教養棟まで伸びた長い渡り廊下を駆け抜けて右に回り、学院の東端に位置する『術式創成棟』へと足を踏み入れる。
自科霊棟のような笑い声も、霊術の爆ぜる音も、ここにはない。廊下には静かな足音だけが吸い込まれるように響き、ガラス張りの研究室の向こうでは、それぞれの班が魔導端末や複雑な数式の並ぶ大型モニターへ向かって、黙々と手を動かしていた。
「ここの式、係数ちょっとズレてるかも」
「あー、りょーかい。修正するー」
だが、そこにあるのは淡白な沈黙ではない。一人ひとりが、自分だけの研究の深淵へ潜っている——その静けさの奥には、張り詰めるほど濃密な熱が息づいていた。
(……一ヶ月ちょっとしか離れてなかったのに、なんか懐かしい)
その懐かしさにそっと浸っていると、不意にガラス扉の向こうで、一人の男子生徒が青葉の姿に気がついた。
「あれ——青葉じゃん?」
その声につられるように、研究室のあちこちから次々と顔が上がる。
「本当だ! おーい、青葉ぁ!」
「嘘、久しぶりじゃん!?」
「おかえりー。研究は順調かー?」
落ち着いた静寂の中に、柔らかな温度が灯る。向けられる視線のすべてに、青葉に対する親愛が含まれていた。
「みんな……! ただいま!」
そう口にしながら、青葉は思わず笑みを浮かべていた。
心の底から安心して、肩の力がすっと抜けていく。まるで長い旅を終え、自分の家へ帰ってきたかのような心地に、口元がほころんだ。
「青葉だって?」
その時、周囲の賑わいの中で、一際低く落ち着いた声が響いた。研究室の最奥から、一人の男子生徒が静かに椅子を回して立ち上がった。
整った顔立ちに人懐っこい笑みを浮かべながら、彼は足早にこちらへ歩み寄ってきた。
「おかえり。珍しいじゃん、どうした? 自科霊棟クビになって泣きつきに来たかー?」
ニヤリと笑う男——蓮水柊也に、青葉もまた、いつもの調子で笑い返した。
「柊也、ただいま! そんなわけないでしょ! 自科霊棟の皆すっごく良い人たちなんだから! ……あのね。お願いしたいことがあって」
「お願い?」
青葉の言葉に、柊也は不思議そうに首を傾げた。
「そう。みんなにも聞いてほしいことがあるの」
青葉のその一言に、研究室のあちこちから椅子を引く音がした。
「おーい、青葉が何か持ってきたぞ」
「なになに? 面白そう」
「青葉の持ち込みなら期待できそうだな」
誰かが大型モニターの電源を落とし、また別の誰かがホワイトボードを部屋の中央へ引き寄せる。特別な号令などない。それでも気づけば、十数人の生徒たちは自然と一つの輪を囲んでいた。
「まず、これを見てくれる?」
青葉はノートを開きながら話し始める。そして、先ほど教室で見せた五つの術式を再び起動させた。五色の光球が静かに研究室の宙へ浮かび上がる。
「この一ヶ月で解析・式化した、自科霊棟のみんなの霊術なの。まだ五人分しかないんだけど、術式として保存して、触れた人が一瞬だけその霊術を再現できるようになったの」
一瞬、研究室が静まり返った。そして——。
「……え、一ヶ月で五人も? さっすが青葉だわー」
「これ、保持時間は?」
「触った感じ、今は一秒ってとこかな」
「なら、まだ伸ばせるな。霊力消費はどれぐらい?」
「術式保持媒体はそのノートだけ? よくそこまで圧縮できたね?」
次々と飛んでくる専門的な質問に、青葉の瞳がぱっと輝く。
「それね! 実はこれ、術式の第三層が——」
「ストップ。今その話始めると三時間コースだから」
「あ……ごめん」
柊也が笑いながら手を上げて制した。
研究室中に笑いが広がり、青葉は照れくさそうに頬をかいた。
「まーた始まったー」
「このモード入ると、ほんと止まんないんだよねぇ」
「あと五分放置したらホワイトボード埋まってたな」
「最早この一連の流れ見たくて黙ってるまであるわ」
青葉は改めて、創成棟の仲間たちを見回した。
「えっとね。ここからがお願いなんだけど──」
ホワイトボードへ歩み寄ると、青葉はマーカーを手に取り、さらさらと一枚のイメージ図を描き始めた。
