八月の終わり。地区大会の会場となった市の体育館のステージの前に広がる人々はまるで海のようだ。舞台袖からその様子を見ていた俺の足は思わず震えていた。閉まった幕の裏側。用意された机を挟んで向かい合わせに置かれた椅子の片方に座る。280ミリの小さなペットボトルに入った水をポケットから出して緊張に震える手で机に置くと、舞台袖に控えていた前野に頷いた。前野は準備完了を伝えるために、舞台袖から階段を駆け下りる。
「水原君。⋯⋯大丈夫だよ」
向かい合わせに座る長月の顔は楽しげだ。緊張なんて微塵も感じさせない、自信に満ちた微笑を浮かべている。長月は俺の方に腕を伸ばした。机の上で一瞬指先が触れ合って、俺は手足の震えが徐々に治まっていくのを感じた。ブザーの音が響いて、バタバタと前野が戻ってくる足音がする。長月はゆっくりと、伸ばした腕を引っ込めた。
「続きまして海北高校演劇部、『海を飲む人』です」
アナウンスの直後。もう一度ブザーが鳴って、幕はのろのろと上がり始め、俺と長月は人々のざわめきと視線の渦に放り込まれた。舞台の下にはたくさんの顔が並んでいる。その中には、いくつかの中学時代に見慣れた顔もあった。その顔が俺を見て驚いたような表情をする。その後、ゆっくりと昔と同じような視線が突き刺さるのを確かに感じていた。俺はもう一度、向かい合わせに座る長月を見る。幕が上がる前、机の上で触れ合った指先の熱と、目の前にいる長月の顔に、俺の心が凪いでいく。
「何回目の搬送だと思ってるの。⋯⋯君ね、なんで海水なんて飲むの」
セリフは俺から始まる。声が出た。俺は幕の外から意識を切り離して、溺れる人が何かにしがみつくように、長月の顔だけを見つめる。向かい合わせに座る長月の顔は、幕が上がる前とまるで違う。微かな諦めを滲ませながら、夢見るように遠くを見つめている。
「⋯⋯先生。俺さぁ、人魚になりたいんですよ」
たっぷりの間を置いて、長月が最初のセリフを発した途端、明らかに空気が変わったのを感じた。静まり返った体育館はもう真っ白な病院の一室に変わっている。世界には俺達二人しかいなくて、俺の目の前にいるのは長月ではない。長月は名前のない男に「なって」いる。水の代わりに海水を飲む男。セリフは続く。夢見るように。
「⋯⋯人魚になって海の中を一日ずっと泳いでみたいんです。だったら海の水くらい飲めるようにならなくちゃあ」
「⋯⋯君、何言ってるの」
「先生知ってます?」
「何を」
「人間ってさ、もともと海の生き物だったらしいですよ。たまたま陸に上がったやつがそのまま陸で進化して人間になったんだって。⋯⋯だから、海に残った方は多分人魚になってるんですよ。それで、水の中を楽しく泳ぎ回ってるんです。海水を飲みながら」
「⋯⋯人魚なんていないよ」
男は俺の顔を見る。俺は、水原樹のままだ。長月とは違う。俺はどこまでいっても、先生、と呼ばれる医者のような男を「演じて」いるだけの水原樹に過ぎない。俺は男を見つめ返す。俺が憧れて憧れて、それでも、なることはできなかった、美しい人魚に対する羨望を込めて。
「いるんです。だから、俺も人魚になるんです」
淡々と男は言う。声に羨望が滲んでいる。俺は机の上の水を一口飲むと口を開いた。
「⋯⋯あのね。君、金メダルまで獲った水泳選手でしょう。日頃からずっと泳いでるんだから、それで満足しなさい」
「⋯⋯俺は、先生が羨ましいですよ」
「どうして。僕からすれば君の方が羨ましいよ。⋯⋯僕は、君みたいに綺麗に泳げたことなんてないから」
男は俺の手を見ている。いや、正確には俺の手の中にある水のペットボトルを。俺は居心地悪そうにキャップを閉めた。
「⋯⋯水、おいしかったですか、先生」
