屋上から教室へ戻る頃には、朝のホームルーム開始を告げる鐘が校舎中に鳴り響いていた。
四人は足早にそれぞれの席へと着く。青葉が椅子を引くと同時に、教室中の視線が青葉と東雲へ集中した。
(あー……そうだよね)
今朝の登校時、あの並木道を並んで歩いているところを、誰かしらに見られていたのだろう。
ホームルーム開始間際のざわめく教室で、隠す気のない小さな囁き声があちこちから漏れ聞こえてくる。
「ねえ、やっぱり一緒に登校してたよね?」
「東雲会長と篠宮さんでしょ? 正門のとこで見たよ」
「どういう関係なんだろ?」
好奇の眼差しがチクチクと肌を刺す。青葉は聞こえないふりをして、黙々と鞄から教科書とノートを取り出した。
一方で、右斜め前の席に座る東雲はというと——そんな周囲のざわめきなど耳に入っていないかのように、淡々と机の上に筆記用具を並べている。
(……すごい神経)
いや、多分違う。
昨日から彼を見ていて、分かったことがある。
この男は周囲の視線に鈍いわけでも、調子に乗っているわけでもない。ただ本当に、気にしていないのだ。
人からどう見られるかではなく、今、自分がすべきことを最優先にできる人なのだろう。その強さが、少しだけ羨ましく、そして少しだけ悔しかった。
その時、ガラリと前方の引き戸が開き、「起立」の号令がかかる。
いつも通りの朝に、いつも通りのホームルーム。それなのに、昨日までとは違う世界へ迷い込んでしまったような奇妙な浮遊感があった。
教壇に立った担任の藤田は出席簿を開き、上から順に一人ずつ名前を呼んでいく。
「東雲」
「はい」
「篠宮」
「……はい」
青葉が返事をすると、藤田は一瞬だけ、東雲と青葉を見比べた。
(やっぱりもう、知ってるんだ)
昨日の今日で、調月から担任や関係する教師たちへ、最低限の連絡が入っているのだろう。『二人の霊術回路が安定するまでは、必要な配慮をしてほしい』とでも言われているのかもしれない。
それでも藤田は、余計な詮索をすることなく淡々と出席確認を終えた。下手に同情されたり、腫れ物のように扱われたりしないのは、今の青葉にとってはひどくありがたかった。
やがてホームルームが終わり、一限が始まった。始業の鐘とともに現れたハゲ山——もとい蔭山が、黒板いっぱいに複雑な術式を書きながら講義を進めていく。
本来なら、研究者を目指す青葉にとって、心から楽しみにしている授業の一つだ。けれど今日は、黒板に書かれる白チョークの文字が、どうしても頭に入ってこない。
(集中しなきゃ。何やってんだ、私)
不意に、左手首の奥で、制服の袖に隠された番紋が小さく脈打った。切なくなるような熱が皮膚の裏側を掠める。その熱に引かれるように、意識が右斜め前へと向いてしまう。
視線の先では、東雲が真剣な顔つきで板書を書き写している。ふと目に入った彼のノートは、驚くほど字が整っていた。教師の言葉に小さく相槌を打ちながら、重要な箇所には、自分なりの解釈や補足の術式まで丁寧に書き込んでいる。
(……意外)
もっと、生まれ持った才覚だけでここまで来た人なのだと思っていた。
東雲家の御曹司で、生徒会長。勉強も運動も人望も、何一つ欠けるところがない。そういう完璧な人間は、案外ノートの取り方なんて適当で、要領だけで生きているのだろうと、勝手に偏見を抱いていたのだ。
けれどその予想は、あっさり覆された。
(全部、ちゃんとやってんだな……)
小さな努力を積み重ねられる人——冷静に考えれば当然だ。どれほど才能があったってそれに胡座をかいていたら、学年主席を不動のものにすることなんてできないのだから。
そんなことを熱心に分析している自分に気づいて、青葉はハッとして小さく首を振った。
(違う違う。何観察してんの、私!)