教室いっぱいを漂う無数の光と、その中を歩く来場者。手を伸ばして光に触れた瞬間、淡く術式が発動する様子。そして——最後に大きく書かれた、『霊術水族館』。
「さっき自科霊クラスで、今年の霊学祭の『実演企画』の会議をしてたんだけど。そこで、『霊術水族館』をやろうって話になったの」
「霊術水族館?」
柊也が興味深そうにホワイトボードを覗き込む。
「うん。一般のお客さんでも、安全に霊術を体験できるように、って」
「へぇ、なるほどね。一般向けの体験展示ってことか」
「そう。それでね……」
青葉は、柊也とその隣の香坂夏海を見つめた。
「柊也やなっちゃんたちって、術式デザイン得意でしょ?」
「まあ。そうだな」
「創成棟の花形分野だからねぇ」
柊也が肩をすくめ、夏海がにこりとピースする。
「私の術式、今はただの光球なんだけど……もっと生き物みたいに動かせないかな?」
「! ……なるほど、そう来たか」
柊也の一言をきっかけに、他のクラスメイトたちもざわざわとホワイトボードの前へ集まり始める。描かれたイメージ図を覗き込み、それぞれが思案するように腕を組んだ。
「それから——晴香!」
青葉は次に、柊也の反対側に座っていた荻野晴香へと視線を向ける。
「うん?」
「晴香たちは、私と同じ式化の研究してるでしょ」
「うん、今も毎日そればっかだよー」
「あのね。私一人じゃ、霊学祭までに自科霊の全員の術式を解析し切れそうにないの。だけど——みんなが手伝ってくれたら、きっとできると思う」
青葉は一歩前へ出ると、胸の前でぎゅっと両手を握りしめ、創成棟の仲間たちをゆっくり見渡した。
「だからさ。創成棟と自科霊棟で……一緒に、この『霊術水族館』……作ってみない?」
青葉はくるりと振り返ると、ここまで静かに話を聞いていた東雲の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ね、東雲。『合同企画』って、ダメかな?」
それは、この学院の頂点に立つ生徒会長・東雲玲司への、確実な確認だった。
青葉の言葉に、その場にいた全員の視線が、一斉に東雲へ集まる。
東雲は一瞬だけ考え込んだ。必要な情報を脳内で瞬く間に照合する。やがて、小さく口を開いた。
「……前例はない。でも——禁止もされていない、と思う。正式な申請は必要だけど、企画として提出することはできる」
その言葉を聞いた瞬間、青葉の表情がぱっと明るくなる。
東雲は創成棟の生徒たちへ向き直ると、姿勢を正し、深く頭を下げた。
「今回の企画は、前例のない挑戦です。思うようにいかないことも、きっとある。だけど——」
顔を上げる。その瞳には、揺るぎない確信が宿っていた。
「俺はこの企画を、絶対に成功させたい。だから……創成棟の皆さんの力を貸してほしい。どうか、お願いします」
「……」
創成棟が静まり返る。だが、その戸惑いの空気は、ほんの一瞬だった。
「良いじゃん。乗った!」
最初に笑ったのは柊也だった。
「こんな面白そうな企画、乗らない手はないよな」
「海月とか熱帯魚とか絶対可愛いよね。燃えてきたー」
晴香も笑顔で頷く。
「解析なら任せて。その代わり私たちにも、しばらく自然科学棟、見学させてね」
「身体強化の術式、前から解析してみたかったんだよな」
「これ、棟同士で共同研究するようなもんじゃん! 最高だね青葉!」
研究室はたちまち熱気に包まれた。
「ありがとう! やっぱりみんなに頼んで良かった!」
青葉が満面の笑みを浮かべる。創成棟の生徒たちは、いつの間にか役割ごとに集まり、それぞれの視点から実現方法を語り始めていた。
「やったね、東雲! これで——」
勢いよく振り返った青葉は、そのまま言葉を失った。
そこにいた東雲は——肩の力がすっと抜けたような、心の底から安堵したような表情で、静かに笑っていた。それは、青葉がこれまで一度も見たことのない笑顔だった。
「……東雲?」
青葉は思わず名前を呼ぶ。東雲は穏やかな笑みを浮かべたまま、小さく息をついた。
「……すごいな。お前は」
