つがいがなんだってんだ!

 四時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響くと同時に、学院の食堂はまたたく間に昼休みの活気に包まれた。
 無数のトレーが行き交い、食器の触れ合う音と生徒たちの笑い声が広いホールに幾重にも重なる。その喧騒の中、中央付近のテーブル席では、青葉、伊織、颯人の三人が向かい合って昼食を囲んでいた。
 
「最近ずっとお弁当だったから、久しぶりに学食来たけど……やっぱり混んでるね」
「だな。今日は日替わりがオムライスだから、余計だろ」
「ね、危なかったぁ! もうちょっと遅かったら売り切れてたわ」
 
 伊織はスプーンを手に、嬉しそうにオムライスを頬張った。
 ここに東雲も加わり、四人で昼食を囲むことも増えていた。けれど今日は、剣道部の集まりがあるため、四時間目が終わるとすぐに部室へ向かっていた。
 颯人も、ここ最近は結界棟や陸上部へ顔を出すことが多く、三人だけで昼食を囲むのは随分と久しぶりだ。少しだけ昔に戻ったようで、どこか懐かしかった。
 
「んで……創成と自科霊が合同で企画をやることになったって?」
 
 颯人が唐揚げを口に運びながら、何気ない口調で話を振ってきた。
 待ってましたとばかりに、伊織が勢いよく身を乗り出す。
 
「そう! すごいでしょ! 青葉が昨日、創成棟に企画持っていったら、あっという間にみんな巻き込んじゃったの! これ、今年は本気で優勝狙えるよ!」
「いや、まだ何も完成してないからね?」
 
 青葉はサラダを口に運びながら苦笑した。
 
「でも、本当にみんなが快く引き受けてくれて……。東雲も『前例はないけど禁止もされていないから』って、合同企画の後押しをしてくれたの。みんなのおかげで、ようやくスタートラインに立てた感じかな」
「へぇ……」
 
 颯人は感心したように小さく息を吐いた。
 
「でもさ、あの癖の強い創成の連中が、よくすんなり首を縦に振ったな。東雲も、もっと堅そうな奴だと思ってたけど……お前ほんと、人を巻き込むの上手いよな」
「違うよ。みんなが面白そうって言ってくれたから——」
「青葉」

 聞き慣れた低い声。けれどまだ鼓膜に新しいその響きに、青葉は反射的に、びくりと肩を震わせる。
 ゆっくりと顔を上げると、昼食のトレーを手にした東雲がそこに立っていた。
 
(な、何でそんな平然と……っ!)
 
 昨日の帰り道、突然名前を呼ばれたあの衝撃は、一晩眠ってもまるで消化できていなかった。
 それなのに東雲は、まるで昨日の出来事なんて何もなかったみたいに、当たり前のように『青葉』と呼ぶ。
 そんなことをされたら、心臓が落ち着く暇なんてどこにもない。
 
「今日の準備、創成の方行く?」
「あ、う、ううん!」
 
 緊張のあまり、思わず声のトーンが変に裏返る。
 
「き、今日は自科霊の方! 昨日みんなで役割分担決めたから、そっちで大道具の打ち合わせをする予定なの!」
 
 言い終えた途端、自分でも何をそんなに慌てているのか分からなくなった。けれど、東雲はそんな青葉の動揺に気づいた様子もなく、「ああ」と小さく頷いた。
 
「了解、じゃあみんなにも伝えとく」
「お! 大道具なら、俺たちの出番だなー?」
 
 東雲の後ろから、同じくトレーを持った成瀬がひょっこりと顔を出す。
 
「しのりん、伊織、またな! 午後の準備、頑張ろうぜ!」
「うん。成瀬、よろしくね」
「じゃ、あとでな」
「……うん、またあとでね」
 
 柔らかな笑みを残すと、東雲は成瀬と肩を並べて、そのまま食堂の奥の空いている席へと歩いていく。
 
「玲司、今日も唐揚げかよ」
「お前だって今日もカレーだろ。しかも特盛だし」
「うるせえな、健全な男子高校生は常に腹が減るもんなんだよ」
 
 そんな二人の何気ないやり取りも、食堂の喧騒の中へ自然と溶けていった。
 彼らの背中が完全に見えなくなった、その瞬間──。
 
 ガタンッ!
 
