海を飲む人

「ねえ。水原君も、台本読んでみない?」
 舞台奥に見立てた黒板を背に、汗を拭いながら長月が言ったのは七月に入ってすぐの土曜日の昼間だった。演劇部の部室として割り当てられた旧校舎の二階の使われていない古びた教室は、窓と扉を開け放って扇風機を回していても、蝉の鳴き声に包まれてむわりと暑い。長月が登校するようになって一カ月程が経っていた。クラスに馴染めるのか内心やきもきしていた俺の心配をよそに、長月はゆっくりとクラスに溶け込み始めていた。
「長月。⋯⋯俺は、もう自分が演じるのは諦めたって言っただろう」
「ほんとに?」
 黒板に向かい合うように並べた、客席に見立てたいくつかのパイプ椅子のうちの一つに腰掛けた俺の方に長月は近づいてくる。
「⋯⋯水原君。こっち向いて」
 少しの真剣さを含んだ声で言って長月は微笑む。
「相変わらず、嘘が下手だよね。水原君、嘘吐く時は絶対目背けるの」
 長月はスクールバッグをごそごそと漁ると、数枚の紙の右肩をホッチキスで止めたものを俺に差し出す。それは学校で印刷する時に使うざらついて少し灰色がかった紙とは違う、コンビニのコピー機で使われているような、少し上質なつるりと白い紙にプリントされていて、長月が自分で印刷してきたらしいことが一目で分かった。
「スマホでさ、色んな演劇の台本見れるサイトがあったから、面白そうなの、何個かダウンロードしてコンビニで印刷しちゃった」
「⋯⋯そうか」
 長月が持ってきたのは二人用の台本ばかりだった。もう関係ないものだ、と思いながらも、ついそれらに手を伸ばしてしまう。
「⋯⋯水原君さ、俺が演技してるの、凄い楽しそうに見てくれるけど、いっつも、ちょっと寂しそうな顔もしてるから」
 俺の隣に置かれた椅子に座って、台本をめくる俺を楽しげな顔で見つめながら長月は言う。
「前、水原君、大勢の人の前でやるだけが舞台じゃないって言ってたでしょ。大勢の人の前に立つ舞台は無理でも、ここで、俺以外誰も見てない、俺と二人だけの舞台なら、人の視線とか気にせずに演技できるかなって思って」
 長月はぐっと伸びをして言葉を続けた。
「⋯⋯俺としては、水原君と一緒に演技できたらもっと楽しいかなってのと、水原君の演技、見てみたいなってだけだから。水原君の気が向いたら一緒にやろうよ」
 それ以上、長月は何も言わなかった。長月がスクールバッグの置いてある机の方へ歩き出したので、その話はこれで終わりらしいと分かった。
「ありがとう。長月」
 スクールバッグから取り出した麦茶のペットボトルに口をつけていた長月は、俺の言葉に視線だけを送る。
「そう言えば、学校はもう慣れたのか」
 俺の言葉に、長月はペットボトルから慌てた様子で口を離すと、咳き込みながら笑い声をあげた。
「なに。そのお父さんみたいな言い方」
 長月はしばらくけらけらと笑っていたが、俺の表情に真剣だと気付いたらしい。
「うん。水原君と前野君が一緒にいてくれるから心強いし、噂も中学の時程気にならないしね」
「⋯⋯噂、まだあるのか」
「多少はね。ま、同じ中学から海北に行ってるやつ、浜井以外にもそれなりにいるからしょうがないよ」
 長月はもう一度俺に近付くと、俺の眉間に人差し指と中指を伸ばした。そのまま俺の眉間は長月の二本の指で柔らかく左右に引き伸ばされる。
「ほら。水原君、眉間に皺寄っちゃってる。⋯⋯中学の時と違って、噂、鵜呑みにする人も少ないし、信頼できる親友が二人もいるんだから、全然平気だよ」
 親友。その言葉が何故かチクリと胸を刺した。本当なら、その言葉は嬉しい筈だ。なのになぜか胸に細い針を刺されたように、ちくりと微かに鋭い痛みが走った。俺はその気持ちを隠すように、パラパラと先程受け取ったいくつかの台本を再びめくり始める。ふと、見覚えのあるタイトルに俺の手が止まった。
「水原君、どうかした?」
 長月は眉間を伸ばす手を止めて俺の顔を覗き込むように眺める。
「⋯⋯いや。見たことのあるタイトルだったから。俺の知っているのとは違いそうだが」
