◇
——篠宮が思った以上の早さで教室の空気に溶け込んだことに、玲司は内心、ホッと胸を撫で下ろしていた。
これまで教室や図書館で見かけていた彼女は、いつも静かに分厚い本を開いている姿が印象的だった。周囲に壁を作っているわけではないけれど、どこか他者を寄せ付けない、孤高の研究者といった佇まい。
だから正直、自由奔放な連中が集まったこの騒がしい空気に、彼女が気圧されて馴染めないのではないかと危惧していたのだ。
けれどどうやら、その心配はいらなかったらしい。
いつの間にか輪の中心にいた篠宮は、見たこともないほど瞳をきらきらと輝かせながら、楽しそうに笑っている。あの表情は、昨日は決して見ることのできなかった、年相応の無邪気な笑顔だった。
(……良かった)
無意識に入っていた肩の力が、すうっと抜けていく。少なくとも、これから過ごす三か月間、彼女をこのクラスで孤立させることだけはなさそうだ。
そう安堵した、その時だった。
少し離れた後ろの席から、男子生徒たちが声を潜めて交わす会話が、玲司の耳に滑り込んできた。
「なあ」
「ん、どした?」
「……篠宮ってさあ、可愛いよな」
「あ、お前も思った? 俺もさっきそれ考えてたわ」
「今まで図書館で静かに本読んでるところしか見たことなかったからさ。あんな風に笑うと、なんか全然印象違うっていうか、ギャップがヤバい」
「分かる。推せるよな」
「しかもあいつ、顔だけじゃなくて頭も超いいだろ。この前の中間テスト、学年三位だったらしいぜ」
「マジか。今度、『霊術数論の課題分かんねぇ』って言って、教えてもらおっかな」
「おいお前、それ完全に下心丸出しの口実だろ」
「はは、バレた?」
悪びれもしない、男子高校生特有の軽口と小さな笑い声が広がる。
(……)
玲司は無意識のうちに、篠宮へと視線を向けた。
促されるようにして、改めて、その姿をじっくりと見つめる。
陽光を受けて艶めく黒髪。普段は理知的に引き締まっているのに、笑うと柔らかく垂れる大きな瞳。
(……そう言われると、確かに整った顔はしてるよな)
そんなことを考えたはずなのに、いつの間にか目で追っていたのは、専門的な研究の話になると子どものように夢中になり、身振り手振りを交えながら楽しそうに笑う篠宮の姿だった。その無邪気さを見ていると、不思議とこちらまで頬が緩む。
(……可愛いな)
その想いがストン、と胸の奥へ落ちてきたのと同時に、右手首の内側がじわりと熱を帯びた。
(……まただ)
背後からは、相変わらず男子たちの無責任な声が聞こえていた。
「俺、本気で結構タイプだわ。連絡先交換できねぇかなー」
「普通に話しかければいいじゃん。三か月いるんだろ?」
「いや、でも何話せばいいんだよ」
「霊術数論教えてもらえば?」
「それさっき俺が言ったやつ!」
(……)
玲司の手のひらが、制服のポケットの中で固く握りしめられた。知らず知らずのうちに、眉間には深い不機嫌の皺が寄る。
(あいつのこと、何も知らないくせに)
彼女がどれほどの努力家で、どれだけの熱量を持って術式と向き合っているかも。
自分の研究のためなら、寝食を忘れて没頭してしまうほど不器用なことも。
弱っている時でさえ、自分の足で立とうとするほど頑固なところも。
そして昨日、俺の腕の番紋を見た瞬間に、あんなにも絶望したような、苦しそうな顔を浮かべていたことも。
何も、何も知らない。
それでも、ほんの一瞬見えた笑顔だけで、『可愛い』だの『タイプ』だの、好き勝手な言葉で彼女の隣へ当然のように踏み込もうとしている。
そんな男たちの笑い声が、どうしようもなく癇に障った。
(くそ……何なんだよ、これは)
この、妙に落ち着かない、腹の底が煮えるような感覚。
数メートル先には、男たちの冗談を「やめてよ」と言いながら笑い返している篠宮。
