たけど……やっぱり混んでるね」
「だな。今日は日替わりがオムライスだから、余計だろ」
「ね、危なかったぁ! もうちょっと遅かったら売り切れてたわ」
 
 伊織はスプーンを手に、嬉しそうにオムライスを頬張った。
 最近は東雲や成瀬も加わり、皆で昼食を囲むことが増えていた。けれど今日は、二人とも四時間目が終わるなり剣道部から招集がかかり、急いで向かっていった。颯人も結界棟や陸上部へ顔を出すことが多く、こうして三人で昼食を囲むのは随分と久しぶりだ。少しだけ昔に戻ったようで、どこか懐かしかった。
 
「んで……創成と自科霊が合同で企画をやることになったって?」
 
 颯人が唐揚げを口に運びながら、何気ない口調で話を振ってきた。待ってましたとばかりに、伊織が勢いよく身を乗り出す。
 
「そう! すごいでしょ! 青葉が昨日、創成棟に企画持っていったら、あっという間にみんな巻き込んじゃったの! これ、今年は本気で優勝狙えるよ!」
「いや、まだ何も完成してないからね?」
 
 青葉はサラダを口に運びながら苦笑した。
 
「でも、本当にみんなが快く引き受けてくれて……。東雲も『前例はないけど禁止もされていないから』って、合同企画の後押しをしてくれたの。みんなのおかげで、ようやくスタートラインに立てた感じかな」
「へぇ……。でもさ、あの癖の強い創成の連中が、よくすんなり首を縦に振ったな。東雲も、もっと堅そうな奴だと思ってたけど……お前ほんと、人を巻き込むの上手いよな」
「違うよ。みんなが面白そうって言ってくれたから——」
「青葉!」

 聞き慣れた低い声。けれどまだ鼓膜に新しいその響きに、青葉は反射的に、びくりと肩を震わせる。
 顔を上げると、剣道部の用事を済ませてきたらしい東雲が、昼食のトレーを手に立っていた。
 ねえ、だから、なんでそんな平然としてるわけ?
 昨日、突然名前を呼ばれたあの衝撃は、一晩眠っても授業を受けても、まるで消化できていない。
 なのにこいつは、それを境に、まるで以前からそうだったかのように、ごく自然に『青葉』と呼ぶようになった。今朝の登校時から何度も呼ばれてるのに、一向に慣れないどころか、妙にそわそわしてしまうのだから情けないことこの上ない。正直、心臓に悪い。
 
「今日の準備、創成の方行く?」
「あ、う、ううん!」
 
 緊張のあまり、声が変に裏返る。
 
「き、今日は自科霊の方! 昨日みんなで役割分担決めたから、そっちで大道具の打ち合わせをする予定なの!」
 
 言い終えた途端、自分でも何をそんなに慌てているのか分からなくなった。そんな動揺に気づいているのかいないのか、東雲はただ「ああ」とだけ頷いた。
 
「了解、じゃあみんなにも伝えとく」
「お! 大道具なら、オレたちの出番だなー?」
 
 東雲の後ろから、同じくトレーを持った成瀬がひょっこりと顔を出す。
 
「しのりん、伊織、またな! 午後の準備、頑張ろうぜ!」
「うん。成瀬、よろしくね」
「じゃ、あとでな」
「……うん、またあとでね」
 
 柔らかな笑みを残すと、東雲は成瀬と肩を並べて、そのまま食堂の奥の空いている席へと歩いていく。
 
「玲司、今日も唐揚げかよ。お前ほんとそれ好きだなー」
「お前だって今日もカレーだろ。しかも特盛」
「んなっ、お前、カレーをバカにしたな!? 今からこのオレがカレーの素晴らしさを伝授してやる! 覚悟しろ玲司!」
「やめろ面倒臭い」
 
 そんな二人の何気ないやり取りも、食堂の喧騒の中へ自然と溶けていった。
 彼らの背中が人混みの向こうへ消えた、その瞬間。
 ——ガタンッ!
 凄まじい勢いで、伊織が食堂の椅子を引いて立ち上がった。
 
「ねぇ、ちょっと待って!!」
「ひゃっ!?」
 
 至近距離での大音量に、青葉はびくりと首をすくめる。
 
「今! 東雲くん、『青葉』って呼んだ!?」
「……っ!!」
 
 そういえば、周りに誰かがいるところであんなはっきりと呼ばれたのは今が初めてだ。やばい、よりによって伊織に聞かれた。
 
「い、いや、あの……!」
「いつから!? いつからそんなことになってるの!?」
「……き、昨日……から」
「昨日!? ちょっと、何があったの!?」

 伊織は完全に目をらんらんと輝かせ、テーブルに身を乗り出してくる。

「ち、違っ……別に、何もないから!」
「何もないわけないじゃん、昨日の今日だよ!?」
「そ、それは……友達……だから……」
「え?」
「友達だから、名前で呼んでも変じゃないって……」

 青葉は目を泳がせながら小さく呟く。
 その言葉に、伊織と颯人は呆気に取られたように顔を見合わせた。

「いやいやいやいや!!」
「友達だからってさ、そんな距離の詰め方する!? あの東雲くんが!?」
「あいつ、友達でも名前で呼んでるの成瀬ぐらいだろ。さすがにそれは無理があるって」
「そ、そんなこと言ったって……東雲がそう言ったんだから!」

 懸命に否定する青葉に伊織と颯人は耐えきれずに吹き出した。なんでそんな笑われなきゃいけないんだ。もう、全部東雲のせいだ。
 ひとしきり笑ったあと、不意に伊織がふっと表情を和らげて呟く。