 海を飲む人。そのタイトルは、実際のところ、見たことのある、というレベルではない。⋯⋯中学の時、俺が準主役の、先生役に選ばれた時の記憶が蘇る。けれど、掌の上の台本は俺の記憶より随分と薄いし、二人芝居でもなかったはずだった。
「あー、ほんとだ。それ、元々は結構大人数でやるやつっぽいけど、最近、二人芝居用にアレンジされたんだって。だから水原君が言ってるのは昔のやつかも」
 スマホの画面に記された情報を読む長月の声に、俺は納得して頷いた。台本を閉じるとスクールバッグに手を伸ばす。バッグからクリアファイルを取り出すと、ファイルの中に既に入っていた、もう一枚の紙を隠すように、台本を入れた。そしてもう一度、ファイルをバッグにしまい込む。
「いったん休憩にするか」
 俺は長月に声をかける。長月の顔が分かりやすく綻んだ。
「ん。水原君、お弁当とか持って来てる?もし持って来てなかったらお昼、さすがに外で食べない?ここ暑すぎるし」
「ああ。俺は駅前のモールのフードコートで食おうと思っていたが、長月もそこで大丈夫か?」
「もちろん。⋯⋯じゃ、行こっか。水原君」
 長月と俺は七月の日差しと熱気の中へ足を踏み出した。

「⋯⋯透?」
 俺達が旧校舎から出た所ですぐにかけられた、長月の名前を呼ぶ声に、その場に縫い付けられるように長月の足が止まった。右側。声のした方向へ首をまわす。体育館の方から歩いてきたらしい、その澄んだ低い声の持ち主は俺と同じくらいの背の高さをした、ぱっちりと大きな黒い瞳が印象的な、可愛らしい男だった。こちらに足早に歩いてくる男に、俺は長月の顔を見上げる。長月の浮かべている表情は何とも言い表せないものだった。相手に対する怒りと悲しみ。声をかけられた戸惑い。声をかけてもらえたことに対する喜びと、喜んでしまった自分に対する嫌悪感。男を見る長月の表情は、浜井に向けていた表情とは明らかに違う。ただの、過去の友人に向ける表情ではない、様々な感情の全てが混ざり合ったような長月の表情に、俺の脳裏にかつて見た、長月の中学時代の動画がよぎる。動画の最後。長月の方へ走って行く誰かの後ろ姿と、好意を隠す素振りなく向日葵のように真正直に笑う長月。今声をかけてきた、長月のことを、透、と呼ぶ男が動画の中の男と重なった。
「⋯⋯ひさしぶり。どうしたの」
 浜井と対峙していた時でさえ落ち着いていた長月の声は、浜井より小柄で威圧感もない男の前で微かに震えている。
「⋯⋯交流練習。俺は先輩達のサポーターみたいなもんだけど」
 男は短く答える。声をかけたはいいものの、どうしたら良いのか分からない様子だった。それでも何かを伝えたそうに男の口元はもごもごと動いている。
「長月」
 長月の様子を見ていられなくて、気付くと俺は咄嗟に長月の指にそっと自分の指先を触れさせていた。俺はここにいる、と長月に示すように。
「昼、食べに行くか?」
 俺の言葉と触れ合う指先に長月は呪縛から解き放たれたように俺の方を見た。
「そうだね。水原君。⋯⋯行こっか」
 俺を見る長月の表情はもう、いつも通りに戻っていた。長月はもう一度、男の方を見る。今度は落ち着いた様子で、真っ直ぐに。
「じゃあ、俺行くね」
「待ってくれ!透!」
 ついに、男は焦ったように口を開いた。
「なに?」
「ずっと伝えたかったんだ。中学の時のこと」
 長月は何も言わず、ただ男の顔を見つめる。
「⋯⋯俺は、本当に、誰にも何も話してなかった。多分、あの時、俺達は気づいてなかったけど、まだ部室に残ってた奴がいたんだと思う」
「⋯⋯そっか」
 それが、長月の中学の時の告白の話だろうことは想像がついた。男の一言に、長月は短い返事をする。
「そうかも、とは思ってた。⋯⋯でも、お前の口からはっきり聞けてよかったよ」
 長月はどこかすっきりしたように男に微笑みかけた。あの頃の、動画の中のような、好意が分かりやすく漏れた微笑みではない。けれど、どこか俺に向けるのとは違う笑みで。⋯⋯俺は、長月が俺達のことを親友だ、と言った時と同じ痛みが胸を刺すのを感じると同時に、浜井が撮ったという、あの動画を思い出した。長月が彼に向ける笑顔を最後にプツリと切れた動画。⋯⋯浜井はあれ以上、長月の、あの特別な誰かに向ける笑顔を見たくなかったのではないかと、俺はその時やっと思い至った。そして、それは同時に、俺が自分の気持ちを自覚した瞬間でもあった。⋯⋯俺は、長月の親友、で充分だと思えない気持ちを、長月に対して抱いているのだと。
