「井上君、ごめんね。職員室で呼び出しかかったから席外すけど、その間、3年の化学部の部長さん呼んでおいたから教わってね」
すぐ戻ってくるからと実験担当の山本先生が出て行ったのが十五時頃。
五月なのに夏のような暑さだったせいか、誰もいない実験室は熱気がこもっており独特のつんとした香りとまじっている。
せっかく中間考査が終わったのに、補講だけ残っているのが憂鬱だった。
テストから解放された同級生たちは、井上頑張れよーと言ってゲーセンに行ってしまった。うらやましい。
風邪を拗らせて休んだ補講がグループ実験で、それを一人でしなきゃなんて気が重い。グループだったら、分からないところも聞けるんだけど。
静かすぎる実験室には俺と中和滴定用にセットした器具がぽつんと残されていた。
暇だし、暑いしでひんやりした黒い実験台に頬をくっつける。
「あー、遊びにいきたい」
「遊びいきてぇの?」
まさか独り言を拾われるとも思わずビックリして振り返ると、不愛想な表情で白衣のポケットに手を突っ込んだまま俺を見下ろしている長身の人がいた。ウルフカットのウェーブが目元に少しかかっているので威圧感が凄い。
返事に困って、あの、えっと、とか言っている間に、勝手に俺の実験ノートを読み始めてしまった。
(マイペースすぎる)
静かすぎる部屋に、先輩が実験ノートをペラペラめくる音と時計の進む音が響く。
目のやり場に困って先輩が着ている白衣を眺めていると、胸ポケットに「松村」と書いてあった。
(化学部の部長ってことは、この学校で一番詳しいってことだよね)
予習課題は結構調べたつもりだけど、間違ってたら結構恥ずかしいかも。詳しい人から見たら当たり前すぎることも書いてあるだろうし。テスト勉強もあったから、予習が夜中まで調べるのにかかったけれど今になると変なことを書いてたらどうしようかと不安になってきた。
部屋は暑いはずなのに緊張で指先が冷たくなってきた。沈黙が居たたまれなくなって、俺は膝に置いた手をギュッと握り俯く。
「これ、自分で全部調べた感じ?」
「はっ、はい。図書館と分かりにくい所は同級生に聞きましたけど……」
実験ノートが視界に入り、手渡されたことに気が付く。
おそるおそる目線をあげると松村先輩の目元が少し優しかった。
「1年でこれだけ調べんの大変だっただろ、えらいえらい」
先輩は俺の右肩をトントンと軽くたたく。
(さっきとなんか雰囲気が違う……。もしかして実は良い人なのかな?)
――とりあえず、問題はなかったみたい
ほっと胸を撫で下ろす。松村先輩は、一人で実験は難しいだろうからと言い記入係になってくれた。
今日の実験は中和滴定で、目的は食酢の酢酸濃度を調べること。
細長いガラスのビュレットに入った水酸化ナトリウム水溶液を、薄めた酢が入ったコニカルビーカーに滴下していく。中和点付近で指示薬の色が変わりその時点に何ミリ滴下したかを求める。これで酢酸の濃度が出せる。
――けっこう実験作業の正確さが求められるらしいんだけど
「このままじゃ、日ぃ暮れるぞー」
とっても、松村先輩が煽ってくる。さっきまで優しそうだったのに。
ビュレットからコミカルビーカーに1滴ずつ、ぽつり、ぽつりと落ちる。
「でも、慎重にやらないとどこで色が変わるか分からないじゃないですか」
何とか自分が言える精一杯な反論をしてみる。
こういうとき、普段から友達同士とか親と揉めないよう周りに合わせて生きてきたから、上手い反論の仕方が分からない自分をちょっぴり恨む。
「おおよその終点、自分で調べてただろその手前まで入れてみな」
「でも……」
一気に出して、結果がダメになる方が怖い。
