目の前に立つ一軒の家から聞こえてきた声が、俺の心を十年ぶりに震わせた。声は、教科書の一番最初に載っている小説の一部を読み上げていた。⋯⋯ただ、それだけだった。それなのに、その生き生きした声で読まれるセリフは世界を変えていた。目の前に小説の中の老婆が立っている気がした。その表情が見えたような気がした。動く度の衣擦れの音まで聞こえたような気がした。懐かしい感覚に、本物だ、と思った。俺がもう一度だけ会いたいと思っていたもの。⋯⋯本物の天才。俺の手の届く所になんていないと諦めてさえいたものに出会えた、という激しい感情の昂りは、会ったこともない奴の家のインターホンを押す躊躇いを消していた。インターホンの音が響いた途端、声はピタリと止まった。
「⋯⋯君、誰?黒縁眼鏡くん」
しばらくして、インターホンの向こうから答えた声は掠れた低音だった。長月 透(ながつき とおる)。登校したことのない、名前しか知らないクラスメイトの声を、俺は入学して一カ月の春の終わりに初めて知ることになった。
「⋯⋯俺は水原(みなはら)だ。海北(みきた)高校一年二組の水原 樹(みなはら いつき)」
外国の子供みたいだと友人に言われる、緩くうねる黒髪を落ち着きなくいじりながら俺は答える。
「⋯⋯あー。同じクラスの人?」
「体調不良で早退した担任に頼まれて課題のプリントを渡しに来た」
「そう。なら、ポストに入れといて。後で取っとくから」
俺と顔を合わせる気はないらしい。素っ気ない言葉がインターホンから響く。長月の言う通りにポストにプリントを入れてしまえば、俺がここにいる理由は無くなってしまう。俺はこの場を離れるのも名残惜しく、プリントを持ったまま馬鹿みたいに突っ立っていた。
「何?」
動く様子のない俺に苛立ったようにインターホン越しに声がかけられる。
「あ、いや。何でもない」
「なら、プリント置いて帰ってくれる?」
声の帯びる迷惑そうな色はまた少し濃くなってきた。それでも俺はこの場を動くことができないでいる。もっとこの男と話したいと思った。
「なあ。⋯⋯その。長月は、演劇とか、興味あるか?」
「はぁ?」
「さっきの。すごく良かった」
話のきっかけに困ってとりあえず発した俺の言葉に沈黙が落ちる。その後に聞こえてきた声には多分に戸惑いが含まれていた。
「⋯⋯あのさ、もしかして、センセーに何か言われてる?⋯⋯友達になってやってくれとか。⋯⋯もしそうなら、そういうのいいから」
「いや?もし仮に、そんな事を頼まれていたとしても、気が乗らなければ、俺はお前に言われた通り、ポストにプリントを突っ込んで帰っている」
「⋯⋯あ、そう」
呆気にとられたような、気の抜けた返事がインターホンから聞こえてきた。
「じゃあそうしなよ」
「嫌だ」
「どうして?」
「天才を見つけたからだ」
「はぁ?」
声は困惑していた。突然おかしな事を言っている自覚はある。それでも俺は言葉を続けずにはいられなかった。
「俺は演劇部だ。⋯⋯なぁ、長月。お前には演劇の才能がある。⋯⋯俺はさっきの朗読を聞いて、お前がやる舞台をもっと見たいと思った。⋯⋯変なことを言っているのは分かってるが、もし良かったら演劇部に入ってくれないか」
しばらくの沈黙の後、再びインターホンから声が聞こえてきた。その声には微かに笑いが含まれているようだった。
「そういう時ってさ、普通は、お前と友達になりたいからだとか言うもんじゃない?」
俺はしばらく考えてから答えを返す。
「俺は長月のことを良く知らないから、友人になれるかはまだ分からない。⋯⋯だが、上手くやっていきたいとは思っている」
「⋯⋯水原君ってさ、変わってるって言われない?」
「分からない。⋯⋯友人から、演劇馬鹿とはよく言われるが、それが変わっている、と言うことなのかもしれない」
「⋯⋯おもしろ」
インターホンから小さな笑い声が聞こえる。
「でも俺、コミュ障だから部活とかムリだし、学校行くのもムリだよ。⋯⋯不登校になってる時点で分かるでしょ」
「それなら心配いらないと思う」
ひとしきりの笑い声の後でインターホンから流れてきた言葉に、俺は必死で食い下がった。
「俺が立ち上げたばかりの部だから、部員は俺だけだ。だから融通がきく。練習も学校ではなく、長月の家でしたっていい。舞台に立てとも言わない。⋯⋯それでも難しいだろうか」
「⋯⋯へぇ」
俺の言葉に低い唸り声のような返事を残して、インターホンが断ち切られる。玄関扉が薄く開かれたのはその直後だった。扉の隙間から半身を覗かせた男は、平均的な身長であるはずの俺が見上げなければならないくらいには背が高かった。
「長月、か?」
男を見上げた拍子にズレてしまった眼鏡を押し上げながら俺は声をかける。男は返事をしなかった。あっ、という声を出す暇もない程突然に、男は俺の手首を軽く掴んだ。俺は男の方に引き寄せられる。バサバサと音を立ててプリントが散っていく音と、キィと背中で扉が閉まる音がどこか遠くに聞こえていた。強引な行動とは対照的に、掴まれた手首に感じる力は簡単に振りほどけそうな程に優しい。目前に迫る学校指定の上下紺色のジャージの胸元部分にプリントされた学校のロゴ。俺は逃げる気もなくぼんやりと男の顔を見上げた。目の前に立つ男の黒髪は女子のようにサラサラと長い。鼻筋はすっきりと通っていた。男がきめ細かい肌をしていると気づくことができる距離までお互いの顔が近づいているというのに、男が長い前髪で目元を隠しているせいで、その表情は俺には分からない。
「水原君はさ、俺の噂、聞いてる?」
耳元に落とされる声は確かにインターホン越しに聞いていたものと同じで、俺はこの男が長月透なのだと確信した。
「噂?」
「俺、ゲイなんだよね」
「そうか」
「何その返事。⋯⋯逃げればいいじゃん。今この状況でそれ聞いて、襲われるかも、とか思わない?」
「別に。⋯⋯こんな優しい力で人の手首を掴む奴がそんな事するとは思えない」
俺の返事に長月は困ったように微笑んで自分の髪に触れた。長月の前髪がかき上げられて、隠れていた瞳が露わになる。切れ長の、憂いを含んだような明るい茶色の瞳に、きりりとした形の良い眉。登校したら女子が放っておかなそうな顔だな、と思った。
「⋯⋯やっぱ水原君っておもしろ」
どこかほっとしたように長月は言う。俺は長月の手から突然解放されて、訳も分からずその顔を再び見上げた。
「⋯⋯分かった。演劇部ね。考えてみるよ」
「本当か!」
俺の様子は、きっと余程嬉しそうに見えたのだろう。目の前の長月の唇が驚いたように薄く開かれる。
「⋯⋯そんな顔するんだ」
長月はぽそりと呟くと、床に散らばったままだったプリントを拾い始めた。俺も、慌てて長月を手伝うために身をかがめる。
「どうした?」
「んーん。俺の独り言」
俺の問いかけに、長月は笑いを含んだ声で言うだけだ。答えてはくれる気配はなく、俺はそれ以上長月に先程の言葉の意図を聞くことは諦めて、拾い集めた数枚のプリントを手渡した。
「ありがと。⋯⋯あのさ。水原君、また俺の家に来るつもり?」
「ああ。ちょこちょこ来るから、気が向いたらまた返事を聞かせてほしい」
長月の言葉に俺は頷いた。
「でも、俺、学校行けないよ?さっきも言ったけど、学校で練習とか、演劇部の公演?とか、もし水原君に何回頼まれたってムリだよ?」
「それは別に構わない」
俺はきっぱりと言い切った。
「俺、舞台に立てないけど水原君的には本当にそれで良いワケ?さっき、俺がやる舞台を見たい的なこと言ってたでしょ?」
「大勢の人の前で演じるだけが舞台ではないと俺は思う。⋯⋯さっきお前が教科書を読んでいたのだって、俺にとっては舞台だった。俺はお前の舞台をもっと見たい」
「誰も見てなくても?」
「ああ。⋯⋯それに、長月が想像するような『舞台』に立てないのは俺だって同じなんだ」
「⋯⋯そう」
俺の言葉に含まれた感情に気を遣ったのか、長月はそれ以上何も聞いてはこなかった。どことなく気まずい沈黙がおりる。ゆっくりと頭が冷えていって、俺は先程までの自分の振る舞いがかなり不躾だったのではないかと今更ながら考え始めていた。
「⋯⋯あの。本当に、俺は長月に何も無理強いするつもりはない。もし入部が無理だったとしても」
「分かってるよ」
長月の微笑を含んだ声が俺の焦った言葉を遮る。
「水原君が、無理矢理部活に勧誘したりする人じゃなさそうなのは分かったから。だからそんな慌てないで」
長月は柔らかく言った。
「少し待ってて」
そう言い残して長月は廊下の奥、左側の部屋に消えていく。そこが長月の自室らしかった。何かを探しているらしいゴトゴトという音の後、しばらくして出てきた長月の手にはくしゃくしゃになたっ部活の入部届があった。そこには、長月の名前と演劇部の名前が少し右上がりの流れるように綺麗な字で記入されている。
「入部届ってこれでいいよね」
「⋯⋯本当にいいのか?」
「いいんだよ。俺が考えて決めたんだから」
どこか楽しそうに、戸惑う俺の様子を見ながら長月は言う。
「水原君と一緒なら、居心地良さそうだなって思ったんだよね」
手渡された入部届を眺めている俺に長月は囁いた。
俺と長月の関係が動き出したのは、それからひと月程たった六月頭の火曜日のある日のことだった。その始まりは他愛もないおしゃべりの声に満ちた昼休みの教室で、その日、俺は、友人の前野(まえの)と向かい合わせに昼食をとっていた。
「そいやさ、長月だっけ。⋯⋯そろそろ入部して一カ月ぐらいだよな。どんな感じ?」
教室の一番後列の窓際にポツリと置かれた、入学以来一度も座られたことのない空の机と椅子の方を見ながら前野は言う。
「天才だと思う。俺がこれまで見てきた中で二番目に上手い」
「⋯⋯あー。なるほど。演劇大好き水原君はまずそういう感想になるのね。あと、やっぱ水原のじいちゃんには勝てないのか」
前野はどこか呆れたような顔で笑う。前野のベリーショートの髪の毛先は窓から差し込む陽の光に明るく透けていた。校則チェックで時々、染髪を疑われる程に明るい茶色の髪。けれど、それは染めているわけでなく、生まれつきであることを幼稚園の時からの付き合いの俺は知っている。前野の祖母が外国の人で、そのせいらしいが、俺は髪の色以外にそれを感じたことはない。
「⋯⋯祖父は別格だったからな」
「はいはい。まーでも、お前がそんな顔で言うなら相当凄いんだろな」
「そんな顔?」
