「八月終わりのこの猛暑の中よくやるねえ。文化祭のステージなんて、そんなに気負わなくても良くない?」
「平岡先生、自分の受け持っている部活が廃部の危機って分かってます?」
高座用の扇子を勝手に拝借してパタパタと扇ぎながら、意欲の低い顧問教師はあっさりと言ってのける。
三十半ばのこの生物教師はバリバリの理系畑出身だからだろうか。落語についての知識どころか興味すらほとんど持っておらず、単に教員間のヒエラルキーにより不人気な部の顧問を押しつけられているに過ぎない。
そもそも、落研が取り壊し前の旧校舎に押し込められるのを良しとした時点で、彼はこの部に対しての思い入れなど一切ないのだろう。
「そりゃあ、久我山君ほど熱心な生徒の居場所がなくなっちゃうのは心苦しいけどさ。現実的な話、文化祭で百五十人呼ぶのは無茶ってものでしょ? それに、ねえ」
平岡は眼鏡の奥の目を細めて、縁の背後に控えている猛琉を眺める。赤髪の陽キャは夏用の制服姿で座布団の上に座っているものの、無駄に長くしなやかな手足をその辺にだらりと投げ出しており、とても落語を演る態度には見えない。
「とんでもない秘密兵器がいるって言うから久しぶりに来てみれば、楠見君とはね。言っちゃなんだけど、彼はちょっと、ねえ」
「何ですか? 楠見、期末で赤点取った後の夏休みの補習も、きっちり受け終わってますよ?」
「いや、それは別にいいんだけど。僕の教科で赤点取られたわけじゃないし。それはそれとして、彼に落語って似合わないというか」
「とにかく聞けば分かりますよ。百五十人どころか、三百人だって呼べるかも」
「ずいぶんとまたハードルを上げるねえ。ま、そんなに言うならちょっと聞かせてもらおうかな」
平岡は縁の言葉に多少なりとも心を動かされたのか、それとも単に会話するのが面倒になったのか。おそらく後者だろうが、とにかく旧校舎の古い床を鳴らしつつ席についてくれた。
縁は猛琉にアイコンタクトを送り、小さく頷く。均整の取れた体躯を持て余すようにだらしなく伸ばしていた彼は、さっと居住まいを正した。
背筋を伸ばして正座をし、端正な顔立ちと涼やかな目元でたった一人の客を見据える。それだけだというのに、平岡が息を呑んだのが縁には分かった。
「しばらくの間、お付き合いを願います。落語というのは毎度毎度、訳の分かったような分からんような男が立役者と相場が決まっているようでして」
猛琉はすらすらと口上を述べ、シームレスに本筋へと移る。演目は『道具屋』。毎日ぶらぶら遊び歩いている与太郎に、見かねた親族が自分のやっている露店商で古道具を売らせる。間抜けな与太郎はやって来る客相手にとんちんかんな受け答えをしてしまうのだが、これが非常に滑稽なのだ。
古典的な演目だが落語の基礎が詰まっており、笑うポイントも分かりやすいため、古参の落語好きからまったくの初心者まで誰が聞いても楽しめる噺である。プロの世界でも前座の修行用に使われることが多いのだが、内容がシンプルに面白い分、噺家の力量が如実に現れる。
実際に縁も一度平岡の前で同じ演目を披露したことがあるのだが、時々クスリと笑わせられる程度の出来だった。「面白かったけど、大笑いするほどじゃないね。作品の時代や価値観が違うからかな」とは、当時の平岡による感想である。
「叔父さんがやってるっていう商売な、上に『ど』の字がつくだろう」
だが今はどうだ。猛琉が語り始めた途端、旧校舎の古い教室はしんと静まり返り、彼の声だけが朗々と響く。
「なるほど、言われてみりゃ確かにどの字がつくな。そうれ、見ろ、泥棒だろ! この頃、目付きが良くねえと思っていたんだ、泥棒。……馬鹿だね、こいつは」
隣から、思わず吹き出してしまったとはっきり分かる音がした。まだ序盤も序盤、与太郎と商売をやっている叔父の会話である。
「何でえ、こりゃ。きったねえ股引だな。お前、そらヒョロビリの股引だ。これ履いてヒョロッとよろけてみろ、ビリッと破れちまう」
縁が再び隣を見ると、あれほど落語に対して興味がなかったはずの平岡が、肩を震わせて笑いを堪えているではないか。
無理もない。同じ内容でも、ちょっとした言い回しや間の取り方一つで、聞き手に与える印象は大きく変わるのだ。猛琉はその辺、もはや野生的とも言えるセンスで的確に笑いどころを押さえている。
「おい道具屋、ノコ見せろ、ノコ。……何だこいつは、焼きが甘えな。お客さん、そいつはこんがり焼けてますよ。何せ叔父さんが火事場で拾ってきたってんだから。ひでえモン売るんじゃねえ、馬鹿!」
いよいよやって来たお客と与太郎のやり取りになると、猛琉の本領が存分に発揮される。ちょっとした声色の違い、顔の傾き加減、手先の仕草。一つ一つを細かく演じ分け、見ている側は誰が話しているか自然に理解できる。演者として、これが如何に難しいことか。