東雲とは、この不自由な期間を乗り切るために、ただの“友達”だ。番だからって、易々と惹かれてやるつもりはない。思考を無理やりノートへ引き戻そうとした、その時だった。
コン、と机の端で小さな音が響いた。
慌てて意識をノートへ戻した拍子に、手から滑り落ちた自分の消しゴムが、床へと転がってしまったのだ。
(あ、やば……)
しまった、と思って拾おうと身を屈めるよりも早く。
通路を挟んだ右斜め前から、すっと細長く綺麗な指が伸びてきて、転がった消しゴムを拾い上げた。
「篠宮」
東雲は黒板を向いたまま、何でもないことのように消しゴムを青葉の机の端へ戻した。
「……ありがと」
「ん」
交わした言葉は、たったそれだけ。
近くの席の生徒も、黒板に向き合っている蔭山も、誰一人として気付かないほど、一瞬のやり取りだった。
——けれど。
戻された消しゴムを受け取ろうとして、青葉の手がピタリと止まる。
消しゴムのケースと本体の小さな隙間に、丁寧に折り畳まれた一枚の付箋が巧妙に挟み込まれていた。
(東雲……? でも今の流れで、こんなもの挟むタイミングあった?)
先生に見つからないよう、机の陰でそっとそれを開く——その瞬間、昨日と同じ、ごく淡い森の香りが、鼻先を優しく掠めた。
(っ! なんで、こんな時に……!)
昨日の出来事が一気に蘇り、困惑と羞恥で鼓動が早まる。それを振り払うように、青葉は開いた付箋に視線を落とした。
『体調、大丈夫か? 無理すんなよ』
そこにはさっきノートで見たのと同じ、細く端正な文字が並んでいた。今度は違う意味で、コツ、と心臓が一つ跳ねる。
(……なんなの、もう。意味分かんない)
何の変哲もない、ごくありふれた言葉だった。それなのに、声に出して体調を尋ねれば周りに怪しまれるからと、ノートを書き進める合間に、誰にも気づかれないようにこんなものを仕込んでいたなんて。
手首の番紋が、またチリチリと熱を帯びる。
たったこれだけの、指先すら触れ合わなかった出来事だというのに、胸の奥が不自然なほどトクトクと波打っていた。
この息が詰まるような動揺は、手首に刻まれた紋様のせいなのか。それとも、この付箋に込められた彼の優しさに、自分の心が——。
青葉はそれ以上考える恐怖から逃れるように、小さな付箋を筆箱の奥へと押し込み、無理やり意識を黒板へ引き戻すように、ノートへ文字を書き殴った。
四人は足早にそれぞれの席へと着く。青葉が椅子を引くと同時に、教室中の視線が青葉と東雲へ集中した。
(あー……そうだよね)
今朝の登校時、あの並木道を並んで歩いているところを、誰かしらに見られていたのだろう。
ホームルーム開始間際のざわめく教室で、隠す気のない小さな囁き声があちこちから漏れ聞こえてくる。
「ねえ、やっぱり一緒に登校してたよね?」
「東雲会長と篠宮さんでしょ? 正門のとこで見たよ」
「どういう関係なんだろ?」
好奇の眼差しがチクチクと肌を刺す。青葉は聞こえないふりをして、黙々と鞄から教科書とノートを取り出した。
一方で、右斜め前の席に座る東雲はというと——そんな周囲のざわめきなど耳に入っていないかのように、淡々と机の上に筆記用具を並べている。
(……すごい神経)
いや、多分違う。
昨日から彼を見ていて、分かったことがある。
この男は周囲の視線に鈍いわけでも、調子に乗っているわけでもない。ただ本当に、気にしていないのだ。
人からどう見られるかではなく、今、自分がすべきことを最優先にできる人なのだろう。その強さが、少しだけ羨ましく、そして少しだけ悔しかった。
その時、ガラリと前方の引き戸が開き、「起立」の号令がかかる。
いつも通りの朝に、いつも通りのホームルーム。それなのに、昨日までとは違う世界へ迷い込んでしまったような奇妙な浮遊感があった。
教壇に立った担任の藤田は出席簿を開き、上から順に一人ずつ名前を呼んでいく。
「東雲」
「はい」
「篠宮」
「……はい」
青葉が返事をすると、藤田は一瞬だけ、東雲と青葉を見比べた。
(やっぱりもう、知ってるんだ)
昨日の今日で、調月から担任や関係する教師たちへ、最低限の連絡が入っているのだろう。『二人の霊術回路が安定するまでは、必要な配慮をしてほしい』とでも言われているのかもしれない。