こんな些細なことですら、踏み切る勇気がない自分が恥ずかしくなってきて俺はキュッと口をつぐんだ。でも早くしないと先輩の時間も奪うことになるし……と、ぐるぐる考えていると、なぜか先輩が俺の背後にまわり体温を感じるほど近い距離でぴったりとくっつく。
――すごい近い
ビュレットのコックを捻っていた俺の手を上から包みこむように先輩の大きな手が重なり、ビクッとしてしまった。
「いいか、よくみとけよ」と耳元で低めの声が聞こえ、ビュレットの細長い先から溶液がツーとコニカルビーカーに流れていく。
「えっ、えっ、めっちゃ注いでいる溶液のところだけ紫ですけど大丈夫なんですか!」
見上げると先輩は、少し笑いをこらえたような顔をしていた。
「ほら、ちゃんとメモリ見て」と先輩は俺に言いながら
「3、2、1」
キュッとコックを閉めビーカーをみると、……とても赤紫色だった。
中和滴定は、酸と塩基が過不足なく反応ができるように滴定後の溶液の色はできるだけ淡くしなくちゃいけない。
――つまり、これは大失敗ってこと
(一人で頑張らなきゃと思って夜中まで調べて予習してきたけど、変な先輩に遊ばれて実験がやり直しだ……)
これまでの過程がやり直しになるかと思うと、なんだか泣きたい気分になる。
落ち込んでいる俺に先輩は「ごめんごめん、そんな半泣きにならんでも」とか先輩がのさばるからちょっと睨んどいた。なんか、ニヤニヤしてたからあんま効果なさそうだけど。
(後輩で遊んでも、顔が良いから何でも許されてきたんだろうと思うと、何だか世の中が不公平に感じる)
「まあまあ、コニカルビーカーを台につけたまま揺らしてみ」
渋々言われた通りにする。何故なら、言われたことはあんまり反論しないタイプだから。
こんな性格の自分が恨めしい……。
「きっ、きえ、消えたっ!」
「反応が幽霊に出くわしたときと一緒じゃん」
こんだけ反応いいと教えがいあるわ。とか先輩は言ってるけど、からかわれたことには変わらないのでスルーしておいた。
机に肩肘をついて隣で俺をみていた先輩は、赤紫から透明に戻った溶液の入ったビーカーを手に取って確認をしている。
「ほら。あともうちょっとだから、がんばれ」
目を細めて嬉しそうにこちらを見てくる。
(優しいのか、からかっているのかよくわからない人だな)
教えてもらいながらちょっとずつ滴下する量を調整していく。
ゆっくり慎重に1滴ずつビーカーに落としていく。揺らすと淡い桜色になった。
「できたー!」
「上手にできてるじゃん。えらいえらい」
犬を撫でるみたいにわしわしと俺の頭を撫でながら先輩もビーカーをのぞき込む。
ビーカーの中は、淡い桜色が窓からさす光をうけて、ゆらゆらととても澄んでみえた。
さっきは、あんなに赤紫色だったのに。教科書に載っている写真で見るのとは違ってこんなに澄んでいるって思わなかった。
「きれい」
「そうだよな、俺もそう思う」
先輩はビーカーを窓側の光が差す方向にかざす。黒い机に水面で反射した光がうつりこむ。
(こんな性格が終わってる人でも、同じ気持ちを持つことってあるんだ)
何だか当たり前のことなのに、失礼ながらそう思ってしまった。
――たぶん、俺に気を遣って助けてくれているんだよね。やり方がおかしいだけで
せっかくだから、もっと綺麗な色をつくってみたい。
普段はあまり人にものを頼むのが苦手な俺だけど、つい聞いてしまった。
「あの。もっと色を薄くすることって出来ますか……?」
先輩は質問されると思っていなかったのか、紙をまとめていた手を止めてじっと見つめてくる。
(変なこと言ったかな……)
「頑張ってみる?」口元が少し緩んだ表情をしてそう言った。
「はいっ!」
