「いや~、どうすっかなぁ……」
何度目かもわからないため息をつき、俺、和泉綾世は愛用のスケジュール帳を開いた。
本日6月1日の欄には、赤ペンででかでかとこう書かれている。
【台本の進捗説明1ヶ月前!急げ!】
「急げっつったて……簡単に言ってんじゃねえよ、半月前の俺~……」
私立白波高校2年3組、和泉綾世。勉強も運動もビジュアルも至って普通。
強いて特徴を挙げるなら、文芸部に所属している、ということくらいだ。
そんな平凡な俺が現在抱えている悩み。
それが――絶賛スランプ中、ということだった。
うちの学校の演劇部と文芸部には、学校創立当初からの伝統がある。
それが、【毎年10月後半に行われる文化祭の演劇部の台本は、文芸部が書く】というものだ。
正直なにがどうなってそんな伝統が生まれてしまったのかはさっぱりだが、案外伝統なんてそんなものだろう。
文化祭までの大まかな流れはこうだ。
まず、新入部員が入る4月~5月上旬を経て、5月の中旬頃には演劇部の部長から大まかな台本の内容指示がくる。それを受けて文芸部の台本担当が執筆を始め、6月末に一度進捗の報告。そこから再び執筆期間に移り、最終的な台本の完成は7月末。8月の頭~中旬にかけて細かな修正とオーディションが並行して行われ、俺たち文芸部の仕事はそこで終了。あとは演劇部が8月後半の合宿~10月末の文化祭までに劇を完成させ、無事本番を迎える、と。
俺たち文芸部も、台本を書くのだって結構大変なんだぞ、と言いたくなったことがないわけではない。
しかし、年中週2で活動し、合宿後からは週3、10月に入れば半ば強制参加の追加練習まである演劇部様を前にすると、活動は週1、しかも全員集まれば奇跡みたいなうちが文句など言える訳もなく。
「いや、これほんとにヤバいな……半月も何やってたんだよ俺……」
今年の台本の内容指示は『部活系の青春モノ』。
かなりアバウトな指示ではあるが、去年の『なんかいい感じの学園モノ』と比べればまだマシだろう。
(というか、去年のはもはや指示ですらないだろ……なんだよ『なんかいい感じ』って)
そんなこんなで困り果てた俺は、遂にネタ探しの旅へ出ることにした。
……と言っても、簡単に言ってしまえばただの勝手な部活見学だ。
正直、今回の指示を最初に聞いたときは高度な皮肉でも言われているのかと疑った程だ。
部活での青春なんて、俺たち文芸部からしたら雲のまた上。もはや別世界の話だ。
まあ、俺自身はそんな文芸部が好きで入っているから問題はないのだが。
(ただ、その青春を題材に台本を書くとなれば話は別だよな……)
現在は放課後。
今日丸1日の努力の成果もあって、ネタ帳はそこそこ埋まってきている。
もっとも、見れば一発で誰のことか判別できてしまうような内容ばかりで多少の罪悪感はあるが。
だが、これはあくまでインスピレーションのためのもの。
これをそのまま使うつもりはないし、台本を書き終えたら俺の記憶とともに該当のページは全て抹消する。
……だから、どうか許してほしい。
(とりあえす、今日はこの辺でいいか。少しでもアイデアが出ればいいけど……)
そう思って校門へ向かおうとしたその時、どこかから人の声が聞こえてきた。
(これは……校舎裏から?)
放課後。校舎裏。人の声。
声だけではまだ何もわからないが、とにかく誰かがいる。
この3つから連想されるものなんて、1つしかない。
――告白だ。
(いやいやいや、人の告白現場を覗くとか、普通に最低だろ……)
普段の俺なら、そのまま校門へ向かっただろう。
普段の俺なら。
視線は、手元のスケジュール帳とネタ帳へ落ちた。
真っ白な原稿。点滅するだけで全く進まないカーソル。スケジュール帳に刻まれた、【急げ!】の文字。
(……一瞬だけ!ほんとに一瞬、雰囲気を感じるだけだから……!許してくれ……!)
