「……俺も、楠見が好きだ。離れたくない」
その一言が合図になったかのように、猛琉の両腕が縁の体を抱き寄せる。心底嬉しそうな笑い声が耳元で聞こえる。
「ちょっ、楠見! 痛いって!」
「悪い。でも俺、今すっげえ幸せでさ! 好き。好きだ、縁」
「……俺もだよ、猛琉」
慣れない呼び方でぎこちなく返すと、頬に長い指先が触れる。少し動けば肌が触れ合いそうな距離で見つめ合っていると、低く聞き心地の良い声が鼓膜を揺らした。
「キスしていい?」
「……うん」
互いに吸い寄せられるように唇を重ねようとした、その時。
「はい、お疲れ様でした。実にお見事、完璧な高座でしたね」
ガラガラと勢い良く古い引戸が開けられ、鴨島会長が教室に入ってくる。縁と猛琉は二人揃って飛び退き、慌てて距離を取った。
「かかか、会長!? 何ゆえここに!」
「先ほどの公演に入った観客数の集計結果が上がってきました。百七十四人。事前にお伝えしていた人数を無事に超えましたので、なるはやで落研の存続をお伝えしようと」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
「つきましては、早急な部室の復旧について相談がありますので、これから生徒会室に。楠見君もどうぞ」
「は? 今から?」
「ええ。それとも、何か来られないような事情でも?」
「い、いえ、行きます! ぜひ行かせてください!」
どうにも考えの読めない笑みを向けられ、縁は反射的に答えてしまう。
「こんなことなら、さっさとキスしとくんだった」
会長の後を追いながらぼそりと猛琉が呟いた言葉に、縁はつい吹き出してしまう。
「『夢の酒』だ」
「何だそれ」
「夢の中でお酒を飲もうと燗をつけていたら起こされて、こんなことなら冷やで飲んどくんだった、っていう……まあ、また教えるよ。稽古の時に」
猛琉と並んで歩きながら、縁はしみじみと感じ入る。
落語には、辛いこともある人生を楽しくやり過ごすための知恵と工夫が詰まっている。噺を聞いて笑ったり、泣いたり、ゾッとしたり。そうやって、明日を生きる活力を養うのだ。
「そうだな。また今度教えてくれ」
縁の隣で猛琉が笑って言った。
──さて、これにてこのお話はおしまい。それでは、お後がよろしいようで。
(了)