ただその光景を見ているだけなのに、今すぐあの輪へ割って入り、彼女をあいつらの視線が届かない場所へ連れて行きたい衝動に駆られる。
玲司はふと、自身の右手首へと視線を落とした。
じわりと熱を帯びた紋様は、今も脈打つようにその存在を主張している。
(なあ……これも“お前”のせいなのか)
今まさに胸の中でどす黒く膨らんでいる、この酷く醜い独占欲さえも。“番”だから湧き上がっているだけなのではないか。
もしもそうなのだとしたら、これを安易に恋などという綺麗な言葉と勘違いするわけにはいかない。
彼女の尊厳のためにも、俺自身の誇りのためにも、それだけは絶対に、あってはならないのだ。
——そう、頭では理解しているけれど。
理性が引き止めるより先に、気付けばその足は篠宮の方へと動いていた。
「あ、東雲」
クラスメイトの輪の中で楽しそうに笑っていた篠宮が振り返る。
「ねぇ、成瀬くんって面白いね! さっき——」
「篠宮」
「!」
思った以上に低い声が出たことに、自分でも驚いた。
「……実習室の、基本設備を案内するから。行くぞ」
「え? でも、今日はまだそんな本格的には測定しないよ?」
「今日はしなくても、あらかじめ設備の仕様を把握しておいた方が良いだろ」
「……まあ、それもそっか。分かった」
気づけば、彼女をあの輪から連れ出すための、もっともらしい理由が口をついて出ていた。
篠宮は少しだけ首を傾げたが、素直にこちらの言葉に従ってクラスメイトたちに向き直る。
「ごめんね、みんな。また後で!」
「おう、気にすんなって!」
そのまま、玲司は篠宮を促すようにして、逃げるように教室を出ていった。
「……へぇ」
「ん? 成瀬、どうしたよ」
「んー、いや。面白いもんが見れたなぁって」
二人の背中が完全に廊下の向こうへと消えていくのを見送りながら、成瀬涼真は小さく口角を上げた。
——篠宮が思った以上の早さで教室の空気に溶け込んだことに、玲司は内心、ホッと胸を撫で下ろしていた。
これまで教室や図書館で見かけていた彼女は、いつも静かに分厚い本を開いている姿が印象的だった。周囲に壁を作っているわけではないけれど、どこか他者を寄せ付けない、孤高の研究者といった佇まい。
だから正直、自由奔放な連中が集まったこの騒がしい空気に、彼女が気圧されて馴染めないのではないかと危惧していたのだ。
けれどどうやら、その心配はいらなかったらしい。
いつの間にか輪の中心にいた篠宮は、見たこともないほど瞳をきらきらと輝かせながら、楽しそうに笑っている。あの表情は、昨日は決して見ることのできなかった、年相応の無邪気な笑顔だった。
(……良かった)
無意識に入っていた肩の力が、すうっと抜けていく。少なくとも、これから過ごす三か月間、彼女をこのクラスで孤立させることだけはなさそうだ。
そう安堵した、その時だった。
少し離れた後ろの席から、男子生徒たちが声を潜めて交わす会話が、玲司の耳に滑り込んできた。
「なあ」
「ん、どした?」
「……篠宮ってさあ、可愛いよな」
「あ、お前も思った? 俺もさっきそれ考えてたわ」
「今まで図書館で静かに本読んでるところしか見たことなかったからさ。あんな風に笑うと、なんか全然印象違うっていうか、ギャップがヤバい」
「分かる。推せるよな」
「しかもあいつ、顔だけじゃなくて頭も超いいだろ。この前の中間テスト、学年三位だったらしいぜ」
「マジか。今度、『霊術数論の課題分かんねぇ』って言って、教えてもらおっかな」
「おいお前、それ完全に下心丸出しの口実だろ」
「はは、バレた?」
悪びれもしない、男子高校生特有の軽口と小さな笑い声が広がる。
(……)
玲司は無意識のうちに、篠宮へと視線を向けた。
促されるようにして、改めて、その姿をじっくりと見つめる。