「透、今、演劇部に入ってんだろ?浜井から聞いた。⋯⋯バスケは、もうやってないのか?」
 男はしばらく迷っていたようだった。それでも、長月の微笑みに背中を押されたように口を開く。
「⋯⋯分かってるでしょ?それでそれ、言う?」
「でも、お前バスケ好きだろ。⋯⋯今でも」
 長月の言葉に男は一瞬俯いたが、すぐに言葉を続ける。男の言葉に、俺は動画の中で生き生きと動く長月を思い出す。芝居をしていた時の祖父と同じ目の輝き。何時間でも続けていたいと、全身で訴えかけているような空気。⋯⋯演劇を、長月は楽しいと言うし、その言葉は真実だと思う。それでも、あの動画の中以上に楽しげな長月を、俺はまだ見たことがなかった。
「⋯⋯バスケはさ、もういいの」
 長月は言った。自分に言い聞かせているようにも聞こえたのは、俺の気のせいではなかったと思う。
「透」
「今日、会えてよかった」
 男も俺と同じ事を思ったのかもしれない。何か言葉を繋ごうとする男に、長月は言う。穏やかで怒っている様子もない。だが、取り付く島もない、という慣用句が良く似合う、ぴしゃりとした口調で。
「行こ?水原君」
 男の方を振り返りもせずに、長月は再び歩き始める。
「なあ長月。⋯⋯本当にいいのか」
「いいんだよ。もう」
 目を伏せて長月は笑う。その、言葉とは裏腹の表情が俺には心残りだった。

 七月半ばの体育館での体育は、屋外よりはましとは言え、どんなに薄着をしていても暑い。自分のチームの試合が終わった俺は、気休めにパタパタと体操服の裾を持ち上げたり戻したりして、汗で張り付くシャツの下に風を送り込みながら、目の前で繰り広げられるバスケの試合を見つめていた。
「⋯⋯よう」
 かけられた声に俺は驚いて思わず声の方を向く。隣にやって来たのは浜井だった。そう言えば浜井は俺達のチームの対戦相手だったな、と思いながら、俺は無言で軽く会釈だけ返す。浜井は俺の隣に座ると、目前のコートを眺め始める。
「⋯⋯あんなもんじゃねーんだよ」
 浜井はコートの中で走り回る長月を見ながら苛立たしげに呟いた。俺から見ても、長月の動きはあの動画の中と明らかに違う。皆と足並みを揃えるために我慢して、あえてセーブしているように見えた。今、コートの中でバスケをプレイしている長月の目の煌めきは底に沈んでいて、砂漠に埋もれた宝石の欠片のように、時折抑えきれないように微かに光るだけだ。
「⋯⋯浜井。⋯⋯お前が言えるのか、それを」
 思わず俺の口からは唸るような低い声が漏れていた。浜井は俺の言葉に俯く。
「⋯⋯水原。お前、分かるだろ?⋯⋯したことが正しいとか、正しくないとかは置いといて、あの頃の俺達の気持ちはさ」
 しばらくの沈黙のあとにこぼれ落ちた浜井の言葉は、掠れて、喉の奥から絞り出しているようだった。そう言えば、中学の時浜井が長月を撮った動画は、ベンチの方から撮られていたな、とふと思い出す。⋯⋯浜井も、人魚に憧れながらも海を飲むしかない人間だったのかもしれない。それに思い至って、俺は、ぽつりとベンチからコートを眺める浜井の姿を想像した。中学の時、舞台袖から他の部員達の演技を見ていた自分の姿と重ねながら。もしあの時、俺が皆に馬鹿にされない程度のレベルには才能があって、祖父や長月のような天才がいたら。と考えてみる。浜井は俺の返事を待っているのかいないのか、ただ食い入るようにコートの中の長月を眺めていた。浜井の瞳は固定されてでもいるかのように、長月に纏わりついて離れない。長月の、好きな相手を見つめる笑顔を、これ以上見ていたくないとばかりにプツリと切れた動画がまた頭をよぎった。
「⋯⋯浜井の気持ちは分からなくはない」
 俺はそう言って、間髪入れずにまた言葉を繋いだ。
「だが、俺は同じことはしないし、しようとも思わない。だから、浜井達が長月にしたことは許せない」