「どうしたの。急に」
「人魚からしたら真水ってやっぱ飲めたもんじゃないんですか。人間が海の水を飲む時みたいに」
「なに、変なこと言ってるの」
沈黙が下りる。体育館の中には随分と大勢の人がいるはずなのに、誰もが石になってしまったようだ。身動ぎの音一つ聞こえない。長月と俺の芝居は、体育館に広がる観客達を完全に呑み込んでいた。
「人魚は本当にいるんですよ、先生」
「いい加減止めなさい、馬鹿馬鹿しい」
「⋯⋯十年前。小学校の、夏休みのスイミングスクールで、俺見たんです。隣のレーンで高校の水泳部が練習していて、その中に混じってひとり、人魚が泳いでた。⋯⋯先生。⋯⋯その人魚は、あなたにそっくりでした」
俺はペットボトルを手の中で弄ぶのを止める。先生、の動揺を観客に示すために。また、少しの沈黙。
「先生。なんで、陸なんかに来たんですか。⋯⋯あんなに楽しそうに泳いでたのに。苦労して、飲めない水飲んでまで、来たい魅力、あります?こんな、水の一滴も流れない建物に」
俺は「男」をじっと見つめる。ただの「水原樹」に過ぎない自分と比べる度に、どこまでも才能のない自分を思い知る。
「僕は、落ちこぼれだったんだよ。⋯⋯他の人達のように上手く泳げなかった」
「でも好きで仕方ないんでしょう。楽しくてたまらないんでしょう。泳ぐの。⋯⋯羨ましいですよ」
「君にだけは言われたくないよ」
「俺ね、先生みたいな人魚になりたいんですよ。泳ぐのなんて、一つも楽しくないんです。ただ息苦しいだけで」
「⋯⋯息苦しいの?」
視線が交錯する。俺の問いかけに男は静かに頷いた。
「息苦しいですよ。⋯⋯記録。人の期待。⋯⋯泳ぐ度に色んなものがのしかかってくる」
「羨ましいねえ」
「適当なことを。⋯⋯じゃあ代わってあげましょうか」
「⋯⋯代わってほしいよ。僕はその重ささえ味わえなかったから。⋯⋯君は、嘲りの視線の中で泳ぐ苦しみを知らないだろう?少し味わってみてほしいよ」
「⋯⋯泳ぐのは苦しいですか。⋯⋯先生。あなたでも」
男は言った。滲み出す薄い絶望。才能の多寡と言う面では真逆なのに。長月は人魚で、俺は人間なのに。それでも、俺達は二人とも喉を灼く水を飲んでいて、感じる痛みの深さも同じなのだということを、俺はよく知っている。
「⋯⋯だから言ったでしょ。人魚なんていないって。⋯⋯今君の前にいるのはただの人間にすぎないよ」
『先生』のセリフと俺の気持ちはピタリと重なる。俺も、先生も、どこまでいっても人間に過ぎない。でも、『先生』と違って、俺は、今それで良かったのだと思っている。だって、今感じているこの生々しい物悲しさと羨望は、俺が人間に過ぎなかったからこそ感じられる感情だから。これがなければ俺は今日、この男の隣に立つことなんてできなかったのだから。
「⋯⋯でも、君は違う」
「何を勝手なことを」
男の言葉に、俺はゆっくりと首を横に振った。
「⋯⋯僕も昔、人魚を見たんだ」
「人魚なんていないって、先生、さっき言ってたでしょう」
「⋯⋯忘れたかったんだよ。高校生の時、部活の練習で使ってたスイミングプールで、僕も人魚を見たんだ。まだ小学生くらいだった。⋯⋯でも、水の中で暮らしてるんじゃないかって思うくらい自然に、水の中を自由に泳ぎ回ってた。⋯⋯すごく、楽しそうに」
男は弾かれたように立ち上がる。ガタン!と椅子が倒れる音が、これまで体育館を支配してきた沈黙を破った。
「⋯⋯陸に、しばらく逃げ出すのも手だよ。きっと、また水の中に戻りたくなる。⋯⋯だって、海なんて飲まなくたって、君は人魚なんだから」
立ち上がった男を、座って見上げながら僕は言った。
「先生は、そうでしたか」