心の中で言い訳をしながら、俺はそっと校舎裏へ足を向けた。
こちらから校舎裏は見えるが、向こうからはこちらが死角になるであろう木の陰に身を潜める。
そして、そっと校舎裏を覗き込んだ。
しかし、そこに広がっていたのは、男女の甘酸っぱい告白シーンなどではなく――
「どんなに長くとも、夜は必ず明ける」
透明感がありよく通る声が、静かな校舎裏に木霊する。
確かこれは、『マクベス』に出てくるマルカムの台詞だったはずだ。
(……すごいな)
思わず息をのんだ。
この距離にいる俺にまで、マルカムの決意や覚悟が伝わってくるような気がする。
演劇の知識なんてまるでない俺でもわかった。
――あいつ、めちゃくちゃ演技が上手い。
となれば、演劇部の台本を書く身としても、俺個人としても、あれが誰なのか知りたくなるのは当然だろう。
俺は、隠れていた木の陰からそっと身を乗り出した。
――その瞬間。
ぱさっ
脇に抱えていたネタ帳が、情けない音を立てて地面へ落下した。
「……誰だ?」
つい先ほどまでマルカムだったやつの声とは思えないほどの低い声が、校舎裏に落ちた。
(ちょ、ま、何やってんだよ俺のネタ帳!!!ヤ、ヤバい。とりあえず逃げ……)
そう思い、大慌てで踵を返そうと顔を上げたその時。
マルカムくんがこちらへ一直線に向かって来ていることに気が付いた。
しかも、かなりの速さで。
(いや、ちょ、来るな来るな来るな来るな……!)
心の中でお経のように「来るな」と唱える。
しかし、その願いが届くことはなかった。
逃げたくても、あまりの迫力に足は全く動かない。
そして
ドンッ
気が付けば、俺の背中は近くのフェンスに押し付けられていた。
勢いよくぶつかった背中がじんじんと痛むが、今はそれどころではない。
(人生初の壁ドンがこんなシーンになるなんて……グッバイ、俺の人生……)
泣きたい気持ちを必死に押し殺しながら、恐る恐る顔を上げた。
と、そこで。俺は彼の顔を初めて間近で見た。
ふわりと風に揺れる、少しだけ癖のある髪。
すっと通った美しい鼻筋。
緩やかに下がった目尻は、どこか気だる気で甘く、それでいて少しだけ意地悪そうにも見える。
しかし、その意地悪そうな雰囲気すら不思議とよく似合っていた。
男の俺ですら、一瞬見惚れてしまうほどに。
これは、間違いなく爆モテするやつだ。
(いや、これは流石にイケメンすぎるだろ……俺とは作画が違うっていうの?神様のお気に入りって、こういうやつのことを言うのか……)
――というか。
このイケメン、俺どっかで……
「も、もしかして……如月時雨!?」
「……そうだけど」
短い返事だが、その瞬間、俺の脳内で点と点が繋がった。
(そういうことか……!噂には聞いてたけど、ほんとにすっごいな……)
――如月時雨。
白波高校の生徒なら、一度はその名前を耳にしたことがあるであろう新入生だ。
最初に話題になったのは入学式。
新入生にとんでもないイケメンがいるらしい――そんな噂が瞬く間に広まり、学校中の女子たちが沸き立ち、男子たちは一斉に血の涙を流したことは記憶に新しい。
しかも、彼のすごいところは完璧な見た目だけではない。
文武両道・才色兼備。それらの言葉はすべて彼のためにあるのではないかと錯覚してしまうほど、彼はなんでもできるというのだ。
そして、そんな如月時雨が演劇部に入った。
その話題もまた、校内をあっという間に駆け巡ったことをよく覚えている。
……つまり、今俺を校舎裏でフェンスに追い詰めているのは。
学校中で有名な、あの如月時雨様なのだ。
「……おい」
「あ、はい!」
反射的に背筋が伸びた。
(いけないいけない。俺は今1人で感動してていい状況じゃなかった……)
そう思い、改めて顔を上げる。
するとそこには、つい先ほどまでマルカムを演じていた人物とは思えないほど不機嫌オーラを駄々洩れにした如月がいた。
明らかに怒っている。それもガチギレだ。
(いや、怒るのはわかる。そりゃ怒るよな。盗み見られてたんだから。でも、普通ここまで怒るか……!?)