「お前がそんなあからさまに嬉しそうな顔してんの、幼稚園以来じゃね?お前が水原のじいちゃんの芝居見てる時の顔、俺、久し振りに思い出したもん」
前野はごそごそとスクールバッグのポケットからスマホを取り出しながら言う。
「まあ、さっき俺が聞きたかったのはさ、長月って、性格?とかどうなの?ってこと。⋯⋯ほら、同じ部活のやつと仲良くやれるかって割と大事じゃん?」
「いい奴だと思う。⋯⋯何となく、一緒にいて安心できるし居心地がいい」
「⋯⋯そか。なら良かった」
前野はそれ以上深く突っ込みはしなかった。俺の言葉にそんな返事だけすると、スマホに並ぶアイコンの一つをタップして、ゲームのアプリを起動させ始める。
「⋯⋯前野。もしかして、中学の時のことを心配してるのか」
俺の言葉に、色とりどりの髪色の少女達がズラリと並ぶゲームのスタート画面をタップしようとしていた前野の指先の動きが止まる。
「親友がしょぼくれた顔してるとこはあんま見たくないでしょ?」
おちゃらけた調子で前野は言った。それは照れ隠しをする時の癖だと俺は知っている。
「長月なら大丈夫だと思う」
「⋯⋯そ。お前がそんな風に言うならちょっと安心した。でもまあ、もし何かあったら相談してよ」
「ありがとう」
俺は前野の言葉に少し笑った。俺の言葉に前野は頷くとスマホにもう一度目を落とす。前野はそのままゲームを続け、俺は一人芝居用の台本をめくり始めた。時々会話と相槌を交わしながら。それは、俺達にとっていつも通りのありふれた昼休みの一幕で、だからこそ俺は、そのありふれた会話に興味を持つ誰かがいる可能性に思い至らなかった。
「⋯⋯なあ。昼休み前野と話してるのがちょっと聞こえたんだけどさ、水原って今、長月の家に行ってんの?」
「ああ。演劇部の練習でな」
授業が始まる数分前。選択授業で前野が別教室に行ったのを見計らったようなタイミングで声をかけてきたのは、浜井(はまい)というクラスメイトだった。同じクラスというだけでこれまでほとんど面識のなかった浜井からの問いかけに俺は戸惑いながらも言葉を返す。
「⋯⋯あいつさ、男が好きなんだぜ」
「そうらしいな」
俺の淡々とした返事に浜井は少し興冷めしたようだったが、再び言葉を続ける。
「俺、長月と同じ中学で同じ部活だったんだけど、あいつ中学ん時、同じ部の奴を無理矢理押し倒してヤろうとしたって噂があんだよ。⋯⋯だから、水原も気をつけろよ」
意地の悪い薄っすらとした笑みを浮かべて浜井は俺に囁いた。よくある悪意だ。と自分に言い聞かせる。本人がいない所で交わされる、傷つけるつもりもない無邪気な悪意。
「長月はそんなことはしない」
それでも、気付くと俺の口からはぴしゃりした調子でそんな言葉が出ていた。初めて会った日の、長月の俺の手首を掴む力を思い出す。強引なように見えて、俺が怖気付いて逃げ出すことを望んでいたような柔らかな力。⋯⋯人を脅かそうとする時でさえ、あんな風に優しい力しか出せない人間にそんな事ができるとは思えなかった。
「んなマジになんなよ。そーいう噂があるから長月に近付くのはやめとけってだけじゃん」
「⋯⋯それはただの噂だろう?俺は長月はそんな奴じゃないと知っている。だから、浜井の話がそれだけなら俺はもう聞かない」
長月はここにいない。でも、浜井の話を聞きたくなかった。⋯⋯自分がいない所で貶められる痛みを、俺も少しは分かるから。俺が浜井を拒絶するように強く言葉を吐いたのと、教師が教室に入って来たのはほぼ同時だった。浜井はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、教師の前ではまずいと思ったのか、すぐに自分の席へ戻って行く。選択授業が終わってから、浜井が数人の生徒と何か話しているのが視界の端に写った。俺のことを話しているのかどうかなんて分からない。それでも微かに手が震えた。前野はまだ戻って来ていない。やってしまった、と思った。⋯⋯誰かと揉めた後、仲間内で交わされるひそひそ話の気配に中学の時のトラウマが蘇っている。⋯⋯きっと、話しているのは俺のことじゃない。そう思い込もうとするより他に対処法などないのだと俺はもう知っている。だから、俺は見ない振りを決め込んで机に突っ伏した。⋯⋯あの頃と同じように。
「ねえ水原君。なんかあった?」
インターホンの音を鳴り響いて玄関の扉が開く。長月は家に入って来た俺の顔を見るなり言った。その低い声は、西日で橙色に染まった長月の家の廊下に柔らかく響いていた。
「⋯⋯別に何もない」
あの後教室に戻って来た前野でさえ、何も気付いた様子がなかったからこそ、俺は今日のことを誰からも完全に隠し切れていると油断していた。だから、長月のいきなりの言葉に不意をつかれて、声に動揺が混じってしまったことは自分でも良く分かった。
「そう?⋯⋯なんかいつもより元気なさそうに見えるよ?」
長月もそれに気付いたのだろう。声が帯びる心配の色が更にその濃さを増す。
「気のせいだ」
長月は俺の顔をじっと見ている。相変わらず、その目は前髪で隠されているのに、視線は俺の気持を見透かしてでもいるようで、俺はこれ以上顔を見せたくない気持になった。そそくさと靴を脱ぐと、さっさと長月の側を通り過ぎる。このひと月の間でもう場所を覚えてしまった長月の部屋へ足早に歩いた。俺の後ろを歩く長月の表情は見えない。それでもその雰囲気から長月が相変わらず俺の様子を気にかけていることは明らかだった。
「⋯⋯同じクラスの奴とちょっと言い争いになっただけだ。⋯⋯でも本当に、大したことじゃない」
これ以上、何もないと言って押し通すのは難しいと察して、仕方なく俺は呟く。
「ほんとに?」
長月の部屋に繋がるドアを開ける。長月もすぐ後から入って来て、ドアが再び閉められた。二人きりの部屋で、長月はしばらく何か迷っているようだった。
「⋯⋯あのさ、俺の考え過ぎかもしれないんだけど、もしかして、原因って俺だったりす」
「違う。長月には関係ないことだ」
長月の言葉を、俺は遮るように否定していた。正直に話せば、学校で長月がどんな風に噂されているか、長月も知ってしまうことになる。今日の浜井の話から、長月が中学の時学校に行けなくなった理由は、あの噂のせいだと察していた。だからこそ、中学で傷ついて学校に行けなくなっただろう長月を、もう一度傷つけるかもしれない話はしたくなかった。
「⋯⋯とにかく、クラスの奴と揉めたのは俺の事情なんだ。それに大したことじゃないから、明日には解決してる」
長月に背を向けて窓の外を眺めながら俺は言った。⋯⋯何の根拠もない嘘だと分かっていながら俺は嘘を吐いている。長月の方を見て話せば、俺の言葉は嘘なのだと容易く知られてしまいそうで怖かった。
「⋯⋯そっか」
長月の感情の読めない短い返事が背中に当たる。それから、どちらも口を開かなかった。夕暮れの長月の部屋は、物音の一つでさえ大きく響きそうなほどに静かで、慣れ始めてきた部屋のはずなのに、俺はいつもとはまるで違う場所に迷い込んでしまったような心細い気分になっていた。
「ねぇ水原君。⋯⋯こっち向いて?」
ガラスのように透明に張り詰めた小さな部屋の空気は長月の声で再びひび割れる。
「どうした?」
その、幼子を呼ぶような甘さを含んだ声に、俺は少しの気恥ずかしさを感じながら長月の方を振り向いた。
「⋯⋯俺さ、こういう、友達みたいなのって凄い久し振りなんだよね。⋯⋯だから、水原君のことが心配で、ちょっと踏み込みすぎちゃった」
長月はぎこちなく笑う。
「⋯⋯練習、しよっか」
長月の様子から、俺の言葉に納得出来ていないことは明らかだった。それでも、俺の様子からそれ以上踏み込まないことを決めたらしい。
「ああ。⋯⋯じゃあいつも通り、俺の立ってる方を客席だと思って始めてくれ」
気まずくなった空気をどうにかしたいと思っていたのは俺も同じだった。だけら俺も、さっきまでのことは忘れたような何食わぬ顔で長月の言葉に反応を返す。
「⋯⋯分かった」
何事もなかったかのように俺達は向かい合う。長月は俺の顔を見て、どこか寂しそうに微笑んだ。
「お前、マジで長月の家行ってんだな」
「⋯⋯浜井?」
長月の家を出て少し歩いた所で背後からかけられた声に俺は振り向いた。
「なぜここにいるんだ」
当然のことながら、俺は浜井とあまり話したくない気分だった。少し足を早めた俺の後ろを、それでも浜井はぴったりとついてくる。
「俺、長月と中学一緒だったっつったろ。家の方向も一緒なんだよ」
「⋯⋯そうか。学校でも言ったと思うが、俺は演劇部の練習で長月の家に行っている」
「わーってるよ。長月がなんか読んでるみてーな声が聞こえてきたからな」
浜井は俺の後を歩きながら言う。浜井の家がどこなのか、どこまで俺についてくるつもりなのか、分からないまま俺は早足で歩き続けた。
「なあ。水原って演劇大好きだろ。⋯⋯海北って、演劇部なかったのにわざわざ立ち上げたんだもんな。⋯⋯自分は舞台に立てもしねーのに」
後ろから浜井の声が俺に絡みつく。聞かれるまでもない。⋯⋯演劇は好きだ。好きで好きで、諦めようとしてそれでも諦めきれなかったくらいには。⋯⋯それでも、今、この男には、その気持ちを明かしたくなかった。だから、俺は黙り込んだまま歩を進める。
「⋯⋯長月って演技も上手いのな。俺、演劇興味ねーし、声だけしか聞いてねーけど、それでも分かったわ」
浜井は気にせず俺に話しかけ続ける。そこに、浜井本人も、もしかしたら気づいていないのではないかと思うくらいに微量に含まれる、遠い空に光る星に手を伸ばす子供のような寂寥が俺の足を止めさせた。
「俺さ、お前と同じ中学の奴にちょっとお前のこと聞いたんだよ。⋯⋯中学ん時、演劇部で頑張ってたのに、才能なくて舞台立てなくなって、演劇部辞めたんだろ?」
浜井は俺を見ているようで見ていない。自分の内の考えに沈みながら話しているように見えた。
「⋯⋯水原ってさ、長月のこと、羨ましいとか、ずるいとか思ったことねーの?あいつ、多分演劇そんな興味ねーし、水原程練習もしてねーと思うぜ。⋯⋯なのに現実、そんな奴の方が才能、ってやつのお陰で圧倒的に上手くてさ」
「⋯⋯思うに決まっているだろう」