結局、先生が来る夕方までやっていた。ずっと先輩はそばについてくれていた。
***
「ごめん、遅くなっちゃった。どう出来ている?」
「って、すごい上手!」はー、こりゃすごいわと横一列に並んだコミカルビーカーを見て山本先生は驚いていた。「特に、最後の滴下が一番うまいね」と言ってもらえて嬉しさと恥ずかしさを感じて、気を逸らすように俺は指を組みなおした。
先輩はなぜか「俺が育てました」と言いながら、後方で腕を組んで自分事のようにドヤっている。
(結局、先輩がどんな人なのか掴めなかったな。多分、悪い人ではないんだろうけれど……)
まぁ、3年みたいだし今後関わることも無いだろうなと内心ほっと胸を撫で下ろす。
やっぱり、顔がいい人がオラついた見た目をしていたら誰だって怖いし。後は帰宅だけだから、頑張ったご褒美にコンビニで何買おうかなとぼんやり考えながらリュックに教材を詰めて帰り支度を始める。
すると、山本先生と話し込んでいたはずの先輩が急に座っている俺の両肩をがっしりとつかんだ。
「山ちゃん、俺この子にするわ」
「ん?」
どんな話だったのか聞いてなかったので、頭の処理が追いつかない。
(なんの話なんだろ……)
何だかよく分からないまま話が進んでいたようで、「ちゃんと了解とってる?」と山本先生があわてて声掛けをしてくれる。
「じゃあ、今とるわ」と先輩は言いながら、丸い回転椅子に座っている俺を先輩と対面するようにくるりと動かされる。
(なんか、イヤな予感がする……)
整った顔に見下ろされ、遠くても近くても顔がいいって得だなと現実逃避で関係のないことを考える。でもやっぱり至近距離のイケメンって怖いかも。
膝に乗せたリュックをギュッと抱きしめ、じりじり椅子を後ろに引き距離を取るも、俺のささやかな抵抗も虚しく机と先輩の間に挟まり逃げ場が無くなってしまったのだった。
(ひぇー、やっぱりこわいよぉ。俺何かやらかしたっけ)
ビビりまくっていると、先輩は何故かシンデレラにするように俺の左手を恭しく掬い上げてこう言った。
「井上渚君、君を化学部に入部させます」
「ん?」
「よし。じゃあ了承も得たことだし、これからよろしく」となぜか先輩にがっしり握手をされる。
「こらこら、井上君がびっくりして放心しているじゃない。ほらー、無理強いするから」
かわいそうにと山本先生がフォローをして、俺の目の前で「大丈夫?」と手をひらひらする。
「今、部活入ってる?バイトとか塾は?」と矢継ぎ早に先輩に聞かれる。
「入ってないですけど……」
「じゃあ、大丈夫だな」と言われる。
結局、俺は流される性格のせいで受けてしまったのだった。
***
夜、十時。
覚えているうちに、今日の実験内容をレポートに書き起こそうと自室の机に向かう。
レポート用のために撮影した滴下後のビーカーを確認する。
「きれいだったな」
(変な先輩だったけど。遅くまで付き合ってくれて、たぶん根はいい人なんだろうな)
――無理強いがすごいけど
思い返すと、ああいう人のことを魔性っていうのだろうな。
顔は良いし、教え方はうまいし、最後まで面倒を見てくれる。強引すぎるけど、押しは強い方がいいってクラスの女子も言っていたし。こういう押しの強さで女子は恋に落ちるのかもしれない。
お風呂から上がってしばらくたっているからか気化熱で体がひえているのに、先輩に触られた右手だけなんだか体温が残っているように感じて擦る。
実験ノートをパラパラ眺めていると今日の範囲の最後のページに、なぜか独特の味のあるネコのイラストに吹き出しが書いてあった。
(なんだろうこれ)
すごい達筆な文字で『たいへんよくできました。 松村』書いてあった。
