きらめく風が流れて、季節が流れた。先のレセプションで発表した旅客船は、順調に製造が進んでいる。
琴音は、婚礼の義で着用する振袖を選ぶため、梅華屋を訪れていた。春乃と原井は慎ましい儀式を希望しているから、あまり華やかすぎないものが良い。
畳敷きの応接室で、売り場の責任者が提案する振袖を眺めていた。すると、静かに襖があいて、支配人の居頼が断りもなく入室してくる。
琴音の横に正座した居頼は売り場責任者に目配せをして、彼を下がらせる。ふたりきりになった室内で、ちょっと、と抗議の声を上げるけれど、居頼はにこやかにそれを受け流す。
「どちらのお着物がお心に添いますか?」
何食わぬ顔で応対しようとする居頼の振る舞いを見て、そういえば、と琴音は思い出した。
「御当主様から私の父へ、あなたとの婚約の話が出たようだけど」
「ああ、そうでしたか」
居頼は平然とした顔で相槌を打つ。この男、と琴音は憤った。
「冗談じゃないわ。勝手に変な話を進めないでくださる?」
「貴女がつれないから、外堀を埋めてみようかと思って」
「埋めたところで、私が応じることはないわ」
ぴしゃりと言い捨てたつもりだった。けれど居頼は怯むどころか、にこやかに笑ったまま琴音との距離を詰める。
居頼の影が膝に触れて、彼の指先がこめかみに触れる。その指をいつもなら即座に払い除けるのに、彼の眼差しが不意に鋭くなって、琴音は思わず動きを止めた。
「貴女が風間でも、俺は紅光です。その気になれば、貴女を手に入れることは赤子の手を捻るより容易い」
琴音は音もなく息を呑む。いつも物腰が柔らかく、人の好い笑みを浮かべている彼が、紅光の御曹司だということを途端に意識した。
世界を変えた紅光家。
帝家と不敵に渡り合った一族。
呼吸を止めたまま硬直する琴音を見つめて、居頼はふっと息を漏らした。そうして、表情をたちまちに穏和にして、琴音をぱっと手離す。彼の影が琴音から離れてゆく。
「でも、そんな手段は選びません」
居頼は柔らかな声で告げると、まるで祈るような眼差しで続ける。
「叶うならいつか、あなたの意思で俺を愛して」
軽薄だと思っていた彼の声が、今のこの刹那、初めて真っ直ぐに琴音へと届いた。
琴音は咄嗟に眼差しを伏せて、色とりどりの振袖を眺める。だけどどこか気がそぞろで、色も模様も何も頭に入ってこない。
居頼が微かな笑みをこぼす。
「今日はここで切り上げて、食事をご一緒にいかがですか?」
押し黙る琴音に、居頼はあくまでも支配人らしい声音で言った。
「次にいらっしゃるときまでに、もっと素晴らしい振袖をご用意いたします」
琴音は居頼の眼差しを見上げる。しばし、見定めるように沈黙したあと、ふっと視線を逸らして答える。
「……紅茶一杯だけでも良いなら」
「もちろんです」
居頼がにこりと目を細める。彼は当たり前のように、琴音へ手を差し出した。
その手を取らずに自分で立ち上がった。居頼は特に落胆した顔をせず、琴音の隣に並ぶ。
応接室を出て、梅華屋を出た。きらめく風が木々の間を駆け抜けて、琴音と居頼に涼やかな葉擦れの音が降る。
「もう夏ですね」と居頼が言った。「そうね」とだけ返した琴音の足元で、カツン、と明瞭な靴音が響いた。