 凄まじい勢いで、伊織が食堂の椅子を引いて立ち上がった。
 
「ねぇ、ちょっと待って!!」
「ひゃっ!?」
 
 至近距離での大音量に、青葉はびくりと首をすくめる。
 
「今! 東雲くん、『青葉』って呼んだ!?」
「……っ!!」
 
 ぼんっ、と音が聞こえてきそうなほど、青葉の顔が一気に真っ赤に染まった。
 
「い、いや、あの……!」
「いつから!? いつからそんなことになってるの!?」
「……き、昨日……から」
「昨日!? ちょっと、何があったの!?」

 伊織は完全に目をらんらんと輝かせ、テーブルに身を乗り出してくる。

「ち、違っ……別に、何もないから!」
「何もないわけないじゃん、昨日の今日だよ!?」
「そ、それは……!」

 青葉は完全に言葉に詰まった。昨日の夕暮れ——不意に名前を呼ばれた、あの一瞬が鮮明によみがえる。思い出しただけで、耳の先までかっと熱くなった。

「と、友達……だから……」
「え?」
「友達だから、名前で呼んでも変じゃないって……」

 青葉は目を泳がせながら小さく呟く。
 その言葉に、伊織と颯人は呆気に取られたように顔を見合わせた。

「いやいやいやいや!!」
「友達だからってさ、そんな距離の詰め方する!? あの東雲くんが!?」
「あいつ、友達でも名前で呼んでるの成瀬ぐらいだろ。流石にそれは無理があるって」

 二人同時に飛び出したツッコミに、青葉は顔を真っ赤にしたまま、負けじと反論する。

「そ、そんなこと言ったって……東雲がそう言ったんだから! 本当だもん!!」

 懸命に否定する青葉に伊織と颯人は耐えきれずに吹き出した。
 ひとしきり笑ったあと、不意に伊織がふっと表情を和らげて呟く。

「……でもさ、良かったよ」
「え?」

 青葉が首を傾げると、伊織はどこか安心したように微笑んだ。

「最近さ。青葉、東雲くんの隣でちゃんと笑えてる」
「!」
「一ヶ月前は、番のことばっかり考えて、すごく苦しそうだったじゃん。東雲くんと目が合うだけでも、なんとも言えない複雑そうな顔してたからさ」

 その一言に、青葉の賑やかだった思考がふっと止まる。

(あ……番……)

 そうだ。つい数週間前までは、それだけが頭の中を埋め尽くし、息が詰まるほど悩んでいたはずなのに——いつの間にか、自分たちが『番』であるという特殊な関係性を、すっかり忘れてしまっていた。

『友達として、お前の側に居てもいいか』

 東雲はあの日——二人の肌に番紋が顕れた日の夜、絶望していた自分に言い放ったあの言葉を、今も変わらず守り続けてくれている。
 番だからといって無理に距離を詰めることも、運命だからと好意を押し付けることも、ただの一度だってなかった。東雲はいつだって、自分が苦しさを感じない距離を選んでくれていた。『居心地の良い友達』——その絶妙な距離感のまま、今日までずっと傍にいてくれたのだ。
 だから、いつの間にか自分も。『番』の相手ではなく、『東雲玲司』という一人の人間を見つめるようになっていた。

『……友達なんだから。名前で呼んだって、変じゃないだろ』

 昨日の夕風に混ざっていた、少し困ったように笑う東雲の声が耳の奥によみがえる。
 
「まあ……東雲は……良いやつだと思う。うん……」
「ふふっ。最近の青葉、前よりずっと楽しそう」
 
 颯人が苦笑しながら、冷めかけた味噌汁を一口啜る。
 
「これが青春ってやつだな」
「それは違うってば!!」
 
 食堂の一角に賑やかな笑い声が響き渡る中、青葉だけは最後まで耳まで赤く染めたまま、必死に否定を続けていた。
 昼休みが終わると、自科霊棟の教室は早くも学祭準備の熱気に包まれていた。
 教室の隅には切り出された木材や工具、大きな設計図が山積みにされ、身体強化の男子たちが額に汗を浮かべながら何やら相談している。
 