俺は笑う。首を横に大きく振った。
「⋯⋯僕は、もう海を飲むのに疲れ果ててしまった。⋯⋯僕はどこまでいってもただの人間にしかなれないよ。君が人魚にしかなれないのと同じように」
「先生。コップ、ありますか。二つ」
俺は立ち上がる。舞台袖からガラスのコップを二つ持ってきて机上に置く。コツ、と小さな音が響いた。男はペットボトルのキャップを開けると、中の水をコップに注いで片方を僕の方へ押しやる。
「先生。もう一度、海を飲んでみませんか」
「どうして」
「先生も人魚だからです。⋯⋯海を飲めば、きっと水の中に戻りたくなる」
俺も立ち上がる。水の入ったコップを手に。俺は男を見上げて微笑んだ。男も、僕を見て微笑む。
「⋯⋯ずっと、僕だけが海を飲んでると思ってた」
「⋯⋯俺も、そうだと思っていました」
「乾杯しようか」
「何にですか?」
「⋯⋯そうだねえ。⋯⋯じゃあ、海を飲む人達に」
コップが触れ合う。舞台は暗転する。ゆっくりと下がり始めた幕の後ろはただひたすらに静かだった。幕が下がりきった途端、体育館が破裂しそうな程に拍手の音が鳴り響く。反響する拍手の音に、足が震えた。閉じた幕の裏で、俺達は見つめ合って微笑んだ。
金色のメダルと賞状の入った筒を入れた紙袋を揺らしながら、俺と長月と前野は日の暮れかけた橙色の道を歩いて帰路へついていた。
「水原と長月はバス停の方だっけ」
「ああ。今日はありがとう。前野」
駅へ行く道の方へ歩を進めながら、前野は、俺の言葉にニッと笑うと、ひらひらと手を振った。前野がいなくなって少し静かになった道を、俺と長月はバス停に向けて歩いていく。
「ありがとう、長月」
俺は隣を歩く長月の顔を見上げながら言った。
「水原君がお礼言うことじゃないよ」
長月の言葉に、俺は首を横に振る。
「いや。長月がいなかったら、俺は今日舞台に立てていたかも分からない。⋯⋯だから、ありがとう」
「どういたしまして」
長月は笑う。歩道を歩く俺達の間にはしばらく沈黙がおりて、忙しなく俺達の側を走りすぎていく車の音だけが響いていた。
「そう言えばさ、今日、浜井が見に来てたの知ってた?」
長月の言葉に、俺は驚いて首を横に振った。
「いや。浜井は何か言ってたのか」
「あー。⋯⋯色々悪かったって。それだけ。でもさ、俺、心狭いから、すぐ良いよとは言えないって言っちゃった」
「それで、浜井は」
「何も言わなかった」
「そうか」
長月の気持ちは仕方ないと思う一方で、俺は浜井が謝ったことに驚いていた。
「⋯⋯多分さ、水原君のおかげだよ。水原君の、今までの話とか、今日のお芝居とかで、浜井の世界もちょっと変わったんじゃない?」
長月は言った。そしてまたぽつりと言葉を続ける。
「水原君はさ、お祖父さんにはなれないよ」
それは一見すると残酷な言葉なのだろう。けれど、何の意味もなく長月はそんな事を言うことはないと俺は知っている。俺は長月の言葉を静かに待った。
「⋯⋯でも、水原君のお芝居じゃないと、今日、浜井の世界は変えれなかったと思う」
「長月」
長月は不思議だ。芝居なんてしなくても俺の世界を変えてしまう。いつだって、長月と話していると、俺はこの俺で良かったのだという気持ちになっていて、この俺のままで、精一杯もがいてやろうと考えている。
「⋯⋯長月は凄いな」
「水原君だって凄いよ」
長月はしみじみと俺の顔を見つめて言う。その視線がくすぐったくて照れくさくて、思わず俺は顔を赤くして目を逸らした。長月はそんな俺の様子をじっと見ながら再び口を開く。
「⋯⋯水原君見てて俺、バスケもう一回やってみようと思ったんだ。⋯⋯だから、中学の時、俺に興味を持ってくれたバスケチームに連絡とった」