平岡にいたっては、文字通り腹を抱えて大笑いしている。
「木刀を承知で抜かせる奴があるか! いやあ、お客さんが抜け、抜けって言うから、それが抜けたら何が出てくる。何を言っているのかこいつは……他に抜ける物は無いのか? 他に抜ける、あ、お雛様の首が抜けます」
かれこれ、あっという間の三十分。最後まで話し切った猛琉が恭しく一礼すると、平岡は手を叩いて感嘆の声を上げた。
「いや、驚いた! 楠見君、こういう世界には興味が薄いかと思っていたけど、すごいね!」
「ん。まあ、興味は今もそんなにって言うか……久我山が面白いって言うから」
猛琉は目を輝かせて手放しで自分のことを褒めてくれる平岡に少し照れたのか、縁をダシにして言葉を濁す。
「じゃあ、完全に才能だけでここまでやれるってことか。尚更すごいよ。こんな天才がいるなら、文化祭で百五十人集めるのも夢じゃないかもね」
「……そうでしょう、そうでしょう! 俺が直々にスカウトしましたからね!」
何故だろう、少し胸が痛む。自分が同じ演目を披露した時には、大して笑ってもらえなかったのに。自分は幼い頃から何度も何度も同じ噺を聞き込んでいたのに、こんなたかだか数ヵ月の付け焼き刃な稽古で、猛琉は縁を軽々と飛び越えてしまったというのか。
「楠見君、君はすごい! 本物の天才だよ!」
かなり興奮したらしい平岡の褒め殺しが止まらないが、猛琉は「はあ」とか「そこまでじゃないっす」など、あまり心のこもっていない返事をしている。
先ほどから、てっきり照れているものだとばかり縁は思っていた。しかしそれにしてはずいぶんそっけない。
縁が猛琉を褒めた時には綺麗な頬をうっすらと赤らめて、「師匠の教え方がいいから」などと、はにかむこともあるのに。
「そういうわけで、平岡先生。文化祭では楠見が舞台に出ます。演目はさっきやってもらった『道具屋』です」
「うんうん。楠見君の才能なら、文句なしの寄席になるよ。他の先生たちにもちょっと宣伝しておこうかな」
今までろくに落研の活動に関与してこなかった顧問が、前向きな返答を寄越す。この調子なら本当に廃部の危機を免れるかもしれない。
だけどどうしてだか、縁は胸の内に何かが詰まったようなわだかまりを感じていた。それは平岡が教室を出て猛琉と二人きりになった後も治まらない。
「……久我山。今の、本当に面白かったか?」
「え? ああ、うん。めちゃくちゃ面白かった。やっぱり楠見は天才だな!」
「そっか。いや、何か、平センに比べると全然笑ってなかったから」
珍しく歯切れの悪い猛琉の言葉に、縁は首をかしげる。
「あー、そうだっけ? まあ何回も聞いたことある噺だし、展開もオチも知ってるし」
「同じ内容でも噺家によって全然違うって、お前が言ったんだろ。なあ、今の、本当に面白いと思ったのか? 俺、お前の期待通りにできてるか?」
「な、何だよ。そんな必死にならなくても、楠見はちゃんと」
不意に両肩を掴まれ、縁はビクリと体を震わせる。すぐ目の前には猛琉の整った顔があり、思わず目を逸らそうとしたが強靭な二つの手のひらが許してくれない。
「言ってみろよ。どこが良かった? どこがダメだった? 稽古の時はいつも教えてくれるだろ、『ここがダメ』とか『もっとこうしろ』とか」
「本当に何だよ、落ち着けって。さっきの先生の笑い方見れば分かるだろ? もう俺から言うことなんて何もないって」
「他の奴なんかどうでもいい、俺の師匠は久我山だろうが! 弟子の俺が納得いかないって言ってんだから、ちゃんと答えろよ」
「だから、その……」
縁は猛琉の勢いに気圧されながらも、必死に言葉を絞り出そうとする。だが彼の真剣な目を見ていると、どうしても続きを口にすることができない。
自分の醜い劣等感が、猛琉にバレてしまいそうで。
「……大丈夫、楠見なら本番でもちゃんとできるって。俺なんかいなくても」
縁がそう放った瞬間、涼やかな目がいっぱいに見開かれる。衝撃を受けたような、あるいは激しく傷ついたような、そんな表情。
猛琉は縁の両肩を掴んでいた手を離し、一歩、二歩と後ずさる。そしてそのまま何も言わずに教室を飛び出していった。
「……何だったんだ、今の」
一人取り残された旧校舎の教室で、縁は呆然と立ち尽くす。
自分は今、彼に向かって何を言ったのか。どうして彼はあんなにも傷ついた顔をしたのか。
謝るべきなのだろうか。でも、何に対して?
猛琉が何を考えているのか、今の縁にはさっぱり分からない。猛琉と自分はクラスの一軍生徒と三軍生徒で、向こうは縁の得意分野のはずの落語でも頭一つ抜けている。住む世界が違う人間同士、むしろ、六月から夏休み終盤の今まで接する機会を持てていたことが奇跡なのだ。
窓の外からツクツクボウシの鳴く声がする。赤い夕焼け空を見ていると彼の燃えるような短髪を思い出して、ますます胸が締めつけられた。



