廃部寸前の落研部員、天賦の才を持つ一軍男子にあふ事


「お前さん、妙なところから現れたね。へへっ、通りがかったもんで気になって。それで、これ、まだ始まらないんですか? いや、別に始まったりするもんじゃないんだが」

 築六十年を超える、年季の入ったコンクリート造りの旧校舎。耐震性に課題があるとのことで四年ほど前に現在の新校舎が建てられ、今となってはもうほとんど使用されなくなっている。
 そんな建物の空き教室だ。初めて立ち入った時、室内は想像以上に荒れ果てていた。埃にまみれた床を拭き、雑然と並べられた机と椅子を片付け、縁はどうにか即席の稽古場を作り上げたのである。

「寝てんじゃないんだよそいつは、死んでんだ。行き倒れって言ってたのに、死んでるっておかしいね。そりゃあ行き倒れじゃなくて死に倒れだ……はーあ……」

 亡くなった祖父が持っていた、名人のカセットテープ。それを何度も聞きながら自力で書き起こしたセリフ集を投げ出し、それまで正座していた座布団の上へ寝転がる。
 『粗忽長屋』は個人的に好きな演目でカセットテープも擦り切れるほどに聞き込んだが、今はどうにもやる気が起きない。とにかく文化祭で客が入らなかったら廃部だという告知と、稽古するための部室を奪われたという二つの衝撃が、縁から奮起するための気力をすべて奪っていた。
 端から落語になど興味がないらしい顧問は時々思い出したように様子を見に来るだけで、何の役にも立ちはしない。

「何で俺がこんな目に……」

 薄汚れた天井をぼんやりと見つめていると、不意に教室の引戸が開かれる音がした。

「んだよ、先客いんじゃねえか。最悪」

 低い声で、心底うんざりしたという調子を隠しもせずに言い放つ。縁がのっそりと寝返りを打って声のした方を見ると、だらしなく着崩した制服に赤いスパイキーショートという、一度でも見かければなかなか忘れられない見目の男子生徒が立っていた。

「楠見?」
「あ? 何で名前知ってんだよ。誰だお前は」
「いや同じクラスだし、久我山と楠見で出席番号前と後ろだし」

 教室の出入り口にもたれかかってこちらを訝しげに見る同級生、楠見(くすみ)猛琉(たける)。校則など知ったことかとばかりに身だしなみを崩し、似たようないわゆる一軍生徒と呼ばれる仲間と毎日ゲーセンやら雀荘やらに入り浸っているというのは、この高校の関係者間では周知の事実である。噂では会う度に連れている女の子が違うと聞くが、ハイトーンレッドなどという奇抜な髪色にも耐え得る顔面なのだから、さもありなんといったところか。

「あー、久我山? 言われてみればいたな、そんな奴。地味な顔してっから思い出すのに時間かかっちまった」

 ニヤニヤと底意地の悪そうな笑みを浮かべながら、彼は縁の寝転ぶ隣へと歩いてくる。

「で、お前は何してんの?」
「部室追い出されたからここで稽古してた」
「何それ」
「エアコンの故障で水浸しになった他の部活に、落研の部室を取られたんだよ」
「マジかよウケる! そんで、こんなとこで一人寂しくブツブツ喋ってたん?」
「そうか、ウケるか……ははっ。俺の落語より、このシチュエーションの方が笑いが取れるんだな……」
「何言ってんだお前」
「ほっといてくれ」

 縁は再び寝返りを打ち、赤髪の同級生に背を向けた。

「おい。どうでもいいけどよ、寝てるだけならさっさとどけ。六時のカラオケまで暇なんだよ。邪魔な奴が誰も来ない旧校舎で、一人でのんびりしてえんだ、こっちは」

 がっしりとした手が縁の肩を乱暴に揺する。彼は夜遊びが多いだけで、別に人を殴ったり蹴ったりという荒事が好きなわけではないらしい。

「あーね、いいよ。適当にその辺でダラダラしててくれ。俺はもう何もかもどうだっていいんだ」
「いや、だからどけよ。お前がいると俺が落ち着かねえだろ」
「どかすんなら力ずくで適当にどかしてくれ。抵抗しないから」
「無茶言うなって」