いや、本当になんだろうこれ……。やっぱり変な人かもしれない。
すぐ戻ってくるからと実験担当の山本先生が出て行ったのが十五時頃。
五月なのに夏のような暑さだったせいか、誰もいない実験室は熱気がこもっており独特のつんとした香りとまじっている。
せっかく中間考査が終わったのに、補講だけ残っているのが憂鬱だった。
テストから解放された同級生たちは、井上頑張れよーと言ってゲーセンに行ってしまった。うらやましい。
風邪を拗らせて休んだ補講がグループ実験で、それを一人でしなきゃなんて気が重い。グループだったら、分からないところも聞けるんだけど。
静かすぎる実験室には俺と中和滴定用にセットした器具がぽつんと残されていた。
暇だし、暑いしでひんやりした黒い実験台に頬をくっつける。
「あー、遊びにいきたい」
「遊びいきてぇの?」
まさか独り言を拾われるとも思わずビックリして振り返ると、不愛想な表情で白衣のポケットに手を突っ込んだまま俺を見下ろしている長身の人がいた。ウルフカットのウェーブが目元に少しかかっているので威圧感が凄い。
返事に困って、あの、えっと、とか言っている間に、勝手に俺の実験ノートを読み始めてしまった。
(マイペースすぎる)
静かすぎる部屋に、先輩が実験ノートをペラペラめくる音と時計の進む音が響く。
目のやり場に困って先輩が着ている白衣を眺めていると、胸ポケットに「松村」と書いてあった。
(化学部の部長ってことは、この学校で一番詳しいってことだよね)
予習課題は結構調べたつもりだけど、間違ってたら結構恥ずかしいかも。詳しい人から見たら当たり前すぎることも書いてあるだろうし。テスト勉強もあったから、予習が夜中まで調べるのにかかったけれど今になると変なことを書いてたらどうしようかと不安になってきた。
部屋は暑いはずなのに緊張で指先が冷たくなってきた。沈黙が居たたまれなくなって、俺は膝に置いた手をギュッと握り俯く。
「これ、自分で全部調べた感じ?」
「はっ、はい。図書館と分かりにくい所は同級生に聞きましたけど……」
実験ノートが視界に入り、手渡されたことに気が付く。
おそるおそる目線をあげると松村先輩の目元が少し優しかった。
「1年でこれだけ調べんの大変だっただろ、えらいえらい」
先輩は俺の右肩をトントンと軽くたたく。
(さっきとなんか雰囲気が違う……。もしかして実は良い人なのかな?)
――とりあえず、問題はなかったみたい
ほっと胸を撫で下ろす。松村先輩は、一人で実験は難しいだろうからと言い記入係になってくれた。
今日の実験は中和滴定で、目的は食酢の酢酸濃度を調べること。
細長いガラスのビュレットに入った水酸化ナトリウム水溶液を、薄めた酢が入ったコニカルビーカーに滴下していく。中和点付近で指示薬の色が変わりその時点に何ミリ滴下したかを求める。これで酢酸の濃度が出せる。
――けっこう実験作業の正確さが求められるらしいんだけど
「このままじゃ、日ぃ暮れるぞー」
とっても、松村先輩が煽ってくる。さっきまで優しそうだったのに。
ビュレットからコミカルビーカーに1滴ずつ、ぽつり、ぽつりと落ちる。
「でも、慎重にやらないとどこで色が変わるか分からないじゃないですか」
何とか自分が言える精一杯な反論をしてみる。
こういうとき、普段から友達同士とか親と揉めないよう周りに合わせて生きてきたから、上手い反論の仕方が分からない自分をちょっぴり恨む。
「おおよその終点、自分で調べてただろその手前まで入れてみな」
「でも……」
一気に出して、結果がダメになる方が怖い。