羨ましい。とは当然思う。ずるい、と思ったことだって、このたった一カ月程の間で一度もなかったとは言わない。誰だって、努力すれば何にでもなれるなんて嘘だ。才能というものは確かにこの世に存在していて、同じだけの努力をしたって百伸びる奴と一も伸びない奴がいる。それくらいには世界は残酷だ。自分が好きで好きでたまらないものに対する才能を持っていないことに気付いていく、ゆっくりと染み入るような絶望を、長月はきっと知らない。小さい頃からずっと練習してきたはずのものなのに、一瞬で追い抜かれていく焦りも、どれ程練習しても他の皆が当たり前にできることができないどころか、自分の何が悪いのかさえ分からない時の、灼けつくような妬みの熱さも、他の奴らから向けられる、どうしてこんなことが出来ないの?とでも言いたげな冷たい視線に、言い返す術も持たずに俯く情けなさも長月は知らないだろう。⋯⋯俺は人魚に憧れて海の水を飲む人間のようなものだ。どれだけ海水を飲んだって、それはただ喉を灼くだけで、人魚のように自由に泳ぎ回ることはできずに、もがくように無様に泳ぎ続けるしかない。
「やっぱ水原もそう思ってんだ」
浜井は嬉しそうに笑う。その表情に、先程まで見えなかった仄暗さを感じて、続く言葉に想像がついた。陰口、悪口。長月を貶めるような言葉だ。
「だが、悪口を言ったり、貶めてやろうとは思わない」
だから、俺は大きく首を横に振って浜井が次に俺に言おうとしたであろう言葉を先に否定した。
「はぁ?何急に良い子ぶってんだよ」
浜井は唖然とした顔で俺の方を見る。
「確かに、俺は長月が羨ましい。だが、それは俺の気持ちであって、長月は何も悪くない。その感情は俺の中で処理すべきものだ。⋯⋯だから、それで長月のことを悪く言うのは正しくない」
「んだよ。その、正しくない、って」
一度俺の方を見て顔を背けた浜井は吐き捨てるように言う。長月のことを話す浜井の表情に、俺は、ただ好き嫌いとも違う何かを感じていた。
「なあ浜井。お前、本当に長月のことが嫌いなのか?」
「あぁ?⋯⋯んなの、当たり前だろ」
「本当に嫌いなら放っておけば良いだろう。そんなに、長月に執着する必要があるのか」
一瞬、浜井は言葉に詰まったように見えた。
「うっせーよ。⋯⋯お前、俺じゃねーくせに」
浜井の口から出てきた言葉は、まるで叱られた子供のように弱々しかった。
「⋯⋯お前に、俺の」
「水原君!」
浜井はまだ何か言おうとしていたようだった。自分に言い聞かせような浜井の言葉は、俺達の後ろから聞こえてきた焦ったような声にかき消された。
「⋯⋯長月?」
俺は呟く。背後からの声に振り向いた浜井も、声の主が誰だったのか、一目で気付いたらしい。浜井は一瞬俯いて、けれどすぐに顔を上げた。自分のしていることは間違っていないと示そうとでもするように。
「長月。どうしてここに」
「⋯⋯水原君、嘘下手すぎ。あんな風に目逸らしながら話してたら嘘だって言ってるみたいなもんだよ」
俺の言葉に長月は笑う。そして、ポケットから自分のスマホを取り出した。
「さっきの水原君の様子がどうしても気になってさ。やっぱもうちょっとだけ話せないかなって思って電話したの。そしたら、水原君が浜井と話してるのが聞こえてきたから」
画面には、メッセージアプリの画面が表示されていて、長月から発信した通話が数分前に終了したことを知らせていた。俺は慌ててスクールバッグを漁る。バッグの中で教科書やノートに揉まれるうちに、俺のスマホは勝手に長月の電話に応答してしまっていたらしい。表示された通話時間に、俺は今までの話は、ほぼ最初から全部長月に聞こえていたであろうことを悟った。長月はスマホをポケットにつっこむと浜井の方を真っ直ぐに見つめる。二人とも、お互いの顔を、目を逸らした方が負けだとでも言いたげに見つめ合っていた。
「あのさ、浜井。言いたいことがあるんなら、俺に言えよ」
浜井は何も言わない。ただ睨みつけるように長月の顔を見つめていた。しばらくの間、どちらも何も言わなかった。長月は呟く。
「⋯⋯昔みたいにさ」
浜井の目を見て真っ直ぐに発された長月の言葉に、これまで微動だにしなかった浜井の体が微かに跳ねた。
「⋯⋯うぜーんだよ」
浜井は呟きながら、顔を微かに右に背ける。それは、この場の勝敗を決するには充分だった。そのまま無言で俺の側を通り過ぎていく浜井の後ろ姿を小さくなるまでぼんやりと見送った後、長月は小さく自嘲するように笑った。
「⋯⋯馬鹿らし」
どこか力の抜けたような長月がいつもより随分と小さく見えて、俺は思わず長月の方に手を伸ばしていた。伸ばしたはいいものの、どうすれば良いのか分からなくなって、俺はおずおずと、長月の身体の横にだらりとたれた腕の先、軽く握りしめれた拳に指先で触れる。長月は何も言わない。ただ、長月の腕に力はないままで、大丈夫か、と聞くのも、指先を放すのも違う気がして、俺はそのまま長月と向かい合わせでただずっと長月の拳に触れていた。
俺と長月が触れ合っている時間を、まるで永遠のように感じた。けれど実際の時間なんて、ほんの一瞬だったのだと思う。長月はゆっくりと俺の方を見ていつも通り微笑んだ。
「⋯⋯もう大丈夫だから。バス停まで送るよ」
「ありがとう」
長月を一人にしておきたくなくて、俺は長月の申し出に頷く。俺達は街灯がぼんやりと照らす夜の道を並んで歩き出した。
「⋯⋯俺さ、中学の時、浜井と同じバスケ部だったんだよね」
長月は歩きながらぽつりと言った。もう一度、スマホが長月のポケットから取り出される。
「これ。中学の時の」
画面には、すっきりした短めのマッシュウルフの長月が、ボールをドリブルして相手チームのコートへ走る様子が映し出されていた。ボールは長月の掌の下で意思を持つように軽やかに跳ねる。画面の長月は楽しくてたまらないというようにコートを走っていた。前髪で隠れていない切れ長の瞳を輝かせて。長月は心の底からバスケが好きなのだと、その数秒だけで良く分かった。⋯⋯同じような目をして芝居をしていた人を、俺はよく知っていたから。やがて、長月の手を離れたボールは、ふわりと宙に浮く。ボールが吸い込まれるようにネットへ入るシュッと小気味良い音が小さな機械のスピーカー越しにでもはっきりと聞こえた。バスケなんてよく分からない素人目に見ても、長月の動きは他の選手達とは一線を画していることだけは分かった。駆け寄るチームメイトや先輩と長月がハイタッチを交わす。ベンチの方からだろうか、長月に駆け寄る一人のチームメイトの背中が写った。平均的な背丈なのだろうが、他の選手達と比べると小柄に見える彼の方を見る長月の、まるで子犬のように、ぶんぶんと揺れる尻尾が見えそうなほど嬉しそうに緩む顔を最後にちらりと写して、プツリと動画は終わった。
「これ、浜井が撮ったやつだよ」
長月はスマホを切る。明るさを失った画面を見つめてどこか寂しそうに言った。
「⋯⋯俺さ、自慢じゃないけど、バスケ結構上手くて。チームの奴らに頼まれて練習とかにもついて、アドバイスとかしてたんだよね」
真っ暗になった画面は長月の顔を写す。動画の中で楽しそうに笑う少年の姿から随分と変わってしまった長月を。
「けど、大会とかでさ、色んな人から注目されるようになって俺、どうしたらいいか分かんなくなっちゃった。⋯⋯皆の空気が少しずつ変わっていって、俺の話は段々嫌味みたいに受け取られるようになって。⋯⋯何も言わなかったら、それはそれでチョーシのってる、すかしてるって言われて」
バス停が見えてくる。それでも俺は、じゃあここで、とは言いたくなかった。
「座るか」
俺はバス停のベンチを指して言う。時刻表では次のバスが来るまであと二十分程はかかりそうだった。俺は長月の話をここで終わりにしたくなかった。その気持ちは長月も同じだったらしい。俺の言葉に、すんなりと長月は従った。
「それくらいから、人と話すの、ちょっと怖くなってきて。⋯⋯でも、人と話せなくなる焦りみたいなのもあって、家で教科書とかマンガとか、声出して読みはじめたんだよね。⋯⋯あーいうの、読んでる時はなんか、すごい気が楽だった。癒された?っていうのかな。だって、全部決まりきってるじゃん。自分の話すことも、相手がどう答えるかも。それに、声出してるから、一日人と話さなかったって罪悪感?みたいなのも薄まるし」
ベンチに並んで座ったまま、長月は話し続ける。
「そんな中でも、部の中で一人だけ変わらずにいてくれる奴がいて。⋯⋯そいつのこと、元から好きだったんだけど、その気持ちがどんどん強くなっていって」
俺の脳裏に先程の動画がよぎる。ベンチらしき方向から長月に駆け寄っていく、背中だけしか知らない誰か。その誰か、にだけ向けられていた長月の好意を隠すつもりもない笑顔。けれどそれは今触れることではない。俺は小さく頷いて、話の続きを待った。
「告白したんだ」
長月は傷を隠すように小さく笑った。
「⋯⋯考えさせてほしい、って言われて別れた。⋯⋯でも、次の日になったら、その話、部の皆が知ってて。⋯⋯そのうち、俺が押し倒したとか、そんな身に覚えない話までついてくるようになって、教室とかでもヒソヒソされるようになって」
長月の膝の上に置かれた手が小さく震えている。俺はその手の震えが痛いほど分かった。同じだ。と思った。
「無理しなくていい」
まるで自分を見ているようで、俺は気付くと左手で、震える長月の右手を包んでいた。
「⋯⋯そういうことが続くと、人の目や声が怖くなってくる。⋯⋯本当は全然別の話をしてるかもしれないのに、自分が噂されているんじゃないかと思って動けなくなる」
俺の呟きに長月は弾かれるようにこちらを見た。
「分かるの?」
どうして、とでも言いたげな長月の表情に俺は答える。
「分かるさ。⋯⋯俺も中学の時、似たようなことがあったから」
「その話、聞いてもいい?」
俺の左手が温かいものに包まれる。俺の手の下にあった長月の右手が、今度は俺の手を包んでいた。その温かさに、俺は自分の手が存外冷えていたのだということに初めて気付いた。
「長くなるぞ」
「俺は大丈夫だよ。⋯⋯水原君が大丈夫なら、水原君の話も聞きたいな」
長月の言葉に俺はゆっくりと口を開いた。俺と演劇の、その始まりから話すために。
「⋯⋯長月は、水原 譲(みなはら ゆずる)って知ってるか?」
「あー⋯⋯。昔の芸能人特集みたいなテレビ番組でよく名前聞く気がする?結構前に亡くなった俳優さんだよね。⋯⋯珍しい読み方の苗字だけど、もしかして」
長月は俺の言いたいことに気付いたらしい。俺は頷いた。
「十年前に亡くなった俺の祖父だ。⋯⋯俺は祖父に、世界が変わる所を見せられたんだ」
俺は思い出す。十年と少し前、祖父が病気で家にいることが多くなった日のことを。
