塩後輩が、ペアになった途端に甘やかしてきて困る

週末は、他校との練習試合だった。塩野は五試合も出場し、三年生すらものともせずに勝ち続けていた。向こうの一年生にも負けていた俺とは大違いだ。
(本当に強いよなあ、塩野は)
もはや先輩としてのプライドはなく、素直に憧れが混じった尊敬の気持ちを抱くしかできない。
夏の団体戦を想定した練習で、塩野とダブルスをする。練習相手は地区大会でも優秀な成績をおさめている強豪ペアだったが、とにかく球を落とさないことにだけ集中していた20-18。このままあと一点を取り、練習試合とはいえ、最後の大会まで二か月を切っているこの時期に、絶対に勝ちたい。小柄な俺がネットに近い前衛でプレイし、浮いた球を塩野がスマッシュする。次は、俺のサーブの番だ。サーブでうまくネット際に落とせば、塩野のスマッシュチャンスになる。緊張してサーブをあげようとした瞬間だった。
「……ロングサーブ、いけますか?」
耳元にキスするような距離で、塩野が言う。
「藍沢さんの後ろ、ちょっと空いているんで、あそこに打ち込んで、浮いたの俺が押し込みますから」
 分かった、と小さく頷き、俺は慎重に藍沢の後ろにゆるく低く落とすサーブを打つと、塩野の予言通り球が浮き、それを塩野が高い打点から一気に叩きつける。一瞬の早業だった。二人の連携から一点が取れた感じがして、俺も思わず小さく飛び上がっていた。試合はそのまま流れを掴んで、俺達が勝った。
「ナイシュー。やっぱ塩野はすげえな、ありがとう」
 勝利の嬉しさがこみ上げてきて、つい塩野の胴体に巻き付くみたいにしながらハイタッチをすると、塩野の顔は真っ赤になった。
「遠宮さんのサーブが、良いところに入ったからです、それだけです。あとあんまりくっつくのやめてください。離れると嫌ですけど、近すぎるとほんと、色々な場所が死ぬんで」
 なぜか早口でまくしたてると、すぐに塩野は教室に戻って行ってしまった。
 近すぎると死ぬ……って……何が? 心? 心が死ぬ?
 またやってしまった、とさっと青ざめる。また塩野が不快に思うところを刺激して嫌われてしまう。
「ご、ごめん。次からは気を付ける」
 部活が終わり、輪になって挨拶をした後は、教室に戻って着替えてそれぞれが帰路につく。同じクラスの国田と教室に戻る。「また塩野に嫌われたかもしれない」と愚痴ると、「いや、むしろ逆じゃね?」と言われたが、よく真意の分からないまま、
「俺、塾あるから先帰るな~」
と言って、先に帰ってしまった。着替えたあと校門に出ると、雨が降っていた。傘を持ってきてよかった。早く帰ろう。足早に校門を出ると、塩野が一目を避けるようにして立っていた。いつも練習着でしか会わないから、制服姿はなんだか新鮮だった。
「お疲れ……って傘は?」
「忘れました」
 小雨だが、すでに塩野の黒い髪は少し濡れて、雨の粒が髪をしなだれさせている。
「濡れてんじゃん、大丈夫か」
 タオルを探すも、練習で使った俺の汗まみれタオルしかない。
「ごめん、俺のタオルしかないけど……」
「いや、それがいいです。それをください」
「あ、そう?」
 奪い取るように俺のタオルを取ると、それで濡れた髪を拭いた。
「ありがとうございます、明日返すんで」
「いや、別にいいよ。傘、入る?」
「持ちます、俺のほうが背が高いので効率的です」
 甘えることにした。
「濡らすなよ?」
「濡らさないです。先輩のことは」
 傘を持ってくれた塩野は、宣言通り俺を濡らさなかった。慎重に、やさしく、ゆっくりと、俺の歩調に合わせてくれる。雨がアスファルトを打つ音だけが、静かな音楽のように響き、消え、また生まれる。駅までは遠いからいつも雨の日は面倒くさいなと思うのに、今日はなんだかずっとこの心地いい音を聞いていたかった。
「塩野って彼女いないの?」
「なんですか、急に」
