オペラが終わる頃合いの時間に春乃と別れた。春乃は丁寧にお辞儀をして琴音を見送った。
春乃とのささやかな交流から数日後、中庭に面した廊下を歩いていた琴音は、凛莉子と原井が話している場面に出くわした。
「こんな仕事をしなくても、私の家で働いて構わないのよ」
凛莉子が、水飴のようにねっとりと甘い声でそう言った。原井は琴音に背中を向けていたから、その表情はわからなかった。ただ、琴音のもとまで届いた彼の声は、ひどく端的で頑なだった。
「俺は、こんな仕事だと思っていません」
――失礼、と原井が立ち去った。その刹那、呆気に取られた様子の凛莉子の視線と琴音の視線が交わる。
凛莉子は顔を真っ赤にして、琴音に向かって何かを言おうとした。それでも何も言うことができなかった様子で、凛莉子は逃げるようにその場から走り去った。
琴音としては、翌日にはすぐに忘れる程度の出来事だった。しかし凛莉子にとっては、もしかしたらそうではなかったのかもしれない。
それからさらに数日後、廊下でばったり行き合った凛莉子は憎々しげに琴音を見た。半歩後ろには春乃が控えていた。
琴音を睨みつけていた凛莉子は、不意に何か企みを思いついたように口を歪めた。次の途端に、廊下の飾り棚に置かれていた陶器の花瓶を生花ごと手で払った。勢いよく床へ落ちた花瓶は、激しい音を立てて砕ける。ぎょっとする琴音の前で、凛莉子は「きゃあっ!」と悲鳴を上げて床へうずくまる。
慌ただしい足音がいくつもやってくる。うずくまる凛莉子と立ちすくむ琴音を見た教師は、「何事ですか!?」と問いただした。咄嗟に答えられなかった琴音とは裏腹に、凛莉子が甲高い声で答える。
「先生! 琴音さんが突然怒って風を起こしたのです。私、何もしていないのに……」
それを聞いた教師はつかつかと琴音のもとへ歩み寄ると、琴音の頬を平手で打った。乾いた音が廊下に響くなか、琴音を見上げる凛莉子が、顔を覆う手の隙間からほくそ笑む。
――ほらね。先生が信じるのは、卑しいあなたではなくて私よ。
凛莉子の眼差しが琴音を嘲笑う。教師は、顔を赤くして琴音を怒鳴りつける。
「まったく! あなたには慎ましさが足りません。何度言ったらわかるのですか!? この御浜女学院は本来、由緒正しい血筋のお嬢様が通う場所です。あなたも淑女を目指すなら……」
異能者の権利が認められた後も、持たざる者であった存在に対する侮蔑と偏見は根強い。伯爵家令嬢と異能者の娘なら、教師は無条件に凛莉子を信じる。琴音の言い分は端から認められない。
それをわかっているから、凛莉子はこのような騒ぎを起こした。
何を言っても甲斐はないから、琴音は肩から力を抜いた。教師の説教を聞き流すつもりだったけれど、凛莉子の横で立ち尽くしていた春乃が一歩前へ踏み出した。そうして、「先生」と思い詰めた表情で口をひらいたから、目を見ひらく。
「花瓶を割ったのは――」
春乃がそこまで言ったところで、琴音は指先で風を起こした。床に散った花瓶の破片と生けられていた花をひとまとめにして、床を濡らす水も乾かす。
呆気に取られた様子の教師に、琴音はあっけらかんと問いかける。
「いくら払えばよろしいですか?」
「なっ……!」
絶句する教師に対して、琴音は小首を傾げて笑む。
「花瓶代をお支払いしますわ」
「そういう問題では……!」
「私に慎ましさが足りないと言うなら、この学校には運営資金が足りませんわよね?」
この学校の格式を支えてきたのは、由緒正しい家柄からの寄付。それが年々少なくなっていることは知っている。
だからこそこの学校は、卑しいと蔑む琴音の入学を認めたのだ。
「転校したって構いませんのよ。ただその場合、寄付は全額引き上げさせていただきますけど」
教師は、これ以上ない程に顔を赤くする。わなわなとくちびるをふるわせて、けれどもう何も言えない。
「ごきげんよう」
琴音は微笑んで、その場を後にした。ブーツの踵を鳴らしながら歩く琴音を、ぱたぱたと控えめな足音が追ってきた。