「幼稚園の同じクラスに金髪の奴がいて。そいつはおばあさんが外国の人だったから、生まれつきその髪色だったんだが、子供達にはそんな事分からないから、ふりょーだ、とか、こわい、とか言われて中々クラスに馴染めてなかった」
「それ、よく話してくれるお友達?⋯⋯前野君、だっけ」
俺は頷く。親の仕事の都合で引っ越してきた幼い頃の前野は今よりももっと金に近い髪をしていた。その上、本人も慣れない環境で緊張していることもあって幼いながらに気を張っていたのだろう。だから、その張り詰めた気配と見慣れない髪色に、他の子供達はどこか薄っすらと前野を怖がって遠巻きにしていた。その空気は俺がどんなに正論を説いても変わらないものだ。
「俺が家でその話をした何日か後だったと思う。⋯⋯幼稚園の迎えに祖父が来たんだ。」
痩せた体をぴしりとした仕立ての良い燕尾服で包んで幼稚園に現れた祖父の姿を今でも覚えている。
「祖父は、執事みたいな服装をしていた。それで、前野に跪いたんだ。まるで、王子様の前に立った家臣みたいに。⋯⋯祖父は、前野を王子様役にして、即興で芝居をしたんだ。行方不明になった王子を探し続けていた家臣と王子の再会の芝居を」
祖父の、たった数分の即興芝居で、前野と祖父を見る子供達の視線がもつ感情が、一気に変わったのを目の前で見た。どんなに俺が言葉を尽くしても変わらなかった世界が、数分のうちにみるみる変わっていく衝撃と、病でやつれた身体を忘れたかのように、生き生きと、まるで命を燃やしているかのように瞳を輝かせて数分の演技にのめりこむ祖父の姿は、幼い俺が演劇に取り憑かれるには充分だった。
「その日から、皆の前野の認識はよく分からない怖いやつから王子様に変わって、幼稚園に馴染み始めた。俺は芝居に興味を持つようになって、祖父の体調の良い時に芝居を見せてもらったりしていた。祖父が亡くなってからも、祖父の話し方や振る舞いを真似してみたり、祖父が昔やっていた役を真似したりして。⋯⋯俺は、とにかく祖父みたいになりたかったし、そうなれると思っていた」
ぼんやりと、幼い頃を振り返る。祖父みたいになれると無邪気に信じて疑わなかったあの頃のことを。
「小学校の学芸会では良く褒められていた。⋯⋯だが、今思えば、俺は自分流とはいえ、幼稚園からずっと芝居の練習をしてたから、他の子供達より少しは上手く演技ができるのは当たり前だったんだ」
俺は自嘲するように唇から軽く息を吐き出した。「水原君、上手だね」と毎年のように言われていた。だから、俺は自分の力量を見誤っていた。
「だから、中学になってから迷わず演劇部に入った」
意識しないように、と思っていたのに、俺の声は微かに震えていた。長月もそれに気付いたらしい。俺の手に重ねられた長月の手の力が少し強くなる。
「水原君。⋯⋯俺から聞いた話だけど、辛いなら無理しなくてもいいよ」
長月の言葉に俺は首を横に振った。長月が俺を信じて昔の話をしてくれたように、俺も長月を信じて話をしたいと思った。
「⋯⋯中学に入ってから思い知らされた。俺は凡才以下だったと。他の、役者を選んだ奴らが当たり前に出来る事すら俺は上手くできなかった」
入部して、発声や舞台の立ち方の基礎が全員の身に付いてからは、残酷なまでに差がついた。水原のは、何か違うんだよなぁ、と言う先輩の言葉を何度聞いたか分からない。どれ程練習を重ねても、俺が役に選ばれることはなく、照明や大道具を手伝いながら、舞台袖で他の部員達が芝居をしている姿を見る日々が続いた。学年が上がって後輩が入ってきても、それは変わらなかった。部内で、先輩や同級生はもちろん、後輩達からでさえ、自分がどう思われているのかは知っていた。それでも、どうしても舞台に立つことは諦められずに、公演がある度に、俺は往生際悪く部内のオーディションを受け続けていた。
「⋯⋯それでも、ずっと部内オーディションを受け続けて、中二の最後に、やっと、大会でやる劇の準主役に選ばれたんだ。その時は、部員の多くは祝福してくれた」
おめでとう。そう言ってくれる部員がもちろん多かった。けれどそればかりではない。
「だがそれとほぼ同じタイミングで、俺が水原譲の孫だということが部内で噂になった。⋯⋯それで、部内オーディションに落ちたやつに絡まれたんだ。⋯⋯俺が、水原譲の孫だから贔屓されたんじゃないのか。でなければ、今まで大根役者で有名だった俺がいきなり準主役なんて選ばれる訳がないと」
「はぁ?なにそれ」
「もちろん、身に覚えがなかったから、皆の前できっぱり否定した。⋯⋯だが、それから部内で、俺に聞こえるようにその話がされたり、俺が部室に入って来た途端に皆が一斉に話をするのをやめて黙ったり、そういうことが続くようになって」
よくある悪意だ。大したことない。俺のことじゃない。段々変わっていく部室の空気の中で、俺はそう思い込もうとして自分に何度も言い聞かせた。けれど、部内で誰かがコソコソと何かを話しているのを見る度に、自分のことではないのかと疑うようになってしまった。そのうち、本格的に練習が始まるようになれば、舞台の下からいくつもの視線が俺に突き刺さってくるようになる。そしてその都度交わされる目配せや、俺には内容の聞こえない、俺の方を見て発される囁き。
「⋯⋯そのうちに、俺は、舞台に」
「もういいよ。水原君」
長月は俺の言葉を遮って俺の顔に手を伸ばした。俺の頬を拭う長月の親指と頬に広がった湿った感覚に、俺は自分の目から涙が流れていたことに初めて気付いた。
「ごめんね。嫌なこと思い出させて」
眼鏡をとってワイシャツの袖で顔を拭う俺に長月の声が届く。長月が気に病むことじゃない。そう言いたいのに言葉が出せなくて、俺は懸命に首を横に振った。
「⋯⋯大丈夫だから」
長月の手がもう一度、俺の方に伸びた。子供でもあやすように不器用にとんとんと俺の背中を叩く長月の手の温もりに、俺の目からは再び涙が滲み出す。鼻水まで出そうになって、みっともなくぐすぐすと鼻をすすっているうちに、袖で隠している閉じられた瞼の裏側に眩しい光が届いて、俺は待っていたバスが来たことを知った。ドアが開く機械音と、バスの行き先を告げる無感情な女性の声のアナウンスが聞こえてくる。バスに乗らなくては、と思う一方で、こんなぐちゃぐちゃな気持ちと顔でバスに乗れないという気持ちもあって、俺は中途半端に腰を浮かせたまま止まっていた。
「ねえ水原君。バス、次のにしよ?今のままじゃ乗れないでしょ?」
俺を落ち着かせるように耳元で聞こえる長月の柔らかな声に俺は頷いて、言われるがまま再び腰をベンチへと戻した。バスのエンジン音が静かな住宅街のバス停に響いた後、視界には再び白が戻ってくる。
「⋯⋯大丈夫だよ。水原君。次も、まだその次もバスあるから」
背中をたたきながら長月は言った。
「落ち着くまで側にいるから」
梅雨が来る前の、湿った空気が包む夜のバス停に長月の声だけが響く。結局、次のバスが来るまでずっと、俺達は二人だけでベンチに並んで座っていた。
「なあ水原。お前、長月からなんか聞いてた?」
翌朝、登校してくる俺を待っていたように下駄箱の辺りをうろついていた前野が、俺を見た途端に声をかける。
「いや?何も聞いていないが、何かあったのか?」
「⋯⋯あー。そっか。とりま教室行こうぜ。見た方が早いかも」
前野に続いて教室に入った俺の目に飛び込んできたのは、制服に身を包む、短めのマッシュウルフが爽やかな印象を与える男だった。見慣れているのに見慣れない姿の、ここにいるなんて思いもしなかった男。
「長月!」
入学式以来一度も使われていなかった、教室の一番後列、窓際の席に悠々と座る男に呼びかける。俺の声に反応してこちらを見た長月の、いつも目を覆い隠していた前髪は眉を隠す程度の長さに整えられていて、見慣れない、切れ長の明るい茶色の瞳が俺の姿を写してふわりと和らいだ。
「おはよう。水原君」
「あ、ああ。おはよう」
戸惑いながら俺は長月に挨拶を返した。長月は教室の入口に立ちつくす俺の方へ真っ直ぐに歩みよってくる。
「長月。⋯⋯あの。昨日はすまなかった。ありがとう」
昨日、長月の前で子供のように泣き出してしまった自分を思い出して俺は気恥ずかしさから頬が少し熱を持つのを感じながら話しかけた。
「ううん。大丈夫だった?」
「ああ。長月は、大丈夫なのか?」
人と話すの、ちょっと怖くなって。昨日の長月の言葉や、人の視線から自分を守るように伸ばされていた昨日までの長月の髪を思い出しながら俺は尋ねた。
「うん。俺はもう大丈夫だよ。⋯⋯昨日の浜井との話で、なんか吹っ切れてさ。俺が今まで怖かったのって、こんなもんだったんだーって」
長月はそう言って笑う。俺を安心させるように。
「長月。話の途中ですまんがそろそろ良いか?」
俺達の後ろから、担任の声がかかる。
「はい」
長月は俺の後ろに立つ担任に返事をすると、俺にひらりと手を振った。
「水原君ごめん。俺、ちょっと職員室に呼ばれてるんだよね」
長月はそう言うと、職員室の方へ歩いて行く。
「⋯⋯だから大丈夫だよ。もし、昨日のことで誰かになんか言われても、俺が守るから」
すれ違い様、俺にだけ聞こえる声で囁きを一つ残して。
「初めて見たけど、長月君ってマジでめっちゃイケメンじゃない?ヤバ」
「私、同中だったけどさあ、あの噂が出るまでめちゃめちゃモテてたよ」
「だよねー」
「やめとけよ。あいつ男が好きなんだからお前らがキャーキャー言っても意味ねぇだろ」
「男子うざ。あたしら別に付き合いたいとか言ってる訳じゃないし」
「でも、例の噂ってマジなのかな」
長月が見えなくなった後の教室は蜂の巣をつついたような騒ぎだった。様々な感情が渦巻く教室の喧騒の中、前野が俺の席にやって来る。
「いやーマジビビったわ。なあ水原。お前、ホントに長月から何も聞いてなかったの?」
「ああ。俺も驚いた」
「⋯⋯あーね。でもまあ、とにかく、学校、来れるようになったってのは良いことだよな?」
「そうだな」
前野の言葉に俺は曖昧に頷く。気付かれないように浜井の方をこっそり覗き見るが、浜井はどこか気の抜けたような顔で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。浜井の様子を見るに、昨日の長月との話や、俺が長月の家に行っているという話はまだ広まっていないようだった。
「どした?ぼーっとして」
「いや、なんでもない」
