梅華屋から自宅へ戻ると、琴音はすぐに二階の自室へと上がった。今度、海外からの賓客も招いて開催するレセプションで、新しい旅客船の設計図を公開したいと考えている。そのための計画書を今週中に仕上げるためだ。
風間家は古来より風を操る。だから、風の理論をよく理解している。
風の理論を船に組み込めば、船は速く力強く海を進む。造船業で風間家は富を築いた。いずれは飛行機まで手を広げたいと琴音は考えている。新しい事業を始めるには資金が必要だから、造船業でさらなる利潤を蓄えたい。だから、次のレセプションを失敗することはできない――。
机に向かって一心にペンを走らせていると、不意に階下で物音がした。
琴音はペンを止めて、椅子から立ち上がる。
居間へ下りると、父の道久が帰宅したところだった。
「お帰りなさい、お父様」
「ああ、琴音。ただいま」
道久はジャケットを脱ぎながら、琴音に優しく微笑む。道久の眼差しを受け止めた琴音は、そのまま台所へ向かう。
「夕食、用意するわね」
「ああ、頼むよ」
道久は自室へと服を着替えに行った。着替えが終わったら、夕食の用意を手伝ってくれるはずだ。
帝都の一角、もともとは由緒正しい一族のものだった土地を買って建てた洋館。祖父から受け継いだこの屋敷で、琴音は道久と二人暮らしだ。
台所に立った琴音はエプロンをつけて袂を捲る。籠からじゃがいもを取り出して、水で洗って皮を剥く。細切りにして水にさらす間に、平たい洋鍋を焜炉にかける。昔は、火を起こすのは重労働だったけれど、今は摘みを回せば簡便に火がつく。紅光家が、火の理論を組み込んだ焜炉を広く普及させたからだ。
元来、異能を持つ一族は国を統べる帝家の私有物だった。しかし、御一新の混乱の最中に紅光家の先々代当主が提言した。
――我々には本来、強かに生きる力がある。ただ、意思を持つことを知らないだけだ。
彼は帝家に判断を迫った。幕府軍との一戦に我らの炎が必要ならば、我らの権利を正しく認めよ――と。
紅光家の火力が幕府を圧倒して、世の中が大きく変わったと同時に、異能を持つ者たちに他の市民と同様の権利が認められた。風を操る風間家も、その変化の只中にいた。
洋鍋に油を垂らせば、ジュウッと香ばしい音が弾ける。細切りにしたじゃがいもを炒めていると、着流しに着替えた道久がやってきた。道久は袖に襷を掛けると、琴音の手元を見て微笑む。
「今夜はじゃがいものオムレットか。私は卵を割ればいい?」
「ええ」
琴音が頷くと、道久は軽く指を振って風を呼ぶ。風はくるりと渦を巻いて、半地下の保存庫から卵を三つ弾き出す。お手玉をするように器用に三つを受け取った道久は、金属の器に卵を割ってゆく。そうして、かちゃかちゃと卵をかき混ぜながら、ふと思い出したように切り出した。
「そういえば、小石川の会館で紅光の御当主と会ったのだけれど」
「ええ」
相槌を打ちながら、炒めたじゃがいもを一度皿に移す。道久が、入れ替わりで洋鍋に卵液を落とす。
「御子息が……居頼様が、琴音を婚約者に迎えたいと仰っていると」
「はあ!?」
琴音は目を丸くして呆気に取られた。一度として食事に応じたことすらないのに、どうして婚約などという話になっているのか。
「御当主も、相手が風間家であればと仰ってくださったが……その、琴音の意思を確認しないことには返事ができないと申し上げておいた」
「無理よ……絶対にお断りだわ。あんな軽薄な男はまったく好みじゃないの」
そう言い切った刹那に、寡黙で実直な原井の面影が脳裏に仄めく。
琴音は口を真っ直ぐに引き結んで、熱で固まり始めた卵を大きくかき混ぜる。
「私は、結婚するつもりはない」
丸く整えた卵の上に炒めたじゃがいもを乗せる。卵を破らないように慎重にじゃがいもを包みながら、琴音は続けた。
「私は風間家で、お父様とずっと一緒に仕事をしていたい」
「琴音……」
道久が調理台に皿を置く。コトリ、と響いた優しい音に道久の声が重なる。
「どんな生き方でも琴音が幸せであれば良いと、私は常々願っているよ」


