凛莉子たちの姿が完全に見えなくなったところで、琴音は足を止めた。はあ、と息を吐いて、泥水に濡れた袴に手を添える。そのまま、風に意思を伝えようとしたところで、横から声が掛かった。
「あの」
控えめな声は、学内によく出入りしている庭師の原井のもの。琴音が視線を向けると、背の高い彼は素っ気なくも思える表情で琴音を見返した。屋号入りの紺の羽織に紺のズボン、作業用の長靴。いつもと同じ佇まい。
いつもと同じ、水晶のように冴え冴えとした眼差し。
「大丈夫ですか」
声音もひどく素っ気ない。
それなのに、彼の声が琴音に届けば、琴音の心はふわりと解ける。それを自覚して押し黙った琴音の前で、原井はおもむろに膝を折る。
「袴が」
梔子色に染みた泥色。原井の骨ばった指がそこへ触れようとする。琴音は内心で面食らうものの、原井の指が袴に触れる前に、平然とした顔で風を呼んだ。
風が大らかな渦を巻き、琴音を包み込む。原井が慄いたように手を引っ込める。
風は大きく波打ち、凪ぐ。すると袴が瞬く間に乾く。
「何でもないわ」
琴音はそう言い切ると、そのまま歩き去ろうとした。けれど、「待って」と原井の声が制した。
原井は地面に膝を突き、無愛想な声音と裏腹に、ひどく優しい手つきで袴に触れる。
ただ乾かしただけだから、泥は付着したままだ。
「乾けば、泥が落ちやすくなります」
原井はそう言って、腰紐に挟み込んでいた手拭いで泥が付いた部分を軽く叩く。――平気よ、新しいのを買うんだから。
そう言って断れば良いのに、何も言えないのはどうして。
さらさらと頭上で葉擦れの音が流れる。
琴音は息をひそめて立ち尽くしていた。原井の骨ばった指が丁寧に動く様子から、目を逸らして。
「……これで」
原井が短くそう言って、立ち上がる。梔子色の袴に付着していた泥がほとんど目立たなくなっている。
ありがとう、と琴音が口にしようとしたとき、ぱたぱたと足音が聞こえた。
「琴音さまっ」
鈴の響きのような可憐な声。振り返ると、凛莉子に付き添っているはずの来栖家の女中、春乃だった。
質素だけれど、手入れの行き届いた清潔な身なり。きっちりと編まれた三つ編み。少し息を乱した春乃は、琴音に向かって手のひらを差し出す。水仕事の跡が見て取れる華奢な手に載っているのは、衣類用のブラシだった。
「乾いてからブラシをかければ……、あっ」
春乃はぱちっと目を瞬く。たった今、木陰に立つ原井に気づいたようだ。遅れて、琴音の袴の泥が落ちていることにも気づく。
「樹さんが、琴音さまの袴を綺麗にしてくれたのね」
春乃が微笑む。蕾がほどける刹那のような、無垢で柔らかな笑顔だった。
「せっかくだけど、それはもう結構よ」
春乃に言い置いて、琴音は教室棟へと向かった。ブーツの踵が硬質な靴音を響かせる。
風が、緩やかに建物へと吹き込む。
原井が、愛らしく笑う春乃と心を通わせていることを琴音は知っている。
原井の下の名前が樹というのだと、琴音は今日初めて知った。