「そ?⋯⋯ま、どうせ今日も、一緒に昼メシ食うっしょ。そん時にでも、俺に長月紹介してよ。三人でメシ食いながら色々話そうぜ」
「ありがとう。前野」
前野は笑って自分の席に戻って行く。しばらくして、長月を連れた担任が戻って来て、朝礼が始まった。俺は黒板の前で堂々と、滑らかに自己紹介する長月の横顔を、未だにどこか信じられないような気持ちで眺めていた。
「⋯⋯君、誰?黒縁眼鏡くん」
しばらくして、インターホンの向こうから答えた声は掠れた低音だった。長月 透(ながつき とおる)。登校したことのない、名前しか知らないクラスメイトの声を、俺は入学して一カ月の春の終わりに初めて知ることになった。
「⋯⋯俺は水原(みなはら)だ。海北(みきた)高校一年二組の水原 樹(みなはら いつき)」
外国の子供みたいだと友人に言われる、緩くうねる黒髪を落ち着きなくいじりながら俺は答える。
「⋯⋯あー。同じクラスの人?」
「体調不良で早退した担任に頼まれて課題のプリントを渡しに来た」
「そう。なら、ポストに入れといて。後で取っとくから」
俺と顔を合わせる気はないらしい。素っ気ない言葉がインターホンから響く。長月の言う通りにポストにプリントを入れてしまえば、俺がここにいる理由は無くなってしまう。俺はこの場を離れるのも名残惜しく、プリントを持ったまま馬鹿みたいに突っ立っていた。
「何?」
動く様子のない俺に苛立ったようにインターホン越しに声がかけられる。
「あ、いや。何でもない」
「なら、プリント置いて帰ってくれる?」
声の帯びる迷惑そうな色はまた少し濃くなってきた。それでも俺はこの場を動くことができないでいる。もっとこの男と話したいと思った。
「なあ。⋯⋯その。長月は、演劇とか、興味あるか?」
「はぁ?」
「さっきの。すごく良かった」
話のきっかけに困ってとりあえず発した俺の言葉に沈黙が落ちる。その後に聞こえてきた声には多分に戸惑いが含まれていた。
「⋯⋯あのさ、もしかして、センセーに何か言われてる?⋯⋯友達になってやってくれとか。⋯⋯もしそうなら、そういうのいいから」
「いや?もし仮に、そんな事を頼まれていたとしても、気が乗らなければ、俺はお前に言われた通り、ポストにプリントを突っ込んで帰っている」
「⋯⋯あ、そう」
呆気にとられたような、気の抜けた返事がインターホンから聞こえてきた。
「じゃあそうしなよ」
「嫌だ」
「どうして?」
「天才を見つけたからだ」
「はぁ?」
声は困惑していた。突然おかしな事を言っている自覚はある。それでも俺は言葉を続けずにはいられなかった。
「俺は演劇部だ。⋯⋯なぁ、長月。お前には演劇の才能がある。⋯⋯俺はさっきの朗読を聞いて、お前がやる舞台をもっと見たいと思った。⋯⋯変なことを言っているのは分かってるが、もし良かったら演劇部に入ってくれないか」
しばらくの沈黙の後、再びインターホンから声が聞こえてきた。その声には微かに笑いが含まれているようだった。
「そういう時ってさ、普通は、お前と友達になりたいからだとか言うもんじゃない?」
俺はしばらく考えてから答えを返す。
「俺は長月のことを良く知らないから、友人になれるかはまだ分からない。⋯⋯だが、上手くやっていきたいとは思っている」
「⋯⋯水原君ってさ、変わってるって言われない?」
「分からない。⋯⋯友人から、演劇馬鹿とはよく言われるが、それが変わっている、と言うことなのかもしれない」
「⋯⋯おもしろ」
インターホンから小さな笑い声が聞こえる。
「でも俺、コミュ障だから部活とかムリだし、学校行くのもムリだよ。⋯⋯不登校になってる時点で分かるでしょ」
「それなら心配いらないと思う」
ひとしきりの笑い声の後でインターホンから流れてきた言葉に、俺は必死で食い下がった。
「俺が立ち上げたばかりの部だから、部員は俺だけだ。だから融通がきく。練習も学校ではなく、長月の家でしたっていい。舞台に立てとも言わない。⋯⋯それでも難しいだろうか」
「⋯⋯へぇ」
俺の言葉に低い唸り声のような返事を残して、インターホンが断ち切られる。玄関扉が薄く開かれたのはその直後だった。扉の隙間から半身を覗かせた男は、平均的な身長であるはずの俺が見上げなければならないくらいには背が高かった。
「長月、か?」
男を見上げた拍子にズレてしまった眼鏡を押し上げながら俺は声をかける。男は返事をしなかった。あっ、という声を出す暇もない程突然に、男は俺の手首を軽く掴んだ。俺は男の方に引き寄せられる。バサバサと音を立ててプリントが散っていく音と、キィと背中で扉が閉まる音がどこか遠くに聞こえていた。強引な行動とは対照的に、掴まれた手首に感じる力は簡単に振りほどけそうな程に優しい。目前に迫る学校指定の上下紺色のジャージの胸元部分にプリントされた学校のロゴ。俺は逃げる気もなくぼんやりと男の顔を見上げた。目の前に立つ男の黒髪は女子のようにサラサラと長い。鼻筋はすっきりと通っていた。男がきめ細かい肌をしていると気づくことができる距離までお互いの顔が近づいているというのに、男が長い前髪で目元を隠しているせいで、その表情は俺には分からない。
「水原君はさ、俺の噂、聞いてる?」
耳元に落とされる声は確かにインターホン越しに聞いていたものと同じで、俺はこの男が長月透なのだと確信した。
「噂?」
「俺、ゲイなんだよね」
「そうか」
「何その返事。⋯⋯逃げればいいじゃん。今この状況でそれ聞いて、襲われるかも、とか思わない?」
「別に。⋯⋯こんな優しい力で人の手首を掴む奴がそんな事するとは思えない」
俺の返事に長月は困ったように微笑んで自分の髪に触れた。長月の前髪がかき上げられて、隠れていた瞳が露わになる。切れ長の、憂いを含んだような明るい茶色の瞳に、きりりとした形の良い眉。登校したら女子が放っておかなそうな顔だな、と思った。
「⋯⋯やっぱ水原君っておもしろ」
どこかほっとしたように長月は言う。俺は長月の手から突然解放されて、訳も分からずその顔を再び見上げた。
「⋯⋯分かった。演劇部ね。考えてみるよ」
「本当か!」
俺の様子は、きっと余程嬉しそうに見えたのだろう。目の前の長月の唇が驚いたように薄く開かれる。
「⋯⋯そんな顔するんだ」
長月はぽそりと呟くと、床に散らばったままだったプリントを拾い始めた。俺も、慌てて長月を手伝うために身をかがめる。
「どうした?」
「んーん。俺の独り言」
俺の問いかけに、長月は笑いを含んだ声で言うだけだ。答えてはくれる気配はなく、俺はそれ以上長月に先程の言葉の意図を聞くことは諦めて、拾い集めた数枚のプリントを手渡した。
「ありがと。⋯⋯あのさ。水原君、また俺の家に来るつもり?」
「ああ。ちょこちょこ来るから、気が向いたらまた返事を聞かせてほしい」
長月の言葉に俺は頷いた。
「でも、俺、学校行けないよ?さっきも言ったけど、学校で練習とか、演劇部の公演?とか、もし水原君に何回頼まれたってムリだよ?」
「それは別に構わない」
俺はきっぱりと言い切った。
「俺、舞台に立てないけど水原君的には本当にそれで良いワケ?さっき、俺がやる舞台を見たい的なこと言ってたでしょ?」
「大勢の人の前で演じるだけが舞台ではないと俺は思う。⋯⋯さっきお前が教科書を読んでいたのだって、俺にとっては舞台だった。俺はお前の舞台をもっと見たい」
「誰も見てなくても?」
「ああ。⋯⋯それに、長月が想像するような『舞台』に立てないのは俺だって同じなんだ」
「⋯⋯そう」
俺の言葉に含まれた感情に気を遣ったのか、長月はそれ以上何も聞いてはこなかった。どことなく気まずい沈黙がおりる。ゆっくりと頭が冷えていって、俺は先程までの自分の振る舞いがかなり不躾だったのではないかと今更ながら考え始めていた。
「⋯⋯あの。本当に、俺は長月に何も無理強いするつもりはない。もし入部が無理だったとしても」
「分かってるよ」
長月の微笑を含んだ声が俺の焦った言葉を遮る。
「水原君が、無理矢理部活に勧誘したりする人じゃなさそうなのは分かったから。だからそんな慌てないで」
長月は柔らかく言った。
「少し待ってて」
そう言い残して長月は廊下の奥、左側の部屋に消えていく。そこが長月の自室らしかった。何かを探しているらしいゴトゴトという音の後、しばらくして出てきた長月の手にはくしゃくしゃになたっ部活の入部届があった。そこには、長月の名前と演劇部の名前が少し右上がりの流れるように綺麗な字で記入されている。
「入部届ってこれでいいよね」
「⋯⋯本当にいいのか?」
「いいんだよ。俺が考えて決めたんだから」
どこか楽しそうに、戸惑う俺の様子を見ながら長月は言う。
「水原君と一緒なら、居心地良さそうだなって思ったんだよね」
手渡された入部届を眺めている俺に長月は囁いた。
俺と長月の関係が動き出したのは、それからひと月程たった六月頭の火曜日のある日のことだった。その始まりは他愛もないおしゃべりの声に満ちた昼休みの教室で、その日、俺は、友人の前野(まえの)と向かい合わせに昼食をとっていた。
「そいやさ、長月だっけ。⋯⋯そろそろ入部して一カ月ぐらいだよな。どんな感じ?」
教室の一番後列の窓際にポツリと置かれた、入学以来一度も座られたことのない空の机と椅子の方を見ながら前野は言う。
「天才だと思う。俺がこれまで見てきた中で二番目に上手い」
「⋯⋯あー。なるほど。演劇大好き水原君はまずそういう感想になるのね。あと、やっぱ水原のじいちゃんには勝てないのか」
前野はどこか呆れたような顔で笑う。前野のベリーショートの髪の毛先は窓から差し込む陽の光に明るく透けていた。校則チェックで時々、染髪を疑われる程に明るい茶色の髪。けれど、それは染めているわけでなく、生まれつきであることを幼稚園の時からの付き合いの俺は知っている。前野の祖母が外国の人で、そのせいらしいが、俺は髪の色以外にそれを感じたことはない。
「⋯⋯祖父は別格だったからな」
「はいはい。まーでも、お前がそんな顔で言うなら相当凄いんだろな」
「そんな顔?」
「お前がそんなあからさまに嬉しそうな顔してんの、幼稚園以来じゃね?お前が水原のじいちゃんの芝居見てる時の顔、俺、久し振りに思い出したもん」
前野はごそごそとスクールバッグのポケットからスマホを取り出しながら言う。
「まあ、さっき俺が聞きたかったのはさ、長月って、性格?とかどうなの?ってこと。⋯⋯ほら、同じ部活のやつと仲良くやれるかって割と大事じゃん?」
