つがいがなんだってんだ!

「あれ、青葉?」

 まだ人もまばらな教室の中、いつもの席でSNSを眺めていた伊織の口から、素っ頓狂な声が上がった。
 無理もない。昨日の朝まで、同じクラスでありながら“住む世界が違う”と言わんばかりにほとんど接点のなかったはずの二人が、なぜか示し合わせたように並んで登校してきたのだ。

「なんで、東雲くんと一緒に……?」

 あからさまな困惑を顔に張り巡らせ、伊織が小走りで歩み寄ってきた。

「おはよ……え、なにこの空気」

 ちょうどその時、陸上部の朝練を終えた颯人が教室に入ってきた。彼もまた、三人から漂う異様な空気に困惑の声を上げた。
 その瞬間、青葉は胸の奥の重苦しい塊を吐き出すように、小さく息を漏らした。

「おはよう、伊織、颯人。あのね……二人に、話があるんだけど」
「え?」
「昼休みじゃなくて——今。今すぐ聞いてほしいの」

 青葉の張り詰めた声色に、二人は彼女の身に尋常ならざる事態が起きていることを瞬時に察した。高等部で出会って以来、いつも冷静な親友のそんな声は、伊織も聞いたことがなかった。
 伊織の顔からいつもの笑顔が消え去る。颯人もまた、静かに顎を引いて頷いた。

「分かった」

 二人の承諾を確認し、青葉はまだ教室の入り口に佇んでいた男を振り返る。

「東雲も、一緒に連れていく」
「東雲も?」
「そうじゃないと……私が、ここで倒れるから」

 その言葉に、伊織と颯人は完全に言葉を失い、血の気を失った青葉の顔を凝視した。

「……屋上へ行こう」

 それだけを絞り出し、青葉は踵を返して歩き出した。
 朝の一限が始まる前の屋上には、仄かに湿り気を帯びた六月の風が、立ち尽くす四人の制服の裾を揺らしていく。
 青葉はしばらくの間、何も言わずにぼんやりと空を見上げていた。
 どう言葉を選べばいいのか、自分でも全く整理がつかない。説明したところで、どこまで理解してもらえるかも分からない。
 それでも——この二人を騙すようなことだけは、絶対にしたくなかった。

「あのね、二人とも。……これを、見て欲しいの」

 意を決して、青葉は静かにブレザーの袖を捲り上げた。
 陽光に晒された白い手首の皮膚に、不気味なほど鮮やかに浮かび上がる、淡く紅い呪いの紋様。

「……っ!」

 伊織が短い悲鳴を上げて息を呑んだ。

「え、嘘でしょ。だってそれって……」

 驚愕する親友の視線を受けながら、青葉は隣の東雲を見た。東雲もまた、無言のまま右腕の袖を引き上げる。そこには、青葉のものと左右対になるように、全く同じ形をした番紋が静かに拍動していた。
 ヒュウ、と冷たい風だけが四人の間を吹き抜けていく。

「そんなまさか……」

 伊織の目が、これ以上ないほど驚愕に見開かれた。

「昨日、放課後の図書館で出たの。私と、東雲……私たちに、番紋が出た」

 伊織は何度も何度も、二人の手首の紋様と、その顔を見比べ、衝撃で言葉を失っている。
 一方颯人は、手首の紋様ではなく、青葉の強張った表情を心配そうに見つめていた。

「……桜さんのこと、話したのか?」

 その短い問いに込められた真意を、青葉はすぐに理解した。番という存在を誰よりも憎む彼女が、相手を前にしてどれほど絶望したか、彼は分かっていたのだ。

「うん……全部、話したよ」

 それだけで、颯人には十分だった。彼は静かに目を閉じ、天を仰ぐようにして小さく息を吐き出した。取り残された伊織だけが、焦ったように二人を見比べる。

「え……? ごめん。待って、なんのこと? 桜さん、って——誰?」

 伊織にとっては、聞いたこともない名前だった。青葉は少しだけ視線を足元に落とし、昨日、壊れたように東雲へぶちまけた家の事情を、もう一度ゆっくりと二人に噛み締めるように話し始めた。自分には『桜』という姉がいること、そしてその姉の身に起きた悲劇を。
 すべてを話し終えた頃には、屋上には重く長い沈黙だけが居座っていた。

「そんなことがあったなんて……青葉、ごめんなさい。あたし昨日、何も知らないで、無神経なことばっかり言っちゃって……っ」
「ううん、気にしないで。伊織が謝ることじゃないよ。5年前のことだし。私がずっと言わなかったんだから」

 泣き出しそうな親友に、青葉は少しだけ目元を和らげて苦く笑った。高等部で出会って、お互いの楽しい部分だけを共有してきた大好きな友達を、自分の過去の傷を見せて暗い気持ちにさせたくなかった。
 颯人はフェンスに背中をもたれかけさせたまま、何も言わず、静かに目を伏せて二人の会話を聞いていた。

「それで……私は、どれだけ運命に強制されようと、番だからって理由で、誰かを好きになることだけは、絶対にないからって……そう、言ったの」

 その痛烈な言葉を向けられても、東雲はやはり眉一つ動かさなかった。昨日と同じように、ただ静かに彼女の言葉を受け止めるように佇んでいる。
 代わりに、東雲は落ち着いた声で口を開いた。