 浜井の気持ちは手に取るように分かった。それでも、どんなに考えても、その行動はどうしても俺には理解できなかった。浜井は拳を握り締める。それでも何も言わなかった。俺は浜井と並んでコートの中の長月を見る。⋯⋯なあ、浜井。お前、もしかして、長月のことが好きだったんじゃないのか。心に浮かんだ言葉は、しかし浜井に伝えるにはあまりにも無神経だ。俺達は無言のまま、試合終了のホイッスルが鳴るまで、長月を見つめていた。中学生の頃。バスケをしていた時、長月の目はどんな風に体育館の照明をはね返して光っていたのだろうか、と俺は考える。その瞳の色を、動画ではなく目の前で見てみたいと思った。もう一度、好きなものを好きだと、隠しもせずに無邪気に笑う長月を見たいと思った。⋯⋯例え、その対象が俺と同じ演劇ではなかったとしても。それでも。

 着替を終えて、長月や前野より一足早く教室に戻った俺は、俺はスクールバッグからクリアファイルを取り出した。長月にもらった台本と一緒に入れていた一枚の紙を取り出す。顧問から渡された、演劇の地区大会の申込書。俺は震える手でそれに必要な事を書き込んでいく。俺は、祖父のように、海原を優雅に、自分の庭のように泳ぎ回る人魚はなれない。それはもう、嫌という程分かっている。それでも、人間らしく無様にもがきながら、一度だけでも、自分の芝居で世界を変えてみたいと思った。他でもない長月の世界を。

 それから一週間後の水曜日の放課後。長月には、今日の練習は休みにすると嘘をついて、俺は体育館のステージに一人で立っていた。この時間帯に体育館を使っているのは、バレー部と卓球部だと顧問から聞いていた。演劇部がステージを使うのは初めてだから、ステージに一人立つ俺が気になるのだろう。演劇部が今日は練習にステージを使うと事前に説明はしても、ステージ下から時々ちらちらと視線が投げかけられる。俺はこの一週間で完璧に覚えてきた台本の、最初のセリフを発するために息を吸い込んだ。
「⋯⋯っ」
 セリフは覚えている。それなのに、どうしても言葉が出ない。俺の唇からは呼吸音のなり損ないのような、舞台の上でさえ聞こえない音が漏れ出ただけだった。
「何回目の搬送だと思ってるの」それが最初のセリフだと分かっている。なのに、舞台の上に立って人の視線を感じると、息が苦しくなった。この、俺の方にたまに飛んでくる見る視線には何の敵意もない。ただ物珍しさで気になっている程度の視線だと分かっている。それなのに、頭の中で笑い声が響く。中二の冬。上履き越しに足の裏に伝わるステージの冷たさ。ステージの下から聞こえる微かな笑い声。息苦しさとつきまとう記憶のせいで涙が滲んだ。水中に放り込まれたように、息が苦しい。⋯⋯誰もいない舞台袖。せめてそこまで行かないと。それだけを考えて、俺は傷を負った猫のように舞台袖へ転がり込んで身を隠すと、その場にへたり込んだ。そのままワイシャツの袖で口を覆うと、浅い呼吸を繰り返す。
「水原君!」
 ふいに俺の真上から声が降ってきた。あまり騒ぎを起こしたくないという、俺の気持ちを汲んでいるような、長月の息の切れた、必死さが滲む囁き声に、こんな声も出せたのか、とどこか場違いなことを俺は考えていた。
「⋯⋯大丈夫、な訳ないよね」
 薄暗い壁にもたれて、床に座り込んだまま浅い呼吸を繰り返す俺に、くしゃくしゃの白いビニール袋が手渡される。見慣れた購買のパンの袋だと分かった。俺は、微かに脂とチョコレートの香りのする空気をしゃくり上げるように吸い込んでいた。長月は何も言わないで、ただ俺の姿が出来るだけ隠れるように、舞台袖のカーテンを閉めてくれたようだ。元々薄暗かった舞台袖は更に暗くなる。バレー部や卓球部の声は薄布一枚を隔てるだけで、ぐんと遠くから聞こえてくるようだった。まるで、二人だけが切り離されたような仄暗い世界で、俺の激しい吐息と、長月の時折の静かな身動ぎの音だけが響いていた。
「⋯⋯ながつき」
 十分程経った頃。呼吸が落ち着いてきた俺はゆっくりと顔を上げる。
「落ち着いた?」
「⋯⋯どうして」
「ねえ水原君。俺に嘘吐こうとするの、いい加減諦めたら?」  
 長月は言う。いつもとは違う、少し怒ったような声で。