 端から見れば陽キャの楠見の方が困っているようである。

「おま、マジで動かねえじゃんかよ。そっちがその気なら座布団ごと外に放り出して……何だこれ? 本?」
「あっ、ちょ、それは」

 彼が手に取ったのは、縁が先ほど投げ出した粗忽長屋の書き起こしだ。つい投げやりになってぞんざいに扱ってしまったが、その中身は自分を落語と出会わせてくれた祖父の形見である。

「へえ。何か、演劇の台本みたいだな」
「なあ、ちょっと。返してくれ」
「これ面白いかあ? 俺にはイマイチ笑うところが分かんねえけど」
「じゃあ、尚のこと早く返せ。この面白さが分からないような奴が読んだところで、時間の無駄だ」
「はあ?」

 剣呑な目つきで睨まれるが、もはや人生そのものを諦めかけている縁は気にも留めずに続ける。

「大体、落語っていうのは人が語るから面白いんだ。噺の内容ももちろん大事だけど、同じ噺でも演者によって全然違って聞こえるんだよ。人間が披露して、初めて落語は落語になるんだ。それを、紙の上に書かれた文字を斜め読みしただけの奴に面白くないだの何だの」
「うるせえな。んなもん、バカな俺に言われても分かるわけねえだろうが」
「バカだとかそんなのは関係ない。面白くないって言うんなら、一回自分で声に出して読んでみればいいだろ」

 最後の言葉は冗談のつもりだった。まさか彼が縁の手から再び書き起こしを奪い取り、その場にあぐらをかいて本当に声に出して読み始めるなど、思いもしなかったのだ。

「ええと、何々……ずいぶん人が(たか)ってやんな、一体何だろなこれは。ちょっとそこの、こいつは何です……」

 バカというより、馬鹿正直なのではないだろうか、こいつは。
 呆れ半分、興味半分という心持ちで、縁は台本を読む彼の声に耳を傾ける。

「ちょっと、失礼をいたします。おい何をするんだい、何だ人の股ぐらなんかくぐって」

 最初はどこか気だるげで、いかにもやる気がなさそうな様子だった。まあ、今までろくに落語に触れたこともないような者ならこんなものか。縁はそんな感想を抱きながら、自分とは程遠い世界に住む一軍男子生徒の話し声を聞き流す。

 ふとした拍子だった。本当に不意の発見だったのだが、縁は彼の滑舌が異様に滑らかなことに気が付いてしまった。
 それだけではない。よくよく聞いてみれば声は低くて艶があり、噺の内容がすんなり頭に入ってくる。ところどころイントネーションが気になるものの、間の取り方や声の強弱、時折顔を上げた時の目線の配り方。一つ気付けばまた一つ、大輪の花が開く直前の蕾のような才能が見つかる。

 いつの間にか、取り壊し前の埃っぽい空き教室は、一気に江戸時代の下町の雰囲気へと空気が一変していた。
 完全に初見のはずなのに楠見猛琉という男の仕草一つ一つが化け物じみていて、縁の全身に鳥肌が立つ。

「……ああ、何だか分かんなくなっちゃったよ。分かんねえって何が……何がっておめえ、死んでんのは俺だが、死んでる俺をこうして抱いてる俺は、どこの誰なんだろう……」

 やばい。このたった二十分で俺は、とんでもない存在を見つけてしまったのかもしれない。
 武者震いを通り越して恐怖すら覚えている縁に向かい、真面目に最後まで書き起こしを読み通した怪物は首を傾げて言った。

「俺、やっぱり頭悪いからかな。この話あんまり意味が分からな」
「お願いします! 落研を救ってください!」

 食い気味で奇天烈な頼みをしてきた同級生に対して絶句する猛琉に、縁はなりふり構わず縋るように抱きついた。