「……とまあ、そうは言ってもだな。霊力が安定するまでの間、篠宮は常に霊障で倒れる危険と隣り合わせなわけで」

 その理路整然とした声音に、三人の視線が彼へと集まる。

「だから俺たちは、互いの霊力が安定するまでの三か月間は——」

 東雲はそこで一拍置き、青葉の横顔を真っ直ぐに見つめた。

「番とかいったん抜きにして。“友達”として、一緒にいることにしたんだ」
「……え?」

 伊織は今度こそ、完全に思考がフリーズしたように固まった。

「と、友達……?」

 東雲は至って穏やかに、迷いのない顔で頷く。

「それが今、篠宮にとっても……俺にとっても。一番無理のない形だと思ったから」

 伊織は確認するように青葉の顔を覗き込み、青葉もまた、小さく息を吐いて首を縦に振った。

「……私も、それで一応納得したから」

 再び、静かな沈黙が四人の間に落ちていく。けれど、今度の沈黙は、さっきまでの困惑に満ちたものとは明らかに違っていた。想定外の事態に戸惑いながらも、四人が少しずつ、同じ地続きの不条理な現実を受け入れ、前に進み始めた証拠の沈黙だった。
 やがて朝の予鈴が、校舎中へ鳴り響く。

「戻ろう。先生が来る」

 東雲のその一言を合図に、四人は屋上を後にした。
 薄暗い校舎の階段へと向かう中、少しだけ割り切ったような顔をした青葉と、神妙な顔をした颯人が、前を並んで歩いていく。
 その少し後ろをついていた伊織は、意図的に自分の歩幅を少しだけ緩め、さらに後ろをポツンと歩く東雲玲司の真隣へと滑り込んだ。

「ねえ、東雲くん」
「ん? 橘、どうした?」

 伊織は、自分よりも遥かに背の高い生徒会長を少しだけ見上げる。

「本当に、それで良いの?」

 東雲は足をピタリと止めた。

「何が?」
「だから、青葉と友達でいるってこと」

 伊織は、どこか見透かすような、けれど悪意のない柔らかい笑みをその唇に浮かべた。

「私ね、“そういう霊術”だからさ。感情の揺れには人より敏感なんだ。毎日いろんな人の顔を見てると、隠してるつもりでも、結構分かっちゃうんだけど」

 東雲は再び歩き出し、彼女の次の言葉を静かに待った。

「東雲くん、青葉のこと好きなんでしょ」

 階段の踊り場にある大きな窓から、眩いばかりの朝の光が差し込み、東雲の端正な横顔を眩しく照らし出した。
 東雲は——否定しなかった。
 ただ、暫くの間何かを自分の中で確かめるように沈黙したあと、少しだけ困ったように眉を下げて笑った。

「好き、だと思う……でも……俺自身、まだよく分からないんだ」

 東雲は歩きながら、制服の袖口に隠れた右手首へ、静かに視線を落とした。

「この気持ちが、番紋が俺に“見せている”恋なのか」

 それとも——。

「俺が、自分の意思で篠宮を好きになったのか」
「……」
「自信がないんだよ。もしもこれが錯覚だとしたら……そんな状態で、番を呪いだと思っているあいつに告白なんて、できないだろ。あいつを苦しめることはしたくないから」

 伊織は茶化すこともなく、ただ静かに彼の真摯な言葉に耳を傾けていた。東雲は、前方を歩く青葉の小さな背中を見つめながら、静かに、けれど熱を帯びた声で続ける。

「だから、今は友達でいい。番の相手としてじゃなくて、一人の人間として、篠宮のことをもっと知りたいんだ」

 そこで一度言葉を区切り、東雲は穏やかに、けれど確かな光を宿した瞳で微笑んだ。

「それでもし、三か月経ってもこの気持ちが変わってなかったら……その時初めて、俺は自分の心に自信を持てる気がするから」

 伊織は、その言葉の意味を静かに理解した。
『番だから、側に居る』——そう言うだけなら、簡単だ。運命が定めた、無条件に相手を縛ることができる、絶対的な肩書きなのだから。
 だけどそれは同時に、“運命”という言葉を嫌う青葉が最も恐れていることであり、青葉を絶望の淵へと突き落とす悪魔の切り札となる。
 だからこそ、この男は“番”というカードを真っ先に捨て、自ら丸腰になって、自分の恋を証明しようとしているのだ。
 その途方もなく不器用な彼の横顔を見つめ、伊織は観念したように小さく笑った。

「……そっか。東雲くんって、思っていたよりずっと、面倒くさい人なんだね」
「え? 俺、やっぱ面倒臭い!? うわー……ちょっと今のへこむかも」
「あはは、嫌いじゃないよ。むしろ安心した。……青葉はさ」

 伊織はひとしきりケラケラと笑った後、ふっと表情を引き締めると、真面目な、けれど優しい顔つきで東雲に語りかける。

「頑固だけど。一回信じた人の手は、絶対に離さないから。焦らないであげて」
「! ……分かった」

 伊織の笑みには、大好きな親友を傷つけまいとする鋭い警戒心と、東雲玲司という男の覚悟を認め始めた、確かな安堵が静かに混ざり合い始めていた。