長月の言葉に、今度は俺が長月の顔を眺める番だった。
「水原君、凄い嬉しそうな顔」
長月は俺の顔を見て微笑む。
「⋯⋯だから、水原君は凄いんだよ。⋯⋯ちゃんと、俺の世界も変えてくれたんだから」
もし、今までで見たものの中で一番美しいものを誰かに聞かれることがあるとしたら、俺は迷わず、芝居をしている時の祖父だと答えると思ってきた。今日、十年ぶりにその答えを変えたくなっている。動画越しではない、自分の目で見る長月の、砂漠から掘り出されたばかりの水晶のような瞳の光が言葉では言い表せないくらい綺麗で、俺はしばらくその瞳に見惚れた。⋯⋯けれど、実際その問いを誰かにされたなら、俺は人にはきっと、以前と同じように祖父だと答えるだろう。この気持ちは誰にも見せずに俺の胸だけに秘めておきたいから。
「ただ、演劇部の練習、出れない時も多くなると思うけど」
「それは構わない。⋯⋯だが俺も、たまには練習を見に行ってもいいか」
「もちろん」
俺の言葉に長月は頷いた。
「ねえ水原君。⋯⋯ちょっと前さ、俺の為に色々してくれたのって、俺が親友だからだって言ってくれたでしょ」
「ああ」
突然の脈絡のない言葉に足が止まった。怪訝に長月を見上げる俺に、長月は真剣な顔で言った。
「本当に、それだけ?」
その言葉に俺は思わず目を逸らしてしまっていた。
「ねえ、水原君。⋯⋯こっち向いて」
笑いを含んだ長月の声と言葉が、俺の答えを聞かずとも、長月が俺の嘘を見破ったことを示していた。
「⋯⋯でも、お前この前会った、中学の時好きだった奴のことが好きなんじゃないのか」
俺の言葉に、今度は長月の方が呆気にとられたような顔をする。
「⋯⋯中学の時は色々あったしね。あいつが言いふらした訳じゃなかった、ってのは素直に嬉しかったけど、さすがにもう気持の整理はついてるよ」
「そうか」
「そうだよ」
長月は俺の短い返事にそう笑うと言葉を続けた。
「ねえ水原君。⋯⋯俺、自惚れてもいい?」
俺は長月に嘘を吐くのは諦めて、その顔を真っ直ぐに見つめる。長月の問いに答える言葉を、俺はもう迷わなかった。
「水原君。⋯⋯大丈夫だよ」
向かい合わせに座る長月の顔は楽しげだ。緊張なんて微塵も感じさせない、自信に満ちた微笑を浮かべている。長月は俺の方に腕を伸ばした。机の上で一瞬指先が触れ合って、俺は手足の震えが徐々に治まっていくのを感じた。ブザーの音が響いて、バタバタと前野が戻ってくる足音がする。長月はゆっくりと、伸ばした腕を引っ込めた。
「続きまして海北高校演劇部、『海を飲む人』です」
アナウンスの直後。もう一度ブザーが鳴って、幕はのろのろと上がり始め、俺と長月は人々のざわめきと視線の渦に放り込まれた。舞台の下にはたくさんの顔が並んでいる。その中には、いくつかの中学時代に見慣れた顔もあった。その顔が俺を見て驚いたような表情をする。その後、ゆっくりと昔と同じような視線が突き刺さるのを確かに感じていた。俺はもう一度、向かい合わせに座る長月を見る。幕が上がる前、机の上で触れ合った指先の熱と、目の前にいる長月の顔に、俺の心が凪いでいく。
「何回目の搬送だと思ってるの。⋯⋯君ね、なんで海水なんて飲むの」
セリフは俺から始まる。声が出た。俺は幕の外から意識を切り離して、溺れる人が何かにしがみつくように、長月の顔だけを見つめる。向かい合わせに座る長月の顔は、幕が上がる前とまるで違う。微かな諦めを滲ませながら、夢見るように遠くを見つめている。
「⋯⋯先生。俺さぁ、人魚になりたいんですよ」