こんな些細なことですら、踏み切る勇気がない自分が恥ずかしくなってきて俺はキュッと口をつぐんだ。でも早くしないと先輩の時間も奪うことになるし……と、ぐるぐる考えていると、なぜか先輩が俺の背後にまわり体温を感じるほど近い距離でぴったりとくっつく。
――すごい近い
ビュレットのコックを捻っていた俺の手を上から包みこむように先輩の大きな手が重なり、ビクッとしてしまった。
「いいか、よくみとけよ」と耳元で低めの声が聞こえ、ビュレットの細長い先から溶液がツーとコニカルビーカーに流れていく。
「えっ、えっ、めっちゃ注いでいる溶液のところだけ紫ですけど大丈夫なんですか!」
見上げると先輩は、少し笑いをこらえたような顔をしていた。
「ほら、ちゃんとメモリ見て」と先輩は俺に言いながら
「3、2、1」
キュッとコックを閉めビーカーをみると、……とても赤紫色だった。
中和滴定は、酸と塩基が過不足なく反応ができるように滴定後の溶液の色はできるだけ淡くしなくちゃいけない。
――つまり、これは大失敗ってこと
(一人で頑張らなきゃと思って夜中まで調べて予習してきたけど、変な先輩に遊ばれて実験がやり直しだ……)
これまでの過程がやり直しになるかと思うと、なんだか泣きたい気分になる。
落ち込んでいる俺に先輩は「ごめんごめん、そんな半泣きにならんでも」とか先輩がのさばるからちょっと睨んどいた。なんか、ニヤニヤしてたからあんま効果なさそうだけど。
(後輩で遊んでも、顔が良いから何でも許されてきたんだろうと思うと、何だか世の中が不公平に感じる)
「まあまあ、コニカルビーカーを台につけたまま揺らしてみ」
渋々言われた通りにする。何故なら、言われたことはあんまり反論しないタイプだから。
こんな性格の自分が恨めしい……。
「きっ、きえ、消えたっ!」
「反応が幽霊に出くわしたときと一緒じゃん」
こんだけ反応いいと教えがいあるわ。とか先輩は言ってるけど、からかわれたことには変わらないのでスルーしておいた。
机に肩肘をついて隣で俺をみていた先輩は、赤紫から透明に戻った溶液の入ったビーカーを手に取って確認をしている。
「ほら。あともうちょっとだから、がんばれ」
目を細めて嬉しそうにこちらを見てくる。
(優しいのか、からかっているのかよくわからない人だな)
教えてもらいながらちょっとずつ滴下する量を調整していく。
ゆっくり慎重に1滴ずつビーカーに落としていく。揺らすと淡い桜色になった。
「できたー!」
「上手にできてるじゃん。えらいえらい」
犬を撫でるみたいにわしわしと俺の頭を撫でながら先輩もビーカーをのぞき込む。
ビーカーの中は、淡い桜色が窓からさす光をうけて、ゆらゆらととても澄んでみえた。
さっきは、あんなに赤紫色だったのに。教科書に載っている写真で見るのとは違ってこんなに澄んでいるって思わなかった。
「きれい」
「そうだよな、俺もそう思う」
先輩はビーカーを窓側の光が差す方向にかざす。黒い机に水面で反射した光がうつりこむ。
(こんな性格が終わってる人でも、同じ気持ちを持つことってあるんだ)
何だか当たり前のことなのに、失礼ながらそう思ってしまった。
――たぶん、俺に気を遣って助けてくれているんだよね。やり方がおかしいだけで
せっかくだから、もっと綺麗な色をつくってみたい。
普段はあまり人にものを頼むのが苦手な俺だけど、つい聞いてしまった。
「あの。もっと色を薄くすることって出来ますか……?」
先輩は質問されると思っていなかったのか、紙をまとめていた手を止めてじっと見つめてくる。
(変なこと言ったかな……)
「頑張ってみる?」口元が少し緩んだ表情をしてそう言った。
「はいっ!」
結局、先生が来る夕方までやっていた。ずっと先輩はそばについてくれていた。