「いい奴だと思う。⋯⋯何となく、一緒にいて安心できるし居心地がいい」
「⋯⋯そか。なら良かった」
前野はそれ以上深く突っ込みはしなかった。俺の言葉にそんな返事だけすると、スマホに並ぶアイコンの一つをタップして、ゲームのアプリを起動させ始める。
「⋯⋯前野。もしかして、中学の時のことを心配してるのか」
俺の言葉に、色とりどりの髪色の少女達がズラリと並ぶゲームのスタート画面をタップしようとしていた前野の指先の動きが止まる。
「親友がしょぼくれた顔してるとこはあんま見たくないでしょ?」
おちゃらけた調子で前野は言った。それは照れ隠しをする時の癖だと俺は知っている。
「長月なら大丈夫だと思う」
「⋯⋯そ。お前がそんな風に言うならちょっと安心した。でもまあ、もし何かあったら相談してよ」
「ありがとう」
俺は前野の言葉に少し笑った。俺の言葉に前野は頷くとスマホにもう一度目を落とす。前野はそのままゲームを続け、俺は一人芝居用の台本をめくり始めた。時々会話と相槌を交わしながら。それは、俺達にとっていつも通りのありふれた昼休みの一幕で、だからこそ俺は、そのありふれた会話に興味を持つ誰かがいる可能性に思い至らなかった。
「⋯⋯なあ。昼休み前野と話してるのがちょっと聞こえたんだけどさ、水原って今、長月の家に行ってんの?」
「ああ。演劇部の練習でな」
授業が始まる数分前。選択授業で前野が別教室に行ったのを見計らったようなタイミングで声をかけてきたのは、浜井(はまい)というクラスメイトだった。同じクラスというだけでこれまでほとんど面識のなかった浜井からの問いかけに俺は戸惑いながらも言葉を返す。
「⋯⋯あいつさ、男が好きなんだぜ」
「そうらしいな」
俺の淡々とした返事に浜井は少し興冷めしたようだったが、再び言葉を続ける。
「俺、長月と同じ中学で同じ部活だったんだけど、あいつ中学ん時、同じ部の奴を無理矢理押し倒してヤろうとしたって噂があんだよ。⋯⋯だから、水原も気をつけろよ」
意地の悪い薄っすらとした笑みを浮かべて浜井は俺に囁いた。よくある悪意だ。と自分に言い聞かせる。本人がいない所で交わされる、傷つけるつもりもない無邪気な悪意。
「長月はそんなことはしない」
それでも、気付くと俺の口からはぴしゃりした調子でそんな言葉が出ていた。初めて会った日の、長月の俺の手首を掴む力を思い出す。強引なように見えて、俺が怖気付いて逃げ出すことを望んでいたような柔らかな力。⋯⋯人を脅かそうとする時でさえ、あんな風に優しい力しか出せない人間にそんな事ができるとは思えなかった。
「んなマジになんなよ。そーいう噂があるから長月に近付くのはやめとけってだけじゃん」
「⋯⋯それはただの噂だろう?俺は長月はそんな奴じゃないと知っている。だから、浜井の話がそれだけなら俺はもう聞かない」
長月はここにいない。でも、浜井の話を聞きたくなかった。⋯⋯自分がいない所で貶められる痛みを、俺も少しは分かるから。俺が浜井を拒絶するように強く言葉を吐いたのと、教師が教室に入って来たのはほぼ同時だった。浜井はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、教師の前ではまずいと思ったのか、すぐに自分の席へ戻って行く。選択授業が終わってから、浜井が数人の生徒と何か話しているのが視界の端に写った。俺のことを話しているのかどうかなんて分からない。それでも微かに手が震えた。前野はまだ戻って来ていない。やってしまった、と思った。⋯⋯誰かと揉めた後、仲間内で交わされるひそひそ話の気配に中学の時のトラウマが蘇っている。⋯⋯きっと、話しているのは俺のことじゃない。そう思い込もうとするより他に対処法などないのだと俺はもう知っている。だから、俺は見ない振りを決め込んで机に突っ伏した。⋯⋯あの頃と同じように。
「ねえ水原君。なんかあった?」
インターホンの音を鳴り響いて玄関の扉が開く。長月は家に入って来た俺の顔を見るなり言った。その低い声は、西日で橙色に染まった長月の家の廊下に柔らかく響いていた。
「⋯⋯別に何もない」
あの後教室に戻って来た前野でさえ、何も気付いた様子がなかったからこそ、俺は今日のことを誰からも完全に隠し切れていると油断していた。だから、長月のいきなりの言葉に不意をつかれて、声に動揺が混じってしまったことは自分でも良く分かった。
「そう?⋯⋯なんかいつもより元気なさそうに見えるよ?」
長月もそれに気付いたのだろう。声が帯びる心配の色が更にその濃さを増す。
「気のせいだ」
長月は俺の顔をじっと見ている。相変わらず、その目は前髪で隠されているのに、視線は俺の気持を見透かしてでもいるようで、俺はこれ以上顔を見せたくない気持になった。そそくさと靴を脱ぐと、さっさと長月の側を通り過ぎる。このひと月の間でもう場所を覚えてしまった長月の部屋へ足早に歩いた。俺の後ろを歩く長月の表情は見えない。それでもその雰囲気から長月が相変わらず俺の様子を気にかけていることは明らかだった。
「⋯⋯同じクラスの奴とちょっと言い争いになっただけだ。⋯⋯でも本当に、大したことじゃない」
これ以上、何もないと言って押し通すのは難しいと察して、仕方なく俺は呟く。
「ほんとに?」
長月の部屋に繋がるドアを開ける。長月もすぐ後から入って来て、ドアが再び閉められた。二人きりの部屋で、長月はしばらく何か迷っているようだった。
「⋯⋯あのさ、俺の考え過ぎかもしれないんだけど、もしかして、原因って俺だったりす」
「違う。長月には関係ないことだ」
長月の言葉を、俺は遮るように否定していた。正直に話せば、学校で長月がどんな風に噂されているか、長月も知ってしまうことになる。今日の浜井の話から、長月が中学の時学校に行けなくなった理由は、あの噂のせいだと察していた。だからこそ、中学で傷ついて学校に行けなくなっただろう長月を、もう一度傷つけるかもしれない話はしたくなかった。
「⋯⋯とにかく、クラスの奴と揉めたのは俺の事情なんだ。それに大したことじゃないから、明日には解決してる」
長月に背を向けて窓の外を眺めながら俺は言った。⋯⋯何の根拠もない嘘だと分かっていながら俺は嘘を吐いている。長月の方を見て話せば、俺の言葉は嘘なのだと容易く知られてしまいそうで怖かった。
「⋯⋯そっか」
長月の感情の読めない短い返事が背中に当たる。それから、どちらも口を開かなかった。夕暮れの長月の部屋は、物音の一つでさえ大きく響きそうなほどに静かで、慣れ始めてきた部屋のはずなのに、俺はいつもとはまるで違う場所に迷い込んでしまったような心細い気分になっていた。
「ねぇ水原君。⋯⋯こっち向いて?」
ガラスのように透明に張り詰めた小さな部屋の空気は長月の声で再びひび割れる。
「どうした?」
その、幼子を呼ぶような甘さを含んだ声に、俺は少しの気恥ずかしさを感じながら長月の方を振り向いた。
「⋯⋯俺さ、こういう、友達みたいなのって凄い久し振りなんだよね。⋯⋯だから、水原君のことが心配で、ちょっと踏み込みすぎちゃった」
長月はぎこちなく笑う。
「⋯⋯練習、しよっか」
長月の様子から、俺の言葉に納得出来ていないことは明らかだった。それでも、俺の様子からそれ以上踏み込まないことを決めたらしい。
「ああ。⋯⋯じゃあいつも通り、俺の立ってる方を客席だと思って始めてくれ」
気まずくなった空気をどうにかしたいと思っていたのは俺も同じだった。だけら俺も、さっきまでのことは忘れたような何食わぬ顔で長月の言葉に反応を返す。
「⋯⋯分かった」
何事もなかったかのように俺達は向かい合う。長月は俺の顔を見て、どこか寂しそうに微笑んだ。
「お前、マジで長月の家行ってんだな」
「⋯⋯浜井?」
長月の家を出て少し歩いた所で背後からかけられた声に俺は振り向いた。
「なぜここにいるんだ」
当然のことながら、俺は浜井とあまり話したくない気分だった。少し足を早めた俺の後ろを、それでも浜井はぴったりとついてくる。
「俺、長月と中学一緒だったっつったろ。家の方向も一緒なんだよ」
「⋯⋯そうか。学校でも言ったと思うが、俺は演劇部の練習で長月の家に行っている」
「わーってるよ。長月がなんか読んでるみてーな声が聞こえてきたからな」
浜井は俺の後を歩きながら言う。浜井の家がどこなのか、どこまで俺についてくるつもりなのか、分からないまま俺は早足で歩き続けた。
「なあ。水原って演劇大好きだろ。⋯⋯海北って、演劇部なかったのにわざわざ立ち上げたんだもんな。⋯⋯自分は舞台に立てもしねーのに」
後ろから浜井の声が俺に絡みつく。聞かれるまでもない。⋯⋯演劇は好きだ。好きで好きで、諦めようとしてそれでも諦めきれなかったくらいには。⋯⋯それでも、今、この男には、その気持ちを明かしたくなかった。だから、俺は黙り込んだまま歩を進める。
「⋯⋯長月って演技も上手いのな。俺、演劇興味ねーし、声だけしか聞いてねーけど、それでも分かったわ」
浜井は気にせず俺に話しかけ続ける。そこに、浜井本人も、もしかしたら気づいていないのではないかと思うくらいに微量に含まれる、遠い空に光る星に手を伸ばす子供のような寂寥が俺の足を止めさせた。
「俺さ、お前と同じ中学の奴にちょっとお前のこと聞いたんだよ。⋯⋯中学ん時、演劇部で頑張ってたのに、才能なくて舞台立てなくなって、演劇部辞めたんだろ?」
浜井は俺を見ているようで見ていない。自分の内の考えに沈みながら話しているように見えた。
「⋯⋯水原ってさ、長月のこと、羨ましいとか、ずるいとか思ったことねーの?あいつ、多分演劇そんな興味ねーし、水原程練習もしてねーと思うぜ。⋯⋯なのに現実、そんな奴の方が才能、ってやつのお陰で圧倒的に上手くてさ」
「⋯⋯思うに決まっているだろう」
羨ましい。とは当然思う。ずるい、と思ったことだって、このたった一カ月程の間で一度もなかったとは言わない。誰だって、努力すれば何にでもなれるなんて嘘だ。才能というものは確かにこの世に存在していて、同じだけの努力をしたって百伸びる奴と一も伸びない奴がいる。それくらいには世界は残酷だ。自分が好きで好きでたまらないものに対する才能を持っていないことに気付いていく、ゆっくりと染み入るような絶望を、長月はきっと知らない。小さい頃からずっと練習してきたはずのものなのに、一瞬で追い抜かれていく焦りも、どれ程練習しても他の皆が当たり前にできることができないどころか、自分の何が悪いのかさえ分からない時の、灼けつくような妬みの熱さも、他の奴らから向けられる、どうしてこんなことが出来ないの?とでも言いたげな冷たい視線に、言い返す術も持たずに俯く情けなさも長月は知らないだろう。⋯⋯俺は人魚に憧れて海の水を飲む人間のようなものだ。どれだけ海水を飲んだって、それはただ喉を灼くだけで、人魚のように自由に泳ぎ回ることはできずに、もがくように無様に泳ぎ続けるしかない。