「いや、あの、すみませ……」
「お前、1年じゃねぇよな」
低い声が、俺のなけなしの勇気を遮った。
「いつから見てた?」
「え……」
「勝手に人が練習してんのを盗み見ていいと思ってんのかよ」
吐き捨てるような言い方だった。
「せっかく誰にもバレてなかったのに……」
「み、見たのはついさっきからで!ほとんど見てないから!」
言い訳じみた言葉を慌てて口にする。
しかし、如月の表情はまったく和らがなかった。
(いや、怖ぇぇぇぇ……!)
如月時雨、怖すぎだろ。
なに、こいつヤンキーなの!?
いや、確かに悪いのは全面的に俺だ。それは認める。
認めるけどさ……
(それにしても怖ぇよ!ヤの付く自由業の方かと思ったよ!!)
「ちょ、ちょっと待ってくれ!俺が悪かった!それは認めるし、このことは忘れる!俺は、ただたまたまここを通りかかっただけで何も見てないし聞いてない!だから……」
「……なんだこれ」
俺の必死の命乞いが、如月の声にかき消される。
如月の意識が俺から逸れてくれるなら何でもいいと思ったのもつかの間。
俺は、全身から一気に血の気が引いていくのを感じた。
如月の手には、俺のネタ帳が握られていたのだ。
「あ、待って!それだけは……」
ぺらっ
(いや、聞けよ!お前後輩だろ!?)
またしても俺の必死の訴えは通じず、如月はネタ帳のページをめくった。
ぺら、ぺら
静かな校舎裏に、紙をめくる音だけがやけに大きく響く。
如月は何も言わず、ただ淡々とページをめくっていく。
(いや、これ何の時間!?新手の拷問かよ!?)
死刑宣告を待つ罪人のような気持ちで如月を見つめること数十秒。
(頼むから何か言ってくれ!無言が一番怖いんだよ……!)
やがて最後のページを閉じた如月が、ゆっくりとその端正な顔を上げた。
「お前……」
低い声が落ちる。
「……無差別ストーカーでもやってんのか?」
「違ぇよ!!!」
俺、和泉綾世、17歳。
学校の有名人・如月時雨から、人生で初めて無差別ストーカー認定を受けた瞬間であった。
「だったら何なんだよ、これ」
「それは、俺のネタ帳で……」
「ネタ帳?」
――これはマズい。
もしここで『和泉綾世はストーカー』なんて認定をされたら終わりだ。
相手はあの如月時雨。
こんな有名人に言われたら、みんな秒で信じてしまうだろう。
本気で俺の高校生活が終わる。
「演劇部の台本のネタ帳だよ!」
思わず声が大きくなった。
「俺、文芸部でさ。うちの演劇部の文化祭公演の台本は、毎回文芸部が書いてるの。お前なら知ってるよな?」
俺は必至で続けた。
「お前、演劇部期待のルーキーなんだろ?さっきもちょっとだけ見たけどさ、ほんとにすごいんだな。感動したよ」
息継ぎも忘れて言葉を続ける。
「去年と違って今年はちょっと行き詰まってるんだけど、それでもなんとかお前にも納得してもらえるような台本を書くから……」
「……去年?」
今日は本当によく言葉を遮られる日だ。
「え?うん、去年。俺、去年の文化祭の台本も担当しててさ。今年の部長が去年の台本を気に入ってくれてたみたいで。それで今年も頼まれたんだよ」
「……去年の演劇部の台本、あんたが書いたのか?」
「うん。そうだけど……」
だ、だったら何なんだ……!?