たっぷりの間を置いて、長月が最初のセリフを発した途端、明らかに空気が変わったのを感じた。静まり返った体育館はもう真っ白な病院の一室に変わっている。世界には俺達二人しかいなくて、俺の目の前にいるのは長月ではない。長月は名前のない男に「なって」いる。水の代わりに海水を飲む男。セリフは続く。夢見るように。
「⋯⋯人魚になって海の中を一日ずっと泳いでみたいんです。だったら海の水くらい飲めるようにならなくちゃあ」
「⋯⋯君、何言ってるの」
「先生知ってます?」
「何を」
「人間ってさ、もともと海の生き物だったらしいですよ。たまたま陸に上がったやつがそのまま陸で進化して人間になったんだって。⋯⋯だから、海に残った方は多分人魚になってるんですよ。それで、水の中を楽しく泳ぎ回ってるんです。海水を飲みながら」
「⋯⋯人魚なんていないよ」
男は俺の顔を見る。俺は、水原樹のままだ。長月とは違う。俺はどこまでいっても、先生、と呼ばれる医者のような男を「演じて」いるだけの水原樹に過ぎない。俺は男を見つめ返す。俺が憧れて憧れて、それでも、なることはできなかった、美しい人魚に対する羨望を込めて。
「いるんです。だから、俺も人魚になるんです」
淡々と男は言う。声に羨望が滲んでいる。俺は机の上の水を一口飲むと口を開いた。
「⋯⋯あのね。君、金メダルまで獲った水泳選手でしょう。日頃からずっと泳いでるんだから、それで満足しなさい」
「⋯⋯俺は、先生が羨ましいですよ」
「どうして。僕からすれば君の方が羨ましいよ。⋯⋯僕は、君みたいに綺麗に泳げたことなんてないから」
男は俺の手を見ている。いや、正確には俺の手の中にある水のペットボトルを。俺は居心地悪そうにキャップを閉めた。
「⋯⋯水、おいしかったですか、先生」
「どうしたの。急に」
「人魚からしたら真水ってやっぱ飲めたもんじゃないんですか。人間が海の水を飲む時みたいに」
「なに、変なこと言ってるの」
沈黙が下りる。体育館の中には随分と大勢の人がいるはずなのに、誰もが石になってしまったようだ。身動ぎの音一つ聞こえない。長月と俺の芝居は、体育館に広がる観客達を完全に呑み込んでいた。
「人魚は本当にいるんですよ、先生」
「いい加減止めなさい、馬鹿馬鹿しい」
「⋯⋯十年前。小学校の、夏休みのスイミングスクールで、俺見たんです。隣のレーンで高校の水泳部が練習していて、その中に混じってひとり、人魚が泳いでた。⋯⋯先生。⋯⋯その人魚は、あなたにそっくりでした」
俺はペットボトルを手の中で弄ぶのを止める。先生、の動揺を観客に示すために。また、少しの沈黙。
「先生。なんで、陸なんかに来たんですか。⋯⋯あんなに楽しそうに泳いでたのに。苦労して、飲めない水飲んでまで、来たい魅力、あります?こんな、水の一滴も流れない建物に」
俺は「男」をじっと見つめる。ただの「水原樹」に過ぎない自分と比べる度に、どこまでも才能のない自分を思い知る。
「僕は、落ちこぼれだったんだよ。⋯⋯他の人達のように上手く泳げなかった」
「でも好きで仕方ないんでしょう。楽しくてたまらないんでしょう。泳ぐの。⋯⋯羨ましいですよ」
「君にだけは言われたくないよ」
「俺ね、先生みたいな人魚になりたいんですよ。泳ぐのなんて、一つも楽しくないんです。ただ息苦しいだけで」
「⋯⋯息苦しいの?」
視線が交錯する。俺の問いかけに男は静かに頷いた。
「息苦しいですよ。⋯⋯記録。人の期待。⋯⋯泳ぐ度に色んなものがのしかかってくる」
「羨ましいねえ」
「適当なことを。⋯⋯じゃあ代わってあげましょうか」
「⋯⋯代わってほしいよ。僕はその重ささえ味わえなかったから。⋯⋯君は、嘲りの視線の中で泳ぐ苦しみを知らないだろう?少し味わってみてほしいよ」
「⋯⋯泳ぐのは苦しいですか。⋯⋯先生。あなたでも」