「こんなときじゃないと聞けないじゃん」
 二人きりで、雨がかき消してくれる、傘の中だけの秘密の話。嫌われていても、これくらいの話は許してほしい。
「……そんなもの、いないですよ」
「へー意外」
「言いふらさないでくださいよ?」
「するわけないじゃん」
「本当ですかね」
 塩野が本気の溜息をつく。
「遠宮さんは、俺のこと全然分かってないから、心配です」
 駅に着く頃には、もう雨は止んでいた。なのに、傘を下ろすタイミングを失ったのか、ずっと塩野は傘を差し続けてくれた。
「お疲れさまです、あの、遠宮さん、あの」
 先ほどまでの練習のときとは打って変わって、しおらしく口ごもる。
「なに?」
「……連絡先、教えてください」
 と言って、スマホを差し出した。そういえば、毎日のように会うし、部活のグループがあるから、連絡先を知らないことすら気づいていなかった。
「ていうか、俺達連絡先知らなかったんだな」
「……別に、わざわざ遠宮さんに連絡する事項もないので」
「なんだそれ」
透明なカバーだけのシンプルな黒いスマホだった。俺は「いいよ」と言って、QRコードで連絡先を送った。
 人波に押し流されそうな、180センチあるはずなのに、なんだか中学生くらいに見える。
「……でも俺達、一応ペアですから、ちゃんと連絡も取り合いましょう」
 と、塩野が言う。なんだか先程より機嫌が良さそうな表情をしている。
「遠宮さん、あさっての土曜練、出ますか?」
「一応、出るつもりだけど」
「そう、ですか。それなら、俺も出ます。じゃあ」
 それだけ早口で言い残すと、振り返ることもなく、塩野は改札口の向こうに駆けて行ってしまった。なんとなくその背が丸まっているのは、気のせいだったかもしれない。
 勉強を終え、風呂に入ってベッドで布団にくるまっていた時、枕元のスマホが音を立てた。
『今日もお疲れさまでした』
 塩野からの、それだけの簡素なメッセージだった。塩野らしい。
『お疲れ~』
 適当に送ると、すぐに既読になった。早い。
『今日はありがとうございました』
 ぴょこぴょこと動く兎のスタンプとともに、チャットで電子マネーが1000円送られてきた。
『これなに』
『カレーやきそばパンと遠宮さんの分です』
『俺の奢りです』
『いらないよ 俺先輩だし』
『奢りです』
『俺が奢りたいんで もう黙っておいてください』
 うさぎが「めっ!」と怒っているスタンプが送られてきた。可愛いやつだ。あの塩野がこんなスタンプ使うんだ。ギャップ萌えかよ。
――遠宮さんの食べたいもの、なんでも買ってきていいですよ。
 なんでこんな遠回りなことするんだろ。可愛いというより、ちょっと不思議だ。
『次は、俺が奢るよ』
 返信すると、「やった!」と喜んでいるうさぎのスタンプが返ってきた。
『明日も、会いましょうね』
『うん』
『明日、遠宮さんがいるなら、練習楽しみです』
「……」
 不意打ちでそんな言葉が返ってきて、心臓に何か小さなものが詰まったみたいに、呼吸がうまくできなくなる。練習楽しみなんて、俺のこと嫌いなはずだったのに、なんで。
(塩野……お前、キャラ変し過ぎじゃね?)
 はやる疑問を打ち込んで、送信ボタンを押す前に、もう新しいメッセージが来ていた。
『おやすみなさい。また明日』
 そして、ふわふわな雲の上で眠るうさぎのスタンプ。もう、今さら水を差すようなメッセージは送れなくなってしまって、「おやすみ」とこっちも無料のスタンプを押した。
 明日も会いましょうね。練習楽しみです。
 まぶたを閉じると、わんわんと塩野の文字が反響するみたいで、なかなか寝付けなかった。
 明日は、塩野にどんなことを言われるのだろう。また俺がへまをやらかして、怒られるのかな。
 それでも、きっと、塩野は「お疲れ様」ってすぐにメッセージをくれる気がする。