如月の反応が読めない。
怒られるのか、呆れられるのか、それともやはりストーカー認定か。
そんな風に身構えていた、その時だった。
如月の口元が、ふっと吊り上がる。
……嫌な予感がした。
「……え?」
パシャ
「は……?」
パシャ
「ちょ、待っ……!」
如月は、おもむろにネタ帳の写真を撮り始めた。
慌てて手を伸ばすが、ひらりとかわされる。
「お前、この中身のこと、バラされたくねぇよな?」
如月はスマホをひらひらと振りながら意地悪に笑った。
さっきまでの不機嫌オーラはどこへやら。
なんなら今の方が怖い。
「そ、それは、まぁ、バラされたくないけど……」
「で、俺に許してほしいんだよな?」
「ああ、そうだけど……」
話が見えない。急展開にもほどがある。
(急に何なんだよ……!?イケメンの考えることはわかんねぇな……)
恐々と如月を見つめた。
すると、彼はぐいっと距離を縮めてきた。
「いいぜ」
にやり、と口元が上がる。
「お前のこと、許してやるよ」
そう言って、ネタ帳をひらひらと揺らした。
「これも返してやる」
「本当か……!?」
思わず声が裏返る。
なんだ。
怖いし、生意気だし、後輩のくせに態度はでかいし、さっきまでヤの付く自由業の方かと思ってたけど。
案外良い奴じゃないか……!
……そう思ったのも、ほんの一瞬だった。
「その代わりに」
如月がさらに一歩距離を詰める。
逃げ場なんて、とっくにない。
彼は心底楽しそうに笑った。
「今日から文化祭までの約5ヶ月間。俺と付き合ってくれよ、センパイ」
「……は?」
何度目かもわからないため息をつき、俺、和泉綾世は愛用のスケジュール帳を開いた。
本日6月1日の欄には、赤ペンででかでかとこう書かれている。
【台本の進捗説明1ヶ月前!急げ!】
「急げっつったて……簡単に言ってんじゃねえよ、半月前の俺~……」
私立白波高校2年3組、和泉綾世。勉強も運動もビジュアルも至って普通。
強いて特徴を挙げるなら、文芸部に所属している、ということくらいだ。
そんな平凡な俺が現在抱えている悩み。
それが――絶賛スランプ中、ということだった。
うちの学校の演劇部と文芸部には、学校創立当初からの伝統がある。
それが、【毎年10月後半に行われる文化祭の演劇部の台本は、文芸部が書く】というものだ。
正直なにがどうなってそんな伝統が生まれてしまったのかはさっぱりだが、案外伝統なんてそんなものだろう。
文化祭までの大まかな流れはこうだ。
まず、新入部員が入る4月~5月上旬を経て、5月の中旬頃には演劇部の部長から大まかな台本の内容指示がくる。それを受けて文芸部の台本担当が執筆を始め、6月末に一度進捗の報告。そこから再び執筆期間に移り、最終的な台本の完成は7月末。8月の頭~中旬にかけて細かな修正とオーディションが並行して行われ、俺たち文芸部の仕事はそこで終了。あとは演劇部が8月後半の合宿~10月末の文化祭までに劇を完成させ、無事本番を迎える、と。
俺たち文芸部も、台本を書くのだって結構大変なんだぞ、と言いたくなったことがないわけではない。
しかし、年中週2で活動し、合宿後からは週3、10月に入れば半ば強制参加の追加練習まである演劇部様を前にすると、活動は週1、しかも全員集まれば奇跡みたいなうちが文句など言える訳もなく。
「いや、これほんとにヤバいな……半月も何やってたんだよ俺……」