「職員室に行ったらセンセーに、演劇部は今日ステージで練習なんだろって言われるし、来月末の地区大会に申込みを考えてるらしいなって言われるし。⋯⋯初めて聞くことばっかだったんだけど」
 長月は舞台袖に放られた台本に目を落としながら言った。「海を飲む人」。⋯⋯長月が持って来た二人芝居用の台本。俺が一度だけ、準主役を勝ち取ることが出来た芝居のリメイク版。
「それで、一言文句言おうと思って来たら、なんか凄い具合悪そうに舞台袖に引っ込んでく水原君が見えたから追っかけてきちゃった」
「⋯⋯悪かった」
 長月は俺の前にしゃがみ込む。切れ長の茶色の瞳が俺を正面からとらえた。
「⋯⋯ねぇ。何考えてるの。水原君」
 長月の言葉に俺は考えながら言葉を紡ぐ。
「長月の世界を、俺が変えてみたかったんだ」
 どんなに言葉を尽くしても変わらない世界を、一つの芝居が変えることができると、俺は幼い頃から知っている。だから、それに賭けたかった。そして、長月の世界を変えるのはせめて俺の芝居でありたかった。
「え?」
「長月。お前、今でもやっぱりバスケ好きだろ?昔みたいに思い切り、誰にも遠慮せずバスケやりたいんじゃないのか。⋯⋯俺が、演劇をどうしても諦めきれなかったみたいに」
「⋯⋯だから言ったでしょ。俺、バスケはもういいって」
 長月は微かに目を逸らしながら言う。俺達はよく似ている。こんな時だと言うのにそれが嬉しくて、俺は長月の伏せた睫毛を見ながら笑った。
「⋯⋯長月も、嘘が下手だな」
 長月は俺の言葉に一瞬目を見開いた後、諦めたように微笑んだ。
「水原君。俺、演劇部にいるの楽しいし好きだよ」
「分かってる」
「⋯⋯でも、バスケはなんだろ。そういうのとは違って。コートの中にいるとさ、魚が水の中を泳いでる時みたいな。自分がいるべき場所にちゃんといるみたいな感じがするんだ」
 俺は長月の言葉に静かに頷いた。俺とは違う感覚。それでも、長月にとってバスケは別格なのだということは伝わってきて、俺にとってはそれで充分だった。
「⋯⋯でも、中学の時に色々あったから。俺が思う通りにやったら、また同じことになるんじゃないか、とか、考えちゃって、どうしても自分の中のリミッターみたいなのがかかっちゃってさ」
「⋯⋯中学の時のことが長月の中に残っていることには気付いてた。⋯⋯だから、俺一人でちゃんと舞台に上がっている所を見せたかったんだ。俺が、中学の時のトラウマから抜け出して芝居が出来るようになった所を見せられたら、長月に少しは前に踏み出す勇気を与えられるんじゃないかと思って」
「なんでそこまで」
「⋯⋯俺は、長月の親友だから」
 長月のことを、透、と呼んだ男に長月が向けていた笑みを思い出す。長月が好きだから。長月を戸惑わせると分かっていたから、俺は、本当に言いたかった言葉を飲み込んだ。⋯⋯いや。長月を戸惑わせないため、ではない。単純に俺は怖かったのだ。長月との、この関係が壊れてしまう可能性が。
「⋯⋯ありがと」
 長月は俺の内心など知る由もなく微笑むと、放り出された台本をパラパラとめくる。
「⋯⋯これさ、なんか俺達に似てるなって思って、ダウンロードしたんだよね」
 長月は台本を指でなぞりながら言う。俺は口を開いた。
「⋯⋯中学の時、一度だけ準主役に選ばれたって話をしただろ」
「うん」
「⋯⋯『先生』役だったんだ。それの」
「じゃあ、中学の時水原君が選ばれたのはさ、やっぱり水原君のお祖父さんの名前の力とかじゃなくて、水原君の実力だよ」
 長月は俺の言葉にハッキリとそう言って笑った。
「⋯⋯多分、水原君はさ、中学の時、誰よりも『先生』みたいな思いをして、それでも頑張ってきたでしょ。⋯⋯だから、誰よりも分かってたんだよ。『先生』の気持ちが」
 長月の頭を撫でるような言葉に、俺は自分がこれまで抱えてきたわだかまりがすっと薄くなっていくのを感じた。
「じゃあ、水原君は『先生』役でいいね。俺は『男』の方をやるから。⋯⋯あと、前野君に照明だけ手伝ってもらう?」
「え?」
 あまりにも当然のように長月が言う。思わず聞き返した俺に、長月はいたずらっぽく笑いかけた。
「一人で抱え込まないでよ。⋯⋯俺達、演劇部でしょ?出るなら二人だし、失敗しても二人だよ」