そのあまりにも綺麗な微笑みに、青葉の胸はまた一つ、大きな音を立てて波打った。
自科霊棟のような笑い声も、霊術の爆ぜる音も、ここにはない。廊下には静かな足音だけが吸い込まれるように響き、ガラス張りの研究室の向こうでは、それぞれの班が魔導端末や複雑な数式の並ぶ大型モニターへ向かって、黙々と手を動かしていた。
「ここの式、係数ちょっとズレてるかも」
「あー、りょーかい。修正するー」
だが、そこにあるのは淡白な沈黙ではない。一人ひとりが、自分だけの研究の深淵へ潜っている——その静けさの奥には、張り詰めるほど濃密な熱が息づいていた。
(……一ヶ月ちょっとしか離れてなかったのに、なんか懐かしい)
その懐かしさにそっと浸っていると、不意にガラス扉の向こうで、一人の男子生徒が青葉の姿に気がついた。
「あれ——青葉じゃん?」
その声につられるように、研究室のあちこちから次々と顔が上がる。
「本当だ! おーい、青葉ぁ!」
「嘘、久しぶりじゃん!?」
「おかえりー。研究は順調かー?」
落ち着いた静寂の中に、柔らかな温度が灯る。向けられる視線のすべてに、青葉に対する親愛が含まれていた。
「みんな……! ただいま!」
そう口にしながら、青葉は思わず笑みを浮かべていた。
心の底から安心して、肩の力がすっと抜けていく。まるで長い旅を終え、自分の家へ帰ってきたかのような心地に、口元がほころんだ。
「青葉だって?」
その時、周囲の賑わいの中で、一際低く落ち着いた声が響いた。研究室の最奥から、一人の男子生徒が静かに椅子を回して立ち上がった。
整った顔立ちに人懐っこい笑みを浮かべながら、彼は足早にこちらへ歩み寄ってきた。
「おかえり。珍しいじゃん、どうした? 自科霊棟クビになって泣きつきに来たかー?」
ニヤリと笑う男——蓮水柊也に、青葉もまた、いつもの調子で笑い返した。
「柊也、ただいま! そんなわけないでしょ! 自科霊棟の皆すっごく良い人たちなんだから! ……あのね。お願いしたいことがあって」
「お願い?」
青葉の言葉に、柊也は不思議そうに首を傾げた。
「そう。みんなにも聞いてほしいことがあるの」
青葉のその一言に、研究室のあちこちから椅子を引く音がした。
「おーい、青葉が何か持ってきたぞ」
「なになに? 面白そう」
「青葉の持ち込みなら期待できそうだな」
誰かが大型モニターの電源を落とし、また別の誰かがホワイトボードを部屋の中央へ引き寄せる。特別な号令などない。それでも気づけば、十数人の生徒たちは自然と一つの輪を囲んでいた。
「まず、これを見てくれる?」
青葉はノートを開きながら話し始める。そして、先ほど教室で見せた五つの術式を再び起動させた。五色の光球が静かに研究室の宙へ浮かび上がる。
「この一ヶ月で解析・式化した、自科霊棟のみんなの霊術なの。まだ五人分しかないんだけど、術式として保存して、触れた人が一瞬だけその霊術を再現できるようになったの」
一瞬、研究室が静まり返った。そして——。
「……え、一ヶ月で五人も? さっすが青葉だわー」
「これ、保持時間は?」
「触った感じ、今は一秒ってとこかな」
「なら、まだ伸ばせるな。霊力消費はどれぐらい?」
「術式保持媒体はそのノートだけ? よくそこまで圧縮できたね?」
次々と飛んでくる専門的な質問に、青葉の瞳がぱっと輝く。
「それね! 実はこれ、術式の第三層が——」
「ストップ。今その話始めると三時間コースだから」
「あ……ごめん」
柊也が笑いながら手を上げて制した。
研究室中に笑いが広がり、青葉は照れくさそうに頬をかいた。
「まーた始まったー」
「このモード入ると、ほんと止まんないんだよねぇ」
「あと五分放置したらホワイトボード埋まってたな」
「最早この一連の流れ見たくて黙ってるまであるわ」
青葉は改めて、創成棟の仲間たちを見回した。
「えっとね。ここからがお願いなんだけど──」
ホワイトボードへ歩み寄ると、青葉はマーカーを手に取り、さらさらと一枚のイメージ図を描き始めた。