今年の台本の内容指示は『部活系の青春モノ』。
かなりアバウトな指示ではあるが、去年の『なんかいい感じの学園モノ』と比べればまだマシだろう。
(というか、去年のはもはや指示ですらないだろ……なんだよ『なんかいい感じ』って)
そんなこんなで困り果てた俺は、遂にネタ探しの旅へ出ることにした。
……と言っても、簡単に言ってしまえばただの勝手な部活見学だ。
正直、今回の指示を最初に聞いたときは高度な皮肉でも言われているのかと疑った程だ。
部活での青春なんて、俺たち文芸部からしたら雲のまた上。もはや別世界の話だ。
まあ、俺自身はそんな文芸部が好きで入っているから問題はないのだが。
(ただ、その青春を題材に台本を書くとなれば話は別だよな……)
現在は放課後。
今日丸1日の努力の成果もあって、ネタ帳はそこそこ埋まってきている。
もっとも、見れば一発で誰のことか判別できてしまうような内容ばかりで多少の罪悪感はあるが。
だが、これはあくまでインスピレーションのためのもの。
これをそのまま使うつもりはないし、台本を書き終えたら俺の記憶とともに該当のページは全て抹消する。
……だから、どうか許してほしい。
(とりあえす、今日はこの辺でいいか。少しでもアイデアが出ればいいけど……)
そう思って校門へ向かおうとしたその時、どこかから人の声が聞こえてきた。
(これは……校舎裏から?)
放課後。校舎裏。人の声。
声だけではまだ何もわからないが、とにかく誰かがいる。
この3つから連想されるものなんて、1つしかない。
――告白だ。
(いやいやいや、人の告白現場を覗くとか、普通に最低だろ……)
普段の俺なら、そのまま校門へ向かっただろう。
普段の俺なら。
視線は、手元のスケジュール帳とネタ帳へ落ちた。
真っ白な原稿。点滅するだけで全く進まないカーソル。スケジュール帳に刻まれた、【急げ!】の文字。
(……一瞬だけ!ほんとに一瞬、雰囲気を感じるだけだから……!許してくれ……!)
心の中で言い訳をしながら、俺はそっと校舎裏へ足を向けた。
こちらから校舎裏は見えるが、向こうからはこちらが死角になるであろう木の陰に身を潜める。
そして、そっと校舎裏を覗き込んだ。
しかし、そこに広がっていたのは、男女の甘酸っぱい告白シーンなどではなく――
「どんなに長くとも、夜は必ず明ける」
透明感がありよく通る声が、静かな校舎裏に木霊する。
確かこれは、『マクベス』に出てくるマルカムの台詞だったはずだ。
(……すごいな)
思わず息をのんだ。
この距離にいる俺にまで、マルカムの決意や覚悟が伝わってくるような気がする。
演劇の知識なんてまるでない俺でもわかった。
――あいつ、めちゃくちゃ演技が上手い。
となれば、演劇部の台本を書く身としても、俺個人としても、あれが誰なのか知りたくなるのは当然だろう。
俺は、隠れていた木の陰からそっと身を乗り出した。
――その瞬間。
ぱさっ
脇に抱えていたネタ帳が、情けない音を立てて地面へ落下した。
「……誰だ?」
つい先ほどまでマルカムだったやつの声とは思えないほどの低い声が、校舎裏に落ちた。
(ちょ、ま、何やってんだよ俺のネタ帳!!!ヤ、ヤバい。とりあえず逃げ……)
そう思い、大慌てで踵を返そうと顔を上げたその時。
マルカムくんがこちらへ一直線に向かって来ていることに気が付いた。
しかも、かなりの速さで。
(いや、ちょ、来るな来るな来るな来るな……!)