***
「ごめん、遅くなっちゃった。どう出来ている?」
「って、すごい上手!」はー、こりゃすごいわと横一列に並んだコミカルビーカーを見て山本先生は驚いていた。「特に、最後の滴下が一番うまいね」と言ってもらえて嬉しさと恥ずかしさを感じて、気を逸らすように俺は指を組みなおした。
先輩はなぜか「俺が育てました」と言いながら、後方で腕を組んで自分事のようにドヤっている。
(結局、先輩がどんな人なのか掴めなかったな。多分、悪い人ではないんだろうけれど……)
まぁ、3年みたいだし今後関わることも無いだろうなと内心ほっと胸を撫で下ろす。
やっぱり、顔がいい人がオラついた見た目をしていたら誰だって怖いし。後は帰宅だけだから、頑張ったご褒美にコンビニで何買おうかなとぼんやり考えながらリュックに教材を詰めて帰り支度を始める。
すると、山本先生と話し込んでいたはずの先輩が急に座っている俺の両肩をがっしりとつかんだ。
「山ちゃん、俺この子にするわ」
「ん?」
どんな話だったのか聞いてなかったので、頭の処理が追いつかない。
(なんの話なんだろ……)
何だかよく分からないまま話が進んでいたようで、「ちゃんと了解とってる?」と山本先生があわてて声掛けをしてくれる。
「じゃあ、今とるわ」と先輩は言いながら、丸い回転椅子に座っている俺を先輩と対面するようにくるりと動かされる。
(なんか、イヤな予感がする……)
整った顔に見下ろされ、遠くても近くても顔がいいって得だなと現実逃避で関係のないことを考える。でもやっぱり至近距離のイケメンって怖いかも。
膝に乗せたリュックをギュッと抱きしめ、じりじり椅子を後ろに引き距離を取るも、俺のささやかな抵抗も虚しく机と先輩の間に挟まり逃げ場が無くなってしまったのだった。
(ひぇー、やっぱりこわいよぉ。俺何かやらかしたっけ)
ビビりまくっていると、先輩は何故かシンデレラにするように俺の左手を恭しく掬い上げてこう言った。
「井上渚君、君を化学部に入部させます」
「ん?」
「よし。じゃあ了承も得たことだし、これからよろしく」となぜか先輩にがっしり握手をされる。
「こらこら、井上君がびっくりして放心しているじゃない。ほらー、無理強いするから」
かわいそうにと山本先生がフォローをして、俺の目の前で「大丈夫?」と手をひらひらする。
「今、部活入ってる?バイトとか塾は?」と矢継ぎ早に先輩に聞かれる。
「入ってないですけど……」
「じゃあ、大丈夫だな」と言われる。
結局、俺は流される性格のせいで受けてしまったのだった。
***
夜、十時。
覚えているうちに、今日の実験内容をレポートに書き起こそうと自室の机に向かう。
レポート用のために撮影した滴下後のビーカーを確認する。
「きれいだったな」
(変な先輩だったけど。遅くまで付き合ってくれて、たぶん根はいい人なんだろうな)
――無理強いがすごいけど
思い返すと、ああいう人のことを魔性っていうのだろうな。
顔は良いし、教え方はうまいし、最後まで面倒を見てくれる。強引すぎるけど、押しは強い方がいいってクラスの女子も言っていたし。こういう押しの強さで女子は恋に落ちるのかもしれない。
お風呂から上がってしばらくたっているからか気化熱で体がひえているのに、先輩に触られた右手だけなんだか体温が残っているように感じて擦る。
実験ノートをパラパラ眺めていると今日の範囲の最後のページに、なぜか独特の味のあるネコのイラストに吹き出しが書いてあった。
(なんだろうこれ)
すごい達筆な文字で『たいへんよくできました。 松村』書いてあった。
いや、本当になんだろうこれ……。やっぱり変な人かもしれない。