男は言った。滲み出す薄い絶望。才能の多寡と言う面では真逆なのに。長月は人魚で、俺は人間なのに。それでも、俺達は二人とも喉を灼く水を飲んでいて、感じる痛みの深さも同じなのだということを、俺はよく知っている。
「⋯⋯だから言ったでしょ。人魚なんていないって。⋯⋯今君の前にいるのはただの人間にすぎないよ」
『先生』のセリフと俺の気持ちはピタリと重なる。俺も、先生も、どこまでいっても人間に過ぎない。でも、『先生』と違って、俺は、今それで良かったのだと思っている。だって、今感じているこの生々しい物悲しさと羨望は、俺が人間に過ぎなかったからこそ感じられる感情だから。これがなければ俺は今日、この男の隣に立つことなんてできなかったのだから。
「⋯⋯でも、君は違う」
「何を勝手なことを」
男の言葉に、俺はゆっくりと首を横に振った。
「⋯⋯僕も昔、人魚を見たんだ」
「人魚なんていないって、先生、さっき言ってたでしょう」
「⋯⋯忘れたかったんだよ。高校生の時、部活の練習で使ってたスイミングプールで、僕も人魚を見たんだ。まだ小学生くらいだった。⋯⋯でも、水の中で暮らしてるんじゃないかって思うくらい自然に、水の中を自由に泳ぎ回ってた。⋯⋯すごく、楽しそうに」
男は弾かれたように立ち上がる。ガタン!と椅子が倒れる音が、これまで体育館を支配してきた沈黙を破った。
「⋯⋯陸に、しばらく逃げ出すのも手だよ。きっと、また水の中に戻りたくなる。⋯⋯だって、海なんて飲まなくたって、君は人魚なんだから」
立ち上がった男を、座って見上げながら僕は言った。
「先生は、そうでしたか」
俺は笑う。首を横に大きく振った。
「⋯⋯僕は、もう海を飲むのに疲れ果ててしまった。⋯⋯僕はどこまでいってもただの人間にしかなれないよ。君が人魚にしかなれないのと同じように」
「先生。コップ、ありますか。二つ」
俺は立ち上がる。舞台袖からガラスのコップを二つ持ってきて机上に置く。コツ、と小さな音が響いた。男はペットボトルのキャップを開けると、中の水をコップに注いで片方を僕の方へ押しやる。
「先生。もう一度、海を飲んでみませんか」
「どうして」
「先生も人魚だからです。⋯⋯海を飲めば、きっと水の中に戻りたくなる」
俺も立ち上がる。水の入ったコップを手に。俺は男を見上げて微笑んだ。男も、僕を見て微笑む。
「⋯⋯ずっと、僕だけが海を飲んでると思ってた」
「⋯⋯俺も、そうだと思っていました」
「乾杯しようか」
「何にですか?」
「⋯⋯そうだねえ。⋯⋯じゃあ、海を飲む人達に」
コップが触れ合う。舞台は暗転する。ゆっくりと下がり始めた幕の後ろはただひたすらに静かだった。幕が下がりきった途端、体育館が破裂しそうな程に拍手の音が鳴り響く。反響する拍手の音に、足が震えた。閉じた幕の裏で、俺達は見つめ合って微笑んだ。
金色のメダルと賞状の入った筒を入れた紙袋を揺らしながら、俺と長月と前野は日の暮れかけた橙色の道を歩いて帰路へついていた。
「水原と長月はバス停の方だっけ」
「ああ。今日はありがとう。前野」
駅へ行く道の方へ歩を進めながら、前野は、俺の言葉にニッと笑うと、ひらひらと手を振った。前野がいなくなって少し静かになった道を、俺と長月はバス停に向けて歩いていく。
「ありがとう、長月」
俺は隣を歩く長月の顔を見上げながら言った。
「水原君がお礼言うことじゃないよ」
長月の言葉に、俺は首を横に振る。
「いや。長月がいなかったら、俺は今日舞台に立てていたかも分からない。⋯⋯だから、ありがとう」
「どういたしまして」
長月は笑う。歩道を歩く俺達の間にはしばらく沈黙がおりて、忙しなく俺達の側を走りすぎていく車の音だけが響いていた。