陽光を受けて艶めく黒髪。普段は理知的に引き締まっているのに、笑うと柔らかく垂れる大きな瞳。
(……そう言われると、確かに整った顔はしてるよな)
そんなことを考えたはずなのに、いつの間にか目で追っていたのは、専門的な研究の話になると子どものように夢中になり、身振り手振りを交えながら楽しそうに笑う篠宮の姿だった。その無邪気さを見ていると、不思議とこちらまで頬が緩む。
(……可愛いな)
その想いがストン、と胸の奥へ落ちてきたのと同時に、右手首の内側がじわりと熱を帯びた。
(……まただ)
背後からは、相変わらず男子たちの無責任な声が聞こえていた。
「俺、本気で結構タイプだわ。連絡先交換できねぇかなー」
「普通に話しかければいいじゃん。三か月いるんだろ?」
「いや、でも何話せばいいんだよ」
「霊術数論教えてもらえば?」
「それさっき俺が言ったやつ!」
(……)
玲司の手のひらが、制服のポケットの中で固く握りしめられた。知らず知らずのうちに、眉間には深い不機嫌の皺が寄る。
(あいつのこと、何も知らないくせに)
彼女がどれほどの努力家で、どれだけの熱量を持って術式と向き合っているかも。
自分の研究のためなら、寝食を忘れて没頭してしまうほど不器用なことも。
弱っている時でさえ、自分の足で立とうとするほど頑固なところも。
そして昨日、俺の腕の番紋を見た瞬間に、あんなにも絶望したような、苦しそうな顔を浮かべていたことも。
何も、何も知らない。
それでも、ほんの一瞬見えた笑顔だけで、『可愛い』だの『タイプ』だの、好き勝手な言葉で彼女の隣へ当然のように踏み込もうとしている。
そんな男たちの笑い声が、どうしようもなく癇に障った。
(くそ……何なんだよ、これは)
この、妙に落ち着かない、腹の底が煮えるような感覚。
数メートル先には、男たちの冗談を「やめてよ」と言いながら笑い返している篠宮。
ただその光景を見ているだけなのに、今すぐあの輪へ割って入り、彼女をあいつらの視線が届かない場所へ連れて行きたい衝動に駆られる。
玲司はふと、自身の右手首へと視線を落とした。
じわりと熱を帯びた紋様は、今も脈打つようにその存在を主張している。
(なあ……これも“お前”のせいなのか)
今まさに胸の中でどす黒く膨らんでいる、この酷く醜い独占欲さえも。“番”だから湧き上がっているだけなのではないか。
もしもそうなのだとしたら、これを安易に恋などという綺麗な言葉と勘違いするわけにはいかない。
彼女の尊厳のためにも、俺自身の誇りのためにも、それだけは絶対に、あってはならないのだ。
——そう、頭では理解しているけれど。
理性が引き止めるより先に、気付けばその足は篠宮の方へと動いていた。
「あ、東雲」
クラスメイトの輪の中で楽しそうに笑っていた篠宮が振り返る。
「ねぇ、成瀬くんって面白いね! さっき——」
「篠宮」
「!」
思った以上に低い声が出たことに、自分でも驚いた。
「……実習室の、基本設備を案内するから。行くぞ」
「え? でも、今日はまだそんな本格的には測定しないよ?」
「今日はしなくても、あらかじめ設備の仕様を把握しておいた方が良いだろ」
「……まあ、それもそっか。分かった」
気づけば、彼女をあの輪から連れ出すための、もっともらしい理由が口をついて出ていた。
篠宮は少しだけ首を傾げたが、素直にこちらの言葉に従ってクラスメイトたちに向き直る。
「ごめんね、みんな。また後で!」
「おう、気にすんなって!」
そのまま、玲司は篠宮を促すようにして、逃げるように教室を出ていった。
「……へぇ」
「ん? 成瀬、どうしたよ」
「んー、いや。面白いもんが見れたなぁって」
二人の背中が完全に廊下の向こうへと消えていくのを見送りながら、成瀬涼真は小さく口角を上げた。