「あー! そういやさ、玲司」
「どうした? 涼真」
 
 成瀬は肩の木材をどさりと床に下ろすと、からかうような目で東雲を小突いた。
 
「お前。しのりんの呼び方、変えたろ?」
 
 傍らで設計図を見比べていた青葉は、その言葉に思わず心臓を跳ねさせた。東雲も一瞬だけ目を見開いたが、すぐに何事もなかったような表情に戻した。
 
「ああ。昨日から」
「へぇー? 何でまた、急に?」
 
 ますます面白そうに目を細める成瀬に、東雲は少しだけ、無防備に肩を竦めてみせた。
 
「何でって……友達だから。別に、おかしくないだろ」
「へえ〜? なんかお前ら、この一ヶ月でずいぶんと仲良くなったなぁ。……あ! なあなあ! じゃあ俺も——」
 
 成瀬はいたずらを思いついたように、人差し指をピンと青葉の鼻先へと向けた。
 
「これから『青葉』って呼んでいい?」
 
 青葉は少しだけ腕を組み、「うーん……」と眉根を寄せて視線を彷徨わせる。
 その時、不意に成瀬の向こうに佇む東雲と目が合った。いつもは穏やかなその瞳が、ほんの少しだけ揺れたような気がした。
 
「……成瀬に呼ばれるのは、なんか違うわ」
「えぇっ!?」
 
 成瀬が盛大にズッコけた。それを見守っていた周囲の生徒たちから、どっと笑いが沸き起こる。
 
「何でだよ! なんで俺はダメなんだよ!」
 
 青葉は少しだけ困ったように眉を下げる。
 
「成瀬はさ……絶対に調子に乗るじゃん」
「え?」
「『青葉ちゃーん!』とかでっかい声で呼びながら、ウザ絡みしてくる未来しか見えないもん」
「そんなことしねぇって!」
「する」
「するな」
 
 間髪入れずに東雲の声が重なり、青葉は東雲の方をチラリと見遣る。目が合った瞬間、二人は思わず吹き出した。
 
「玲司まで何なんだよ!?」
 
 成瀬は大袈裟に頭を抱え、天を仰いだ。
 
「くそ、なんで玲司は良くて俺はダメなんだ! 扱いが違いすぎるだろ!」
「日頃の行いの差だな」
「それはそう」
「ひどっ!」
 
 再び教室は温かい笑いに包まれた。
 青葉は広げた設計図に目を戻しながら、不思議そうに小さく首を傾げていた。

(成瀬に呼ばれるのは、違う……でも……)
 
 シャープペンの芯をカチカチと出しながら、少しだけその違和感を掘り下げてみる。
 
(……何でだろ。東雲の時は——)

 胸の鼓動がうるさくて、熱くて、それでも別に、嫌じゃなくて。『青葉』と呼ばれることなんて、別に珍しくもない。それなのに、東雲に呼ばれた瞬間だけは、どうしていいか分からなくなる。
 伊織とも、颯人とも、柊也とも違う。
 この違いは、何なんだろう。
 ふと、学食での伊織の言葉が蘇る。

『青葉、東雲くんの隣でちゃんと笑えてる』

 このところ、東雲の言動が気になって仕方がない。
 初めて見る表情に出会うたび、もっと彼のことを知りたいと思ってしまう。東雲が笑えば、自分まで嬉しくなる。柔らかな笑顔を向けられるたび、とくりと心臓が小さく跳ねる。
 ふと、制服の袖口へ視線を落とした。
 手首に刻まれた番紋は、もう以前のような不快な熱を発することもなく、肌の上に静かに馴染んでいる。
 なのに、東雲のことを考えるたび、胸の奥に柔らかな熱が灯る。その熱は、心地よいのにどこか切なくて、時折きゅっと胸が締め付けられた。
 これは、初期霊障の名残なのか。手首から消えたと思っていた熱が、いつの間にか居場所を変えていたのだろうか。

 この、胸の高鳴りも——?
 
 その問いに対する答えは、今の青葉には分からなかった。
 
「しのりーん! やっぱ一回だけ! 一生のお願いだから、一回だけ呼ばせて!」
「やだ」
「即答!?」
 
 教室には、また楽しげな笑い声が弾けるように響き渡っていた。