「そう言えばさ、今日、浜井が見に来てたの知ってた?」
長月の言葉に、俺は驚いて首を横に振った。
「いや。浜井は何か言ってたのか」
「あー。⋯⋯色々悪かったって。それだけ。でもさ、俺、心狭いから、すぐ良いよとは言えないって言っちゃった」
「それで、浜井は」
「何も言わなかった」
「そうか」
長月の気持ちは仕方ないと思う一方で、俺は浜井が謝ったことに驚いていた。
「⋯⋯多分さ、水原君のおかげだよ。水原君の、今までの話とか、今日のお芝居とかで、浜井の世界もちょっと変わったんじゃない?」
長月は言った。そしてまたぽつりと言葉を続ける。
「水原君はさ、お祖父さんにはなれないよ」
それは一見すると残酷な言葉なのだろう。けれど、何の意味もなく長月はそんな事を言うことはないと俺は知っている。俺は長月の言葉を静かに待った。
「⋯⋯でも、水原君のお芝居じゃないと、今日、浜井の世界は変えれなかったと思う」
「長月」
長月は不思議だ。芝居なんてしなくても俺の世界を変えてしまう。いつだって、長月と話していると、俺はこの俺で良かったのだという気持ちになっていて、この俺のままで、精一杯もがいてやろうと考えている。
「⋯⋯長月は凄いな」
「水原君だって凄いよ」
長月はしみじみと俺の顔を見つめて言う。その視線がくすぐったくて照れくさくて、思わず俺は顔を赤くして目を逸らした。長月はそんな俺の様子をじっと見ながら再び口を開く。
「⋯⋯水原君見てて俺、バスケもう一回やってみようと思ったんだ。⋯⋯だから、中学の時、俺に興味を持ってくれたバスケチームに連絡とった」
長月の言葉に、今度は俺が長月の顔を眺める番だった。
「水原君、凄い嬉しそうな顔」
長月は俺の顔を見て微笑む。
「⋯⋯だから、水原君は凄いんだよ。⋯⋯ちゃんと、俺の世界も変えてくれたんだから」
もし、今までで見たものの中で一番美しいものを誰かに聞かれることがあるとしたら、俺は迷わず、芝居をしている時の祖父だと答えると思ってきた。今日、十年ぶりにその答えを変えたくなっている。動画越しではない、自分の目で見る長月の、砂漠から掘り出されたばかりの水晶のような瞳の光が言葉では言い表せないくらい綺麗で、俺はしばらくその瞳に見惚れた。⋯⋯けれど、実際その問いを誰かにされたなら、俺は人にはきっと、以前と同じように祖父だと答えるだろう。この気持ちは誰にも見せずに俺の胸だけに秘めておきたいから。
「ただ、演劇部の練習、出れない時も多くなると思うけど」
「それは構わない。⋯⋯だが俺も、たまには練習を見に行ってもいいか」
「もちろん」
俺の言葉に長月は頷いた。
「ねえ水原君。⋯⋯ちょっと前さ、俺の為に色々してくれたのって、俺が親友だからだって言ってくれたでしょ」
「ああ」
突然の脈絡のない言葉に足が止まった。怪訝に長月を見上げる俺に、長月は真剣な顔で言った。
「本当に、それだけ?」
その言葉に俺は思わず目を逸らしてしまっていた。
「ねえ、水原君。⋯⋯こっち向いて」
笑いを含んだ長月の声と言葉が、俺の答えを聞かずとも、長月が俺の嘘を見破ったことを示していた。
「⋯⋯でも、お前この前会った、中学の時好きだった奴のことが好きなんじゃないのか」
俺の言葉に、今度は長月の方が呆気にとられたような顔をする。
「⋯⋯中学の時は色々あったしね。あいつが言いふらした訳じゃなかった、ってのは素直に嬉しかったけど、さすがにもう気持の整理はついてるよ」
「そうか」
「そうだよ」
長月は俺の短い返事にそう笑うと言葉を続けた。
「ねえ水原君。⋯⋯俺、自惚れてもいい?」
俺は長月に嘘を吐くのは諦めて、その顔を真っ直ぐに見つめる。長月の問いに答える言葉を、俺はもう迷わなかった。