「やっぱ水原もそう思ってんだ」
浜井は嬉しそうに笑う。その表情に、先程まで見えなかった仄暗さを感じて、続く言葉に想像がついた。陰口、悪口。長月を貶めるような言葉だ。
「だが、悪口を言ったり、貶めてやろうとは思わない」
だから、俺は大きく首を横に振って浜井が次に俺に言おうとしたであろう言葉を先に否定した。
「はぁ?何急に良い子ぶってんだよ」
浜井は唖然とした顔で俺の方を見る。
「確かに、俺は長月が羨ましい。だが、それは俺の気持ちであって、長月は何も悪くない。その感情は俺の中で処理すべきものだ。⋯⋯だから、それで長月のことを悪く言うのは正しくない」
「んだよ。その、正しくない、って」
一度俺の方を見て顔を背けた浜井は吐き捨てるように言う。長月のことを話す浜井の表情に、俺は、ただ好き嫌いとも違う何かを感じていた。
「なあ浜井。お前、本当に長月のことが嫌いなのか?」
「あぁ?⋯⋯んなの、当たり前だろ」
「本当に嫌いなら放っておけば良いだろう。そんなに、長月に執着する必要があるのか」
一瞬、浜井は言葉に詰まったように見えた。
「うっせーよ。⋯⋯お前、俺じゃねーくせに」
浜井の口から出てきた言葉は、まるで叱られた子供のように弱々しかった。
「⋯⋯お前に、俺の」
「水原君!」
浜井はまだ何か言おうとしていたようだった。自分に言い聞かせような浜井の言葉は、俺達の後ろから聞こえてきた焦ったような声にかき消された。
「⋯⋯長月?」
俺は呟く。背後からの声に振り向いた浜井も、声の主が誰だったのか、一目で気付いたらしい。浜井は一瞬俯いて、けれどすぐに顔を上げた。自分のしていることは間違っていないと示そうとでもするように。
「長月。どうしてここに」
「⋯⋯水原君、嘘下手すぎ。あんな風に目逸らしながら話してたら嘘だって言ってるみたいなもんだよ」
俺の言葉に長月は笑う。そして、ポケットから自分のスマホを取り出した。
「さっきの水原君の様子がどうしても気になってさ。やっぱもうちょっとだけ話せないかなって思って電話したの。そしたら、水原君が浜井と話してるのが聞こえてきたから」
画面には、メッセージアプリの画面が表示されていて、長月から発信した通話が数分前に終了したことを知らせていた。俺は慌ててスクールバッグを漁る。バッグの中で教科書やノートに揉まれるうちに、俺のスマホは勝手に長月の電話に応答してしまっていたらしい。表示された通話時間に、俺は今までの話は、ほぼ最初から全部長月に聞こえていたであろうことを悟った。長月はスマホをポケットにつっこむと浜井の方を真っ直ぐに見つめる。二人とも、お互いの顔を、目を逸らした方が負けだとでも言いたげに見つめ合っていた。
「あのさ、浜井。言いたいことがあるんなら、俺に言えよ」
浜井は何も言わない。ただ睨みつけるように長月の顔を見つめていた。しばらくの間、どちらも何も言わなかった。長月は呟く。
「⋯⋯昔みたいにさ」
浜井の目を見て真っ直ぐに発された長月の言葉に、これまで微動だにしなかった浜井の体が微かに跳ねた。
「⋯⋯うぜーんだよ」
浜井は呟きながら、顔を微かに右に背ける。それは、この場の勝敗を決するには充分だった。そのまま無言で俺の側を通り過ぎていく浜井の後ろ姿を小さくなるまでぼんやりと見送った後、長月は小さく自嘲するように笑った。
「⋯⋯馬鹿らし」
どこか力の抜けたような長月がいつもより随分と小さく見えて、俺は思わず長月の方に手を伸ばしていた。伸ばしたはいいものの、どうすれば良いのか分からなくなって、俺はおずおずと、長月の身体の横にだらりとたれた腕の先、軽く握りしめれた拳に指先で触れる。長月は何も言わない。ただ、長月の腕に力はないままで、大丈夫か、と聞くのも、指先を放すのも違う気がして、俺はそのまま長月と向かい合わせでただずっと長月の拳に触れていた。
俺と長月が触れ合っている時間を、まるで永遠のように感じた。けれど実際の時間なんて、ほんの一瞬だったのだと思う。長月はゆっくりと俺の方を見ていつも通り微笑んだ。
「⋯⋯もう大丈夫だから。バス停まで送るよ」
「ありがとう」
長月を一人にしておきたくなくて、俺は長月の申し出に頷く。俺達は街灯がぼんやりと照らす夜の道を並んで歩き出した。
「⋯⋯俺さ、中学の時、浜井と同じバスケ部だったんだよね」
長月は歩きながらぽつりと言った。もう一度、スマホが長月のポケットから取り出される。
「これ。中学の時の」
画面には、すっきりした短めのマッシュウルフの長月が、ボールをドリブルして相手チームのコートへ走る様子が映し出されていた。ボールは長月の掌の下で意思を持つように軽やかに跳ねる。画面の長月は楽しくてたまらないというようにコートを走っていた。前髪で隠れていない切れ長の瞳を輝かせて。長月は心の底からバスケが好きなのだと、その数秒だけで良く分かった。⋯⋯同じような目をして芝居をしていた人を、俺はよく知っていたから。やがて、長月の手を離れたボールは、ふわりと宙に浮く。ボールが吸い込まれるようにネットへ入るシュッと小気味良い音が小さな機械のスピーカー越しにでもはっきりと聞こえた。バスケなんてよく分からない素人目に見ても、長月の動きは他の選手達とは一線を画していることだけは分かった。駆け寄るチームメイトや先輩と長月がハイタッチを交わす。ベンチの方からだろうか、長月に駆け寄る一人のチームメイトの背中が写った。平均的な背丈なのだろうが、他の選手達と比べると小柄に見える彼の方を見る長月の、まるで子犬のように、ぶんぶんと揺れる尻尾が見えそうなほど嬉しそうに緩む顔を最後にちらりと写して、プツリと動画は終わった。
「これ、浜井が撮ったやつだよ」
長月はスマホを切る。明るさを失った画面を見つめてどこか寂しそうに言った。
「⋯⋯俺さ、自慢じゃないけど、バスケ結構上手くて。チームの奴らに頼まれて練習とかにもついて、アドバイスとかしてたんだよね」
真っ暗になった画面は長月の顔を写す。動画の中で楽しそうに笑う少年の姿から随分と変わってしまった長月を。
「けど、大会とかでさ、色んな人から注目されるようになって俺、どうしたらいいか分かんなくなっちゃった。⋯⋯皆の空気が少しずつ変わっていって、俺の話は段々嫌味みたいに受け取られるようになって。⋯⋯何も言わなかったら、それはそれでチョーシのってる、すかしてるって言われて」
バス停が見えてくる。それでも俺は、じゃあここで、とは言いたくなかった。
「座るか」
俺はバス停のベンチを指して言う。時刻表では次のバスが来るまであと二十分程はかかりそうだった。俺は長月の話をここで終わりにしたくなかった。その気持ちは長月も同じだったらしい。俺の言葉に、すんなりと長月は従った。
「それくらいから、人と話すの、ちょっと怖くなってきて。⋯⋯でも、人と話せなくなる焦りみたいなのもあって、家で教科書とかマンガとか、声出して読みはじめたんだよね。⋯⋯あーいうの、読んでる時はなんか、すごい気が楽だった。癒された?っていうのかな。だって、全部決まりきってるじゃん。自分の話すことも、相手がどう答えるかも。それに、声出してるから、一日人と話さなかったって罪悪感?みたいなのも薄まるし」
ベンチに並んで座ったまま、長月は話し続ける。
「そんな中でも、部の中で一人だけ変わらずにいてくれる奴がいて。⋯⋯そいつのこと、元から好きだったんだけど、その気持ちがどんどん強くなっていって」
俺の脳裏に先程の動画がよぎる。ベンチらしき方向から長月に駆け寄っていく、背中だけしか知らない誰か。その誰か、にだけ向けられていた長月の好意を隠すつもりもない笑顔。けれどそれは今触れることではない。俺は小さく頷いて、話の続きを待った。
「告白したんだ」
長月は傷を隠すように小さく笑った。
「⋯⋯考えさせてほしい、って言われて別れた。⋯⋯でも、次の日になったら、その話、部の皆が知ってて。⋯⋯そのうち、俺が押し倒したとか、そんな身に覚えない話までついてくるようになって、教室とかでもヒソヒソされるようになって」
長月の膝の上に置かれた手が小さく震えている。俺はその手の震えが痛いほど分かった。同じだ。と思った。
「無理しなくていい」
まるで自分を見ているようで、俺は気付くと左手で、震える長月の右手を包んでいた。
「⋯⋯そういうことが続くと、人の目や声が怖くなってくる。⋯⋯本当は全然別の話をしてるかもしれないのに、自分が噂されているんじゃないかと思って動けなくなる」
俺の呟きに長月は弾かれるようにこちらを見た。
「分かるの?」
どうして、とでも言いたげな長月の表情に俺は答える。
「分かるさ。⋯⋯俺も中学の時、似たようなことがあったから」
「その話、聞いてもいい?」
俺の左手が温かいものに包まれる。俺の手の下にあった長月の右手が、今度は俺の手を包んでいた。その温かさに、俺は自分の手が存外冷えていたのだということに初めて気付いた。
「長くなるぞ」
「俺は大丈夫だよ。⋯⋯水原君が大丈夫なら、水原君の話も聞きたいな」
長月の言葉に俺はゆっくりと口を開いた。俺と演劇の、その始まりから話すために。
「⋯⋯長月は、水原 譲(みなはら ゆずる)って知ってるか?」
「あー⋯⋯。昔の芸能人特集みたいなテレビ番組でよく名前聞く気がする?結構前に亡くなった俳優さんだよね。⋯⋯珍しい読み方の苗字だけど、もしかして」
長月は俺の言いたいことに気付いたらしい。俺は頷いた。
「十年前に亡くなった俺の祖父だ。⋯⋯俺は祖父に、世界が変わる所を見せられたんだ」
俺は思い出す。十年と少し前、祖父が病気で家にいることが多くなった日のことを。
「幼稚園の同じクラスに金髪の奴がいて。そいつはおばあさんが外国の人だったから、生まれつきその髪色だったんだが、子供達にはそんな事分からないから、ふりょーだ、とか、こわい、とか言われて中々クラスに馴染めてなかった」
「それ、よく話してくれるお友達?⋯⋯前野君、だっけ」