心の中でお経のように「来るな」と唱える。
しかし、その願いが届くことはなかった。
逃げたくても、あまりの迫力に足は全く動かない。
そして
ドンッ
気が付けば、俺の背中は近くのフェンスに押し付けられていた。
勢いよくぶつかった背中がじんじんと痛むが、今はそれどころではない。
(人生初の壁ドンがこんなシーンになるなんて……グッバイ、俺の人生……)
泣きたい気持ちを必死に押し殺しながら、恐る恐る顔を上げた。
と、そこで。俺は彼の顔を初めて間近で見た。
ふわりと風に揺れる、少しだけ癖のある髪。
すっと通った美しい鼻筋。
緩やかに下がった目尻は、どこか気だる気で甘く、それでいて少しだけ意地悪そうにも見える。
しかし、その意地悪そうな雰囲気すら不思議とよく似合っていた。
男の俺ですら、一瞬見惚れてしまうほどに。
これは、間違いなく爆モテするやつだ。
(いや、これは流石にイケメンすぎるだろ……俺とは作画が違うっていうの?神様のお気に入りって、こういうやつのことを言うのか……)
――というか。
このイケメン、俺どっかで……
「も、もしかして……如月時雨!?」
「……そうだけど」
短い返事だが、その瞬間、俺の脳内で点と点が繋がった。
(そういうことか……!噂には聞いてたけど、ほんとにすっごいな……)
――如月時雨。
白波高校の生徒なら、一度はその名前を耳にしたことがあるであろう新入生だ。
最初に話題になったのは入学式。
新入生にとんでもないイケメンがいるらしい――そんな噂が瞬く間に広まり、学校中の女子たちが沸き立ち、男子たちは一斉に血の涙を流したことは記憶に新しい。
しかも、彼のすごいところは完璧な見た目だけではない。
文武両道・才色兼備。それらの言葉はすべて彼のためにあるのではないかと錯覚してしまうほど、彼はなんでもできるというのだ。
そして、そんな如月時雨が演劇部に入った。
その話題もまた、校内をあっという間に駆け巡ったことをよく覚えている。
……つまり、今俺を校舎裏でフェンスに追い詰めているのは。
学校中で有名な、あの如月時雨様なのだ。
「……おい」
「あ、はい!」
反射的に背筋が伸びた。
(いけないいけない。俺は今1人で感動してていい状況じゃなかった……)
そう思い、改めて顔を上げる。
するとそこには、つい先ほどまでマルカムを演じていた人物とは思えないほど不機嫌オーラを駄々洩れにした如月がいた。
明らかに怒っている。それもガチギレだ。
(いや、怒るのはわかる。そりゃ怒るよな。盗み見られてたんだから。でも、普通ここまで怒るか……!?)
「いや、あの、すみませ……」
「お前、1年じゃねぇよな」
低い声が、俺のなけなしの勇気を遮った。
「いつから見てた?」
「え……」
「勝手に人が練習してんのを盗み見ていいと思ってんのかよ」
吐き捨てるような言い方だった。
「せっかく誰にもバレてなかったのに……」
「み、見たのはついさっきからで!ほとんど見てないから!」
言い訳じみた言葉を慌てて口にする。
しかし、如月の表情はまったく和らがなかった。
(いや、怖ぇぇぇぇ……!)
如月時雨、怖すぎだろ。
なに、こいつヤンキーなの!?
いや、確かに悪いのは全面的に俺だ。それは認める。
認めるけどさ……
(それにしても怖ぇよ!ヤの付く自由業の方かと思ったよ!!)
「ちょ、ちょっと待ってくれ!俺が悪かった!それは認めるし、このことは忘れる!俺は、ただたまたまここを通りかかっただけで何も見てないし聞いてない!だから……」
「……なんだこれ」
俺の必死の命乞いが、如月の声にかき消される。
如月の意識が俺から逸れてくれるなら何でもいいと思ったのもつかの間。
俺は、全身から一気に血の気が引いていくのを感じた。
如月の手には、俺のネタ帳が握られていたのだ。
「あ、待って!それだけは……」
ぺらっ
(いや、聞けよ!お前後輩だろ!?)