「でもさ、良かったよ」
「え?」

 青葉が首を傾げると、伊織はどこか安心したように微笑んだ。

「最近さ。青葉、東雲くんの隣でちゃんと笑えてる」
「!」
「一か月前は、番のことばっかり考えて、すごく苦しそうだったじゃん。東雲くんと目が合うだけでも、なんとも言えない複雑そうな顔してたからさ」

 ……そうだ。つい数週間前までは、それだけが頭の中を埋め尽くし、息が詰まるほど悩んでいたはずなのに。

『友達になってよ』

 東雲は、二人の手首に番紋が顕れた夜、絶望していた自分へ差し出したその言葉を、今も変わらず守り続けてくれている。番だからといって無理に距離を詰めることも、運命だからと押し付けることも、ただの一度だってなかった。
 なにより、いつだって自分の考えを尊重し、笑顔で寄り添ってくれる彼といることを、心地よいと感じていたのは事実だ。
 
「まあ……東雲は……良いやつだと思う。うん……」
「ふふっ。最近の青葉、前よりずっと楽しそう」
 
 颯人が苦笑しながら、冷めかけた味噌汁を一口啜る。
 
「これが青春ってやつだな」
「それは違うってば!!」
 
 食堂の一角に賑やかな笑い声が響き渡る中、青葉だけは最後まで耳まで赤く染めたまま、必死に否定を続けていた。

 ***
 
 昼休みが終わると、自科霊棟の教室は早くも学祭準備の熱気に包まれていた。
 教室の隅には切り出された木材や工具、大きな設計図が山積みにされ、大道具班の男子たちが額に汗を浮かべながら何やら相談している。
 
「あー! そういやさ、玲司」
「どうした? 涼真」
 
 成瀬は肩に担いでいた木材をどさりと床へ下ろすと、からかうような目をしながら東雲を小突いた。
 
「お前。しのりんの呼び方、変えたろ?」
 
 傍らで設計図を見比べていた青葉は、その言葉に心臓を跳ねさせた。成瀬め、余計なことを。
 東雲は一瞬目を丸くしたが、すぐに表情を戻すとさらりと答えた。
 
「ああ。昨日から」
「へぇー? なんでまた、急に?」
 
 ますます面白そうに目を細める成瀬に、東雲は肩をすくめた。
 
「何でって……友達だから。別に、おかしくないだろ」
「へえ〜? なんかお前ら、この一か月でずいぶんと仲良くなったなぁ。……あ! なあなあ! じゃあオレも——」
 
 成瀬はいたずらを思いついたように、人差し指をピンとこちらに向けた。
 
「これから『青葉』って呼んでいい?」
「え?」

 まさかこちらに矛先が向くとは思わず困惑する。
 うーん……成瀬に青葉って呼ばれるのか。
 不意になぜか東雲の顔が浮かんできて、ちらりと成瀬の後方へ目を向ける。いつもは穏やかなその瞳が、ほんの少しだけ揺れているような気がして。
 その顔を見ているうちに、気づけば口を開いていた。
 
「……成瀬に呼ばれるのは、なんか違うわ」
「えぇっ!?」
 
 成瀬が盛大にズッコけた。それを見守っていた周囲の生徒たちから、どっと笑いが沸き起こる。
 
「なんでだよ! なんでオレはダメなんだよ!」
「成瀬はさ……絶対に調子に乗るじゃん」
「え?」
「『青葉ちゃーん!』とかでっかい声で呼びながら、ウザ絡みしてくる未来しか見えないもん」
「そんなことしねぇって!」
「する」
「するな」
 
 自分の声と同時に東雲の声が重なる。目が合った瞬間、どちらからともなく吹き出した。
 
「玲司まで何なんだよ!?」
 
 成瀬は大袈裟に頭を抱え、天を仰いだ。
 
「くそ、なんで玲司は良くてオレはダメなんだ! 扱いが違いすぎるだろ!」
「日頃の行いの差だな」
「それはそう」
「ひどっ!」

 なおもやいやいと騒ぐ成瀬をよそに、青葉は広げた設計図に目を戻しながら首を傾げた。
 成瀬に呼ばれるのを想像したらしっくりこなかった。ふざけながら呼んできそうなのが嫌なのも本当だ。
 じゃあ、なんで東雲に呼ばれた時は……。
 鼓動がうるさくて、身体が熱くなって、それでも別に、嫌じゃなくて。『青葉』と呼ばれることなんて、別に珍しくもない。それなのに、彼に呼ばれた瞬間だけは、どうしていいか分からなくなる。
 伊織とも、颯人とも、柊也とも違う。
 この違いは、何なんだろう。
 ふと、学食での伊織の言葉が蘇る。

『青葉、東雲くんの隣でちゃんと笑えてる』

 このところ、東雲の言動が気になって仕方がない。
 初めて見る表情に出会うたび、もっと彼のことを知りたいと思う。東雲が笑えば自分まで嬉しくなり、柔らかな眼差しを向けられるたび、胸が小さく跳ねた。
 それが自分の中にある感情だということまでは、もう否定できなかった。けれど——。
 ふと、制服の袖口へ目を向ける。
 手首の番紋は、以前のような熱を発することもなく、肌に馴染んでいた。
 この感情は、どこから始まったのだろう。
 東雲玲司を知ったからなのか。それともやはり、この紋様に由来するものなのか。
 その答えだけは、どうしても分からなかった。
 
「しのりーん! やっぱ一回だけ! 一生のお願いだから、一回だけ呼ばせて!」
「やだ」
「即答!?」
 
 無意識のうちにカチカチと出し続けていたシャープペンの芯は、途中でぽきりと折れていた。