俺は頷く。親の仕事の都合で引っ越してきた幼い頃の前野は今よりももっと金に近い髪をしていた。その上、本人も慣れない環境で緊張していることもあって幼いながらに気を張っていたのだろう。だから、その張り詰めた気配と見慣れない髪色に、他の子供達はどこか薄っすらと前野を怖がって遠巻きにしていた。その空気は俺がどんなに正論を説いても変わらないものだ。
「俺が家でその話をした何日か後だったと思う。⋯⋯幼稚園の迎えに祖父が来たんだ。」
痩せた体をぴしりとした仕立ての良い燕尾服で包んで幼稚園に現れた祖父の姿を今でも覚えている。
「祖父は、執事みたいな服装をしていた。それで、前野に跪いたんだ。まるで、王子様の前に立った家臣みたいに。⋯⋯祖父は、前野を王子様役にして、即興で芝居をしたんだ。行方不明になった王子を探し続けていた家臣と王子の再会の芝居を」
祖父の、たった数分の即興芝居で、前野と祖父を見る子供達の視線がもつ感情が、一気に変わったのを目の前で見た。どんなに俺が言葉を尽くしても変わらなかった世界が、数分のうちにみるみる変わっていく衝撃と、病でやつれた身体を忘れたかのように、生き生きと、まるで命を燃やしているかのように瞳を輝かせて数分の演技にのめりこむ祖父の姿は、幼い俺が演劇に取り憑かれるには充分だった。
「その日から、皆の前野の認識はよく分からない怖いやつから王子様に変わって、幼稚園に馴染み始めた。俺は芝居に興味を持つようになって、祖父の体調の良い時に芝居を見せてもらったりしていた。祖父が亡くなってからも、祖父の話し方や振る舞いを真似してみたり、祖父が昔やっていた役を真似したりして。⋯⋯俺は、とにかく祖父みたいになりたかったし、そうなれると思っていた」
ぼんやりと、幼い頃を振り返る。祖父みたいになれると無邪気に信じて疑わなかったあの頃のことを。
「小学校の学芸会では良く褒められていた。⋯⋯だが、今思えば、俺は自分流とはいえ、幼稚園からずっと芝居の練習をしてたから、他の子供達より少しは上手く演技ができるのは当たり前だったんだ」
俺は自嘲するように唇から軽く息を吐き出した。「水原君、上手だね」と毎年のように言われていた。だから、俺は自分の力量を見誤っていた。
「だから、中学になってから迷わず演劇部に入った」
意識しないように、と思っていたのに、俺の声は微かに震えていた。長月もそれに気付いたらしい。俺の手に重ねられた長月の手の力が少し強くなる。
「水原君。⋯⋯俺から聞いた話だけど、辛いなら無理しなくてもいいよ」
長月の言葉に俺は首を横に振った。長月が俺を信じて昔の話をしてくれたように、俺も長月を信じて話をしたいと思った。
「⋯⋯中学に入ってから思い知らされた。俺は凡才以下だったと。他の、役者を選んだ奴らが当たり前に出来る事すら俺は上手くできなかった」
入部して、発声や舞台の立ち方の基礎が全員の身に付いてからは、残酷なまでに差がついた。水原のは、何か違うんだよなぁ、と言う先輩の言葉を何度聞いたか分からない。どれ程練習を重ねても、俺が役に選ばれることはなく、照明や大道具を手伝いながら、舞台袖で他の部員達が芝居をしている姿を見る日々が続いた。学年が上がって後輩が入ってきても、それは変わらなかった。部内で、先輩や同級生はもちろん、後輩達からでさえ、自分がどう思われているのかは知っていた。それでも、どうしても舞台に立つことは諦められずに、公演がある度に、俺は往生際悪く部内のオーディションを受け続けていた。
「⋯⋯それでも、ずっと部内オーディションを受け続けて、中二の最後に、やっと、大会でやる劇の準主役に選ばれたんだ。その時は、部員の多くは祝福してくれた」
おめでとう。そう言ってくれる部員がもちろん多かった。けれどそればかりではない。
「だがそれとほぼ同じタイミングで、俺が水原譲の孫だということが部内で噂になった。⋯⋯それで、部内オーディションに落ちたやつに絡まれたんだ。⋯⋯俺が、水原譲の孫だから贔屓されたんじゃないのか。でなければ、今まで大根役者で有名だった俺がいきなり準主役なんて選ばれる訳がないと」
「はぁ?なにそれ」
「もちろん、身に覚えがなかったから、皆の前できっぱり否定した。⋯⋯だが、それから部内で、俺に聞こえるようにその話がされたり、俺が部室に入って来た途端に皆が一斉に話をするのをやめて黙ったり、そういうことが続くようになって」
よくある悪意だ。大したことない。俺のことじゃない。段々変わっていく部室の空気の中で、俺はそう思い込もうとして自分に何度も言い聞かせた。けれど、部内で誰かがコソコソと何かを話しているのを見る度に、自分のことではないのかと疑うようになってしまった。そのうち、本格的に練習が始まるようになれば、舞台の下からいくつもの視線が俺に突き刺さってくるようになる。そしてその都度交わされる目配せや、俺には内容の聞こえない、俺の方を見て発される囁き。
「⋯⋯そのうちに、俺は、舞台に」
「もういいよ。水原君」
長月は俺の言葉を遮って俺の顔に手を伸ばした。俺の頬を拭う長月の親指と頬に広がった湿った感覚に、俺は自分の目から涙が流れていたことに初めて気付いた。
「ごめんね。嫌なこと思い出させて」
眼鏡をとってワイシャツの袖で顔を拭う俺に長月の声が届く。長月が気に病むことじゃない。そう言いたいのに言葉が出せなくて、俺は懸命に首を横に振った。
「⋯⋯大丈夫だから」
長月の手がもう一度、俺の方に伸びた。子供でもあやすように不器用にとんとんと俺の背中を叩く長月の手の温もりに、俺の目からは再び涙が滲み出す。鼻水まで出そうになって、みっともなくぐすぐすと鼻をすすっているうちに、袖で隠している閉じられた瞼の裏側に眩しい光が届いて、俺は待っていたバスが来たことを知った。ドアが開く機械音と、バスの行き先を告げる無感情な女性の声のアナウンスが聞こえてくる。バスに乗らなくては、と思う一方で、こんなぐちゃぐちゃな気持ちと顔でバスに乗れないという気持ちもあって、俺は中途半端に腰を浮かせたまま止まっていた。
「ねえ水原君。バス、次のにしよ?今のままじゃ乗れないでしょ?」
俺を落ち着かせるように耳元で聞こえる長月の柔らかな声に俺は頷いて、言われるがまま再び腰をベンチへと戻した。バスのエンジン音が静かな住宅街のバス停に響いた後、視界には再び白が戻ってくる。
「⋯⋯大丈夫だよ。水原君。次も、まだその次もバスあるから」
背中をたたきながら長月は言った。
「落ち着くまで側にいるから」
梅雨が来る前の、湿った空気が包む夜のバス停に長月の声だけが響く。結局、次のバスが来るまでずっと、俺達は二人だけでベンチに並んで座っていた。
「なあ水原。お前、長月からなんか聞いてた?」
翌朝、登校してくる俺を待っていたように下駄箱の辺りをうろついていた前野が、俺を見た途端に声をかける。
「いや?何も聞いていないが、何かあったのか?」
「⋯⋯あー。そっか。とりま教室行こうぜ。見た方が早いかも」
前野に続いて教室に入った俺の目に飛び込んできたのは、制服に身を包む、短めのマッシュウルフが爽やかな印象を与える男だった。見慣れているのに見慣れない姿の、ここにいるなんて思いもしなかった男。
「長月!」
入学式以来一度も使われていなかった、教室の一番後列、窓際の席に悠々と座る男に呼びかける。俺の声に反応してこちらを見た長月の、いつも目を覆い隠していた前髪は眉を隠す程度の長さに整えられていて、見慣れない、切れ長の明るい茶色の瞳が俺の姿を写してふわりと和らいだ。
「おはよう。水原君」
「あ、ああ。おはよう」
戸惑いながら俺は長月に挨拶を返した。長月は教室の入口に立ちつくす俺の方へ真っ直ぐに歩みよってくる。
「長月。⋯⋯あの。昨日はすまなかった。ありがとう」
昨日、長月の前で子供のように泣き出してしまった自分を思い出して俺は気恥ずかしさから頬が少し熱を持つのを感じながら話しかけた。
「ううん。大丈夫だった?」
「ああ。長月は、大丈夫なのか?」
人と話すの、ちょっと怖くなって。昨日の長月の言葉や、人の視線から自分を守るように伸ばされていた昨日までの長月の髪を思い出しながら俺は尋ねた。
「うん。俺はもう大丈夫だよ。⋯⋯昨日の浜井との話で、なんか吹っ切れてさ。俺が今まで怖かったのって、こんなもんだったんだーって」
長月はそう言って笑う。俺を安心させるように。
「長月。話の途中ですまんがそろそろ良いか?」
俺達の後ろから、担任の声がかかる。
「はい」
長月は俺の後ろに立つ担任に返事をすると、俺にひらりと手を振った。
「水原君ごめん。俺、ちょっと職員室に呼ばれてるんだよね」
長月はそう言うと、職員室の方へ歩いて行く。
「⋯⋯だから大丈夫だよ。もし、昨日のことで誰かになんか言われても、俺が守るから」
すれ違い様、俺にだけ聞こえる声で囁きを一つ残して。
「初めて見たけど、長月君ってマジでめっちゃイケメンじゃない?ヤバ」
「私、同中だったけどさあ、あの噂が出るまでめちゃめちゃモテてたよ」
「だよねー」
「やめとけよ。あいつ男が好きなんだからお前らがキャーキャー言っても意味ねぇだろ」
「男子うざ。あたしら別に付き合いたいとか言ってる訳じゃないし」
「でも、例の噂ってマジなのかな」
長月が見えなくなった後の教室は蜂の巣をつついたような騒ぎだった。様々な感情が渦巻く教室の喧騒の中、前野が俺の席にやって来る。
「いやーマジビビったわ。なあ水原。お前、ホントに長月から何も聞いてなかったの?」
「ああ。俺も驚いた」
「⋯⋯あーね。でもまあ、とにかく、学校、来れるようになったってのは良いことだよな?」
「そうだな」
前野の言葉に俺は曖昧に頷く。気付かれないように浜井の方をこっそり覗き見るが、浜井はどこか気の抜けたような顔で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。浜井の様子を見るに、昨日の長月との話や、俺が長月の家に行っているという話はまだ広まっていないようだった。
「どした?ぼーっとして」
「いや、なんでもない」
「そ?⋯⋯ま、どうせ今日も、一緒に昼メシ食うっしょ。そん時にでも、俺に長月紹介してよ。三人でメシ食いながら色々話そうぜ」
「ありがとう。前野」
前野は笑って自分の席に戻って行く。しばらくして、長月を連れた担任が戻って来て、朝礼が始まった。俺は黒板の前で堂々と、滑らかに自己紹介する長月の横顔を、未だにどこか信じられないような気持ちで眺めていた。