それでも藤田は、余計な詮索をすることなく淡々と出席確認を終えた。下手に同情されたり、腫れ物のように扱われたりしないのは、今の青葉にとってはひどくありがたかった。
やがてホームルームが終わり、一限が始まった。始業の鐘とともに現れたハゲ山——もとい蔭山が、黒板いっぱいに複雑な術式を書きながら講義を進めていく。
本来なら、研究者を目指す青葉にとって、心から楽しみにしている授業の一つだ。けれど今日は、黒板に書かれる白チョークの文字が、どうしても頭に入ってこない。
(集中しなきゃ。何やってんだ、私)
不意に、左手首の奥で、制服の袖に隠された番紋が小さく脈打った。切なくなるような熱が皮膚の裏側を掠める。その熱に引かれるように、意識が右斜め前へと向いてしまう。
視線の先では、東雲が真剣な顔つきで板書を書き写している。ふと目に入った彼のノートは、驚くほど字が整っていた。教師の言葉に小さく相槌を打ちながら、重要な箇所には、自分なりの解釈や補足の術式まで丁寧に書き込んでいる。
(……意外)
もっと、生まれ持った才覚だけでここまで来た人なのだと思っていた。
東雲家の御曹司で、生徒会長。勉強も運動も人望も、何一つ欠けるところがない。そういう完璧な人間は、案外ノートの取り方なんて適当で、要領だけで生きているのだろうと、勝手に偏見を抱いていたのだ。
けれどその予想は、あっさり覆された。
(全部、ちゃんとやってんだな……)
小さな努力を積み重ねられる人——冷静に考えれば当然だ。どれほど才能があったってそれに胡座をかいていたら、学年主席を不動のものにすることなんてできないのだから。
そんなことを熱心に分析している自分に気づいて、青葉はハッとして小さく首を振った。
(違う違う。何観察してんの、私!)
東雲とは、この不自由な期間を乗り切るために、ただの“友達”だ。番だからって、易々と惹かれてやるつもりはない。思考を無理やりノートへ引き戻そうとした、その時だった。
コン、と机の端で小さな音が響いた。
慌てて意識をノートへ戻した拍子に、手から滑り落ちた自分の消しゴムが、床へと転がってしまったのだ。
(あ、やば……)
しまった、と思って拾おうと身を屈めるよりも早く。
通路を挟んだ右斜め前から、すっと細長く綺麗な指が伸びてきて、転がった消しゴムを拾い上げた。
「篠宮」
東雲は黒板を向いたまま、何でもないことのように消しゴムを青葉の机の端へ戻した。
「……ありがと」
「ん」
交わした言葉は、たったそれだけ。
近くの席の生徒も、黒板に向き合っている蔭山も、誰一人として気付かないほど、一瞬のやり取りだった。
——けれど。
戻された消しゴムを受け取ろうとして、青葉の手がピタリと止まる。
消しゴムのケースと本体の小さな隙間に、丁寧に折り畳まれた一枚の付箋が巧妙に挟み込まれていた。
(東雲……? でも今の流れで、こんなもの挟むタイミングあった?)
先生に見つからないよう、机の陰でそっとそれを開く——その瞬間、昨日と同じ、ごく淡い森の香りが、鼻先を優しく掠めた。
(っ! なんで、こんな時に……!)
昨日の出来事が一気に蘇り、困惑と羞恥で鼓動が早まる。それを振り払うように、青葉は開いた付箋に視線を落とした。
『体調、大丈夫か? 無理すんなよ』
そこにはさっきノートで見たのと同じ、細く端正な文字が並んでいた。今度は違う意味で、コツ、と心臓が一つ跳ねる。
(……なんなの、もう。意味分かんない)
何の変哲もない、ごくありふれた言葉だった。それなのに、声に出して体調を尋ねれば周りに怪しまれるからと、ノートを書き進める合間に、誰にも気づかれないようにこんなものを仕込んでいたなんて。
手首の番紋が、またチリチリと熱を帯びる。
たったこれだけの、指先すら触れ合わなかった出来事だというのに、胸の奥が不自然なほどトクトクと波打っていた。
この息が詰まるような動揺は、手首に刻まれた紋様のせいなのか。それとも、この付箋に込められた彼の優しさに、自分の心が——。
青葉はそれ以上考える恐怖から逃れるように、小さな付箋を筆箱の奥へと押し込み、無理やり意識を黒板へ引き戻すように、ノートへ文字を書き殴った。

