「待って。ちょっ、朝何も食ってねえのに吐きそう」
「楠見、おま、意外と本番に弱いタイプかよ! 普段あんなにしゃあしゃあとしてるくせに!」
「仕方ねえだろ! こんな大勢の人前で、しかも舞台に出て話す機会なんか、今までなかったんだからよ!」
十月第二週の日曜日。月曜日の祝日を合わせて土、日、月の三日間で行われる文化祭の中日。
縁と猛琉は二人揃って、体育館の舞台袖に待機していた。舞台には緞帳が下りていて客席の様子は見えないが、ざわめく声の大きさからかなりの人数が集まっていることが察せられる。
「ていうか、着物ってマジで落ち着かねえ。ただでさえ緊張で吐きそうなのに、帯が締めつけてくるし」
せっかくだからとことん本格的にやろうと、衣装のレンタルサービスを利用して着流しを用意した。無地の灰色で、シンプルな装いだ。髪色は相変わらずだから全体的に見るとどこかちぐはぐだが、これはこれで楠見猛琉という男らしくて良い。
「着物、似合ってるよ。帯の感じはその内慣れるだろうから、大丈夫」
「てめえ、この、他人事だと思って」
「そんなこと思ってない。本当だ。だって、手塩にかけて育てた弟子の初高座なんだから」
縁の言葉に、グロッキー状態だったはずの猛琉がきょとんとした顔をする。
「お前の、弟子?」
「そう、弟子。元はと言えば楠見が言い始めたんだろ。俺が師匠で、自分は弟子だって」
縁は手を伸ばして、自分より幾分背の高い弟子の頭をそっと撫でてやる。
「俺の自慢の一番弟子。大丈夫、絶対に成功するから。期待してる」
「……おう。任せとけ」
猛琉は頭を撫でる縁の手を優しく掴むと、力強い声でそう言った。
「じゃあ、行ってくる」
「ああ、行ってこい」
猛琉が舞台上に設けられた高座用の席についたのを確認し、縁は緞帳を上げた。
体育館内は猛琉の友人グループに誘われた者たちと平岡から話を聞いたらしい教員たち、それから縁が発信していた情報を見てやって来たらしい客と冷やかし半分の生徒たちで、ちょうど良い具合にごった返している。ざっと見ただけでも、百五十人という目標人数はクリアしていると分かった。
観客の一部は舞台に現れた赤髪和装の噺家に少々面食らったらしい。ざわめきが大きくなる。
「えー、本日はご足労いただき、誠にありがとうございます」
打ち合わせ通り、猛琉は客席に向かって挨拶する。この後は速やかに道具屋の本筋を始めるはずだったが、彼は予定にない枕を語り出した。
「かつて、日本人なら誰もが知っている、ある番組の司会を務めていた落語家の先生はこう言いました。人を泣かせることと、怒らせることは簡単だ。しかし人を笑わせるのはとても難しい、と。落語を始めてまだ数ヶ月の自分もそれを実感するばかりです。本日は、個人的に一番笑わせたい人が笑ってくれるような、そんな一席にしたいと思います。しばらくの間、お付き合いを願います」
そんなことを宣い、ようやく本題に入る。はて、一番笑わせたい人というのは一体誰のことだろうか。
舞台袖で待つ縁は疑問に思うが、考えたところで答えは出ない。
「落語というのは毎度毎度、訳の分かったような分からんような男が立役者と相場が決まっているようでして……」
考えている内についに噺が始まり、慌てて舞台に集中する。猛琉が言葉を紡ぎ始めると、ひそひそ話していた観客たちも一斉に静まり返り、赤い髪の落語家を見つめた。
まるで魔法にかかったかのように、彼の世界に引き込まれているのだ。
ああ、やはり楠見猛琉は天才だ。
縁は目を細める。うっかりすると涙が零れそうだった。
さて、最終的にこの寄席が成功したのか失敗したのか。それは度々上がった正しく爆笑としか形容できない笑い声と、猛琉が話し終わって深々と礼をした後に降り注いだ割れんばかりの拍手から窺い知れるだろう。