教室いっぱいを漂う無数の光と、その中を歩く来場者。手を伸ばして光に触れた瞬間、淡く術式が発動する様子。そして——最後に大きく書かれた、『霊術水族館』。
「さっき自科霊クラスで、今年の霊学祭の『実演企画』の会議をしてたんだけど。そこで、『霊術水族館』をやろうって話になったの」
「霊術水族館?」
柊也が興味深そうにホワイトボードを覗き込む。
「うん。一般のお客さんでも、安全に霊術を体験できるように、って」
「へぇ、なるほどね。一般向けの体験展示ってことか」
「そう。それでね……」
青葉は、柊也とその隣の香坂夏海を見つめた。
「柊也やなっちゃんたちって、術式デザイン得意でしょ?」
「まあ。そうだな」
「創成棟の花形分野だからねぇ」
柊也が肩をすくめ、夏海がにこりとピースする。
「私の術式、今はただの光球なんだけど……もっと生き物みたいに動かせないかな?」
「! ……なるほど、そう来たか」
柊也の一言をきっかけに、他のクラスメイトたちもざわざわとホワイトボードの前へ集まり始める。描かれたイメージ図を覗き込み、それぞれが思案するように腕を組んだ。
「それから——晴香!」
青葉は次に、柊也の反対側に座っていた荻野晴香へと視線を向ける。
「うん?」
「晴香たちは、私と同じ式化の研究してるでしょ」
「うん、今も毎日そればっかだよー」
「あのね。私一人じゃ、霊学祭までに自科霊の全員の術式を解析し切れそうにないの。だけど——みんなが手伝ってくれたら、きっとできると思う」
青葉は一歩前へ出ると、胸の前でぎゅっと両手を握りしめ、創成棟の仲間たちをゆっくり見渡した。
「だからさ。創成棟と自科霊棟で……一緒に、この『霊術水族館』……作ってみない?」
青葉はくるりと振り返ると、ここまで静かに話を聞いていた東雲の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ね、東雲。『合同企画』って、ダメかな?」
それは、この学院の頂点に立つ生徒会長・東雲玲司への、確実な確認だった。
青葉の言葉に、その場にいた全員の視線が、一斉に東雲へ集まる。
東雲は一瞬だけ考え込んだ。必要な情報を脳内で瞬く間に照合する。やがて、小さく口を開いた。
「……前例はない。でも——禁止もされていない、と思う。正式な申請は必要だけど、企画として提出することはできる」
その言葉を聞いた瞬間、青葉の表情がぱっと明るくなる。
東雲は創成棟の生徒たちへ向き直ると、姿勢を正し、深く頭を下げた。
「今回の企画は、前例のない挑戦です。思うようにいかないことも、きっとある。だけど——」
顔を上げる。その瞳には、揺るぎない確信が宿っていた。
「俺はこの企画を、絶対に成功させたい。だから……創成棟の皆さんの力を貸してほしい。どうか、お願いします」
「……」
創成棟が静まり返る。だが、その戸惑いの空気は、ほんの一瞬だった。
「良いじゃん。乗った!」
最初に笑ったのは柊也だった。
「こんな面白そうな企画、乗らない手はないよな」
「海月とか熱帯魚とか絶対可愛いよね。燃えてきたー」
晴香も笑顔で頷く。
「解析なら任せて。その代わり私たちにも、しばらく自然科学棟、見学させてね」
「身体強化の術式、前から解析してみたかったんだよな」
「これ、棟同士で共同研究するようなもんじゃん! 最高だね青葉!」
研究室はたちまち熱気に包まれた。
「ありがとう! やっぱりみんなに頼んで良かった!」
青葉が満面の笑みを浮かべる。創成棟の生徒たちは、いつの間にか役割ごとに集まり、それぞれの視点から実現方法を語り始めていた。
「やったね、東雲! これで——」
勢いよく振り返った青葉は、そのまま言葉を失った。
そこにいた東雲は——肩の力がすっと抜けたような、心の底から安堵したような表情で、静かに笑っていた。それは、青葉がこれまで一度も見たことのない笑顔だった。
「……東雲?」
青葉は思わず名前を呼ぶ。東雲は穏やかな笑みを浮かべたまま、小さく息をついた。
「……すごいな。お前は」
そのあまりにも綺麗な微笑みに、青葉の胸はまた一つ、大きな音を立てて波打った。