またしても俺の必死の訴えは通じず、如月はネタ帳のページをめくった。
ぺら、ぺら
静かな校舎裏に、紙をめくる音だけがやけに大きく響く。
如月は何も言わず、ただ淡々とページをめくっていく。
(いや、これ何の時間!?新手の拷問かよ!?)
死刑宣告を待つ罪人のような気持ちで如月を見つめること数十秒。
(頼むから何か言ってくれ!無言が一番怖いんだよ……!)
やがて最後のページを閉じた如月が、ゆっくりとその端正な顔を上げた。
「お前……」
低い声が落ちる。
「……無差別ストーカーでもやってんのか?」
「違ぇよ!!!」
俺、和泉綾世、17歳。
学校の有名人・如月時雨から、人生で初めて無差別ストーカー認定を受けた瞬間であった。
「だったら何なんだよ、これ」
「それは、俺のネタ帳で……」
「ネタ帳?」
――これはマズい。
もしここで『和泉綾世はストーカー』なんて認定をされたら終わりだ。
相手はあの如月時雨。
こんな有名人に言われたら、みんな秒で信じてしまうだろう。
本気で俺の高校生活が終わる。
「演劇部の台本のネタ帳だよ!」
思わず声が大きくなった。
「俺、文芸部でさ。うちの演劇部の文化祭公演の台本は、毎回文芸部が書いてるの。お前なら知ってるよな?」
俺は必至で続けた。
「お前、演劇部期待のルーキーなんだろ?さっきもちょっとだけ見たけどさ、ほんとにすごいんだな。感動したよ」
息継ぎも忘れて言葉を続ける。
「去年と違って今年はちょっと行き詰まってるんだけど、それでもなんとかお前にも納得してもらえるような台本を書くから……」
「……去年?」
今日は本当によく言葉を遮られる日だ。
「え?うん、去年。俺、去年の文化祭の台本も担当しててさ。今年の部長が去年の台本を気に入ってくれてたみたいで。それで今年も頼まれたんだよ」
「……去年の演劇部の台本、あんたが書いたのか?」
「うん。そうだけど……」
だ、だったら何なんだ……!?
如月の反応が読めない。
怒られるのか、呆れられるのか、それともやはりストーカー認定か。
そんな風に身構えていた、その時だった。
如月の口元が、ふっと吊り上がる。
……嫌な予感がした。
「……え?」
パシャ
「は……?」
パシャ
「ちょ、待っ……!」
如月は、おもむろにネタ帳の写真を撮り始めた。
慌てて手を伸ばすが、ひらりとかわされる。
「お前、この中身のこと、バラされたくねぇよな?」
如月はスマホをひらひらと振りながら意地悪に笑った。
さっきまでの不機嫌オーラはどこへやら。
なんなら今の方が怖い。
「そ、それは、まぁ、バラされたくないけど……」
「で、俺に許してほしいんだよな?」
「ああ、そうだけど……」
話が見えない。急展開にもほどがある。
(急に何なんだよ……!?イケメンの考えることはわかんねぇな……)
恐々と如月を見つめた。
すると、彼はぐいっと距離を縮めてきた。
「いいぜ」
にやり、と口元が上がる。
「お前のこと、許してやるよ」
そう言って、ネタ帳をひらひらと揺らした。
「これも返してやる」
「本当か……!?」
思わず声が裏返る。
なんだ。
怖いし、生意気だし、後輩のくせに態度はでかいし、さっきまでヤの付く自由業の方かと思ってたけど。
案外良い奴じゃないか……!
……そう思ったのも、ほんの一瞬だった。
「その代わりに」
如月がさらに一歩距離を詰める。
逃げ場なんて、とっくにない。
彼は心底楽しそうに笑った。
「今日から文化祭までの約5ヶ月間。俺と付き合ってくれよ、センパイ」
「……は?」
