つがいがなんだってんだ!

 やがて、一限の終わりを告げる鐘が鳴り響く。

「はい、今日はここまで」

 蔭山はチョークを置き、手についた白い粉を払って教科書を閉じた。

「提出物は来週です。次の授業は能力別授業ですので、移動は早めにお願いしますね。以上、解散」

 その言葉を合図に、教室中で一斉に椅子を引く音が響き始めた。生徒たちが慌ただしく荷物をまとめ、それぞれの専門棟へと散っていく。青葉も筆箱を鞄へしまいながら、小さく息をついた。

(……結局、あんまり授業の内容頭に入らなかったな)

 袖の中で脈打つ熱にも、あちこちから向けられる視線にも、まだ慣れそうになかった。それでもなんとか気持ちを切り替えなければと、席を立ち上がろうとしたところで、教壇の方から声が飛んできた。

「篠宮さん」

 いつも通りの穏やかな声に呼び止められ、青葉はビクッと肩を揺らして振り返った。

「はい」
「ちょっとこちらへ来てください」

 蔭山は柔和な表情のまま、教卓の前で待っていた。近くにいた生徒たちも、移動の足を止めて「何だ?」という顔でこちらをちらちらと見ている。青葉が訝しみながら歩み寄ると、蔭山は仏様のような優しい笑みで、物腰柔らかに言い放った。

「能力別授業のことなんですが。今日から三か月ほど、貴女は自然科学霊術棟へ行ってくださいね」
「……はい?」

 青葉は思わず、間抜けな声で聞き返した。
 能力別授業は、生徒がそれぞれの適性に応じて、自然科学霊術(しぜんかがくれいじゅつ)術式創成霊術(じゅつしきそうせいれいじゅつ)結界霊術(けっかいれいじゅつ)式神調伏霊術(しきがみちょうぶくれいじゅつ)の四系統に分かれる。
 青葉の持つ霊術は、世に現存する霊術を解析して術式へと落とし込み、一般化する『式化霊術』——典型的な術式創成霊術だ。

「え……私、創成なんですけど」
「もちろん知っています。私が担当ですからね」

 蔭山はにこにこと、迷いなく即答した。

「大丈夫ですよ、私から話は通してありますから。安心して行ってきてください」
「ちょ、ちょっと待ってください。どういうことですか……っ!」

 普段なら教師に盾突くことなどない青葉だが、今回ばかりは珍しく食い下がる。
 しかし蔭山は、駄々をこねる子どもを見守るような慈愛に満ちた眼差しで、ふんわりと腕を組んだ。

「研究者というのはね、自分の専門だけ知っていれば一流になれるほど、甘い世界ではないんですよ。特に私たちのような術式創成を専門とする者は、他系統の生の霊術を観察するのもとても大切な学びなんです」

 その優しく細められた目の奥には、有無を言わせぬ強い光を宿していた。

「貴女には、卒業研究の一環として、自然科学霊術の現場をじっくり見てきてもらいます」

(……え。私の卒研のテーマ、今決まった!?)

 青葉は心の中だけで、全力で叫んだ。蔭山の口調こそ優しくて丁寧だが、これが“上”からの指示であることは自明だった。
 自然科学霊術クラスには、東雲が在籍している。つまり、『東雲と自然に行動できる理由を作ってやる』ということなのだろう。調月といい蔭山といい、食えない大人たちの隠密な連携プレイによって、半ば監視のような環境へ放り込まれようとしているのだ。
 しかし、そんな裏の事情など知る由もないクラスメイトたちが、話を聞きつけて感心したように声を上げ始めた。

「へぇ! 篠宮さん、もう卒業研究始めるんだ!」
「根っからの研究好きだもんな。他クラス回ってデータ集めるってことか」
「え!? あ、う、うん。まあ……そんな、感じ……かな……」

 ここで「違います!」と叫ぶわけにもいかず、青葉は引きつった笑顔のまま、曖昧に話を合わせるしかなかった。

(いや、知らんけど! 私が一番、何も聞いてないんだから!!)

 絶望で頭を抱えそうになる青葉。しかし蔭山の話を反芻しているうちに、別の思考がむくむくと頭をもたげ始めていた。

(でも……自科霊(しかれい)って、四つのクラスの中で一番多種多様な能力が集まってるんだよね)

 水や炎といった自然現象の制御から、身体機能の強化、さらには感応や予知といった知覚能力まで。霊力によって自然界や人体に生じるさまざまな現象を感知・増幅・制御する霊術を専門とする者たちが集う、まさに霊術の宝庫だった。

(普段は接点がない彼らの霊術を間近で観察できるんだとしたら……)

 創成棟では日々、術式事典を片手に議論を重ねている。けれど、実際の術者たちの霊術を、これほど長期間にわたって間近で観察できる機会は、そうあるものではない。
 例えば——植物操作の霊力回路は、どう分岐しているんだろう。根から霊力を流すタイプと葉から放出するタイプで回路が違うのだろうか。
 戸惑いながらも研究内容の吟味に頭を巡らせ、青葉は気付かぬうちに目を爛々と輝かせていた。その姿を、蔭山はニコニコと菩薩のような笑みで見守っている。

(……いやいやいや! 何ちょっと楽しみになってんの!!)

 一人悶々とする青葉をよそに、蔭山は今度は教室の右後方で移動の準備をしている東雲へと視線を向けた。

「東雲くん」
「はい」
「貴方は自科霊(あちら)級長(キャップ)でしたね」
「そうですが……」
「本日からおよそ三か月——今年の霊術祭が終わるまで、彼女のことをお願いします。教室の場所も、設備の使い方も、色々と教えてあげてください」
「! ……承知しました」

 東雲は力強く頷いた。蔭山も満足そうに「よろしい」と一言だけ返す。
 完全に外堀を埋められ、青葉だけがその場に取り残される。

「先生、待ってくださいよ」
「何ですか?」
「何ですか、じゃないですよ! 私を置いて、どんどん話が進んでません!?」
「ええ、そうですねえ」
「いや、こういうの普通は私にも事前に相談を——」
「貴女に相談したら、どうせごちゃごちゃと理屈をつけてお断りになるでしょう?」
「っ! う……」

 蔭山の指摘があまりにも正確で、青葉は言葉に詰まる。

「まあそもそも、これはもう決定事項ですし……それに、」

 反論できない青葉をよそに、蔭山は静かに微笑んだ。その穏やかな物腰が、かえって恐ろしかった。

「あなたの霊術は、観察した霊術を術式という形に再構築する力でしょう? 式化霊術ほど、自分の研究室に閉じこもっていては伸びません。研究というのは、自分が予測できる安全な場所にいるうちは、大した結果は出ないものです。予定外の環境に放り込まれて、足掻いてからが本番ですよ。——ぜひ、面白いものを拾ってきてくださいね」

 それだけ言うと、蔭山は教科書を小脇に抱え、微笑みながら教室を出ていってしまった。
 残された青葉は、呆然とその背中を見送ることしかできず、思わず右手で額を押さえる。

「ハゲ山……いつも以上に笑顔が凶悪すぎるよ……」
「蔭山先生、ああいうところあるよな」

 いつの間にか隣へ来ていた東雲が、苦笑いを浮かべながら呟いた。

「……だよね。知ってる」

 青葉は本日最大級の深いため息をついた。勝手に決められた三か月間、波乱の始まりだ。
 ——けれど、胸の奥底のどこかでは。

(自科霊クラス、か。少しだけ……いや、かなり興味ある、かも。)

 そんな、隠しきれない知的好奇心が、小さく、けれど確実に芽吹き始めていた。