つがいがなんだってんだ!



 
(……また、知らない顔だ)
 
 玲司は、小さく息を呑んだ。
 自分はこの一ヶ月で、篠宮のことを知れた気になっていた。
 けれど——こんな篠宮は、初めて見た。
 自科霊クラスで研究の話をしている時とも違う。自分が見てきた篠宮は、まだほんの一面に過ぎなかったのだと痛いほどに思い知る。
 その事実が少し悔しくて。けれどそれ以上に、もっと知りたいと思ってしまう自分がいた。
 不意に、あの日の夕暮れが脳裏をよぎる。
 西日に照らされた図書館で、霊術書を胸に抱えたまま、少し照れくさそうに、それでも曇りのない瞳で未来を語っていた少女の横顔——。
 
『霊術っていうシステムは、まだまだ便利に変えられると思うの。もっと安全に使えるように改良したり、生まれつき霊力が少ない一般の人でも、その恩恵を受けられるようにしたり……』
『私は、そうやって人と人がもっと繋がる未来を作る研究がしたい』
 
(あぁ……そういうことだったのか)
 
 篠宮が繋ぎたかったのは、ただ霊術と人を結ぶことじゃない。
 理論と実践。創成棟の緻密な研究と、自科霊棟の自由な発想。そして——霊力を持つ者と持たない者。
 本来交わるはずのなかったものを結び、その狭間に、新しい価値を生み出していくこと。
 玲司はようやく、篠宮青葉の夢の輪郭に触れた。
 目の前では、創成棟の生徒たちが興味津々に光球を見つめている。
 この一ヶ月、たった一人で自科霊クラスを観察し続け、青葉が形にした研究。そこへ今、かつての仲間たちの知識と技術が重なり、新たな命が吹き込まれようとしていた。
 まだ始まったばかりだ。それでも——創成棟と自科霊棟という二つの世界は今、確かに繋がり始めていた。

(……すごいな)
 
 胸の奥底から込み上げてくる小さな、けれど熱い感動を静かに噛み締めた。
 あの日、図書館で語っていた未来は、もう夢物語などではなくなっていた。
 玲司は静かに、篠宮を見つめる。彼女は、蓮水の隣でノートを広げて話し込んでいた。
 二人は互いの考えを最後まで言葉にしなくても通じ合っている。途中まで式を書けば、残りを相手が補う。青葉が眉を寄せれば、蓮水は「ああ、そこか」とすぐ気付く。
 その距離感は、決して特別親密というわけではない。長い時間を共に研究してきた者同士だからこその信頼なのだろう。

(……)
 
 羨ましい、と。そう思った。
 けれど、何が羨ましいのか、自分でもうまく言葉にできない。
 
「青葉」
「うん? どうしたの柊也」
「ちょっとこれ見て」
 
 篠宮は蓮水の手元のノートを覗き込むように身を寄せた。そうして二人はまた、何かを話し始める。
 その姿を見た瞬間——玲司の胸の奥で、何かが小さくざわついた。
 
(……)
 
 『青葉』。『柊也』。
 互いの名前を呼ぶことが、まるで昔から当たり前だったかのようで。
 
(……俺は)
 
 玲司は無意識に拳を軽く握る。
 
(ずっと、『東雲』なのにな)

 創成棟との話をまとめ、自科霊棟へ戻って経緯を伝え終えた頃には、すっかり夕暮れだった。
 西日が長い渡り廊下を茜色に染め、校舎のガラス窓が黄金色に輝いている。つい先ほどまで、二つの棟の生徒たちで熱気に包まれていた教室。その賑わいが嘘のように、渡り廊下には穏やかな静けさだけが流れていた。
 
「あー、本当に良かった!」
 
 隣を歩く篠宮が、心の底から安堵したように息を吐く。
 
「みんな、快く引き受けてくれて」
「ああ」
「私、一人じゃ絶対無理だった」
 
 嬉しそうに笑う横顔を、玲司はぼんやりと眺めていた。
 無理だと思った。だから諦めるのではない。
 足りないなら、助けを求める。そして、その声に迷わず応える仲間がいる。
 
(……良かったな)
 
 そう思う。……思っているはずなのに、胸の奥には、まだ小さな棘が刺さったままだった。
 
『青葉』
『青葉』
『青葉』
 
 創成棟で何度も聞いた、その呼び方が耳から離れない。
 
「東雲」
 
 呼ばれていることにも気づかず、玲司はただ歩き続ける。
 
「ねぇ」
「……」
「東雲?」
「……」
「東雲! 聞いてる?」
 
 肩を軽く叩かれて、玲司はようやく我に返った。
 
「……ああ。ごめん、ちょっと考え事」
「えー? 珍しいね、東雲が上の空なんて」
「そんなこともあるだろ」
「そっか。ごめん」
 
 それ以上、言葉は続かなかった。
 夕風だけが制服の裾を揺らし、茜色に染まった渡り廊下を、二人の足音だけが静かに響いていく。
 
(……俺は)
 
 今日だけで、何度『青葉』という名前を耳にしただろう。
 蓮水が。荻野が。創成棟の全員が。
 誰もが当たり前のように、その名前を呼ぶ。そのたびに、彼女は嬉しそうに振り返って笑っていた。
 それは、長い時間を共に過ごしてきたからこその距離だ。そんなことは、分かっているけれど——。
 
(俺は、)
 
 ずっと、
 
「東雲。待って、早いよ」
 
 生徒会長だから。友達だから。きっと、それだけ。
『東雲』という呼び方に、特別な意味なんてない。
 ……それなのに。
 どうしてこんなにも胸が苦しいんだ。
 
「東雲ってば! ……ねえ、ごめん。もしかして私、何か東雲に嫌なこと——」
「青葉」
 
 夕風が、二人の間をすり抜けた。
 
「……え?」
 
 夕日に照らされた顔が、驚いたように玲司を見上げる。
 自分の口から出た言葉に、玲司は目を見開いた。
 呼ぶつもりなんてなかった。なのに、気づけばその名前が口をついていた。
 
「……」
 
 二人の間に、短い沈黙が落ちる。やがて——。
 
「……っ」

 青葉の白い頬が、みるみるうちに夕焼けとは違う赤色へ染まっていく。言葉が見つからないのか、小さく唇を震わせるばかりだった。
 
(待ってくれよ。なんで——)

 そんな顔、するんだよ。

(俺がさせたの?)

 ほんの少し前まで胸を締め付けていた、あのざわつきも、不安も。その一瞬だけ、綺麗に吹き飛んだ。
 代わりに浮かぶのは、信じられないほど小さな期待。
 
(なあ。少しくらいは、俺のこと——)
 
 その考えを、慌てて理性が押し留める。
 
(……違う。都合良く解釈すんな。落ち着け)
 
 玲司は小さく息を吐き、困ったように笑った。
 
「……"友達"なんだから。名前で呼んだって、変じゃないだろ」
「……」
 
 青葉は真っ赤なまま目を瞬かせる。
 
「とも……だち」
「……」
 
 少しだけ俯き、小さく笑う。
 
「そっか。うん……友達、ね」
 
 その小さな声に、玲司は誰にも気付かれないほど小さく、肩の力を抜いた。
 
(……拒絶は、されなかった)
 
 その事実だけで十分だった。
 二人はまた歩き出す。
 さっきまでと同じ帰り道。同じ夕焼け。
 けれど、二人の間に流れる空気は、昨日までとは少しだけ違っていた。

 ◇